2025年10月27日月曜日

【トルファン】玄奘と高昌国王(3)

 シルクロードのものがたり(78)

後半には次のようにある。

「ときに高昌王・麴文泰の使者が伊吾に滞在していた。彼はこの日、高昌国に帰ろうとしていたが、たまたま法師に会い、帰国して王に報告した。高昌王は即日使者を送り、伊吾王に勅(みことのり)して、法師を高昌へ送るよう命じた。そして上馬数十匹を選び、貴臣を奔走させ、宿舎を整えて出迎えさせた。使者は伊吾にとどまること十余日ばかり、王の心中を述べ、いんぎんに来てくれるよう拝請(はいせい)した」

これから察するに、高昌国王は玄奘に会う前から、ただならぬ決意で玄奘を高昌国に招こうとしていたことがわかる。同時にこの記述から、当時、高昌国が伊吾など周辺の国に対して強い立場でものが言える強国であったことが想像できる。

亀茲国(クチャ)の鳩摩羅什の場合、名僧としてその盛名は、中国の中原の地まで鳴り響いていた。これに比べ、玄奘は優秀な僧とはいえ当時は高名な僧ではない。その若い僧に対して、これほどの関心を寄せた理由は何なのか?

伊吾国から高昌国に帰る使者と、玄奘とのあいだに、どのような問答が交わされたのか。使者は帰国後、高昌王・麴文泰にどのような報告をしたのか。このあたりが、私が一番気になる点である。


これに関するヒントが、偶然に、しかも意外な場所で私に与えられた。ウルムチでの最終日、8月30日、新疆ウイグル自治区博物館のミイラ館を見学したときである。

じつは、私は博物館でのミイラ見学は好きではない。若いころ欧米の博物館を見学したとき、エジプト・中近東などからのミイラが数多く展示されているのを見て、私はとても嫌な思いがした。学術研究かどうか知らないが、墓地で静かに眠っておられる遺体を引きずり出して、それを展示するのは死者に対する冒瀆(ぼうとく)だと思う。欧米人の他の民族に対する思い上がりだと思う。この気持ちは現在も変わらない。しかし、私はミイラ館には絶対行きません、というほどの固い信念もない。この時も、気が進まないまま、ガイドのエイさんのあとに従った。

「この中に、玄奘と手を取り合った、抱き合ったと思われる人物のミイラがあります」とエイさんは言う。「〇〇将軍です。この人は国王がもっとも信頼した将軍で宰相でもありました。玄奘と会った3年後に60歳ぐらいで病気で亡くなりました。玄奘と同じ洛陽出身の人です」

この説明を聞いて、ハッとした。点と点が結びついた気がして、いくつもの想像が頭をよぎった。エイさんはこの将軍の名前を語ってくれたのだが、私はメモする時間がなく、残念ながら名前を失念してしまった。東京に戻って、この将軍の名前を見つけ出そうと試みているのだが、いまだにわからない。ご存じの方がおられたら、ぜひ教えてほしい。





【トルファン】玄奘と高昌国王(2)

 シルクロードのものがたり(77)

高昌国王・麴文泰(きく・ぶんたい)が玄奘に示した好意は尋常ではない。それでも、10日間以上生活を共にして説法を聞き、王が玄奘の人物に惚れ込んだと考えれば、理解できなくもない。

それ以上に私が不思議に思うのは、天山北路を進みインドに向かう決心をしていた玄奘が、なぜ天山南路にあたる高昌国(トルファン)に立ち寄ったかということだ。玄奘が高昌国に立ち寄ることを決めた背景には、とても大きな力が働いたはずだ。それは何なのか?

伊吾(吟密)は、シルクロードの天山北路の入り口に位置する。ここから天山山脈北側のステップ草原を西に進むと、ウルムチ・シーホーズ(石河子)・イリ・トクマク・タシケント・サマルカンドに至る。そしてアフガニスタンのヒンズークシ山脈を越えてインドに入る。天山南路に比べると距離は長くなるものの、気候的にしのぎやすく又安全であることを、玄奘は長安でインドや西域の僧から聞いて知っていた。

天山北路を西に進むために、玉門関から砂漠の中を北進して、苦難の末に伊吾にたどり着いたのだ。玉門関から伊吾まで何日かかったのか、はっきりしない。徒歩だったの半月以上かかったのではあるまいか。伊吾国から高昌国までは馬で六日間、とその伝記にある。

