2025年10月6日月曜日

【敦煌】白馬塔と梨の果樹園

 シルクロードのものがたり(71)

莫高窟での感激が大きかっただけに、直後の白馬塔見学は付け足しの気がして、さほど期待はしていなかった。ところが、この白馬塔見学は、今まで私の頭の中でモヤモヤしていたことの二つを、すっきりと解消してくれた。

余さんは次のように話してくれる。

「鳩摩羅什は亀茲国(きじこく・クチャ)から中国の中原に向かう途中、敦煌で何日か休息しました。ある夜、夢をみました。自分が今まで乗ってきた白馬が夢に出てきて言うのです。 ”私は今まであなたをお守りしてここまでたどり着きました。ここまで来ればもう安心です。私は自分のやるべき勤めをはたしました” そう言って白馬は消えてしまった。不安に思った鳩摩羅什は、すぐに厩舎(きゅうしゃ)にかけつけました。馬はすでに死んでいました。地元の人々もこれを悲しみ、白馬をここに埋葬して塔を建てました。その後、何度も改修され現在の塔は清代に造られたものです。直径7メートル、高さは12メートルです」

鳩摩羅什は自国の敗北後、将軍・呂光に捕らえられ中国に連行される。385年のことだ。皇帝・符堅(ふけん)から「高僧・鳩摩羅什を連れて帰れ」と命令されていたので、手荒な扱いはしていないと思ってはいたが、この話から、将軍・呂光が鳩摩羅什に対して礼を尽くして丁寧に対応していたことが確認でき、とても嬉しく思った。

「この白馬塔の周りを、男性は右まわりに女性は左まわりに、3回まわると願い事が叶うといわれています」と余さんが教えてくれる。ツアー仲間の多くは3回まわっていたが、距離もあり、しかも直射日光が暑い。私には特に願い事はないので、右まわりで1回だけまわった。

白馬塔の手前に回廊(かいろう)があり、朱色の柱が何本も立っていて、それぞれの柱に鳩摩羅什が翻訳した「般若心経」が漢字で書いてある。スマホで撮ったのだが、ハンドルミスで消えてしまった。玄奘の訳とはかなり異なる。冒頭部分の玄奘訳は「観自在菩薩・かんじざいぼさつ」とあるが、鳩摩羅什の訳は「観自音菩薩・かんじおんぼさつ」と書いてあった。

白馬塔の敷地のとなりに果樹園がある。青い実がいっぱい見える。熟す前のリンゴではないかと思った。余さんに聞くと、「梨です。このあたり一帯は梨の名産地です」と答えてくれる。これでひらめいた。「そうなんだ!」と私は一人で合点して、思わず笑みが浮かんだ。


というのは、玄奘三蔵から直接指導を受けた日本人僧・道照(どうしょう)が残した言葉が真実だとわかったからだ。この話は『続日本紀・しょくにほんぎ』の最初あたりに記されている。文武天皇四年(700年)三月二十七日に道照が72歳で亡くなったときの、大和朝廷の行政日誌である。一部を引用する。

「道照は孝徳(こうとく)天皇の白雉四年(654年)に遣唐使(注・第二次)に随行して入唐した。ちょうど玄奘三蔵に会い、師と仰いで業を授けられた。三蔵は道照を特に可愛がって同じ部屋に住まわせた。ある時、次のように言った。『私が昔、西域に旅した時、道中飢えで苦しんだが、食を乞うところもなかった。そのとき突然一人の僧が現れ、手にもっていた梨の実を、私に与えて食わせてくれた。私はその梨を食べてから、気力が日々健やかになった。お前はあのとき私に梨を与えてくれた法師にそっくりである』と」

玄奘の天竺への旅で一番苦しかったのは、玉門関から伊吾国(イゴ・哈密の近く)の間であったと考えている。よって、この梨の話には合点がいく。別に疑ってはいなかったけれど、敦煌やトルファン(高昌国)あたりの果物は、ザクロ・葡萄・ハミウリなどが有名で、梨がよくできるとは思っていなかった。この梨の果樹園を見て、そして余さんの説明を聞いて、玄奘と道照の二人の高僧の言葉が真実であったと認識した。

この白馬塔でもバスの出発前にトイレ時間がある。早々とトイレをすませて、わきにある灰皿の前で余さんとおしゃべりをする。ここで余さんは、鳩摩羅什と玄奘の般若心経の違いを次のように解説してくれた。この二人の高僧の年齢差は268歳で、鳩摩羅什が先輩である。両者ともサンスクリット語を漢語に翻訳した。

「どちらが優れているかというのは難しい問題で、私にはわかりません。鳩摩羅什の父親はインドの王族で、母親は亀茲国(クチャ)の王様の妹です。9歳のときインド北部のカシミールに留学しています。よって彼はインド哲学を充分に理解した上で、サンスクリット文字の内容を正確に漢語に訳しています。これにくらべ、玄奘のものは、できるだけ中国人が理解しやすいようにと配慮して、かなり意訳されている、といわれています」

いってみれば、鳩摩羅什の般若心経は「直訳」で、玄奘のものは「意訳」ということらしい。我々日本人が日頃使っている般若心経は、すべて玄奘の訳したものである。玄奘の愛弟子である法相宗の道照からの流れであろう。中国では現在どちらの般若心経が使われているのかは聞きそびれたが、たぶん玄奘のものではないかと思う。


中華人民共和国が成立して以降、中国では仏教はすたれている私は思っていた。しかし、この余さんにしても、莫高窟研究員の王さんにしても、仕事柄とはいえ、仏教についての知識を豊富に持っておられたのには驚いた。

私が手に持っている小型バックの中に、たまたま般若心経を一枚入れてあるのを思い出した。それを取り出し、漢字で書かれた262文字の般若心経を余さんに見せた。

余さんは驚いた顔で、「日本人はこれが読めるのか?日本人はいつも般若心経を持ち歩いているのか?」と聞く。私は郷里の広島県に帰ると、仏壇で般若心経を何十年も唱えているのでだいた覚えている。「かんじーざいぼーさつ ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー しょうけんごーおんかいくう、、、、、」とそらで、三分の一ほど、このお経を唱えてみせた。

余さんはびっくり顔で、「すごい、すごい。日本人はみんな般若心経を暗唱しているのか?」と聞く。「そうですよ」と答えて、日本人の民度の高いことを誇示しようかとも思ったが、嘘はいけない。「いいえ。寺のお坊さま以外で般若心経を暗唱している人は、私みたいな変わり者だけですよ。普通の人はやりません」と答える。余さんはホッとしたような顔をしていた。

西安の高さん、敦煌の余さんとの会話の中で、数多く出た中国人の歴史上の人物の名前は、秦の始皇帝・漢の武帝・張騫・則天武后、そして僧では鳩摩羅什・玄奘であった。私の好きな李広・李陵、そして僧・法顕(ほっけん)の名前は出なかった。

余さんが、「現在、中国の高校の歴史の教科書で、唐代に出てくる日本人の名前は3人です」と教えてくれる。阿倍仲麻呂(晁衡)、吉備真備、空海だそうだ。これには納得できる。


白馬塔


敦煌の梨畑








2025年10月2日木曜日

【敦煌】莫高窟(ばっこうくつ)

 シルクロードのものがたり(70)

敦煌という文字には「おおいに盛んなり」という意味があるそうだ。砂漠の都なので昔から沙州(さしゅう)とも呼ばれている。

敦煌が前秦・符堅(ふけん)の支配下にあった西紀366年ごろ、西方から来た楽僔(らくそん)という僧が、鳴沙山の東の断崖に洞窟を掘り仏塑像(そぞう)を安置した。これが莫高窟美術のはじまりだという。この楽僔という人はインド人だったと思われる。

同じ頃、亀茲国(きじこく・庫車・クチャ)の若き高僧・鳩摩羅什(くまらじゅう)は符堅の部下の将軍・呂光の捕虜となり、この敦煌を経由して、武威(ぶい)・長安へと連行されている。この二人の異国の僧は西方から中国に仏教を伝えた。同じころ、私の大好きな中国人僧・法顕(ほっけん)は、長安を出発して敦煌を経由しシルクロードを西に進み、インドで仏教を学んだ。

この三人の僧が、どこかで出会ったということは史書には残されていない。多分出会ってはいないだろう。しかし、ほぼ同じ時期に、この三人の僧が敦煌の景色を見ながら敦煌の空気を吸ったことを想像すると、えもいえぬ感動が私の胸に湧いてくる。

その後、元の時代に至るまでの千年間、修行僧・仏師の手によって洞窟での仏教美術の制作が続けられ、現在でも492窟にその作品が残っている。西方のカシュガル(喀仕)・クチャ(庫車・亀茲国)・ホータン(和田)の仏教美術品はイスラム教徒によって徹底的に破壊された。それに比べ、この莫高窟の仏教美術品が残ったのは、この地が漢族・チベット族・蒙古族によって支配されイスラムの侵入を防いだからである。

しかし、この莫高窟にも文化財の破壊や持ち出しの苦難の時代があった。19世紀後半から20世紀前半にかけての、欧州列強の探検隊による発掘と文化財の持ち出しである。英国のオーレル・スタイン、仏国のポール・ペリオ、スエーデンのスウェン・ヘディンらが有名である。大谷探検隊という日本人の名前も出てくる。浄土真宗本願寺派法主の大谷光瑞が指揮した探検隊である。

彼らは、この地に勝手に侵入して物品を奪い去ったというわけではない。清朝政府の了解のもとに、仏像や経典を管理する寺の住職に代価を払って購入している。ただ今日の感覚からすれば、弱体化した清朝政府の弱みにつけこみ、不当に安い代価をもって貴重な文化財を奪いとったという印象はぬぐえない。

ごく最近にも、敦煌・莫高窟の危機があった。文化大革命である。多数の紅衛兵がこの地に押し寄せて仏教遺跡を破壊しようとした。「紅衛兵を絶対に敦煌に入れるな」と人民解放軍に指示して、これを防いだのは宰相・周恩来だと聞いた。


男性ガイドの余さんが8つの洞窟を案内してくれる。わかりやすい説明で、それぞれの仏像や仏画も美しく感激する。ただし、この莫高窟内部はすべて写真撮影は禁止されている。特に美術価値の高い重要窟には昼間でも鍵がかかっていて、余さんは案内できない。

4つの重要窟を案内してくれたのは、敦煌研究院の研究員、王(おう)さんだ。王さんは35・6歳の美しい女性で、知的で人柄も良い。機転が利くというか、打てば響くといった感じの会話のやりとりが心地よい。「王さんは美人ですね。まるで楊貴妃みたいです」と私が言うと、睨み顔で「楊貴妃を見たこともないくせに!」と言って、あとでにっこりと笑う。

4つの重要窟を案内してもらった。その中の第45窟は、492窟あるなかで一番価値の高い最重要美術品だという。中央に釈迦の像があり、こちらから見て釈迦の左に弟子の阿難(あなん)、右に同じく弟子の迦葉(かしょう)の像が立っている。そのとなりには一体つ”つ、健康美あふれる菩薩像が立つ。その両外側には一体つ”つ、鬼を踏みつけている勇ましい武人の像が見える。盛唐を代表する第一級の塑像(そぞう)だそうだ。仏教美術に素人の私にも、これが素晴らしい作品だということがわかる。

「修復や、休館などで、この第45窟を見学するのはとても難しいのです。みなさんは幸運です」と王さんは言う。井上靖は、「第45窟を頂点とする唐代の諸像こそ、日本の白鳳・天平の仏たちの原流ではないかと思われる」と語っている。

王さんは中国の大学で歴史を専攻し、その後、東京の成城大学に留学したとおっしゃる。「王さん、私は敦煌がとても気に入りました。日本からここに移住して仏教修行をしようかと思います。その時は、週2-3回、王さんの助手で日本人観光客相手にガイドのアルバイトをしたいと思います」

こう言うと、「それは良い考えですね!」とにっこりと笑う。美人の王さんの写真を撮り忘れたのは、今回のシルクロード旅行での最大の不覚である。

莫高窟

莫高窟から見た外の景色
樹木はポプラ


ヨット部のS君は砂塵でくしゃみが出るらしい

2025年9月29日月曜日

【敦煌】敦煌のハミウリは旨い!

