2020年8月31日月曜日

父の武勲(2)

 それから十数年経って、まったくの偶然で、父の乗る零式三座水偵の戦闘記録が戦艦大和の「戦闘詳報」の中に記録されているのを発見して驚いた。令和2年(2020)の1月のことだ。

三光汽船時代の友人F君が奈良県に住んでいて、彼から連絡をもらった。市ヶ谷で防衛省見学ツアーというのがあり、極東軍事裁判が行われた旧陸軍士官学校跡を含め、戦史跡を見学するツアーに一緒に行かないかとの誘いである。

もう一人の友人で神奈川県に住むU君にも声をかけ、三人で一緒に見学した。陸上自衛隊の准尉さんが丁寧に説明してくださり、とても有意義な見学ツアーだった。

終わりごろ、資料館のような場所に案内された。西南戦争、日清・日露戦争、太平洋戦争時の重要文書が展示されている。日本海海戦の、「敵艦隊見ユトノ警報二接シ、、、」の東郷司令長官から軍令部総長宛の電報や、太平洋戦争の沖縄戦での、「沖縄県民カク戦ヘリ、、、」の大田少将から海軍次官宛の電報もここに展示されている。

これらの中に、「軍艦大和戦闘詳報」という報告書を見つけた。この中に佐伯空水偵が打電した電報内容が記録されていて驚いた。

少し説明が要る。

承知の通り、戦艦大和は昭和20年4月7日、14時23分ごろ鹿児島県坊ノ岬沖で沈没した。乗組員3332名のうち、生還者は276名にすぎない。当然、航海日誌を含めすべての書類は大和と共に水没した。生存者は駆逐艦で佐世保に運ばれた後、しばらくの間どこかの小島に幽閉された。大和沈没の事実が国民に知られるのを防ぐためである。

「戦闘記録を書く」という行為が生還者から自発的に出たのか、連合艦隊司令部の指示によるものかは知らない。生き残った将校何名かが、記憶を頼りにこれを作成したと思われる。生存者の最先任は副長の能村次郎大佐だが、彼は負傷していた。次が副砲長の清水芳人少佐で、この人が中心になってこの書類を作成したらしい。

写真に見えるように、「軍機密・軍艦大和戦闘詳報」は、4月20日に作成されたとある。その下に、5月9日提出と手書きされ、能村大佐の認印が押してある。大和沈没のひと月後に提出されたようだ。

「戦闘経過」として次のようにある。

「5日1500、GF(聯合艦隊)電令作第607号受領」

「6日1520、大和・矢矧・冬月・凉月・磯風・浜風・雪風・朝霜・初霜・霞、徳山沖出撃」とある。このすぐ後に、零式三座水偵のことが記されている。

「1710、細島ノ115度10浬二於テ佐伯空水偵敵潜ラシキモノヲ探知攻撃ス」

この電報内容の元は、父の乗る零式三座水偵機長の八幡兵曹長から、鉛筆でのメモ書きを受け取った最後尾座席の通信兵が、佐伯航空隊に打電したものである。

父の機は、呉鎮守府配下の佐伯海軍航空隊に打電するのが任務であり、聯合艦隊所属の大和に打電する立場ではない。そもそも父たちは、大和が沖縄に向けて出撃することは何も知らない。海軍・軍令部を頂点として、聯合艦隊と各鎮守府は別々の命令系統になる。もし正式ルートでこの内容が大和に伝わったとすると、次のような流れになる。

零式三座水偵→佐伯航空隊→呉鎮守府→霞が関の軍令部→慶大日吉の聯合艦隊司令部→戦艦大和。ただ現実は、このような面倒なルートではなかったと思う。この水偵が佐伯航空隊に打電したものを、瀬戸内海を南下中の大和の通信室が、「傍受」したと考えるのが現実的である。大和には高性能の受信機があり、同時に最優秀の通信兵がいた。

それから40分後、父たちは上空から豊後水道を南下する大和艦隊を見る。ということは、大和の艦橋からも上空を飛ぶ一機の下駄ばき(フロート付)の零水の姿が見えたはずだ。

