後世のひとびとは、この東陵瓜の話をよほど好んだらしい。何人もの横綱級の詩人がこの瓜のことを書き残している。
魏(ぎ)の阮籍(げんせき・竹林七賢の筆頭・210-263)、東晋の陶淵明(とうえんめい・365-427)、唐の李白(701-762)などである。
ここに三人の詩の一部を書き写し、筆を擱(お)きたいと思う。
昔聞く、東陵の瓜
近く青門の外(そと)に在り
畛(あぜ)に連(つら)なり、阡佰(せんぱく)に到(いた)り
子母(しぼ)、相鉤帯(あいこうたい)す
五色、朝日(ちょうじつ)に耀(かがや)き
嘉賓(かひん)、四面より会(かい)せりと
ー阮籍ー
昔こんな話を聞いたことがある。東陵侯が瓜をつくった場所は、長安の都の青門の近くだった。あぜ道からずうっと東西・南北の道まで、大きな瓜、小さな瓜がつながり合っていた。その瓜は、朝日をうけて五色に輝き、立派な客が四方から集まってきたという。
衰栄(すいえい)は定在(ていざい)すること無く
彼(か)れと此(こ)れと更(こもごも)之(これ)を共にす
召生瓜田(しょうせいかでん)の中(うち)
寧(な)んぞ東陵(とうりょう)の時に似(に)んや
寒暑(かんしゃ)に代謝(だいしゃ)有り
人道(じんどう)も毎(つね)に此(かく)の如(ごと)し
達人は其(そ)の会(かい)を解(かい)し
逝将(ゆくゆくまさ)に復(ま)た疑わざらんとす
ー陶淵明ー
人の栄枯盛衰は定まった所にあるわけではなく、両者は互いに結びついている。秦代の召平を見るがよい。畑の中で瓜作りに励んでいるいる姿は、かつて東陵侯たりし時の姿と似ても似つかない。自然界に寒暑の交替があるように、人の道も同じこと。達人ともなればその道理を会得しているから、めぐり来た機会を疑うような真似はしない。その時その時を楽しむのである。
青門に瓜(か)を種(う)うるの人は
昔日(せきじつ)の東陵侯
富貴故(もと)より此(かく)の如(ごと)くならば
営営(えいえい)何(なん)の求むる所ぞ
ー李白ー
秦の東陵侯の召平という人が、漢の世になって、長安の東の青門という所で瓜をつくって生活していた。これが昔日の東陵侯であろうとは、誰も思うまい。富貴というものはもとよりこのようなものである。ゆえに、忙しげにこれを求めようとするのは愚の骨頂である。
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