シルクロードのものがたり(69)

今回のツアーは少しだけ値段の高いものを選んだ。西安のホテルも立派で部屋も広い。一人一部屋なので快適だ。ホテルの朝食を含め、外のレストランでの昼食・夕食も美味しい。ただ食後にデザートとして出る、西瓜はそれなりに美味なのだが、ハミウリの味がよくない。

私にすれば唯一、これが面白くない。

日本から同行したベテラン添乗員のO女史にこれを言うと、「こんなもんじゃありませんか」と答える。そんなことはない。若い頃、香港で食べたハミウリはこんな味ではなかった。もっと美味しかった。しかも8月のツアーを選んだのは、ハミウリが一番旨い時期と知っての上だ。司馬遼太郎も陳舜臣も、あちこちに感激の気持ちを込めて「ハミウリの旨さ」を語っている。こんななさけないハミウリを食べて日本に帰ることになれば、私としては男が立たない。

私がハミウリに異常な執着心を持っているのを察したOさんは、助け舟を出してくれる。
「この前の仕事で敦煌に行ったとき、お客様を連れてバザールに行きました。ハミウリを売っている果物屋が数軒ありました。あそこに行けば美味しいハミウリがあるかも知れません」

親切な提案に感謝して、「よろしくお願いします」と答えたのだが、内心では大きな期待はしていなかった。「敦煌は中国の北西端に位置するが、中国本土である甘粛(かんしゅく)省にある。旨いハミウリは、やはり本場の新疆ウイグル自治区のトルファン・ウルムチに行かなければ食べることができないのではないか」と勝手に想像していた。


砂漠見物のあと外のレストランで夕食を終え、ホテルにチェックインする。敦煌のホテルも立派だ。各人は部屋でシャワーを浴び、ほぼ全員でホテルから徒歩5分のバザールに向かったのは夜の10時を過ぎていた。でも、敦煌の夏の日没は夜9時過ぎなので、「これからが涼しいバザールのはじまり」といった感じで、観光客の数がとても多い。300ほどの店が並び大変な賑わいだ。

入り口から4-5軒目に大きな果物屋がある。ここで買おうと思ったが、余さんが、「そんなにセカセカしないで、全体を一回り見物したあとでいいのでは」と言う。もっともだと思い、40分ほど数軒の果物屋を含めてバザール全体を見て歩く。

結局、最初の果物屋で買うことにする。一番大きいよく熟した8キロのハミウリを、Oさんに交渉してもらい75元で買う。1500円だから安いものだ。果物屋の主人はその場で切って、大型のプラスチック容器2つに山盛りにして、竹の串を10本つ"つ付けてくれる。容器に入りきらない10片ほどはここで食ってくれと言う。

その場に居合わせた仲間数人で、2切れつ”つ立ったまま食べる。素晴らしく旨い。「旨い!旨い!」の歓声がみんなからあがる。容器一つでも我々3人で食べきるのはむずかしい。「ほかの方々にも食べてもらってください」ともう一つの容器を添乗員のOさんに渡す。

ホテルに戻ると、果物屋に寄らなかったツアー仲間の数人が、ロビーに座って休んでいる。その場で食べてもらった。「旨い!旨い!」と皆さん大変喜んでくださる。
この美味しいハミウリとの出会いで、私は敦煌がいっぺんに好きになってしまった。

これに味をしめて、「トルファンでもウルムチでもハミウリを丸ごと買って食べるぞ!」と意気込んでいたのだが、いずれの地でも、食後に出るハミウリが大量でしかも美味しい。丸ごとハミウリの購入は敦煌だけで終わった。

敦煌のハミウリ

果物屋のご主人


仲良しになった

果物は豊富だ

パパイアもある

ロビーで仲間の皆様に食べてもらった

2025年9月26日金曜日

【敦煌】鳴沙山(めいさざん)と月牙泉(げっかせん)

 シルクロードのものがたり(68)

西安から敦煌までの飛行は2時間弱だが、出発が少し遅れたので、敦煌空港に着いたのは午後3時を過ぎていた。迎えのバスですぐに鳴沙山に向かう。日没は夜の9時ごろなので時間は充分ある。驚いたのは、空港を出てバスに乗ろうとしたら雨が降っている。パラパラであるが、敦煌の雨は珍しい。20分ほどでやんだ。

鳴沙山は、東西40キロ、南北20キロの砂漠のはしっこにある。空港から15分ぐらいでずいぶん近い。あまりにも突然、「月の砂漠をはるばると、、、」の世界が眼前に現れたのでびっくりする。

月牙泉は鳴沙山の谷あいに湧く三日月形の泉(オアシス)で、漢の時代から今に至るまで一度も枯れたことがないという。縦200メートル、幅は広いところで50メートル、深さは平均5メートルだそうだ。「魚もいるよ」とガイドさんが言う。

敦煌でのガイドは余(よ)さんという漢人で、48歳の男性だ。大柄でゆったりとした言動の人で、中国の「大人・たいじん」といった雰囲気の人だ。余さんとはすぐに仲良しになる。共に喫煙者だということに理由がある。今回中国を旅行して驚いたのは、飛行機・新幹線に乗るたびに危険物ということでライターを取り上げられた。とても厳重にチェックをする。

よって、次の町に着くと同時に「ライターはどこで買えるの?」とガイドさんに聞くことになる。空港を出て余さんにこれを聞く。余さんはポケットからライターを取り出し、「これをやるよ」と言う。西安で買い物をしておつりをもらっていたので、10元札が数枚ある。一枚を渡そうとすると、「いいよ、いいよ。カバンの中にもう1個あるから」と笑って受け取らない。「謝謝、謝謝!」と二度言って頭をペコリとさげる。これで二人の間には、一種の友情らしき感情が芽生える。

喫煙者は世界中どこでも、軽蔑され虐げられていて、絶滅寸前の少数人種になりつつある。タバコを吸うというだけで、お互いが親近感を持つということがどの国でもあるようだ。種の保存という動物の本能が、互いに助け合おうという気持ちにさせるのであろうか。


中国のどこの観光地でも、バスを降りたあと入園・入館のゲートで顔写真を撮り、ものものしくチェックする。そこから目的の地点まで数百メートル、1-2キロの距離があることが多い。昔は歩いたようだが、今は電動のカートで移動する。15-20人が乗れ運転手もいる。この鳴沙山観光もそのスタイルだ。オレンジ色の綿製品の靴カバーを余さんがみんなに配っている。25元のレンタルで、靴の中に砂が入らないようにこれで靴を覆う。

鳴沙山は60-70メートルの高さで、登りやすいように、ワイヤーと木板で簡易階段がつくられている。みんなが一列になって、ワッセ・ワッセと登っている。楽ではないが、今年の4月からスポーツジムで体を鍛えているのでそれほど辛くはない。

頂上に到着すると、微風が吹いてとても涼しい。見晴らしも良く、月牙泉の泉の周辺だけにある樹木の緑が、砂だらけの景色の中でひときわ美しく見える。玄奘だけではない。古来から何千年のあいだシルクロードの砂漠をラクダと共に歩いた旅人たちが、目的地のオアシスにたどり着き、緑輝く樹木を見たときの感激がどれほどのものであったか、想像できる。

砂だらけの鳴沙山を降りるとき、砂の中にスマホが落ちているのを見つけた。古いものではない。今日か昨日の落し物らしい。中国語の画面が見える。山から下りて余さんに渡した。「ほう、良いことをしましたね。落とした人は喜ぶでしょう」そう言って、余さんは管理事務所に届けた。

砂山から降りて、ラクダに乗ろうと思った。100元(二千円)払えば30分ほど乗せてくれる。ところが、「今年から65歳以上の人は乗れないという規則ができた」と余さんが言う。なんでも、今年の春ごろ北京から来た60代後半の男性観光客が、ラクダから落ちて大怪我をしたのだという。「田頭さんは若く見えるから64歳と言ってもよいのだが、パスポートを見せろというから無理だな」と言う。

若い頃、タイで象に乗ったことがある。今回ラクダに乗るのを楽しみにしていたので、誠に残念であった。

敦煌の砂漠にも楊貴妃が何人もいた




お揃いの靴カバーをして砂山に登る

左の三日月形が月牙泉

ラクダには乗れなかった


2025年9月24日水曜日

【西安】西大門

シルクロードのものがたり(67)

 西安に2泊して8月25日(月曜)、12時25分発の飛行機で敦煌に向かう予定だ。西安・敦煌・ウルムチは同じホテルに2泊、トルファンと最終日の上海は1泊だ。同じホテルに連泊するのは、何かにつけて便利で好都合だ。手洗いした下着や靴下がよく乾いて気分が良い。

西安の町の花はザクロ、木はアカシアだと聞く。これからしても、ここが乾燥した土地であることがわかる。中心部の人口は800万人、郊外を含めると1300万人というから大きな町だ。地形は地図でわかる通り盆地である。盆地だが海抜400-700メートルで乾燥しているので、東京や上海の蒸し暑さに慣れている我々には、かなり涼しく感じる。

飛行機の出発までには時間があるので、バスで最後の見学地である西大門に向かう。ここがシルクロードへの出発点である。

唐の時代、西域に向かう軍人・役人・商人たちを見送るために、家族や友人は西安から40キロ北西にある咸陽まで同行するのが慣習だったそうだ。歩いていくのは大変だな、と思ったが、旅人の多くは上級の軍人・役人・富豪の商人だったので、家族や友人たちもいわば富裕層である。馬車や馬で移動したようだ。