じつは、ヘロドトスも司馬遷も、遊牧騎馬民族のスキタイ人が天山山脈の北側のステップ草原を、ユーラシア大陸を自由に東西に行き来していたことを、その著書に書き残している。シルクロードは大きく分けて3つのルートがある。天山北路・天山南路・西域南道(タクラマカン砂漠の南・崑崙山脈の北側)である。その中で一番北のこのルートが、古来からもっとも安全だと万人が認めるルートだった。


玄奘が伊吾に着いてから高昌国に行く決心をするまでを、慧立は『玄奘三蔵伝』に次のように記している。

「伊吾に着くとある寺に泊まった。寺には中国僧が三人おり、中に一人の老僧がいた。彼は帯も結ばず、はだしで飛び出して出迎え、法師を抱いて泣き、『今日になって、ふたたび中国の人に会えるとは夢にも思わなかった』といった。法師もまた思わずもらい泣きした。伊吾と近辺の胡僧や胡王は、ことごとくやってきて法師に参謁(さんえつ)した。伊吾王は法師を王宮に招き、つぶさに供養した」

前半のこの記述には、「そうだろうなあ」と私にも充分納得でき、その光景が自然に目に浮かぶ。しかし、後半の次の箇所には気になる点が1、2ある。




2025年10月24日金曜日

【トルファン】玄奘と高昌国王

シルクロードのものがたり(76)

玄奘の伝記は、中国でも日本でも、また欧米でも、数多く出版されている。『西遊記』 は小説である。奇想天外なものがたりで事実とはずいぶん異なるが、これも玄奘の行跡からヒントを得て書かれたものであることはご承知の通りだ。

玄奘のすべての伝記の基となり、一番信頼できるものは、慧立(えりゅう)・彦悰(げんそう)著・『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』だといわれている。これは、当然のことなのだ。

玄奘がインドから大量の経典を持ち帰り、長安の浩福寺において(2年後に大慈恩寺に移る)漢語への翻訳に取りかかったのは645年のことだ。スタート時の翻訳チームは10人で、伝記作者の慧立という僧はこのスタートメンバーの一人である。このとき玄奘は43歳、慧立は30歳であった。大慈恩寺に移ったあと、翻訳チームは54人に増え、そのうち僧侶は44人だったという。慧立の没年ははっきりとは分からない。玄奘の没年664年の5年~7年後くらいと思われる。

よって慧立は、玄奘の弟子としてまた翻訳チームの重要人物として、玄奘のすぐ側で20年近く生活を共にしたことになる。慧立という僧名は皇帝・高宗から直接賜ったものといわれるので、この翻訳チームの指導的立場の高僧であったと察せられる。彦悰は慧立の弟子である。

それゆえに『玄奘三蔵伝』は、筆者が本人から何度か取材して、短時間で書いたという薄いものではない。20年近くにわたって、玄奘本人から根掘り葉掘り聞いたことの結晶であると考えてよい。本当かな?と思える箇所がいくつもあるが、ほぼすべて本当のことだと私は考えている。


玄奘が高昌国に入って十余日あと、その人物と識見に惚れ込んだ国王・麴文泰(きく・ぶんたい)は、インドに行かないでこの国に留まってくれと玄奘に懇願する。玄奘はこれを断るが、王は執拗に留まるように説得する。これに対して、玄奘はハンガーストライキを決行する。3日間の断食と断水で、玄奘の体力は急速に衰えてくる。深く恥じ恐れた国王は、頭を地につけて、「師よ、どうか自由に西行してください。どうか早く食事をしてください」と言った。

そして国王は、母親の張太妃(ちょう・たいひ)を立ち合い人として、玄奘と義兄弟の契りを結ぶ儀式を行う。「師よ、帰還のときは、どうかこの国に三年留まって私の供養を受けてください。出発をまげて、あと一か月ここに留まって我々に仏典の講義をしてください。その間に、師のために旅行用の服を作り、旅の準備をいたします」

玄奘は、国王・麴文泰のこの提案を受け入れる。そして、出発の日がやってくる。

慧立はその著書に、次のように記している。

「王は法師のために4人の少年僧を給侍とし、法服30具を作り、また西域は寒いので、面衣(めんい・オーバーコート)・手袋・靴・足袋(たび)などを数個ずつ作った。また黄金一百両・銀銭三万・綾(うすぎぬ)および絹(きぬ)など五百疋(ぴき)を法師の往還20年の経費に充てた。別に馬30匹・苦力(クーリー)25人を支給し、殿中侍御史(でんちゅうぎょし・役人)歓信(かんしん)をつかわし、西突厥(にし・とっけつ・当時の西域の大国)の葉護可汗(ヤブク・カガン)の衙帳(がちょう・西突厥王の居城・現在のカザフスタンにあった)に道案内させた。また24の封書を作り、屈支(クチャ)などの24国にあて、1封書ごとに大綾(たいりょう)一疋(いっぴき)を贈物としてつけた。別に綾絹(あやぎぬ)500疋と果物二車を葉護可汗(ヤブク・カガン)に献上させた」