この日、聯合艦隊司令部は九州全域の航空隊に対して、「大和護衛を禁止する」との命令を出していた。護衛の戦闘機を付けても敵機に撃ち落される。それよりも特攻機として温存しておくほうが戦術的に価値があるとの判断であった。この日、南下する大和艦隊には上空を護衛する航空機は一機もなかった。

制海・制空権の乏しい海域を航海する軍艦や輸送船団にとって、上空を飛ぶ友軍機の姿ほど頼もしいものはない。幾多の戦記に、艦船上から友軍機を見た時の感激が書かれている。

「おっ、こいつだな。さっき細島沖で敵潜を攻撃したのは!」

上空を健気(けなげ)に飛ぶ、一機の零式三座水偵を見上げながら、大和艦橋の幹部たちの口元に、わずかに笑みが浮かんだのではなかろうか。さほど重要とも思われないこの電報内容を、わざわざ戦闘経過に記録していることは、大和乗組の幹部たちは、これがよほど嬉しかったのではあるまいか。

敵潜水艦を沈めることは出来なかったが、死地に向かって南下する大和艦隊の将兵に対して、敵潜に一矢を放ったこの零式三座水偵は、自分達は意識してなかったものの、わずかながら「心のはなむけ」をおくったのではあるまいか。

大和の戦闘記録に、自分の零式三座水偵のことが記録されていたことを知ったら、父はずいぶん喜んだと思う。ただ残念なことに、父は10年前に86歳で亡くなったのでこのことを伝えることはできない。今度田舎に帰ったら、仏前にこの写真を供えてあげるつもりだ。





















2020年8月25日火曜日

父の武勲

このような題名にしたのだが、じつは私の父には華々しい武勲はない。

実施部隊の佐伯海軍航空隊に配属されたのが昭和19年の末だから、すでに負け戦(いくさ)の頃である。 子供の頃聞いたのは、米機グラマンに追われて逃げたとか、整備不良の飛行機で落水して一機を海に沈めてしまったとか、なさけない話が多かった。

ただ、一つだけ、「もしかしたらアメリカの潜水艦を沈めたかも知れない。あれが沈んでいたら殊勲甲・金鵄勲章だな」と自慢げに言うのを2、3度聞いたことがある。それから何十年も経って、父が80歳の頃、「あの潜水艦が沈んだかどうか調べてくれ」 という。 私が戦記物の本を多く読んでいるのを知ったからであろう。

戦後50年以上経っていて、アメリカ軍の機密資料の多くが公開されていた。「4月6日、大和沖縄に出撃」という題で以前ブログに書いたが、これは父から聞いた話である。

アメリカの潜水艦を攻撃したのは、上空から大和艦隊を見る40分ほど前らしい。よって、昭和20年4月6日の17時ごろの出来事である。当時、佐伯空の零式三座水偵の半数の6機が、早朝から1時間おきに出撃して、アメリカ潜水艦の索敵攻撃を行っていた。60キロ爆弾4個もしくは同量の爆雷を積んで単機で飛び立つ。

この時の弁当は、いつも巻き寿司(太巻き)だった。片手で食べられるからだ。当時としては大変なご馳走で、「搭乗員はいいなぁ!」と整備の人たちはうらやましがったらしい。

大分県の佐伯湾から南下し、宮崎県の日向灘から鹿児島県の佐多岬沖までが作戦海域であり、九州最南端の開聞岳を目印に飛行する。 敵潜水艦を肉眼もしくは電波探知機(レーダー)で見つけ出し、これを攻撃するのが任務である。往復で5-6時間の飛行だった。

この日、父が操縦する機は、最終の6番目に出撃した。直線コースの飛行ではなく、広い海面を見るためジグザグに飛行する。予定の佐多岬沖の大隅海峡まで飛行したが、敵潜水艦は発見できなかった。

帰投しようとするその時、偵察員の八幡兵曹長が南方上空にグラマン戦闘機を発見し、あわててUターンして帰路についた。幸い敵機は気がつかなかった。すでにこの頃、米軍の空母艦載機は本土周辺を大きな顔で飛行していた。

零式三座水偵の機長は偵察員の場合が多く、父の機もラバウル帰りの八幡兵層長が機長だった。熟練の偵察員で、この人とペアを組んでいたから生き残れたと、父はこの人を大変尊敬していた。