彼らは咸陽に一泊か二泊して、酒盛りをして旅人を見送る。咸陽は渭城(いじょう)ともいう。王維の「渭城の朝雨 軽塵を浥し」のあの渭城である。この「元二の安西に使いするを送る」の詩のはなしは、以前このブログのどこかで一度紹介している。機会があれば、どこかでもう一度整理・加筆してこれをお話ししたいと考えている。この詩を深く掘り下げて考えると、中国・日本の古代史が理解しやすい気がする。


高さんに案内され、西門の城壁に登る。城壁の上は思っていた以上に幅が広く、しかも頑強に造られている。れんがと石でできた現在のものは、明の洪武帝の頃(1370年頃)に築かれ、その後しばしば修復されているそうだ。

「少し傾いているのがわかりますか?」と高さんが聞く。言われてみれば、そうかなと感じる。雨が少ない土地なので、ほんの少し傾斜をつけておき、降った貴重な雨水を城壁の内側に流れるようにしている。あとで写真を見ると、たしかに右側に排水溝が見える。

守備隊の兵士は何百メートルかごとに複数名配置され、昼夜を問わず見張りを続けたという。兵士が宿泊するための巨大な宿舎が城門の上に造られている。将校の宿舎は近くに別棟がある。次の交代者が来るまで、将兵はこの城門の上で何か月も生活したようである。

西大門の見学を終え、バスで空港に向かう。空港内にある韓国料理店でビビンバとキムチを食べるが、これがとても美味しい。

右側が少し傾いていて排水溝が見える


兵士の宿舎
将校の宿舎は写真の左後にある

西大門 
画 及川政志氏

2025年9月18日木曜日

【西安】大慈恩寺・大雁塔と青龍寺

 シルクロードのものがたり(66)

咸陽で兵馬俑を見学したあと、ふたたびバスで西安市に戻り、西安中心部にある大慈恩寺(だいじおんじ)に向かう。

もとは隋代に建立された寺だが、隋末期の戦乱で焼失したあと、唐の三代皇帝・高宗が母親の文徳皇后を供養するために再建したという。647年のことだ。

玄奘が密出国から16年を経てインドから大量の経典を長安に持ち帰ったのは645年、二代皇帝・太宗の晩年である。日本では大化改新の年だ。当初、玄奘は浩福寺という寺で翻訳事業を開始したが、この事業の拠点は完成したばかりのこの大慈恩寺に移された。その後、高宗の肝いりで、大量のサンスクリット語の経典や仏像を保存するために建てられたのが大雁塔(だいがんとう)である。唐代、この寺の敷地は現在の7倍の広さだったという。

大雁塔は64メートルの高さで、てっぺんまで登れば西安市を一望できるとガイドの高さんは言う。唐代に建立されたものはインド風の丸型の五層の仏塔だったが、明代に現在の姿の四角七層に造り直されたとも教えてくれる。

陸上部のY君とヨット部のS君は共に健脚だ。てっぺんまで登るという。私は足がだるかったので、「二人を下から仰ぎ見ているよ」と言って、木陰にある喫煙所でタバコを吸いながら二人が降りてくるのを待った。それでもこの夜スマホを覗いたら、この日、2万歩あるいていた。

そのあと、近くの青龍寺にバスで移動する。

空海ゆかりの寺である。

空海は師匠の恵果(えか)から、短期間で密教の秘法を伝授された。恵果が何十人もの中国人の高弟子たちを飛び越えて、空海を自分の後継者に決める感動的なものがたりを肌で感じるには、司馬遼太郎の『空海の風景』を読むのが一番早い。805年のことである。

じつは、天台三代座主・円仁(えんにん)も五代座主・円珍(えんちん)も、この青龍寺で学んでいる。円仁がここで学んだのは840年頃で、空海はその5年前に高野山で没している。円珍は四国の讃岐の豪族・佐伯氏の生まれである。空海の甥(おい)、もしくは姪(めい)の息子といわれている。円珍という人は面白い人で、親戚である空海の高野山に赴かず、そのライバル最澄の比叡山に学んでいる。いわば福沢諭吉の甥が慶応にいかないで早稲田で勉強したようなものだ。円珍がここで学んだのは850年ごろである。

円仁・円珍がこの青龍寺に来山したとき、恵果から空海と一緒に教えを受けた中国人僧は、すでに老僧となっていたが、まだ何人もこの寺に残っていた。二人の日本人僧は、空海の伝説的な成功物語を、空海を直接見た青龍寺の中国人の老僧から聞いたにちがいない。

じつはこの青龍寺は千年間近く、廃墟となり地上から消えていた。唐末期から宋代にかけて、中国では仏教は衰退していく。円仁・円珍の入唐のころから廃仏運動のきざしがあり、その後この運動は長く続いた。北宋の元佑元年(西紀1086)以降、この寺は次第に荒廃し、ついに仏閣は地上から消えてしまった。

この青龍寺が再度建立されたのは、じつに、1980年代に入ってからである。仏閣と同時に恵果・空海記念堂が建立され、また空海記念碑が造られた。「これらの費用の多くを、日本の四国の八十八のお寺さんが寄進してくださったのです」と高さんが教えてくれる。高野山金剛峰寺も多額の寄進をしたに違いない。西安市と四国四県は現在でも定期的な交流が行われているそうだ。

このような背景から、青龍寺では日本人にとても親切にしてくださる。我々もお茶をご馳走になり、「参拝弘法大師修行古刹・青龍寺」と書いた御朱印をプレゼントしていただいた。日本で使っている仏閣用の朱印帳を持参していたので、開いてお願いしたら、達筆で「青龍寺」と書いてくださった。こちらには、日本と同じくらい500円程度お礼をした。

両方に「第0番札所」の朱印が押してある。四国八十八ヶ所、第一番札所である阿波・霊山寺(りょうぜんじ)の前の寺という意味らしい。

青龍寺にかぎらず、新疆ウイグル自治区を含め、中国の観光地のあちこちで、唐代の貴婦人の格好をした若い女性に数多く出会った。コスプレというのか。邦貨で二千円程度払うと、唐代貴婦人の衣装を着せて厚化粧をしてくれる。それをボーイフレンドや親たちが嬉しそうにスマホで撮っている。商売人がビジネスで行っているのだが、その背後には、過去の中国の栄光の歴史を国民に認識させたいとの、政府の意図があるようにも感じた。良いことだと思う。

楊貴妃に似た女性がいたら一枚撮ろうとキョロキョロするのだが、なかなか見当たらない。青龍寺を出る直前に、はつらつとした感じの良い若い女性がいたので、あわててスマホのボタンを押した。あとで拡大して見ると、楊貴妃とは少し違うような気がする。ヨット部のS君が撮ったのは、熟女の楊貴妃のようだ。



大慈恩寺の大雁塔


青龍寺


楊貴妃スタイルのお嬢さん

恵果から後継者に指名される空海



熟女の楊貴妃







右が日本からの添乗員のOさん、左が西安でのガイド高さん
中央の二人が長野県から参加の82歳と84歳の女性
お二人の健脚ぶりには恐れ入った

2025年9月17日水曜日

【西安】唐歌舞ショー・則天武后

シルクロードのものがたり(65)

朝、ホテルから兵馬俑へ移動するバスの中で、ガイドの高さんがみんなに質問する。

「昔日本には、女性の天皇が何人もおられました。中国では女性の皇帝は一人しかいません。さて誰でしょうか?」

そんなの簡単だ。「則天武后でーす」と大声で答える。

「ほう、良くできました!」と褒めてくれる。いつもは、あちこちで歴史のうんちくをひけらかして、家族や身近の人たちからひんしゅくを買っているのだが、ここでは、先生に褒められた小学校の優等生のような格好になった。

「今夜、西安第一の劇場で則天武后を主人公にした唐歌舞(かぶ・うたまい)のショーがあります。一人260元です。希望する方は私に言ってください」日本円で五-六千円だ。小学校の優等生の立場でもあるし、以前ブログの「日本一の外交官・粟田真人」を書くとき、則天武后のことは少し調べて知識もあったので興味を持ち、すぐに申し込みをした。グループ10人のうち6-7人が参加された。この観劇に参加したのは正解だった。

午前の兵馬俑、午後の大慈恩寺・青龍寺を見学したあと、西安名物の餃子料理を食べ、この唐歌舞ショーに向かう。ちなみに西安の餃子は数種類出たががすべて「蒸し餃子」で、我々の感覚からすれば「シュウマイ」「香港の点心」といった感じがする。とても美味しい。


日本でいうと歌舞伎座と宝塚劇場を合わせたような、本格的な劇場だ。我々は外のレストランで食事を終えていたので、うしろの席で見物する。前のほうの席は食事やお酒を楽しみながら見物するスタイルで、欧米人の客が多い。一番前の席で飲食しながらショーを観ると、一人五万円とか十万円ぐらいかかるのではあるまいか。唐代の長安には歌舞を鑑賞しながら食事をとる劇場がいくつもあったらしい。この劇場はそれを再現したものだという。

この歌舞ショーはひと言でいえば、則天武后の一代記を踊りと歌で表現したものだ。則天武后には頭の良い娘がいて、母の死後、この娘が母親の一代記を書きそれが残っている。これをベースに脚本した歌舞だと高さんが教えてくれる。

役者は中国語でしゃべり、遠くに英語の字幕が出る。私はある程度の予備知識があったので、だいたいの流れは理解できたが、外国人にとってこの劇の内容を把握するのはむずかしい。それでも、きらびやかな衣装での舞と、豪華な舞台装置なので、意味がわからなくても充分楽しめる。

則天武后は、「中国史上最大の権力者」「英知・残虐性とも超弩級」「呂后・西太后をしのぐ中国三大悪女の筆頭」と言われている。同時に、「知性あふれる絶世の美女」との伝承もある。

その一代記をここで語るには紙面が足りない。よって、ほんのさわりだけを紹介する。

14歳のとき、二代・太宗の妃(きさき)として後宮に入り太宗の寵愛を受ける。太宗の病が重くなると看護した皇太子(のちの三代・高宗)に一目惚れされる。太宗の死後、高宗の妃となり皇后を蹴落して自分が皇后の地位につく。父の妃を息子がいきなり自分の妃にすることは儒教のおきてに背く。よって一年間仏門に入り尼となる。ただし、この寺は宮廷内にあったようで、喪が明ける以前から、二人はこっそりとあいびきを重ねていたに違いない、と私はにらんでいる。夫の高宗が亡くなったあとは、普通は皇太后となり息子に皇帝の地位を譲るのだが、彼女は息子たちを殺して自分が皇帝になる。そして、国名を「唐」から「大周」に変更する。高宗の統治時代も、この皇后は気の弱い皇帝に代わり垂簾(すいれん)政治をおこない、自分が政治と軍事を取り仕切った。倭国・百済の連合軍が白村江で唐に大敗したとき(660年)、唐側の実質的な最高権力者はこの則天武后であった。