当時の高昌国は十分な国力・財力があったのであろうが、目を見張るばかりの好意である。

慧立はさらに記している。

「そして、可汗への手紙には、『法師は私の弟です。仏法を婆羅門に求めようとしています。どうか可汗よ、師を憐れむこと私を憐れむようにしてください』と書いてあった。こうして高昌国以西の諸国に勅(みことのり)し、それぞれ駅馬を給し、逓送(ていそう)して次の国まで送るよう要請した」

考えられるかぎりの、至れり尽くせり、の配慮である。



大慈恩寺にある晩年の玄奘像










2025年10月20日月曜日

【トルファン】高昌故城

 シルクロードのものがたり(75)

トルファンは一泊だけなので、盛りだくさんの観光地見学で大忙しだ。特に印象が強かったこの高昌故城と、そのあとのカレーズ(地下水路)での見聞だけをお伝えしたい。

トルファンに関係する歴史上の重要人物は「玄奘三蔵」だと思う。トルファン観光とは少しずれるが、この玄奘についての私の考察を、次の掲載で、数編書き加えたいと考えている。玄奘に関心のない方にはあまり面白くないかもしれないが。

高昌国王・麴文泰(きく・ぶんたい)の玄奘に対する異常なまでの尊敬と好意について、私は何十年も不思議な気持を抱き続けてきた。麴文泰はなぜ、あれほどまでの好意を示したのか。いまひとつ。玄奘がインドから帰国するとき再度この地に立ち寄り、3年間ここに留まるという二人の固い約束は実行されなかった。高昌国が唐に滅ぼされたからである。高昌国はなぜ滅びたのか。

このような疑問を持っていた私にとって、この高昌故城は先の玉門関と並び、今回の旅行の最重要の見学地である。そして、まったくの偶然の出来事により、点と点が結びついた格好で、私の疑問はほぼ解消することができた。そして自分なりの仮説を組み立てることができた。学問的にどれだけの価値があるか分からないが、私としては「歴史の大発見」をしたような気持でいる。これについては、この先で語りたい。

高昌故城は、トルファン市街から東40キロの場所にある。城の周囲は約5キロ、城内の面積は200万平方メートルというから東京ドームの約40倍ほどの広さだ。

この高昌国という国は、6世紀・7世紀になって突如、麴(きく)氏という漢人がつくった国ではない。その歴史は古い。漢の武帝のころ、この地は中国の勢力圏に入った。武帝のひ孫の宣帝の時代、軍人とその家族がこの地に派遣され、いわゆる屯田兵としてこの地域の守備を行うことになる。中原の王朝の勢力が強いときには、彼らは中央の命令に従う軍人である。ところが、王朝が衰退したり他の王朝が取って代わると、彼らは独立した王様として行動し、中央の言いなりにならない。このような形での漢人によるこの地の支配が、「魏・晋・南北朝」の混乱のあいだ400年ほど続いたあと、麴氏・高昌国は140年ほど繁栄することになる。


入城手続きを終えると、ここでも15人乗りくらいの運転手付きカートで城内を移動する。カートが入れない場所は徒歩で歩く。高昌故城の入り口には、玄奘の像が勇ましい姿で建っている。玄奘に敬意を表し、帽子を脱いで写真を撮る。

故城の内部は、砂漠の中に土と煉瓦と石でできた宮殿跡・仏閣跡・住居跡があちこちに見えるといった光景である。英語・漢語・ウイグル語での案内板が見える。玄奘がこの地を訪れたと書いてある。我々日本人は、漢語を読むと8割がた理解できる。

「このお堂で玄奘が説法しました」とエイさんが教えてくれる。広いお堂ではない。30-40人程度が入れるスペースだ。ぎっしり詰めれば50人が入れるかもしれない。「今は上部は崩れていて青い空が見えますが、当時はレンガが積まれた立派な建物でした。音響効果も良く、マイク無しでも玄奘の声は全員にはっきり聞こえたはずです」とエイさんは説明する。

私からエイさんに質問する。「玄奘は中国を出発する前、サンスクリット語を含め西域の言葉を勉強していて、外国語にかなり堪能だったと聞きます。このお堂では何語で説法したのでしょうか?」

