2020年8月3日月曜日

東陵の瓜(18)

ことは急を要す。

大将軍としての韓信の実力と名声は群をぬいている。今ここで韓信が反乱をおこせば、長安に残る他の将軍たちでは官軍の敗北は明らかである。季布がいれば、韓信に対抗できるだろうが、季布のいる河東郡までは早馬で片道3日を要す。

こうなれば、何かの理由をつくり、韓信を単身で長安城の中におびき寄せ、一気に誅殺する以外に方法はない。韓信を宮中に呼び寄せるにはどうすれば良いか?召平は瞑目したまま考える。

「そうだ!」

と召平はつぶやいた。劉邦からの偽りの伝令をつくり、明朝まだ夜が明けるまえ、長安城の正門前に到着させる。

「陳豨が討伐された!」と伝令に大声で叫ばせて、その噂(うわさ)を一気にみやこ中に触れまわす。そして、宰相・蕭何の名で韓信のもとに使いを送り、誠意のこもった忠告をする。
「病身であることは知っている。しかし、貴殿にもかけられている疑いを晴らすためにも、遠征成功の祝辞を皇后・呂后(りょこう)に述べに、急ぎ参内したほうが良い」と。

慎重で用心深い韓信のことだ。ほかの誰が言っても出てこないだろう。しかし、蕭何の言うことなら信用して出てくるに違いない。

かつて、韓信は項羽から劉邦の陣営に寝返った。下級将校から這い上がり大将軍にまで昇りつめた。その間に、同僚の嫉妬により何度も殺されそうになる。それをかばって、そのつど韓信の命を助けたのが蕭何である。

またその後、韓信は劉邦が自分を重要な地位に登用しないことを憤り、劉邦の陣営から逃亡したことがある。この時も、蕭何は自分の命の危険をかえりみず逃亡した韓信を連れ戻した。死刑になるところだった韓信を、「国士無双」 と称えて劉邦に命乞いをしてやり、なおかつ、大将軍に推挙したのもほかならぬ蕭何である。

その蕭何に、一世一代の嘘をついてもらう。これ以外に漢帝国の危機を救う道はない。ここで漢帝国が滅びたら、天下はふたたび大混乱におちいる。秦のような法家主義の国がふたたび生まれて、人々が塗炭の苦しみにのたうちまわる恐れがある。韓信という男にはその匂いが感じられる。
六千万人の人々の幸せのためだ。今こそ、至誠の人蕭何どのに、誠心誠意の嘘をついていただく以外に他に方策はない。召平はそう結論し、静かに目を開く。

「蕭何どの」、と爽やかな表情で声をかける。そして、この考えを淡々と語る。

蕭何も稀代の名宰相である。瞬時にこれを理解する。自分が悪役を演じることについても不満げな顔をしない。もしかしたら蕭何自身が、同じ筋書きをすでに描いていたのかもしれない。

「いや、お恥ずかしい。少しうろたえておりました。仰せのお考えにまったく同意します」
そう答え、下僕に命じて外で待機している将校を呼び寄せる。そして、右の一部分だけを伝える。
すなわち、邯鄲にいる高祖・劉邦からの伝令になりすまし、明日の未明、長安城の正門を叩き、「陳豨討伐成功 !」の報を大声で知らせよ、と。

召平は、若い将校に真新しい軍服を脱ぐように勧め、自分が野良仕事で着ている普段着を渡す。その後一人で台所に向かう。かまどに付いている煤(すす)を少量皿に乗せ、それを将校の首筋や顔に塗らせる。

蕭何は優しい言葉で将校に命じる。

「ご苦労だが、今すぐ出発して邯鄲のある東北東の方角に馬を走らせてくれ。適当な時刻になったら逆戻りして、明朝未明、疲れ切った姿で長安城の正門を叩いてくれ」

若い将校はすぐさま馬に飛び乗り、その方角に向かって走り去った。












0 件のコメント:

コメントを投稿