高宗の皇后時代の34年間、自身が皇帝であった15年間、合わせて50年近く、この女性が唐の政治と軍事を仕切ったのである。そして705年に81歳で没している。

時代的には初唐の後半に位置し、隋が敗北した高句麗を滅ぼし、西域の領土を拡大し、このころ唐は過去最大版図を実現している。則天武后の時代の唐の西方の勢力範囲は、現在のウズベキスタン共和国のタシケント・サマルカンドを超えて、さらに西のアラル海まで達している。則天武后の時代のあとで、大唐文化の華が咲く盛唐の時代に入る。よって、現在の中国ではこの人は偉大な皇帝として尊敬を受けている。

則天武后のことを長々と書いているのには、じつは、わけがある。「日本国・日本人」にとって、過去2000年間で一番お世話になった中国の皇帝は、じつはこの則天武后であろうと私は考えているからである。


「漢委奴國王印」を北九州の豪族が後漢の光武帝からもらったのは西紀57年だ。「委奴國」は「倭國」と同じ意味である。「親魏倭王」の印を卑弥呼が魏の皇帝・曹叡からもらったのは西紀237年である。この頃から中国は日本のことを「倭国」と呼んでいた。

当初、漢字の意味がよくわからなかった我々のご先祖は、しばらくして、「倭」という文字に「小柄な人・ちびっこ」、「ヘイヘイと、人の言うことに従う従順な者」という意味があることを知った。聖徳太子の頃から、百年近く、日本は中国に対して「倭国と呼ばないで日本と呼んでください」とお願いを続けていた。そのつど中国側は「倭国のやつがなまいき言ってるぜ」という感じで相手にしてくれなかった。

それが西紀703年、突如として中国は我が国のことを「日本」と呼ぶようになる。702年、第七次遣唐使で唐に渡った粟田真人(あわたのまひと)が、出来上がったばかりの「大宝律令」を唐側に見せて、この則天武后に「日本と呼んでください」と強く要請して、それが認められたからである。

粟田真人を「異常に気に入った」則天武后は、宰相と担当の大臣を呼びつけて言った。「今日以降、倭国と呼ぶことを私は絶対に許しません。真人さんが、これだけ懇願されているのです。このまま我が国が倭国と呼び続けていたら、お国に帰られたあと、真人さんの面子がつぶれます。私は皇帝の権限で、今日以降この国のことを日本国と呼ぶことに決定します」と一方的に命令を下した。

この則天武后の厳命以降、すべての中国の正史は、我が国のことを「日本」と表記するようになる。朝鮮半島・越南などの漢字文化圏の国々も、すぐさまこれに倣った。『旧唐書』の前半は「倭国」と表記されているが、この日以降は「日本国」と表記されている。『新唐書』『宋史』『元史』『明史』『清史』などのすべては、「日本」「日本国」で統一されている。そしてそれが現在まで続いている。則天武后の命令の直後、うっかり「倭国」と口を滑らした大臣や将軍の二人や三人が殺された可能性がある。

則天武后以降、千三百年に渡り、日本嫌いの中国の為政者を含めて、中国政府は公式には我が国のことを「日本」と言い続けている。則天武后の「威令」はすさまじいものであった。

則天武后と粟田真人の話は、ブログの初めの頃、「日本一の外交官・粟田真人」で紹介した。


唐歌舞(かぶ)ショー

左から将軍、則天武后、胡姫





2025年9月16日火曜日

【西安】兵馬俑坑(へいばようこう)と始皇帝陵

 シルクロードのものがたり(64)

西安の飛行場に到着したとき「いよいよ漢や唐の古都・長安に着いたのだ」と感激した。ところが我々が降り立った場所は、長安ではなく秦のみやこの咸陽(かんよう)だった。

これを教えてくれたのは、西安でのガイド・高(こう)さんだ。高さんは漢人で、50代半ばの男性で歴史にすこぶる詳しい。この人は留学だったか旅行会社での勤務だったか、3年間ほど日本で暮らしたことがあるとおっしゃていた。高さんに二泊三日の西安案内をしてもらえたのは幸運だった。

「この飛行場は咸陽市にあり、南東の西安市まではバスで40分ほどかかります。この空港の正式名は、西安・咸陽国際空港といいます」日本でいえば、成田空港と東京都心の関係に似ている。「この空港は最近拡張工事がされましたが、秦代の多くの出土品が発掘されました」

始皇帝が定めた秦のみやこの咸陽は、2300年経った現在でも同じ地名で呼ばれている。かたや漢の高祖・劉邦がみやこに定めた長安は現在は西安と呼ばれている。ここを西安と呼ぶようになったのは、明(1368年ー)の時代に入ってからだという。北宋のみやこは開封で、南宋のみやこは臨安(杭州)である。

明王朝の最初のみやこは南京だったが、その後、北京に遷都した。北京・南京と対比させ、「かつて西にあったみやこ」という意味で「西安」と呼んだようだ。当時ここは「西京」とも呼ばれている。この地が長安と呼ばれたのは前漢・後漢・三国・西晋・東晋十六国・南北朝・唐代の約1000年間、西安と呼ばれているのは明朝以降の約700年間ということになる。この西安には、黄河最大の支流である渭水(いすい)を含め8つの川があり、水に恵まれた町である。


8月24日(日曜日)、西安での最初の見学地は兵馬俑だ。バスは西安のホテルから昨夜到着した飛行場の方角の北西に向かって40分ほど走る。

兵馬俑を見学した人から話を聞いたり写真集を見たりして、ある程度の知識は持っていたが、実際に見るとその巨大さに圧倒される。6000体の将兵の像は実在した将兵がモデルであり全員の顔が異なる、とは以前から聞いていた。なるほど、各人の顔がそれぞれ違う。

高さんが、「将兵の頭を見てください」と何度も言う。髪型や帽子の形によって、下っ端の兵士か、尉官・佐官・将軍の区別がつくのだという。たしかに二等兵や一等兵クラスの若い兵士の体型はスリムだが、将官クラスのお腹は中年肥りで少しふくらんでいる。「この人は数千人を率いた将軍でしょうね」とある像の前で高さんが言う。帽子から見て三軍を率いた大将軍ではなく、少将か中将クラスの将軍の像だと言う。

その気品ある顔つきに、もしかしたらこの人は、私の尊敬する「東陵候召平」の30代の姿ではあるまいかと思った。将軍にしてはお腹もあまり出ていない。召平は若くして秦の将軍となり、大将軍・蒙恬(もうてん)の部下として北方の匈奴との戦いで手柄を立て、その後、始皇帝により江南の地・広陵の東陵候に任ぜられている。この兵馬俑が造られていたころ、召平は若いながら現役の秦の将軍であった。この召平の話は、以前このブログで「小説・東陵の瓜」で紹介した。

いまひとつ、私が興奮したのは、「あの黒い部分を見てください。あれは項羽が咸陽に入城して出来たばかりのこの兵馬俑を掘って、火をつけて燃やした跡なのです」という高さんの説明だった。項羽が咸陽に入城したのは前205年であるから、始皇帝の死の5年後である。この兵馬俑は始皇帝が13歳で即位した時すぐに建造にとりかかり、死の2年後、すなわち前208年に完成している。38年かけて完成したことになる。よって項羽がこの兵馬俑を掘り起こしたのは、完成の3年後ということになる。

司馬遷は『史記・項羽本紀』に次のように記している。

「項羽は兵をひきいて西の方咸陽を攻めた。秦の降参した王・子嬰(しえい)を殺し、秦の宮室を焼いた。火は三か月のあいだ消えなかった。それから、秦の貨宝・婦女を没収して東にむかった」

兵馬俑に埋めてあった金目(かねめ)のものを持ち去ったのであろうか。将兵の像には関心がなくそのまま残したのだろうか。それとも、先に咸陽に入城していた配下の劉邦にたしなめられたのか。あるいは、すでに劉邦との対決が始まっていて、この兵馬俑全体を破壊する余力がなかったのであろうか。いろいろと勝手な想像をめぐらす。


始皇帝陵は、兵馬俑からバスで10分ほどの場所にある。我々はここには行かないでバスから遠望しただけである。


外国人は少なく中国各地からの観光客が多い







兵馬俑全体


熱弁をふるう高さん


黒い部分が項羽が焼き払った跡だという


東陵候召平の若い頃の姿ではあるまいか?

バスから遠望した始皇帝陵

2025年9月9日火曜日

上海ー西安の機上から、隋の煬帝(ようだい)を想う

シルクロードのものがたり(63)

 羽田から上海までは2時間半の飛行だ。四国沖を西に向かうのかと思っていたら、本州の上空を真西に飛び、広島県尾道市の私の実家の上空を横切っている気配がする。どれどれ、我が家の畑の里芋の成長ぐわいは、と目を凝らしたが、雲があってよく見えなかった。その後、山口県、長崎県の五島列島の上空を通過して上海に到着した。

上海で、北京時間に合わせて1時間時計の針を先に進める。すなわち11時25分を12時25分にした。その後1週間、北西へ、北西へと、飛行機・新幹線・高速バスで長時間移動したのだが、新疆ウイグル自治区でも北京時間を使っているので、新幹線でトルファンの駅に着いたのは夜の9時だったが夕焼けが美しかった。

上海からトランジットで西安に向かう。上海空港から一駅だけ地下鉄に乗り、ローカル線の飛行場に移動する。地元の若い女性が、我々のグループ最年長の84歳の日本人女性に「どうぞ、どうぞ」と席をゆずったのには感心した。地下鉄の中で大声でしゃべる中国人はいない。中国人のマナーは良く、民度が向上している気がする。多くの人が黙ってスマホを見ている姿は日本の地下鉄の光景と同じだ。

16時45分上海発、18時45分西安着の予定だったが、出発が1時間ほど遅れた。それでも西安空港に到着するころに陽が没したので、窓側の席から上海・西安間の景色をじっくりと見ることができた。

機上から中国大陸をながめた印象をひと言でいうと、「大河と湖と巨大運河。そしてそれらを結ぶ小川と小運河」という風景である。大河は長江(揚子江)で巨大運河は隋の煬帝が造ったものだ。農業用水や生活用水として、同時に物資や人間を運ぶ運搬手段として、たくみに河川と運河と湖を活用している。14億の人々を食わせる米・小麦など穀物の生産は、この上手な河川の利用によるのだな、と思った。


秦帝国も漢帝国も黄河と揚子江の治水と活用に力を入れたが、この両大河を結びつける巨大運河を建設し、さらに網の目のような小運河を造り、農業生産と交通の便を飛躍的に向上させたのは隋の煬帝である。

