その後の計画はすべて順調にすすむ。参内した韓信を呂后は武装兵に命じて捕縛し、すぐさまその首を刎ねた。蕭何はその現場には立ち会わなかった。
ただちに早馬が邯鄲に送られ、劉邦に報告される。劉邦は韓信が誅殺(ちゅうさつ)されたと聞くと、使者を送ってきて、丞相(宰相)の蕭何を相国(しょうごく・同じく宰相であるが丞相より高位)に任命する。それに加えて、五千戸を増封し、兵卒五百人と一都尉(将校)を蕭何の護衛につけた。
諸侯や将軍たちは皆、めでたいことだと蕭何の自宅に祝辞を述べに来た。
ただ一人、召平は蕭何に忠告する。「これは危険ですぞ」と。
「これから禍(わざわい)が始まる恐れがあります。劉邦どのは外で戦(いくさ)をされており、蕭何どのは矢の届かない場所で内を守っておられる。領地を増加し護衛の兵を置くのは、あなたを寵愛しているからではありません。韓信が謀反したので、あなたの心をも疑っているのです。増封を辞退して受けないでください。そして、私財をすべて投げ出して国家の軍事を補助なされてください。そうすれば劉邦どのはお喜びになり、蕭何どのの身も安全です」
蕭何はすべて召平の言う通りに従った。召平が予想した通り、劉邦はこれをおおいに喜んだ。
この事件が片付いてからも、今までと同じように、蕭何は召平のあばら屋を訪ねてきた。その蕭何が病気で亡くなったのは、韓信の死から五年後である。そののち、季布を助けた夏候嬰が死に、季布も亡くなる。季布が亡くなったとき、召平は七五歳で元気で瓜をつくっていた。八十代に入ってからも、召平と葉浩は瓜作りを続け、夜は村人たちと一緒に酒を飲んだ。
そして何年かのち、召平は煙のごとく忽然(こつぜん)とこの世を去る。九十八とも九十九ともいわれている。死の5日前まで、瓜畑の手入れをしていたという。死の前日、床で横になっていた召平は、目は閉じていたが顔に笑みを浮かべて、ひと声つぶやいた。
「爺さまの言われたことは、やはり本当だったなあ」
そばにいた数名の者は、その言葉をはっきりと聞いた。だが、それが何を意味するのかは誰にもわからなかった。
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