2020年2月12日水曜日

二荒山神社(2)

最初にお参りしたのは、日光二荒山(ふたらさん)神社本社だ。うっそうとした森の中にたたずむ古社である。神護景雲(しんごけいうん)元年(767)、僧・勝道(しょうどう・735-817)が男体山(なんたいざん・二荒山)の二荒神を祀ったことから始まる、と社伝にいう。

大昔の話ではない。
和気清麻呂が宇佐神宮にご神託を聞きに行く2年前のことである。この勝道は修験僧に列する一人で、山岳修験道の開祖とされる役小角(えんのおずぬ)とは100歳ほどの年齢の開きある。役小角の孫弟子のそのまた孫弟子の世代、といった時代認識で良いかと思う。

参拝のあと、静寂な境内を散策して社務所に立ち寄った。この神社の朱印帳の表紙は木でできている珍しいものと聞いていたので、ぜひ購入したいと思っていた。社務所でうかがったところ、ここには置いてなく中宮祠(ちゅうぐうし)にあります、との返事だ。近くなら行ってみようと思ったが、山道を歩いて3時間、と聞きあきらめた。中禅寺湖の北岸に中宮祠があり、男体山(2484メートル)の頂上に奥宮(おくのみや)があるという。

かねてより疑問に思っていたことを、神官に聞いてみた。
本当は日光と宇都宮のどちらが古い本社か知りたかったが、あからさまに聞くのは失礼な気がして、二つの神社はご親戚なんでしょうね、とやんわりと聞いてみた。

「まったく別です。お祀りしている祭神が違うのです。我々は大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命)・田心姫命(たごりひめのみこと・宗像三女神の長女)・味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと・大国主命の子)の三柱をお祀りしています」とはっきりと否定された。

そんなことはないでしょう、読み方は違っても、「二荒山」という漢字名が同じだし、何かご縁があるのでしょう、と言いたかったのだが、神官の断固とした迫力にたじろいだ私は、それ以上は何も聞かなかった。

この日光二荒山神社の境内地は、1022万坪というからすこぶる広い。全国の神社の中で第二位である。ちなみに第一位は、伊勢神宮・1801万坪、第三位は加賀の白山姫神社・835万坪である。第十位の明治神宮の36万坪と比べても、この三つの神社はけたはずれに広い。もっとも、その大部分は山であるが。


帰り道、徳川家康公をお祀りしてある東照宮に立ち寄った。
二荒山神社の社殿から数百メートルしか離れていなく、裏の近道を歩くと2-3分で東照宮の境内に入る。ここは元は、二荒山神社の境内の一部だから当然のことだ。

二代将軍秀忠(ひでただ)によって完成した東照宮は、三代の家光の手によって幕府の総力をあげて大改築される。本社・唐門(からもん)・陽明門の逆柱(さかばしら)・眠猫(ねむりねこ)などは国宝であり、その他重要文化財も多数ある。ただ、あまりにも絢爛豪華すぎる。私自身は簡素なたたずまいの二荒山神社の風韻(ふういん)を好む。

日光山(二荒山神社と神宮寺の万願寺)は、戦国時代には小田原の北条氏に味方して豊臣秀吉に反抗したため、秀吉が天下を取ったあとは神領を奪われて乾されてしまった。この当時、皆がおかゆをすすっていたらしい。余談だが、日光山(にっこうさん)という呼び名は、二荒山(にこうさん)を美しい文字に書き換えたものだと聞いたことがある。

衰微の極にあったこの神社を救ったのは徳川幕府である。慶長18年(1613)、徳川家康が厚く信任していた僧・南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)が日光山座主(にっこうさんざす)として入山する。この人は家康の知恵袋で、なんと107歳という稀有の長寿をまっとうした。(1536-1643)

天海の日光山入山は家康の死の3年前であるが、この時すでに、家康の死後その神霊をこの地に祀ることは、二人の間で合意ができていた。江戸から鬼門の方角であるこの日光の地に家康の霊を祀り江戸を守る、すなわち徳川幕府の安泰をはかる、という考えである。将来東照宮を建立するために、天海は77歳の老体で寒い日光山に移り住んだのである。

日光二荒山神社の本殿は、東照宮が完成した3年後に再建に取りかかっている。その境内地を分けてもらった徳川幕府が、恩義を感じて援助したのだろう。


東照宮の主神はいうまでもなく徳川家康であるが、相殿(あいどの)神として祀られているのが源頼朝と豊臣秀吉であると聞き、驚いた。この二人が祀られたのは明治新政府の意向によるもので、明治6年6月9日、東照宮は別格官幣社に加列し、その時この二人が配祀されたのだという。

明治新政府は、自分たちが倒した徳川氏に滅ぼされた豊臣氏に同情していたのか、はたまた下級武士から成りあがった自分たちの姿を豊臣秀吉になぞらえていたのか、秀吉びいきの政権であったような気がする。



















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