隋という王朝は、初代・文帝(ぶんてい)15年、2代・煬帝(ようだい)14年、計29年と短く、西紀618年に滅びている。しかも煬帝は「中国史上まれにみる淫乱暴虐な君主」として今なお中国での評判はよろしくない。大運河の建設や高句麗との戦争で、何百万人もの人が死んだのも理由の一つであろう。

その後、煬帝は都落ちした。部下の将兵や皇后・皇太子・多数の美女の妃たちを引き連れて、長安から洛陽へ、そして江南の地に移動した。そして、部下の将軍の手によって江南の地で殺されている。

煬帝の最後の光景を、宮崎市定氏はその著書『隋の煬帝』の中で次のように述べている。

煬帝は白刃をつきつけた将軍に向かって言った。

「朕は何の罪があってこのような目にあわされるのか」

将軍は嘲笑って、詰問した。

「陛下は外国に向かって戦争をしかけ、国内では贅沢のかぎり尽くされました。兵士は戦争で命を失い、婦人子供は飢えで死にました。人民は失業し盗賊が蜂起している中に、陛下はおべっかい者の言うことばかりを聞いて、人民の声を聞こうとされませんでした。それでも罪がないとおっしゃるのですか」

煬帝は相手をにらみつけて言った。

「なるほど、おれは人民に対して申し訳ないことをしたと思っている。ところでいったい、今日の首謀者は誰か。会って話をしたいのだ」

「天下の人間すべてが首謀者でしょう。誰といって一人の名前をあげるわけにはいきません」

この問答、公平に見て煬帝の負けであろう。


2013年、上海と南京のほぼ中間の揚州市で煬帝の墓が発見されたという。江南の地だ。父は文帝(ぶんてい)と呼ばれるのに、息子は煬帝(ようだい)と呼ばれているのを不思議に思っていた。帝を漢音では「てい」と読み、呉音では「だい」と読むらしい。仏典と同じく江南の地、呉音での読み方が日本に伝わったのではあるまいか。

たしかに煬帝は暴君であった。しかし機上から大運河を見ていると、暗君とは呼べないような気がする。

煬帝の死から200年後、日本から空海が入唐する。流着した閩(びん・福建)の浜辺から長安まで、もちろん馬や徒歩で陸路をも進んでいるが、行程の半分以上はこの煬帝が建設した運河と川を利用して、船で進んだといわれている。空海の34年後に入唐した最澄の弟子・円仁もまたこの運河の恩恵を受けている。そして現在でも、中国の人々はこの運河の恵みを受け続けている。

始皇帝が統一した秦帝国の寿命はわずか15年でしかない。しかしその短い間に、度量衡と貨幣の統一・郡県制の制定・幹線道路の建設・万里の長城の修復を行っている。それらを土台として、長期の漢帝国が繫栄した。

科挙制度を最初に導入したのは隋王朝である。秦の後、漢が長期にわたって繁栄したのと同じように、唐の長期の繁栄の前に、短い期間ではあったが、隋という帝国の存在は大きな意味があったように思う。


西安の空港で荷物を受け取り、迎えのバスに乗り込んだのは夜の9時半を過ぎていたが、外の気配と我々の腹ぐあいは夜7時ごろという感じがする。すぐに夕食のレストランに向かった。

西安での食事
10種類ほどの総菜と共に、左奥にある炒飯・焼きそば・ジャージャー麺を食べる

ジャージャー麺はこのような漢字になる(当て字らしいが)

西安・咸陽国際空港




















2025年9月4日木曜日

田頭、シルクロードの入り口を行く!

シルクロードのものがたり(62)

「シルクロードのものがたり」という題で60編ほど書いているが、行ったことのない場所の物語を書くことに少し気恥ずかしい思いがしていた。辛口の友人の一人が、「うんちくを並べておるが迫力が足りんなあ。行ったことがないからだよ」と言う。自分でもそう思う。それゆえにこの数か月、筆が止まっている。

「松岡譲は敦煌を見ずに『敦煌物語』を書き、それに触発されて井上靖も『敦煌』を書いた」という陳舜臣の言葉に励まされてこの物語を書き始めたのだが、漱石門下の優等生の松岡譲や芥川賞作家の井上靖に比べると、自分の筆力はいささか劣ることに気が付いた。

そうしているうちに、成蹊大学の友人S君(ヨット部)とY君(陸上部)が、「9日間の西安・敦煌・トルファン(高昌国)・ウルムチのツアー旅行に行かないか」と声をかけてくれた。S君はヨット部で4年間、年間150日合宿所で同じ釜の飯を食い、3年生・4年生の2年間は吉祥寺の二部屋だけの小屋のような下宿で一緒に生活をした。いわば兄弟のような間柄である。陸上部のY君はS君と同じゼミで、私とも学生時代から仲良しだった。

S君は鉄鋼会社でアフリカ・ベトナム駐在が長く、Y君は商社でアメリカ・中国駐在が長い。両君とも「万里の道を旅した人」だ。この二人が一緒だと心強い。即断即決で8月23日出発のこのツアー旅行参加を決めた。8月にしたのは暑いのだがハミウリ(哈密瓜)が旨い季節だからだ。ハミウリのことは以前このブログでも書いた。私はこのハミ瓜にはかなりのこだわりがある。

中国元への両替は、東京の銀行や空港の両替所には100元札(約2000円)はいっぱいあるのだが、枕銭やチップに使う10元札はどこを探しても手に入らない。アメリカのアムトラック鉄道旅行の時は米1ドル札を常に100枚購入していた。それを思い出し、米1ドル札を50枚購入した。毎回2-3枚を枕銭・チップとして使ったが大変喜ばれた。アメリカ合衆国は近頃落ちぶれてきた気がするが、米ドルの価値は健在だと感じた。

写真は「玉門関」のものだ。

国禁をおかして長安を密出国した玄奘は、玉門関の水場で夜ひそかに水を飲んでいたら、いきなり矢が飛んできた。防備の兵士に見つかったのだ。将校の前に連行された。慈悲深い将校は玄奘の心意気に感じるところがあり、同情してくれた。しかし国禁を犯して密出国した者を城門の中に入れると、他の将校の目に触れ捕獲される恐れがある。親切な将校は皮袋に詰めた水といくばくかの食料を玄奘に与えた。そして玄奘の次の目的地である哈密(ハミ)県の伊吾(イゴ)への道順を丁寧に教えてくれた。

玄奘は革袋の水といくばくかの食料を背負い、月明かりの中、一人北に向かった。

玄奘の苦労を想い、私は思わず敬礼の姿勢で敬意を表した。

玉門関で玄奘を偲ぶ




羽田空港出発
左からY君、S君、田頭

2025年4月7日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(7)

 シルクロードのものがたり(61)

東奔西走、中国各地への旅(2)

玄奘が不良青年だったとは思わない。しかし、従順でまじめ一筋の若者ではなかったように思える。漢の高祖・劉邦は、若い頃は不良青年たちに慕われた彼らの兄貴分だった。玄奘という人にもこの種の「任侠・おとこぎ」の血が流れていたような気がしてならない。

古代の中国では季布(きふ)や候嬴(こうえい)、日本では清水次郎長や吉良仁吉、そして近くでは高倉健の「昭和残侠伝」の世界の「侠」の血である。そしてこの「侠の血」こそが、この人がその後何度も遭遇する生死の瀬戸際を助けたような気がしてならない。困難に遭遇したとき助けてくれる人がいるということは、こちらも何かを備えておく必要がある。「友に交わるにすべからく三分の侠気を帯ぶべし」という言葉がある。玄奘というひとは、この「三分の侠気」を持っていた人のように思える。


兄の忠告に逆らい、寺のおきてを破り、「そこで玄奘はひそかに商人たちと仲間になり、舟で三峡を経て揚子江を逃げくだり、荊州(洞庭湖の北)の天皇寺に至った」とその伝記にある。商人やその配下の船頭や馬方など、気の荒い連中のサポートを得たのであろう。

「お兄さん、本気でおきてを破り、寺を出奔する覚悟がおありでござんすか?そんなら、俺たちもひと肌脱ぎますぜ!」任侠の徒たちからこのような声援を受けた可能性を感じる。

長江を下り、重慶を経由して荊州に到着し天皇寺に宿を求めたのは22歳の頃と思える。荊州都督の漢陽王・李瑰(りかい)の求めにより、この寺で玄奘の講座が開かれ聴衆が殺到する。お布施が山のように積まれたが玄奘は受け取らず、それを寺に喜捨した。さらに、長江を東に下り揚州(南京)に向かい、名僧・智琰(ちえん)を訪ねている。

その後、進路を北にとり、北方の相州(そうしゅう)に名僧・慧休(えきゅう)法師を訪ねる。ここは黄河の北側に位置し、殷墟(いんきょ)の近くである。「世に稀なる若者よ」、慧休が玄奘を送り出すときにつぶやいた言葉として残っている。その後、玄奘はさらに北上して趙州に向かい道深(どうしん)法師を訪ねる。この人は慧休の兄弟分にあたる人なので慧休の紹介であったのは間違いない。このように、面談した高僧が玄奘の人柄と知識に感服して、さらに次の高僧を紹介するということが繰り返し続いている。

これらの旅の途中で、故郷の洛陽にも立ち寄ったと思えるが、伝記には何も記されていない。ぐるり一周の中国北域の旅を終えて、再度長安に到着したのは25歳の頃と思える。


インドに向けて出発するまでの1年程度は、長安で過ごしたようである。10年前の長安に比べると、治安や経済も落ち着きはじめていた。「天竺に行きたい。二百数十年前、法顕三蔵は65歳で天竺に向かわれたではないか。それから見れば自分は孫のような年齢ではないか。やればできる」 このような気持ちが玄奘の心に沸いてきたのは自然なことである。再度の1年間の長安では、法常(ほうじょう)や僧弁(そうべん)という高僧たちから教えを受けると同時に、インドや西域諸国から来た外国人僧侶たちから、語学を含めてインドへの道順や注意点などを教えてもらったと思える。

準備を整え、玄奘は数人の同志と共に、出国の許可を役所に申請した。しかし許可は得られなかった。唐王朝が建国されてまだ10年足らず、国内治世はまだ安定していない。政府は国境の往来をきびしく制限していて、いわば半鎖国の状態であった。唐王朝政府のこの対応は理解できる。友人たちはあきらめる。しかし玄奘は諦めきれず、国禁を冒してでも天竺に行くことを決意する。

彼の持つ「侠」の血を抑えることが出来なかったのであろう。「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」 このときの玄奘の心の内は、この吉田松陰の気持ちに似ていたように思える。




西安 西大門
ここがシルクロードの出発点
画 及川政志氏





2025年3月31日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(6)