1時間半ほど飛行し、宮崎県北部の細島沖にさしかかった時、「敵潜水艦発見!」と八幡兵曹長が大声で叫んだ。機長の指示する方角に父は機首を向けた。現場に着いた時、父の目には敵潜の姿は見えず、八幡兵曹長の指示する海面にすべての爆雷を投下した。

基地に帰って聞くと、八幡兵曹長は海面に浮上している敵潜を見たという。こちらが発見すると同時に、敵潜は急速潜航して海中に没した。当時、マリアナ群島から北九州を爆撃するB29が、日本の戦闘機や高射砲の被弾で傷つき、この辺りで力尽きて落水するケースがかなりあった。アメリカ潜水艦の主任務は、日本の艦船攻撃ではなく、B29搭乗員の救助であったらしい。

敵潜水艦攻撃をおこなったあと、その飛行機が本来やるべきことは、上空を旋回しながら戦果を確認することである。沈没していれば水面に油が浮く。これを確認できれば、「敵潜水艦1隻撃沈」とおおいばりで基地に打電する。

ところが父の機はこれを行なわず、「敵潜攻撃ス」と基地に打電して、すぐに帰路についた。「燃料が残ってなかったんだ」と父は言ったが、あるいは1時間半前に見たグラマンの遠影に、父を含む3人の搭乗員はおびえていたのかも知れない。

この潜水艦が沈没したか調べてみたのだが、この海域だけでなく、4月6日に日本列島周辺で沈んだアメリカの潜水艦は1隻もないことが判明した。これを父に伝えた。

「そうか。あいつらは生きて国に帰ったんだな」と笑った。武勲がなかったことの悔しさより、100人前後の乗組員が生きて親兄弟のいるアメリカに帰ったのを喜んでいるように思えた。

 

 

 

 

 

 


2020年8月13日木曜日

東陵の瓜(あとがき)

後世のひとびとは、この東陵瓜の話をよほど好んだらしい。何人もの横綱級の詩人がこの瓜のことを書き残している。

魏(ぎ)の阮籍(げんせき・竹林七賢の筆頭・210-263)、東晋の陶淵明(とうえんめい・365-427)、唐の李白(701-762)などである。

ここに三人の詩の一部を書き写し、筆を擱(お)きたいと思う。


昔聞く、東陵の瓜

近く青門の外(そと)に在り

畛(あぜ)に連(つら)なり、阡佰(せんぱく)に到(いた)り

子母(しぼ)、相鉤帯(あいこうたい)す

五色、朝日(ちょうじつ)に耀(かがや)き

嘉賓(かひん)、四面より会(かい)せりと

ー阮籍ー

昔こんな話を聞いたことがある。東陵侯が瓜をつくった場所は、長安の都の青門の近くだった。あぜ道からずうっと東西・南北の道まで、大きな瓜、小さな瓜がつながり合っていた。その瓜は、朝日をうけて五色に輝き、立派な客が四方から集まってきたという。


衰栄(すいえい)は定在(ていざい)すること無く

彼(か)れと此(こ)れと更(こもごも)之(これ)を共にす

召生瓜田(しょうせいかでん)の中(うち)

寧(な)んぞ東陵(とうりょう)の時に似(に)んや

寒暑(かんしゃ)に代謝(だいしゃ)有り

人道(じんどう)も毎(つね)に此(かく)の如(ごと)し

達人は其(そ)の会(かい)を解(かい)し

逝将(ゆくゆくまさ)に復(ま)た疑わざらんとす

ー陶淵明ー

人の栄枯盛衰は定まった所にあるわけではなく、両者は互いに結びついている。秦代の召平を見るがよい。畑の中で瓜作りに励んでいるいる姿は、かつて東陵侯たりし時の姿と似ても似つかない。自然界に寒暑の交替があるように、人の道も同じこと。達人ともなればその道理を会得しているから、めぐり来た機会を疑うような真似はしない。その時その時を楽しむのである。


