11月、快晴の土曜日の朝、急に思い立って中野駅から電車に乗り、下野(しもつけ)にあるこの二つの神社に向かった。
この神社についての私の唯一の知識は、中学生の頃教わった「平家物語」の中で、那須与一が二つの神社の神様に祈願したということだけだ。いまひとつ、頭の中にあったのは、この二つの神社のどちらが古い本社なのかという疑問である。
那須与一が扇の的を射抜く光景は、緊張感にあふれ美しい。
時は元暦(げんりゃく)2年(1185)2月18日酉の刻(とりのこく)、場所は讃岐国の屋島、と「平家物語」はいう。 新暦の3月下旬か4月上旬にあたるから陽(ひ)は長い。酉の刻は午後5時から7時の間である。
「今日は日暮れぬ。勝負を決すべからず」と、源平両軍は陣営を退き、勝負を明日に持ち越そうとした。その時、沖から平家側の舟一艘(そう)が岸にむかって漕ぎ寄せてきた。若い女性が竿(さお)のてっぺんに括りつけた扇を指さしている。
「あれはなんだ?」と源義経(みなもとの・よしつね)が部下に聞く。
「源氏に腕の立つ武者がいるならば扇を射落としてみよ、と言っておるのでしょう」
「味方に誰かおらんのか?」ということで、那須与一に白羽の矢が立った。
「ご勘弁ください」と与一は強く辞退する。当然であろう。「渚(なぎさ)より七、八段」と書かれている。七段として75メートル、八段であれば86メートルの距離だ。
「折ふし北風激しく吹きければ、磯(いそ)打つ波も高かりけれ。舟は揺り上げ揺りすゑ漂へば、扇も串に定まらずひらめいたり」、と「平家物語」にある。 いかに弓の名人でも、このような状況において尻込みするのは当然のことだ。失敗したら武士として不名誉きわまりない。しかし義経は許さない。「俺の言うことが聞けぬなら、今すぐとっとと鎌倉へ帰ってしまえ」と叱りつける。
与一は覚悟を決めた。
ふち飾りを金めっきした鞍を置いた太くたくましい黒馬に乗り、海の中に入っていった。「矢頃少し遠かりければ、海の中一段ばかり入りたりけれども、なお扇の間(あわい)は七段ばかり」というから、与一は磯から10メートルほど馬に乗って海の中を沖に進んだのだ。それでも扇との距離はまだ75メートルもある。「沖には平家、舟を一面に並べて見物す。陸(くが)には源氏、くつばみ(馬具の一つ)を並べてこれを見る」
与一は失敗を許されない絶体絶命の窮地に追い込まれた。当時から「困ったときの神頼み」という考え方があったのだろう。ここで20歳の青年は、郷里の氏神様に必死の祈願をする。
「与一目を塞いで、´´ 南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、別しては我が国の神明(しんめい)日光の権現(ごんげん)、宇都宮那須の湯泉大明神(ゆぜんだいみょうじん)、願はくは、あの扇の真ん中射させて給(たば)せ給(たま)へ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面(ふたたびおもて)を向かふべからず。今一度本国へ帰さんと思し召(おぼしめ)さば、この矢はつ¨させ給ふな´´ と、心の中に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにこそなったりけれ」
この「日光の権現」が「日光二荒山(ふたらさん)神社」、「宇都宮那須の湯泉大明神」が「宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社」である。
南無八幡大菩薩と与一が祈っていることから、下野国に有名な八幡神社があるのかと思っていたが、それらしき神社は見当たらない。これは源氏の武士として、その守り神である八幡大菩薩、すなわち鶴岡八幡宮、石清水八幡宮、もしくは宇佐八幡宮に祈願したように思える。
そして、郷里の二荒山の神さまは、窮地に追い込まれた氏子であるこの青年の願いを叶えてやる。みごと、一矢で扇を射落とせさせたのだ。
那須与一という人は、弓の名人で力は強かったが小柄な武士だったらしい。使った矢は普通の長さである。放たれた矢はうなりをあげて飛び、扇の要(かなめ)3センチ下を射ぬいた。
「鏑(かぶら・矢の先に付けるもの)は海に入りければ、扇は空へぞ揚(あ)がりける。春風に一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ散ったりける。皆、紅(くれない)の扇の、夕日(せきじつ)の輝くに、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、沖には平家舷(ふなばた・舟のへり)を叩いて感じたり、陸(くが)には源氏箙(えびら・武士が腰につけている矢を入れる容器)を叩いてどよめけり」
「平家物語」の圧巻である。
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