それから十数年経って、まったくの偶然で、父の乗る零式三座水偵の戦闘記録が戦艦大和の「戦闘詳報」の中に記録されているのを発見して驚いた。令和2年(2020)の1月のことだ。
三光汽船時代の友人F君が奈良県に住んでいて、彼から連絡をもらった。市ヶ谷で防衛省見学ツアーというのがあり、極東軍事裁判が行われた旧陸軍士官学校跡を含め、戦史跡を見学するツアーに一緒に行かないかとの誘いである。
もう一人の友人で神奈川県に住むU君にも声をかけ、三人で一緒に見学した。陸上自衛隊の准尉さんが丁寧に説明してくださり、とても有意義な見学ツアーだった。
終わりごろ、資料館のような場所に案内された。西南戦争、日清・日露戦争、太平洋戦争時の重要文書が展示されている。日本海海戦の、「敵艦隊見ユトノ警報二接シ、、、」の東郷司令長官から軍令部総長宛の電報や、太平洋戦争の沖縄戦での、「沖縄県民カク戦ヘリ、、、」の大田少将から海軍次官宛の電報もここに展示されている。
これらの中に、「軍艦大和戦闘詳報」という報告書を見つけた。この中に佐伯空水偵が打電した電報内容が記録されていて驚いた。
少し説明が要る。
承知の通り、戦艦大和は昭和20年4月7日、14時23分ごろ鹿児島県坊ノ岬沖で沈没した。乗組員3332名のうち、生還者は276名にすぎない。当然、航海日誌を含めすべての書類は大和と共に水没した。生存者は駆逐艦で佐世保に運ばれた後、しばらくの間どこかの小島に幽閉された。大和沈没の事実が国民に知られるのを防ぐためである。
「戦闘記録を書く」という行為が生還者から自発的に出たのか、連合艦隊司令部の指示によるものかは知らない。生き残った将校何名かが、記憶を頼りにこれを作成したと思われる。生存者の最先任は副長の能村次郎大佐だが、彼は負傷していた。次が副砲長の清水芳人少佐で、この人が中心になってこの書類を作成したらしい。
写真に見えるように、「軍機密・軍艦大和戦闘詳報」は、4月20日に作成されたとある。その下に、5月9日提出と手書きされ、能村大佐の認印が押してある。大和沈没のひと月後に提出されたようだ。
「戦闘経過」として次のようにある。
「5日1500、GF(聯合艦隊)電令作第607号受領」
「6日1520、大和・矢矧・冬月・凉月・磯風・浜風・雪風・朝霜・初霜・霞、徳山沖出撃」とある。このすぐ後に、零式三座水偵のことが記されている。
「1710、細島ノ115度10浬二於テ佐伯空水偵敵潜ラシキモノヲ探知攻撃ス」
この電報内容の元は、父の乗る零式三座水偵機長の八幡兵曹長から、鉛筆でのメモ書きを受け取った最後尾座席の通信兵が、佐伯航空隊に打電したものである。
父の機は、呉鎮守府配下の佐伯海軍航空隊に打電するのが任務であり、聯合艦隊所属の大和に打電する立場ではない。そもそも父たちは、大和が沖縄に向けて出撃することは何も知らない。海軍・軍令部を頂点として、聯合艦隊と各鎮守府は別々の命令系統になる。もし正式ルートでこの内容が大和に伝わったとすると、次のような流れになる。
零式三座水偵→佐伯航空隊→呉鎮守府→霞が関の軍令部→慶大日吉の聯合艦隊司令部→戦艦大和。ただ現実は、このような面倒なルートではなかったと思う。この水偵が佐伯航空隊に打電したものを、瀬戸内海を南下中の大和の通信室が、「傍受」したと考えるのが現実的である。大和には高性能の受信機があり、同時に最優秀の通信兵がいた。
それから40分後、父たちは上空から豊後水道を南下する大和艦隊を見る。ということは、大和の艦橋からも上空を飛ぶ一機の下駄ばき(フロート付)の零水の姿が見えたはずだ。
この日、聯合艦隊司令部は九州全域の航空隊に対して、「大和護衛を禁止する」との命令を出していた。護衛の戦闘機を付けても敵機に撃ち落される。それよりも特攻機として温存しておくほうが戦術的に価値があるとの判断であった。この日、南下する大和艦隊には上空を護衛する航空機は一機もなかった。
制海・制空権の乏しい海域を航海する軍艦や輸送船団にとって、上空を飛ぶ友軍機の姿ほど頼もしいものはない。幾多の戦記に、艦船上から友軍機を見た時の感激が書かれている。
「おっ、こいつだな。さっき細島沖で敵潜を攻撃したのは!」
上空を健気(けなげ)に飛ぶ、一機の零式三座水偵を見上げながら、大和艦橋の幹部たちの口元に、わずかに笑みが浮かんだのではなかろうか。さほど重要とも思われないこの電報内容を、わざわざ戦闘経過に記録していることは、大和乗組の幹部たちは、これがよほど嬉しかったのではあるまいか。
敵潜水艦を沈めることは出来なかったが、死地に向かって南下する大和艦隊の将兵に対して、敵潜に一矢を放ったこの零式三座水偵は、自分達は意識してなかったものの、わずかながら「心のはなむけ」をおくったのではあるまいか。
大和の戦闘記録に、自分の零式三座水偵のことが記録されていたことを知ったら、父はずいぶん喜んだと思う。ただ残念なことに、父は10年前に86歳で亡くなったのでこのことを伝えることはできない。今度田舎に帰ったら、仏前にこの写真を供えてあげるつもりだ。