青門に瓜(か)を種(う)うるの人は

昔日(せきじつ)の東陵侯

富貴故(もと)より此(かく)の如(ごと)くならば

営営(えいえい)何(なん)の求むる所ぞ

ー李白ー

秦の東陵侯の召平という人が、漢の世になって、長安の東の青門という所で瓜をつくって生活していた。これが昔日の東陵侯であろうとは、誰も思うまい。富貴というものはもとよりこのようなものである。ゆえに、忙しげにこれを求めようとするのは愚の骨頂である。

















  

2020年8月11日火曜日

東陵の瓜(20・完)

翌朝未明、 「陳豨討伐成功!」 の報は長安城に届いた。

その後の計画はすべて順調にすすむ。参内した韓信を呂后は武装兵に命じて捕縛し、すぐさまその首を刎ねた。蕭何はその現場には立ち会わなかった。

ただちに早馬が邯鄲に送られ、劉邦に報告される。劉邦は韓信が誅殺(ちゅうさつ)されたと聞くと、使者を送ってきて、丞相(宰相)の蕭何を相国(しょうごく・同じく宰相であるが丞相より高位)に任命する。それに加えて、五千戸を増封し、兵卒五百人と一都尉(将校)を蕭何の護衛につけた。

諸侯や将軍たちは皆、めでたいことだと蕭何の自宅に祝辞を述べに来た。
ただ一人、召平は蕭何に忠告する。「これは危険ですぞ」と。

「これから禍(わざわい)が始まる恐れがあります。劉邦どのは外で戦(いくさ)をされており、蕭何どのは矢の届かない場所で内を守っておられる。領地を増加し護衛の兵を置くのは、あなたを寵愛しているからではありません。韓信が謀反したので、あなたの心をも疑っているのです。増封を辞退して受けないでください。そして、私財をすべて投げ出して国家の軍事を補助なされてください。そうすれば劉邦どのはお喜びになり、蕭何どのの身も安全です」

蕭何はすべて召平の言う通りに従った。召平が予想した通り、劉邦はこれをおおいに喜んだ。



この事件が片付いてからも、今までと同じように、蕭何は召平のあばら屋を訪ねてきた。その蕭何が病気で亡くなったのは、韓信の死から五年後である。そののち、季布を助けた夏候嬰が死に、季布も亡くなる。季布が亡くなったとき、召平は七五歳で元気で瓜をつくっていた。八十代に入ってからも、召平と葉浩は瓜作りを続け、夜は村人たちと一緒に酒を飲んだ。


そして何年かのち、召平は煙のごとく忽然(こつぜん)とこの世を去る。九十八とも九十九ともいわれている。死の5日前まで、瓜畑の手入れをしていたという。死の前日、床で横になっていた召平は、目は閉じていたが顔に笑みを浮かべて、ひと声つぶやいた。

「爺さまの言われたことは、やはり本当だったなあ」

そばにいた数名の者は、その言葉をはっきりと聞いた。だが、それが何を意味するのかは誰にもわからなかった。














東陵の瓜(19)

「蕭何どの」、召平は笑いながら言う。

「今夜打つべき手はすべて打ちました。他にやることはありません。久しぶりに一献やりませんか? 珍しい肴があるんです」

そういって台所に向かう。瓶(かめ)の中を掻き混ぜているらしい。しばらくしたら、水で洗い包丁で切る音が聞こえる。右手に酒瓶を持ち、左手にその肴を持って蕭何の前に置く。

「一体なんですか、これは?」蕭何は珍しそうにその肴をながめている。白瓜の漬物のようだが、いつもの塩漬や酢漬とは違う。見たことのない不気味な褐色の漬物である。

「旨いのですか?」

「いや。わかりません。幼なじみの李照にもらって食べたのは旨かったですが、自分でつくったのを食べるのは今日がはじめてなのです」。召平は正直に答える。

李照の友人に酒蔵の主人がいる。大量の酒糟(さけかす)を李照にくれた。このあたりの酒は麦でつくる。よってこの酒糟は麦でできたものだ。そのままあぶって食べても旨いし、汁にしても良い。しかし、量が多かったので、ためしに塩漬けにしてある白瓜をこの酒糟で漬けなおしてみた。旨いので召平に少し届けてくれたのである。

