シルクロードのものがたり(55)
玄奘三蔵とはどんな人だったのか?
『大唐大慈恩寺(じおんじ)三蔵法師伝』など何冊かの伝記を読みながら、玄奘三蔵とはどのような人だったか想像している。
「大柄で背が高く身体が丈夫。色白で肌はやや赤みをおびたハンサムな人」と記録にある。「人と話すときは相手の目をまっすぐ見て、純粋な人という印象を与えた。話し方はゆっくりと明瞭で、無駄な言葉はなく物静かな人」、「聡明で兄弟仲が良く、明るく親切で優しい人」、「意志が強く行動力があり、語学の才があった。サンスクリット語を含め西域各地の言葉を短期間でおぼえた」、このような記述も残されている。
行動力があるということは、慎重すぎる人ではなかったということだ。言葉を変えれば、多少は軽はずみなところもあった人かと思える。幾多の困難と数えきれないほどの身の危険にも遭遇している。ところが、不思議なことに、絶体絶命の窮地に達するたびに、突然目の前に彼を助けてくれる人が現れる。人は風貌から受ける印象で相手の人物を察知するという。玄奘という人は、初対面の人を惹きつける磁石のような強い魅力を備えていたように思える。
日本の幕末の志士にたとえると、坂本龍馬が私の持つ玄奘のイメージに一番近い。西郷隆盛をもうすこしハンサムにした感じか。私が一番好きな幕末の志士は高杉晋作だが、玄奘のイメージからは遠い。現在の日本人だと、大谷翔平選手をいま少し知的にした感じかな。このように想像している。
玄奘三蔵については、私以上に研究され、多くの知識を持っておられる方が多いと思う。自分なりにこの人を理解して、文章にまとめたいと考えているのだが、「群盲象を評す」の言葉が自分に迫ってくる。象の長い鼻にさわって、あるいはそのシッポに触れて、「これが象ですよ」と述べる箇所があるやも知れない。
じつは私は、小学校にあがる前から玄奘三蔵という名のお坊さまのことを知っていた。といっても、私は寺の子ではない。私の先祖には長寿者が多いのだが、祖父・田頭佐市だけは残念なことに、昭和19年に50歳で亡くなった。村にある曹洞宗の寺・法運寺の住職さまが祖父と仲が良く、頻繁に我が家に来られ祖父の供養をしてくださっていた。「のぶちゃんも一緒にやれ。爺さまの供養になる」と言われて、字も知らないときから和尚様の口元を見ながら、もぐもぐと「般若心経」のまねごとを唱えていたような記憶がある。祖父の思い出話を聞かせてくださったあと、道元さま、玄奘さまの話をしてくださっていた。
「玄奘三蔵のあとを思うべし!」と言うのがこの和尚さまの口癖だった。子供の私にはその意味が分からなかったが、これが『正法眼蔵随聞記』の中にある言葉だと、大学生になって知った。
及川政志という有名な建築家がおられる。画もたくみな人だ。早稲田大学の建築科を出られた方で、私とは高校も大学も異なるのだが、武蔵小金井の金光教東京寮という所で同じ釜の飯を食った間柄である。私は大学1年生の時から、1年先輩のこの人に兄事してきた。それから半世紀、現在でも指導していただいている。ありがたいことだ。「万巻の書を読み万里の道を征く」という言葉がある。及川さんのような人をいうのであろう。
4年ほど前だったか、夕食をご一緒した時「旅行で高昌国に行ってきたよ!」とスケッチブックを見せてくださった。今回この及川さんにお願いして、そのスケッチに色を付けてもらい、この「シルクロードのものがたり」に使わせていただくことにした。
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トルファンの玄奘三蔵像 画 及川政志氏 |