シルクロードのものがたり(63)
羽田から上海までは2時間半の飛行だ。四国沖を西に向かうのかと思っていたら、本州の上空を真西に飛び、広島県尾道市の私の実家の上空を横切っている気配がする。どれどれ、我が家の畑の里芋も成長ぐわいは、と目を凝らしたが、雲があってよく見えなかった。その後、山口県、長崎県の五島列島の上空を通過して上海に到着した。
上海で、北京時間に合わせて1時間時計の針を先に進める。すなわち11時25分を12時25分にした。その後1週間、北西へ、北西へと、飛行機・新幹線・高速バスで長時間移動したのだが、新疆ウイグル自治区でも北京時間を使っているので、新幹線でトルファンの駅に着いたのは夜の9時だったが夕焼けが美しかった。
上海からトランジットで西安に向かう。上海空港から一駅だけ地下鉄に乗り、ローカル線の飛行場に移動する。地元の若い女性が、我々のグループ最年長の84歳の日本人女性に「どうぞ、どうぞ」と席をゆずったのには感心した。地下鉄の中で大声でしゃべる中国人はいない。中国人のマナーは良く、民度が向上している気がする。多くの人が黙ってスマホを見ている姿は日本の地下鉄の光景と同じだ。
16時45分上海発、18時45分西安着の予定だったが、出発が1時間ほど遅れた。それでも西安空港に到着するころに陽が没したので、窓側の席から上海・西安間の景色をじっくりと見ることができた。
機上から中国大陸をながめた印象をひと言でいうと、「大河と湖と巨大運河。そしてそれらを結ぶ小川と小運河」という風景である。大河は長江(揚子江)で巨大運河は隋の煬帝が造ったものだ。農業用水や生活用水として、同時に物資や人間を運ぶ運搬手段として、たくみに河川と運河と湖を活用している。14億の人々を食わせる米・小麦など穀物の生産は、この上手な河川の利用によるのだな、と思った。
秦帝国も漢帝国も黄河と揚子江の治水と活用に力を入れたが、この両大河を結びつける巨大運河を建設し、さらに網の目のような小運河を造り、農業生産と交通の便を飛躍的に向上させたのは隋の煬帝である。
隋という王朝は、初代・文帝(ぶんてい)15年、2代・煬帝(ようだい)14年、計29年と短く、西紀618年に滅びている。しかも煬帝は「中国史上まれにみる淫乱暴虐な君主」として今なお中国での評判はよろしくない。大運河の建設や高句麗との戦争で、何百万人もの人が死んだのもその理由の一つだと思う。
その後、煬帝は都落ちした。部下の将兵や息子・皇后・多数の美女の妃たちを引き連れて、長安から洛陽へ、そして江南の地に移動した。そして、部下の将軍の手によって江南の地で殺されている。
煬帝の最後の光景を、宮崎市定氏はその著書『隋の煬帝』の中で次のように述べている。
煬帝は白刃をつきつけた将軍に向かって言った。
「朕は何の罪があってこのような目にあわされるのか」
将軍は嘲笑って、詰問した。
「陛下は外国に向かって戦争をしかけ、国内では贅沢のかぎり尽くされました。兵士は戦争で命を失い、婦人子供は飢えで死にました。人民は失業し盗賊が蜂起している中に、陛下はおべっかい者の言うことばかりを聞いて、人民の声を聞こうとされませんでした。それでも罪がないとおっしゃるのですか」
煬帝は相手をにらみつけて言った。
「なるほど、おれは人民に対して申し訳ないことをしたと思っている。ところでいったい、今日の首謀者は誰か。会って話をしたいのだ」
「天下の人間すべてが首謀者でしょう。誰といって一人の名前をあげるわけにはいきません」
この問答、公平に見て煬帝の負けであろう。
2013年、上海と南京のほぼ中間の揚州市で煬帝の墓が発見されたという。江南の地だ。父は文帝(ぶんてい)と呼ばれるのに、息子は煬帝(ようだい)と呼ばれているのを不思議に思っていた。帝を漢音では「てい」と読み、呉音では「だい」と読むらしい。仏典と同じく呉音での読み方が日本に伝わったのではあるまいか。
たしかに煬帝は暴君であった。しかし機上から大運河を見ていると、暗君とは呼べないような気がする。
煬帝の死から200年後、日本から空海が入唐する。流着した閩(びん・福建)の浜辺から長安まで、もちろん馬や徒歩で陸路をも進んでいるが、行程の半分以上はこの煬帝が建設した運河と川を利用して、船で進んだといわれている。空海の34年後に入唐した最澄の弟子・円仁もまたこの運河の恩恵を受けている。そして現在でも、中国の人々はこの運河の恵みを受け続けている。
始皇帝が統一した秦帝国の寿命はわずか15年でしかない。その間に、度量衡と貨幣の統一・幹線道路の建設・万里の長城の修復を行っている。それらを土台として、長期の漢帝国が繫栄した。
科挙制度を最初に導入したのは隋王朝である。秦の後、漢が長期にわたって繁栄したのと同じように、唐の長期の繁栄の前に、短い期間ではあったが、隋という帝国の存在は大きな意味があったように思う。
西安の空港で荷物を受け取り、迎えのバスに乗り込んだのは夜の9時半を過ぎていたが、外の気配と我々の腹ぐあいは夜7時ごろという感じがする。すぐに夕食のレストランに向かった。
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西安での夕食 10種類ほどの総菜と共に、左奥にある炒飯・焼きそば・ジャージャー麺を食べる |
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ジャージャー麺はこのような漢字になる(当て字らしいが) |
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西安・咸陽国際空港 |