シルクロードのものがたり(60)

東奔西走、中国各地への旅(1)

シルクロードを往復してインドで勉強した玄奘は、16年という長期間の旅をした人である。ところが、インドに向けて出発するまでの修行の跡をたどっていて、私は仰天した。10代ー20代の若いころ、玄奘が「ほぼ中国大陸一周」ともいえる長い旅をしているのを知ったからだ。

添付の地図が、玄奘の若いころの足跡である。長江(揚子江)以南は、当時は化外(けがい)の地といわれていた。よってこれを外し、黄河と長江に囲まれた中国北部一帯をほぼ一周している。これには恐れ入った。師を求めての求道の旅であったであろうが、旅そのものが好きな人、だった気がしないでもない。足も丈夫だったのであろう。

そういえば、司馬遷もまた若いころ中国全土を歩き、その土地の古老たちから土地のいわれや伝説などを聞き取り調査をしている。「万巻の書を読み、万里の道を往く」という古い言葉がある。もしかしたら、司馬遷や玄奘三蔵を意識して使われ始められた言葉なのかも知れない。


洛陽の浄土寺での修業期間は5年程度と思われる。玄奘が16歳になった618年、隋は滅び唐の時代が始まる。しかし洛陽の町には暴徒がはびこり、殺人強盗が横行する。供料が断たれた多くの僧侶は生活に窮し離散した。陳兄弟も例外ではなかった。弟は兄に「一緒に長安に行きましょう」と提案し、すぐに実行した。

長安では荘厳寺にわらじを脱いだ。ところが長安の治安も期待したものではない。名僧の多くはすでに蜀の国(四川の成都)に移っていた。「ここで空しく時を過ごすより蜀に行って指導を受けましょう」と再度兄にすすめ、また二人して蜀に向かった。長安に滞在したのは数カ月に満たなかったと思える。

成都では空慧寺にわらじを脱ぐ。この地は肥沃な四川盆地の中心にあって、町は平穏で食料を含め物資は豊かである。名僧も多く、講座には数百人が集まるという盛況ぶりであった。

玄奘は寸暇を惜しんで学び、その精通ぶりは誰よりも抜きんでていた。兄の長捷も父に似て仏教のみならず老荘にも通じ、多くの人々に慕われた。20歳のとき、玄奘はこの成都で、僧侶としての高い資格を得るための具足戒(ぐそくかい)を受けている。玄奘が四川の成都を去り、長江(揚子江)を船で下るのは、21歳か22歳の時だと思われる。成都での修業期間は4-5年であった。

成都ではもう求めるものがなくなったと判断した玄奘は、「ふたたび長安に向かいたい」と兄に申し出る。成都で着々と地位を固めつつあった温厚な兄は、弟の昂(たかぶり)をなだめ、この地に留まることを説く。同時に寺には掟(おきて)があり、すぐには寺を離れることは出来ないことを諭した。ところが、これをふり切って玄奘は寺を脱出するのである。

この場面にもし、ヘッドハンターの田頭が同席していたら、私はお兄さんの肩を持ったような気がする。「玄奘さん、ウロウロと短期間で場所を変えないで、お兄さんのおっしゃるように、もう少し腰を据えてここで修業をなさるほうが良いと思います」と。ところが玄奘は、兄の意見に逆らって成都の空慧寺を出奔(しゅっぽん)するのである。


「親の意見を承知ですねて、曲がりくねった六区の風よ、つもり重ねた不幸のかずを、なんと詫びよかおふくろに、背中で泣いてる唐獅子牡丹」 このときの玄奘の兄に対する気持ちは、このようなものではなかったかと思う。しかし、歴史の結果を見れば、年長者の説教に逆らって寺を飛び出た、この時の若者の軽挙は成功であったといえる。

老ヘッドハンターの田頭は、若い候補者がひんぱんに転職しようとするのをたしなめることがある。私の考えが正しいのか、若者たちの考えが正しいのか、近頃自問している。


10代―20代での玄奘の国内旅ルート



 

2025年3月17日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(5)

 シルクロードのものがたり(59)

玄奘の最初の幸運

洛陽の浄土寺時代の、興味深い話を紹介したい。

次兄を頼って浄土寺の門を叩いた11歳の玄奘は、少年行者(童行・どうぎょう)という一番初心者の扱いを受けた。これは当然のことである。最初に手にした仏典は『維摩経・ゆいまきょう』と『法華経・ほけきょう』だといわれる。両方とも鳩摩羅什の漢訳と思われる。

しばらくして、「洛陽において27人の官僧を度す」との勅令が煬帝(ようだい)の名で下された。官費の僧になれば、生活費の支給だけでなく兵役や税金も免除される。よってこの時、洛陽周辺の学業優秀な数百人が役所の試験場に殺到した。

齢が足らず、また修行も充分でない玄奘は、役所の公門をくぐることもできない。わびしく、一人で門前にたたずんでいた。この少年に目をとめたのが、この試験の最高責任者である鄭善果(ていせんか)という人である。鄭は少年に声をかける。「どこの家の者か?」、「僧になりたいのか?」、「出家してどうしたいのか?」 少年は臆するふうもなく答える。「遠く如来(にょらい)の教えを継ぎ、近くは遺法をつぎたいと願っております」

これを聞いた鄭はその志に感銘し、またその容貌が賢そうなので、特別にこの少年を合格させることにした。そして部下の試験官たちに言った。「経典の研究は難しいことではないが、人物を得ることは難しい。このような才能ある男は失うべきではない」 少年時代の玄奘の能力を見抜き、彼を引き上げたのである。この一事をもって、鄭善果という人はそれ以降の中国において「名伯楽」と称賛されるようになった。


この幸運な出来事を、どう解釈すればよいのか?

背が高くハンサムで賢そうな少年の風貌に、高官・鄭善果は惹かれたのか。学道に邁進している少年の迫力がその顔つきに表れオーラを発していたのか。これを見て、鄭は少年の能力を見抜いたのか。それとも、単に鄭の気まぐれであったのか。色々なことが私の頭の中をよぎる。

次のような推測は、ロマンがない、現実的すぎる、と多くの人からひんしゅくを買うかも知れない。でも、私の心の内を正直に明かすと次のように思う。「どこの家の者か?」と聞かれた少年は、当然、父と祖父の名前を答えたに違いない。祖父も父も洛陽の有名人であった。この鄭善果という高官は、少年の祖父の陳康(ちんこう)と父の陳慧(ちんえ)の名前と立派な人となりを知っていたのではないか。私にはこのように思えてならない。

「親の七光りも実力、運も実力のうち」という言葉がある。ともあれ玄奘少年は年若くして、あっぱれ官僧になれた。これ以降の玄奘の勉学ぶりは、寝食を忘れるほど凄まじいものであったといわれる。一度講義を聞けばすべてを理解した。衆僧はみな驚き、少年を座に登らせて再度講述をさせた。その講述は読みも解釈も師の教えとまったく変わらなかった。こうして玄奘の名声は、13歳にして洛陽の人々の知るところとなった。


「笈を負う・きゅうをおう」という古くて味わい深い日本語があることを、私は最近になって知った。『史記・蘇秦伝』に源があるらしい。「本箱を背負って旅をすること」「遠く故郷を離れて勉学すること」という意味である。玄奘三蔵だけでなく、中国の昔の名僧たちが背中に重そうな荷物を背負っている絵は今まで何度か見た。「中に何が入っているのだろう?下着や食料かな?」と私は思っていたのだが、これは「書物」であるらしい。ずいぶん重かったに違いない。

笈を負う玄奘


2025年3月10日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(4)

 シルクロードのものがたり(58)

玄奘の生たち

玄奘の生年は紀元600年から602年の間といわれるが、602年説が有力なようだ。ここでは602年説を採る。年齢については満年齢で表示したい。没年は664年とはっきりしている。よって満62歳で没したことになる。

玄奘三蔵は唐代の名僧、と我々は認識しているが、生まれたのは隋の初代皇帝・文帝の御代である。推古天皇の15年(607)に小野妹子は、聖徳太子が起草した国書を二代皇帝・煬帝(ようだい)に手渡した。このとき玄奘は5歳の少年であった。高祖・李淵(りえん)が唐王朝を建国するのが618年であるから、玄奘が少年期から青年期にさしかかる頃である。中国政治の大きな動乱の時代に、玄奘が少年時代を送ったことは認識しておく必要がある。

『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』は冒頭で次のように言う。

「法師はいなみは緯(い)、字(あざな)は玄奘、俗姓は陳(ちん)といい、陳留(河南省陳留県)の人である。祖父の康(こう)は学問に優れ、北斉に仕えて国子博士となり周南(河南省洛陽県)に封ぜられた。そこで子孫はこの地に住みついた。父の慧(え)は英傑で雅(みやび)やかであり、若い時から経学に通じていた。彼は身のたけ八尺、眉目(みめ)うるわしく、ゆったりした衣服を着て儒者の姿を好んだので、人々から郭有道(かくゆうどう・後漢の名士)のようだといわれた。性恬淡(てんたん)で出世をしようともせず、そのうえ隋の政治も衰えてきたので、ついに古書の研究に専念するようになった。州郡(地方政府)はしきりに官途につくことを勧めたが、彼はいつも病身を理由に就任しなかった。識者はその態度を誉めそやした。彼には四人の男の子があり、法師はその四男であった」

これからして、玄奘は氏素性の良い、学問をする家系に生まれたことがわかる。父の身のたけ八尺には驚いたが、当時の一尺は24.6センチと知り、計算してみたらそれでも196.8センチとなる。中国人の表現は時として大げさだ。それを考慮しても190センチ前後の大男だったように思える。とびぬけて大柄でしかも人物が立派なのだから、洛陽では有名人だったと思える。ちなみに玄奘自身の身のたけは七尺といわれている。172センチ強だから、当時としては大柄である。


このような恵まれた家庭に生まれた少年は、11歳のとき突如洛陽の浄土寺(じょうどじ)で仏門に入る。仏教に惹かれたのだとは思うが、そうせざるをえない理由があったようだ。玄奘が5歳のとき、母(落州長史・宋欣の娘)が突然世を去った。そして10歳のとき、父もまた突如この世を去ったのである。

このとき、次男の長徢(ちょうしょう)は先に出家していて、洛陽の浄土寺で修業していた。玄奘にとって頼るべき場所は、次兄の止宿する浄土寺しかなかったように私には思われる。長男と三男については、玄奘三蔵の伝記には何も記されていない。

ただ、薬師寺長老の安田暎胤老師の著書『玄奘三蔵のシルクロード』の中に、「玄奘三蔵のふるさとは今も洛陽郊外の陳河村にある。当主の陳小順氏は陳家の47代目にあたり、村長を務めておられる」と書かれてある。同時にこの村長さんと一緒の写真が掲載されている。玄奘の祖父・の陳康からかぞえて47代であろう。ひと世代30年として1410年間であるので、つじつまは合う。