「李照の真似をしてみたのです。何回か新しい酒糟に漬けなおしたほうが味が良い、というので三度漬けなおしました」

先に召平が口に入れ、それを見て蕭何は、恐る恐る一片を口に運ぶ。

「旨いものですなあ!」蕭何は感嘆のうなり声をあげる。酒を飲み、この瓜の漬物を食いながら、植えて間もない今年の瓜の成長ぐあいを召平は話す。明日の朝一番で、蕭何には大仕事がある。一刻ほどで、二人のささやかな酒盛りはお開きとする。

帰る段になって、蕭何は何か言いたげにもじもじしている。そして、「それを少々分けてくださらんか」と小声で遠慮げに言う。よほど気に入ったらしい。

「これをつくるにはけっこう手間がかかるのです。つくり方は、長安でも李照と私以外は知りませんからなあ。値段は高いですぞ」。召平は得意顔で言った。

召平が竹の皮に包んでくれた四切れの褐色の漬物を、蕭何は下僕にも渡さず、自分の手にしっかり握りしめて大事そうに持ち帰った。

これは一体どのような漬物だったのか。米糟と麦糟との違いはあるが、後世の日本で発明されたといわれる奈良漬のご先祖様のような味ではなかったか、と筆者は想像している。






2020年8月3日月曜日

東陵の瓜(18)

ことは急を要す。

大将軍としての韓信の実力と名声は群をぬいている。今ここで韓信が反乱をおこせば、長安に残る他の将軍たちでは官軍の敗北は明らかである。季布がいれば、韓信に対抗できるだろうが、季布のいる河東郡までは早馬で片道3日を要す。

こうなれば、何かの理由をつくり、韓信を単身で長安城の中におびき寄せ、一気に誅殺する以外に方法はない。韓信を宮中に呼び寄せるにはどうすれば良いか?召平は瞑目したまま考える。

「そうだ!」

と召平はつぶやいた。劉邦からの偽りの伝令をつくり、明朝まだ夜が明けるまえ、長安城の正門前に到着させる。

「陳豨が討伐された!」と伝令に大声で叫ばせて、その噂(うわさ)を一気にみやこ中に触れまわす。そして、宰相・蕭何の名で韓信のもとに使いを送り、誠意のこもった忠告をする。
「病身であることは知っている。しかし、貴殿にもかけられている疑いを晴らすためにも、遠征成功の祝辞を皇后・呂后(りょこう)に述べに、急ぎ参内したほうが良い」と。

慎重で用心深い韓信のことだ。ほかの誰が言っても出てこないだろう。しかし、蕭何の言うことなら信用して出てくるに違いない。

かつて、韓信は項羽から劉邦の陣営に寝返った。下級将校から這い上がり大将軍にまで昇りつめた。その間に、同僚の嫉妬により何度も殺されそうになる。それをかばって、そのつど韓信の命を助けたのが蕭何である。

またその後、韓信は劉邦が自分を重要な地位に登用しないことを憤り、劉邦の陣営から逃亡したことがある。この時も、蕭何は自分の命の危険をかえりみず逃亡した韓信を連れ戻した。死刑になるところだった韓信を、「国士無双」 と称えて劉邦に命乞いをしてやり、なおかつ、大将軍に推挙したのもほかならぬ蕭何である。

その蕭何に、一世一代の嘘をついてもらう。これ以外に漢帝国の危機を救う道はない。ここで漢帝国が滅びたら、天下はふたたび大混乱におちいる。秦のような法家主義の国がふたたび生まれて、人々が塗炭の苦しみにのたうちまわる恐れがある。韓信という男にはその匂いが感じられる。
六千万人の人々の幸せのためだ。今こそ、至誠の人蕭何どのに、誠心誠意の嘘をついていただく以外に他に方策はない。召平はそう結論し、静かに目を開く。

「蕭何どの」、と爽やかな表情で声をかける。そして、この考えを淡々と語る。

蕭何も稀代の名宰相である。瞬時にこれを理解する。自分が悪役を演じることについても不満げな顔をしない。もしかしたら蕭何自身が、同じ筋書きをすでに描いていたのかもしれない。

