昭和26年12月9日、東京消防庁音楽隊は巣鴨拘置所において、いわゆる戦犯の前で慰問の演奏をおこなった。
演奏曲目は「豊年祭り」・「浜辺の歌」・「胡蝶の舞」などであったが、演奏が進むにつれて満員の会場のあちこちから嗚咽がもれはじめた。指揮者の内藤清五隊長をはじめ隊員たちは胸がつまった。
最後は行進曲で締める。行進曲は「星条旗よ永遠なれ」をレパートリーに入れ楽譜を用意していた。その時、突然、 「軍艦をやる!」 と内藤隊長が大きな声で言った。旧海軍では軍艦マーチのことをこう言う。演奏している隊員全員が耳を疑った。同時に、皆に戦慄がはしった。
敗戦以来、絶対に演奏してはいけない曲だと、GHQから命令されている。この音楽隊は、内藤隊長以下全員が旧海軍軍楽隊の出身だ。軍艦マーチは十八番(おはこ)である。楽譜なしでも目をつぶってでも演奏できる。楽譜が用意されてなかったからではない。隊員たちがうろたえたのは、この曲の演奏が終わった後、米兵に射殺されるのではないか、と思ったからである。
内藤隊長は日本海海戦の翌年、明治39年、16歳で海軍に志願した。以来、海軍軍楽隊ひとすじで、軍楽隊の最高位・海軍軍楽少佐まで昇った。隊員たちからみたら神様のような人である。
その内藤隊長が、「やれ!」というのである。隊員たちは腹をくくった。
「軍艦行進曲」の演奏がはじまった。
戦犯たちの顔が一瞬にして変わった。そして、涙、涙、涙であった。肩をふるわせて泣く将軍や提督がいる。あたりをはばからず号泣する佐官・尉官・下士官・兵がいる。この時A級戦犯だけでなく、B・C級戦犯も多数この巣鴨拘置所に収監されていた。
海軍大将・島田繁太郎、海軍中将・岡敬純がこの中にいた。陸軍では、大将・荒木貞夫、大将・畑俊六、大将・南次郎、中将・佐藤賢了、中将・大島浩、中将・鈴木貞一がいた。文官では、木戸幸一、賀屋興宣、平沼騏一郎、星野直樹がこのこの軍艦マーチに泣いた。
あとで内藤隊長が語ったところによると、前もって米軍の責任者に、「旧海軍のマーチを演奏してもよいでしょうか?」と問い合わせしていたという。
戦前から、米・英・独・伊などを含め頻繁に海外遠征演奏をしていた内藤隊長は、国際情勢や外国人のものの考え方や、心理に敏感であった。効力の発生は来年の4月28日ではあるが、すでにこの年の9月8日に、サンフランシスコ講和条約は吉田茂首席全権の手で、連合国側と締結されていた。しかもクリスマスの直前である。米軍側は理解してくれるのではなかろうか、と踏んでいた。
案の定、「ああ、マーチの演奏ぐらい、別にやっても構わんよ!」と米軍の将校は、いとも簡単にOKを出してくれたのだという。
「海軍軍楽隊ー花も嵐もー」針尾玄一編・著の一部を参考にさせていただいた。
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