これからすると、私の想像は間違っているのかも知れない。長兄が面倒を見ると言ったのをふり切って、仏教にあこがれて、次兄のいる寺に向かった可能性も考えられる。


左端が47代目当主・陳小順氏 その右が安田暎胤老師





2025年3月3日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(3)

 シルクロードのものがたり(57)

玄奘三蔵から直接指導を受けた日本人僧・道照(どうしょう)

玄奘という人が日本に縁の深い人であることを伝えたい気持ちで、このことを紹介したい。日本の二番目の正史(青史)である『続日本紀』は、大和朝廷の行政日誌の感がある。『日本書紀』が神話を含めて文学的な香りがするのに比べると、淡々と事実だけを記していて、あまり面白い書物とはいえない。しかしそれゆえに、史書としての評価は極めて高い。

この書物の初めの頃の箇所に、玄奘三蔵から直接指導を受けた「道照和尚・どうしょうわじょう」のことが記されている。冷静で淡々とした書きっぷりの『続日本紀』の中で、この道照和尚の箇所は筆者(記録官)の心の高ぶりのようなものが感じられる。この道照和尚の死去が、当時の日本人にとって、とても大きな悲しみであったことが推測される。以下は『続日本紀』からの抜粋である。


文武天皇四年(700)三月十日 道照和尚が物化(ぶっか・死去)した。天皇はそれを大へん惜しんで、使いを遣わして弔い物を賜った。和尚は河内(かわち)国丹比(たじひ)郡の人である。俗姓は船連(ふねのむらじ)、父は少錦下(しょうきんげ・従五位下相当)の恵釈(えさか)である。ある時、弟子がその人となりを試そうと思い、ひそかに和尚の便器に穴をあけておいた。そのため穴から漏れて寝具をよごした。和尚は微笑んで、「いたずら小僧が人の寝床をよごしたな」と言っただけで一言の文句もいわなかった。

孝徳天皇の白雉四年(653)に遣唐使(第二次)に随行して入唐した。ちょうど玄奘三蔵に会い、師と仰いで業を授けられた。三蔵は特に可愛がって同じ部屋に住まわせた。ある時、三蔵は次のように言った。「私が昔、西域を旅したとき道中飢えに苦しんだが、食を乞うところもなかった。突然一人の僧が現れ、手に持っていた梨の実を私に与えて食わせてくれた。私はその梨を食べて気力が日々すこやかになった。お前こそあの時、梨を与えてくれた法師と同様である」と。

その後、道照が帰朝するとき、別れ際に三蔵は、所持した舎利(しゃり・釈迦の骨)と経綸を和尚に授けた。また一つの鍋を和尚に授けて言った。「これは私が西域から持ち帰ったものである。物を煎じて病の治療に用いるといつも霊験があった」と。そこで和尚はつつしんで礼を述べ、涙を流して別れた。

(中略)

あるとき、にわかに香気が和尚の居間から流れ出した。弟子たちが驚き居間に入ると、和尚は縄床(じょうしょう・縄を張って作った腰かけ)に端座したまま息が絶えていた。弟子たちは遺言に従って栗原(高市郡明日香村栗原)で火葬にした。天下の火葬はこれからはじまった。火葬が終わったあと、親族と弟子とが争って和尚の骨を取り集めようとすると、にわかにつむじ風が起こって灰や骨を吹き上げて、どこに行ったかわからなくなった。人々はふしぎがった。

以上は『続日本紀』の記述である。


第二次遣唐使(653)の第一船(121人乗り組み)に乗ったのが、この道照(24歳)と中臣鎌足の長男・定恵(じょうえ・10歳)そして、「日本一の外交官」として以前このコーナーで紹介した粟田真人(あわたのまひと・8歳)である。第二船(120人乗り組み)は難破して5人を除く全員が死亡している。

道照は年長者で学問も進んでいたからであろう、玄奘三蔵に直接指導を受けている。鎌足の長男・定恵は、玄奘の弟子の神泰法師に教えを受けている。『続日本紀』は「玄奘は道照を同じ部屋に住まわせた」と書いているが、薬師寺長老の安田暎胤老師はその著書に、「自分の近くの房に住まわせるように命じた」と書いておられる。常識的に考えると、後者が事実のような気がする。






2025年2月25日火曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(2)

 シルクロードのものがたり(56)

日本にある玄奘三蔵のご頂骨(ちょうこつ・頭の骨)

昭和17年12月23日、南京に駐屯していた日本陸軍の高森部隊によって、玄奘三蔵の頂骨が発見された。部隊長の高森隆介中佐(18年に大佐に昇進)は、この場所に稲荷神社を建設しようとして、小高い丘陵を工事していて石棺に出会った。石棺には文字が刻まれていた。

「宋の天聖5年(1027)に玄奘三蔵の頂骨は演化大師とその弟子たちによって長安から南京に運ばれ、2月5日の命日に天憘寺の東の岡に葬られた。その後、明の洪武19年(1386)に寺の南側に遷された」と。(写真参照)

世が乱れると、中国では皇帝の御陵でも盗掘される。この危険をさけて遷されたものと考えられる。石棺の中にはまさしく頂骨が安置され、仏像・銀錫の箱・銅や陶器の仏具・珠玉・唐宋明代の古銭が納められていた。

昭和18年2月23日、日本政府は、これらのすべてを時の南京政府(汪兆銘政権)に返還した。南京政府は感激して、その奉還式典を盛大に催し南京城内に安置した。昭和19年10月10日に、南京郊外の玄武山に塔を建築して落慶式が行われた。式典には日本側から重光葵(まもる)大使や日本仏教界会長の倉持秀峰師・水野梅暁師が参列した。式典に参列した日本側に対し、中国側から日本への分骨の提案がなされた。「法師は仏教東漸史上の大恩人である。中日両国の仏教徒はこれを祭り、永遠に法師の遺徳を尊ぶべし」との宣言を行って、このご頂骨は倉持代表に手渡された。

このような経緯で日本に奉持帰国したのは、昭和19年10月の下旬であった。日本仏教会の本部(東京の芝増上寺内)では空襲の被害を受ける可能性が高い。当時仏教会の事業部長であった大島見道師の寺が埼玉県の岩槻にあり、寺名を慈恩寺(じおんじ)という。長安の大慈恩寺と同じ名前であり、しかも慈覚大師円仁が、長安の大慈恩寺と景観が似ているといったことから寺名がつけられたという由来がある。ここがふさわしいと衆議一決し、昭和19年12月23日(発見された同月日)に上野の寛永寺で盛大な法要をして、慈恩寺に奉安された。そして終戦をむかえる。

ところが、ある問題が提起される。正式に中国政府より贈呈されたとはいえ、戦時中のことであり、それを日本に持ち帰ったことになる。現在の中国の政権(蒋介石政権)に確認すべきではないかとの意見が出たのである。このご頂骨を受けてきた水野梅暁氏には、蒋介石主席と親交のある中国人の知己がいた。この人を経由して蒋介石主席の意向を打診してもらうことにした。

すると昭和21年12月23日、ご頂骨奉迎2周年の式典法要を営んでいた所に、中国外交部長(外務大臣)の謝南光氏が、わざわざ蒋介石主席の返事を持って日本まで来られた。その内容は、「ご頂骨の返還はしなくてよい。広く顕彰することはむしろ喜ばしいことである」とのことであった。


太平洋戦争末期から終戦にかけての混乱の中で、日本政府と日本陸軍のとった対応はみごとである。同時に、これに対する汪兆銘政権・蒋介石政権の対応も共に立派であったと感激している。


石棺に刻まれていた碑文




2025年2月17日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう

 シルクロードのものがたり(55)

玄奘三蔵とはどんな人だったのか?

『大唐大慈恩寺(じおんじ)三蔵法師伝』など何冊かの伝記を読みながら、玄奘三蔵とはどのような人だったか想像している。

「大柄で背が高く身体が丈夫。色白で肌はやや赤みをおびたハンサムな人」と記録にある。「人と話すときは相手の目をまっすぐ見て、純粋な人という印象を与えた。話し方はゆっくりと明瞭で、無駄な言葉はなく物静かな人」、「聡明で兄弟仲が良く、明るく親切で優しい人」、「意志が強く行動力があり、語学の才があった。サンスクリット語を含め西域各地の言葉を短期間でおぼえた」、このような記述も残されている。

行動力があるということは、慎重すぎる人ではなかったということだ。言葉を変えれば、多少は軽はずみなところもあった人かと思える。幾多の困難と数えきれないほどの身の危険にも遭遇している。ところが、不思議なことに、絶体絶命の窮地に達するたびに、突然目の前に彼を助けてくれる人が現れる。人は風貌から受ける印象で相手の人物を察知するという。玄奘という人は、初対面の人を惹きつける磁石のような強い魅力を備えていたように思える。

日本の幕末の志士にたとえると、坂本龍馬が私の持つ玄奘のイメージに一番近い。西郷隆盛をもうすこしハンサムにした感じか。私が一番好きな幕末の志士は高杉晋作だが、玄奘のイメージからは遠い。現在の日本人だと、大谷翔平選手をいま少し知的にした感じかな。このように想像している。


玄奘三蔵については、私以上に研究され、多くの知識を持っておられる方が多いと思う。自分なりにこの人を理解して、文章にまとめたいと考えているのだが、「群盲象を評す」の言葉が自分に迫ってくる。象の長い鼻にさわって、あるいはそのシッポに触れて、「これが象ですよ」と述べる箇所があるやも知れない。

じつは私は、小学校にあがる前から玄奘三蔵という名のお坊さまのことを知っていた。といっても、私は寺の子ではない。私の先祖には長寿者が多いのだが、祖父・田頭佐市だけは残念なことに、昭和19年に50歳で亡くなった。村にある曹洞宗の寺・法運寺の住職さまが祖父と仲が良く、頻繁に我が家に来られ祖父の供養をしてくださっていた。「のぶちゃんも一緒にやれ。爺さまの供養になる」と言われて、字も知らないときから和尚様の口元を見ながら、もぐもぐと「般若心経」のまねごとを唱えていたような記憶がある。祖父の思い出話を聞かせてくださったあと、道元さま、玄奘さまの話をしてくださっていた。

「玄奘三蔵のあとを思うべし!」と言うのがこの和尚さまの口癖だった。子供の私にはその意味が分からなかったが、これが『正法眼蔵随聞記』の中にある言葉だと、大学生になって知った。


及川政志という有名な建築家がおられる。画もたくみな人だ。早稲田大学の建築科を出られた方で、私とは高校も大学も異なるのだが、武蔵小金井の金光教東京寮という所で同じ釜の飯を食った間柄である。私は大学1年生の時から、1年先輩のこの人に兄事してきた。それから半世紀、現在でも指導していただいている。ありがたいことだ。「万巻の書を読み万里の道を征く」という言葉がある。及川さんのような人をいうのであろう。