「いや、お恥ずかしい。少しうろたえておりました。仰せのお考えにまったく同意します」
そう答え、下僕に命じて外で待機している将校を呼び寄せる。そして、右の一部分だけを伝える。
すなわち、邯鄲にいる高祖・劉邦からの伝令になりすまし、明日の未明、長安城の正門を叩き、「陳豨討伐成功 !」の報を大声で知らせよ、と。

召平は、若い将校に真新しい軍服を脱ぐように勧め、自分が野良仕事で着ている普段着を渡す。その後一人で台所に向かう。かまどに付いている煤(すす)を少量皿に乗せ、それを将校の首筋や顔に塗らせる。

蕭何は優しい言葉で将校に命じる。

「ご苦労だが、今すぐ出発して邯鄲のある東北東の方角に馬を走らせてくれ。適当な時刻になったら逆戻りして、明朝未明、疲れ切った姿で長安城の正門を叩いてくれ」

若い将校はすぐさま馬に飛び乗り、その方角に向かって走り去った。












東陵の瓜(17)

以来、蕭何はひんぱんに召平の荒屋(あばらや)を訪ねてくる。はじめの頃は季布と一緒であったが、一年ほどたって、季布が河東郡(こうとうぐん)の郡守に赴任してからは、下僕だけを連れて一人でやってくる。

瓜の季節が終わり、冬になっても春になってもやってくる。「瓜を買いに来る」という名目なので、冬場には白瓜の塩漬や甘酢漬を土産として持ち帰る。

いつ頃からか、蕭何は身の回りの相談ごとをするようになる。そのうち、政治向きのことも話しだす。蕭何自身、智謀の宰相であるが、思い悩むことも多いのであろう。召平に自分の考えを聞いてもらい、それを再確認したいと思っている様子である。召平は口の堅い知恵ある男だ。直接の利害関係がないのも良い。

それはそれとして、じつは蕭何が召平を訪問する一番の理由はほかにあった。蕭何にとって召平という男と話をすること、それ自体がなによりも楽しかったのだ。召平の持つ老荘的な匂いが好きだったようである。

この蕭何という人は、若いころから老荘を好んだという。戦国時代の末期の混乱の世に少年時代をおくり、その後秦を倒すことに陰謀のかぎりを尽くし、そして漢の大宰相になった男が老荘の徒であったとは。信じがたい思いがする。

この後も中国史は続く。 蕭何のあとの張良・蜀漢の諸葛亮孔明・宋の趙普(ちょうふ)・司馬光、
そして近くは中華人民共和国の周恩来。 中国史はおびただしい数の名宰相を生み出した。
これらの中で史上最高の宰相はだれか?ということになると、現在でもこの蕭何を一番に推す人がもっとも多いらしい。


それから一年ほどして、漢帝国の屋台骨をゆるがしかねない大事件が勃発する。前196年の5月のある日の夜半遅く、なんの前触れもなく蕭何が召平の荒屋を訪ねてくる。訪問の時刻、その顔つきからして、ただごとではないことはすぐに判る。下僕のほかに、一人の信頼できる将校を外で待たせているという。

蕭何は言う。

「長安にいる准陰侯(じゅんいんこう)・韓信が謀反を企らんでいる。数日以内に決行するのはまちがいない。陳豨(ちんき)と通じているふしがある。いかに対処すべきかお知恵を借りたい」

二ヶ月前、劉邦がもっとも信頼していた将軍の陳豨が鉅鹿(きょろく)の地で反乱をおこした。激怒した劉邦は、鎮圧のためみずから将として出陣し、現在は鉅鹿近くの邯鄲(かんたん)にいる。長安から東北東に馬で10日の場所である。

陳豨平定はまだ終わっていない。本来なら、大将軍の韓信がこの征伐軍の総司令官になるのが順当な人事である。ところが韓信は、病気を理由にこれを断った。陳豨は日ごろから韓信を師と仰いでいる。この二人は、いわば直系の親分子分の関係なのだ。なにかの密約ができていることは疑う余地がない。

劉邦と蕭何は、一面では韓信の辞退に胸をなでおろした。二人が連合して長安の都に攻め上るという、最悪の辞退は避けられたからである。このような背景のなかで、劉邦みずから兵を率いて遠征するという、異例の措置がとられたのだ。

召平は目を閉じた。そして考える。