シルクロードのものがたり(59)
玄奘の最初の幸運
洛陽の浄土寺時代の、興味深い話を紹介したい。
次兄を頼って浄土寺の門を叩いた11歳の玄奘は、少年行者(童行・どうぎょう)という一番初心者の扱いを受けた。これは当然のことである。最初に手にした仏典は『維摩経・ゆいまきょう』と『法華経・ほけきょう』だといわれる。両方とも鳩摩羅什の漢訳と思われる。
しばらくして、「洛陽において27人の官僧を度す」との勅令が煬帝(ようだい)の名で下された。官費の僧になれば、生活費の支給だけでなく兵役や税金も免除される。よってこの時、洛陽周辺の学業優秀な数百人が役所の試験場に殺到した。
齢が足らず、また修行も充分でない玄奘は、役所の公門をくぐることもできない。わびしく、一人で門前にたたずんでいた。この少年に目をとめたのが、この試験の最高責任者である鄭善果(ていせんか)という人である。鄭は少年に声をかける。「どこの家の者か?」、「僧になりたいのか?」、「出家してどうしたいのか?」 少年は臆するふうもなく答える。「遠く如来(にょらい)の教えを継ぎ、近くは遺法をつぎたいと願っております」
これを聞いた鄭はその志に感銘し、またその容貌が賢そうなので、特別にこの少年を合格させることにした。そして部下の試験官たちに言った。「経典の研究は難しいことではないが、人物を得ることは難しい。このような才能ある男は失うべきではない」 少年時代の玄奘の能力を見抜き、彼を引き上げたのである。この一事をもって、鄭善果という人はそれ以降の中国において「名伯楽」と称賛されるようになった。
この幸運な出来事を、どう解釈すればよいのか?
背が高くハンサムで賢そうな少年の風貌に、高官・鄭善果は惹かれたのか。学道に邁進している少年の迫力がその顔つきに表れオーラを発していたのか。これを見て、鄭は少年の能力を見抜いたのか。それとも、単に鄭の気まぐれであったのか。色々なことが私の頭の中をよぎる。
次のような推測は、ロマンがない、現実的すぎる、と多くの人からひんしゅくを買うかも知れない。でも、私の心の内を正直に明かすと次のように思う。「どこの家の者か?」と聞かれた少年は、当然、父と祖父の名前を答えたに違いない。祖父も父も洛陽の有名人であった。この鄭善果という高官は、少年の祖父の陳康(ちんこう)と父の陳慧(ちんえ)の名前と立派な人となりを知っていたのではないか。私にはこのように思えてならない。
「親の七光りも実力、運も実力のうち」という言葉がある。ともあれ玄奘少年は年若くして、あっぱれ官僧になれた。これ以降の玄奘の勉学ぶりは、寝食を忘れるほど凄まじいものであったといわれる。一度講義を聞けばすべてを理解した。衆僧はみな驚き、少年を座に登らせて再度講述をさせた。その講述は読みも解釈も師の教えとまったく変わらなかった。こうして玄奘の名声は、13歳にして洛陽の人々の知るところとなった。
「笈を負う・きゅうをおう」という古くて味わい深い日本語があることを、私は最近になって知った。『史記・蘇秦伝』に源があるらしい。「本箱を背負って旅をすること」「遠く故郷を離れて勉学すること」という意味である。玄奘三蔵だけでなく、中国の昔の名僧たちが背中に重そうな荷物を背負っている絵は今まで何度か見た。「中に何が入っているのだろう?下着や食料かな?」と私は思っていたのだが、これは「書物」であるらしい。ずいぶん重かったに違いない。