4年ほど前だったか、夕食をご一緒した時「旅行で高昌国に行ってきたよ!」とスケッチブックを見せてくださった。今回この及川さんにお願いして、そのスケッチに色を付けてもらい、この「シルクロードのものがたり」に使わせていただくことにした。


トルファンの玄奘三蔵像 画 及川政志氏 



2025年2月13日木曜日

”砂漠の船” ラクダとロバと馬(3)

 シルクロードのものがたり(54)

ロバの話

私自身、馬についての知識は少ない。よって馬についてはここでは触れず、書物によって私が知ったロバの話しをしたい。


我々日本人はロバという動物にはなじみが少ない。日本の昔話にロバが登場する話は聞かない。かたや、中国の昔話にはこのロバは頻繁に登場する。有名な『枕中記・ちんちゅうき』に登場する蘆(ろ)という青年が乗っていたのはロバであろう。アジアの乾燥地帯においては、ロバという動物は古来から現在に至るまで、人の役に立つ超重要な動物らしい。

ブライアン・フィガンという英国人の著書『人類と家畜の世界史』の中に、次のように記されている。「ロバは人間と共に8000年以上働いてきた。馬やラクダよりもロバが家畜化されたほうが古い。東地中海地域では、人を輸送する手段として馬とラクダが登場するまでは唯一ロバを使っていた」

とはいうものの、ロバは歴史の中でつねに目立たない役割を演じてきた。「トボトボと歩く」と表現すれば、それは馬ではなくロバだと想像できる。さっそうと走る馬にくらべると、ロバという動物はいかにも地味な感じがする。

人類がいつどこで、ロバを家畜化したのかははっきりとは判っていない。ただBC6000年頃にはサハラ砂漠南部の人たちがロバを家畜として使っていた、というのがその方面の研究者たちの常識らしい。

BC2350年頃のエジプト第六王朝の宰相であったメレルカは、王様以上の権力を持っていたといわれる。この人の墓から出土した石の壁画には、10頭近くのロバを誘導する男の姿が描かれている。エジプトではBC4000年頃にはすでにロバを家畜として使用していた。古い歴史書の中にも、「エジプト人はロバの隊商を使って沙漠の鉱山に到着した」とか、「アッシリアからアナトリアまで、黒いロバが錫(すず)を運んだ」などの記述がある。

また古代エジプトでは、裕福な庶民であるロバの所有者が、一ヶ月二ヶ月単位でロバを貸し出してその代金を受け取り、これが儲かる商売であったとパピルスに記録されているという。今日でいえばレンタカーの貸出業者と同じである。

ロバは足取りが軽く、牛よりも速く歩く。起伏のある荒地ではとりわけ速い。馬にくらべるとスピードは劣るが耐久力に優れ、小さな体で馬と同じくらい100キロの荷を運ぶ。余談だが、ロバのおすと馬のめすが交配すると、ラバという強くて賢い動物が生まれる。

NHK取材班に同行した陳舜臣は、自分が見たロバのことを次のように語っている。

ロバが引く一輪車もあった。何度も見ているうちに、一つの発見をした。ラクダや馬の荷車を引く人たちは、歩いたりあるいは荷台の上から鞭をならしながら進んでいくのだが、ロバの上の人たちはなぜか、ほとんど眠りこけているのだ。中国側の魏(ぎ)さんが笑いながら説明してくれた。「ロバは賢いので自分の主人が眠っていても、いつも通い慣れた道を覚えていて、目的地まで運んでくれます。家に着いても荷車の上で朝まで寝ていた人もいるという笑い話もあります」


ロバ




2025年2月6日木曜日

”砂漠の船” ラクダとロバと馬(2)

 シルクロードのものがたり(53)

ラクダの話(2)

戦国時代の弁舌家・蘇秦(そしん)は、楚の王様に次のように献策した。「自分の言うとおりにすれば、韓(かん)・魏(ぎ)・斉(さい)・燕(えん)・趙(ちょう)・衛(えい)の妙音(妙・たえなる音楽)と美人はかならず後宮に充ち、燕(えん)・代(だい)の駱駝(らくだ)・良馬はかならず外厩(がいきゅう・宮殿の外のウマ屋)に実(み)たん」

これからして、ラクダは美人や良馬とならんで、当時の諸侯が欲しがったものであることがわかる。唐代には火急のときは、早馬ではなく早ラクダを用いた。これを「明駝使」と呼んだ。馬は速くてもすぐにバテるが、ラクダはバテないからだ。

1970年代にNHK取材班は何度もシルクロード方面に遠征し調査している。このとき同行した記者の一人は、ラクダの性癖やその乗り心地を次のように記述している。

人間に飼いならされたラクダとはいえ、荷物を積まれるときは相当抵抗する。気の荒いラクダは後足を跳ねあげ、人を寄せ付けようとしない。荷物を振り落とすラクダもいる。長距離を旅するときは、大きなラクダでは140キロぐらい、小さなラクダなら100キロぐらいの荷物が理想的だ。歩行速度は1時間に3キロ。もちろんもっと速く歩けるし、走ることもできる。でも長距離キャラバンの場合は、それがもっともラクダの耐久力にかなう理想的な速度だと、地元の人はいう。

ラクダの乗り心地は、前後左右に揺れるが、予想したほど悪くはない。前日に砂塵にまみれ激しい振動をしたジープとトラックに比べれば、ラクダの背のほうが楽である。ただ一つ不安なのは、転落しないかということだ。ラクダの背は、乗る前の予想よりはるかに高い。


陳舜臣は、ハミウリと同時にこのラクダにも思い入れが強い。彼が地元の人から聞いたという話を含めて、いくつかの興味深い話を書き残している。

ラクダはその長い旅の道中で子を産む時もある。砂の上に生まれ落ちたばかりのラクダを、母親の背に乗せてやらないと、母ラクダは歩こうとしない。また、不幸にも子が死んだときは、母の背から降ろしてはいけない。死骸が朽ちはてるまで母とともにいなければ、母ラクダは一歩たりとも前に進もうとしないという。

また、キャラバンの先頭には、一番優秀なラクダを歩かせるという。先頭のラクダが歩けば、どんな険しいところでも、後続のラクダは黙ってついていくという。沙漠の船といわれるラクダで旅をしたいにしえの旅人は、1日におよそ30キロくらい進んだ。オアシスからオアシスまでの距離がほぼ30キロから40キロであったからである。

中国人であるこの人は、食への関心も強い。以下も陳舜臣の文章の引用である。

旅をしているうちに、ラクダの背中のコブはしだいに小さくなる。そこから栄養分を補給しているのであろう。当然コブのなかには、生命のエッセンスが詰まっているにちがいない。さぞかしそこは美味であろうと中国人が考えるのは、自然な発想といえる。

古来、中国では、ぜいたくなご馳走のことを、「駝峯熊掌・だほうゆうしょう」という。「熊のてのひら」は日本にも輸入され、それを含むコース料理が数十万円の値段になったということが新聞に出ていた。「駝峯(だほう)すなわちラクダのコブ」が輸入されたとは聞かない。清代の汚職大官のぜいたくぶりを描写する文章に、「一皿の駝峯を得るために何頭ものラクダを屠(ほふ)り、コブだけを取って残りはすてた」というくだりがあったのを覚えている。

私はイランのペルセポリスの近くでラクダを食べたことがある。ピンク色をした肉で、そんなにまずいものではない。中国の酒泉賓館(しゅせんひんかん)のレストランで「駝蹄・だてい」が出た。蹄(ひつ”め)というが、じつはラクダの足の裏の軟骨部分である。これはまず美味といってよかった。私にはこの二回の経験しかない。もちろん「駝峯(だほう)」を味わったことはない。


ヒトコブラクダ





2025年1月30日木曜日

”沙漠の船” ラクダとロバと馬

 シルクロードのものがたり(52)

ラクダの話

名産品という言葉から少しずれるが、シルクロードを語ってラクダを語らないわけにはいかない。このような題にしたのだが、主役はラクダで、ロバと馬は脇役である。

今までは歴史のうんちくを語ることが多かったので、この章では「動物学的な視点」から入りたい。といっても、これもその方面の先生方の受け売りである。

ラクダ科の動物の先祖が生まれたのは、4500万年前、場所は意外にも北米大陸だという。700万年前に現在のベーリング海峡を越えて(当時は陸続きであった)ユーラシア大陸に渡ってきたのがラクダである。動物学では「ラクダ科・ラクダ亜科」という。北米大陸と南米大陸は大昔は離れていた。300万年前にパナマあたりでくっついて陸続きになった。南に進んだ動物がリャマ・アルパカとなりアンデス高原に住みついた。これを「ラクダ科・リャマ亜科」という。すなわち、ラクダとリャマ・アルパカは ”またいとこ” くらいの親戚関係になる。

シベリアから南下したラクダのうち、モンゴル高原・ゴビ砂漠・南ロシア・新疆ウイグル・アフガニスタン北部あたりで飼育されたのが「フタコブラクダ」であり、さらに西に移動してアラビア半島・北アフリカのサハラ砂漠あたりで飼育されたのが「ヒトコブラクダ」である。どこかで進化・変化したのであろう。よってこの二つは ”兄弟” の関係である。

以上は、川本芳先生(京都大学・霊長類研究所)の論文の一部である。


ラクダは沙漠の生活に耐えるように、耳の内側に毛がはえ、まつげが長く、鼻孔は自由に開閉できる。かたい植物が食べられる丈夫な歯・舌・唇をもち、胃は牛と同じく四室にわかれて反芻(はんすう)してよく消化する。

ヒトコブラクダは体温が40度以上に上がるまで汗をかかない。必要な水分は血液だけでなく、筋肉などの体組織からも供給されるので、体中の40パーセントの水分を失っても生存できる。よって、ラクダには「熱中症」という病気はないらしい。干し肉(ビーフジャーキー)の一歩手前のようにカラカラになっても生きているというから、たいしたものだ。その直後に水を飲ませたら、10分間で92リットル飲んだという記録がある。また30数日間一滴も水を飲まずに旅を続けた記録もあるとも聞いた。これには私は首をかしげているが。

乳は飲めるし、肉は食用になり、毛は立派な織物になる。ここまでは羊と同じだが、荷物を運んだり、人を乗せたりするところは、ラクダのほうが優れている。良質な毛がとれることは、リャマ・アルパカの ”またいとこ” という氏素性からして合点がいく。

「いいことずくめ」のラクダに惚れ込んだ陳舜臣は、「シルクロードのあちこちにラクダの銅像を建てるべきだ!」とまで言っている。


フタコブラクダ