「漢語です」とエイさんは断定的に答えた。「当時の高昌国は支配層の漢人が人口の1割を占めていました。ウイグル人でも宮廷に出入りする人は、漢語を不自由なく使えたはずです」とエイさんは説明してくれる。現在のウイグル人もだいたい漢語が話せる。漢語が話せると豊かな生活ができるからだ。千五百年前のウイグル人も日常的に漢語を使っていたように思える。

帰路のカートの中でエイさんが言う。「あれを見てください。あそこが西門です。西門はVIP専用の出入り口です。玄奘があの門からこの城に入ったのは間違いありません」

エイさんの説明を聞いて私は胸が躍った。そして、その時の玄奘の姿を想像してみた。徒歩ではあるまい。馬車でもラクダでもない。玄奘は馬に乗って、この西門から入ったと考える。


城跡を出て、ここに隣接した食堂で西瓜をご馳走になる。私がハミウリに入れ込んでいるのを知っているエイさんは、「あれがハミウリの苗だよ。西瓜やハミウリを食べたお皿を店の人が洗ったあと、ハミウリの種が勝手に芽を出したんだ」と教えてくれる。私が田舎の畑に植えている胡瓜やまくわ瓜の苗とほとんど変わらない。これは、私にとっては貴重な光景だった。


高昌故城入り口にある玄奘の像


故城内部の景色

故城内部の景色

故城内部の景色

ここで玄奘が説法した



高昌故城全体の航空写真

食堂の流し場で見たハミウリの苗

2025年10月17日金曜日

【トルファン】ウイグル料理と胡姫の舞踊

 シルクロードのものがたり(74)

トルファンでのガイドはエイさんという名のウイグル人の男性だ。年のころ40過ぎか。この人が次のウルムチを含め、新疆ウイグル自治区全体を案内してくれる。この人もタバコを吸うのですぐに仲良しになる。エイさんにもライターをもらった。

「中学生のとき、ウルムチに住む日本人に日本語を教えてもらいました。ウルムチの日本語学校に通ったこともありますが、自分の日本語はほぼ独学です」と本人は言う。とても分かりやすい日本語を話す。本人の努力もさることながら、語学の才能があるのだろう。歴史の造詣も深くたいした人物である。

エイさんに案内され、バスでウイグル族の郷土料理のレストランでの夕食に向かう。どんな料理が出てくるのかと身構えていたが、写真に見えるとおり十種類の料理と共に米やナンを食べる。イスラム教徒が多いからであろう、豚肉は出ない。鶏料理が多いかと思っていたが案外少ない。牛肉と羊肉が多い。魚のスープも出るが、当然ながら淡水魚だ。まったく違和感は感じないで、美味しく食べられる。地元名産の赤ワインがサービスで出るが、これも美味しい。

食事が半ばを過ぎると、三人の胡姫が舞台に上がり、音楽とともにダンスをはじめる。三人の胡姫は感じも良く、踊りも上手だが、長い間自分がイメージしていた胡姫と違い、アジア人の顔立ちをしている。


高校時代から愛唱してきた李白の詩、「少年行」の中の胡姫のイメージが頭にしみついていたのかも知れない。

五陵の年少 金市(きんし)の東

銀安白馬 春風を度(わた)る

落花踏み尽くして 何処にか遊ぶ

笑って入る 胡姫(こき)酒肆(しゅし)の中

この詩には、「西域から来た金髪で青い目をした胡姫のいる外人バー」といった感じの解説があった。これにより、胡姫というのは、金髪で青い目をしたイラン系の彫の深い女性だと思い込んでいた。そういえば、ガイドのエイさんも、自分はウイグル族だというが、私から見たら日本人の顔とあまり違わない。

翌日のタバコ時間に、エイさんにこのことを聞いてみる。どうも私の認識が誤っていたようだ。ウイグル族というのは、人種的におおざっぱにいえば、「モンゴロイドとコーカソイド(コーカサス地方に住む原住民)の混血」らしい。これにイランやさらに西方から入ってきた金髪・青い目の人種の血がほんの少し混じっている。よって、町ゆく人の100人に2・3人ぐらいが私のイメージしていた胡人の顔であり、残る大部分は我々日本人の顔に似ている。


3人の胡姫が二曲ほど踊ったあと、我々のテーブルに向かい、男性客に舞台に上がって欲しいと言う。一緒に踊ろうというのだ。だれもが尻込みするなかで、成蹊ヨット部出身のS君はさすがだ。勇んで舞台に上がっていく。アフリカやベトナムでの駐在が長いので、こういう場面に慣れているのかもしれない。S君の踊りは結構上手い。やんやの喝采である。

S君一人では足りない、もう一人か二人上がってくれと、他の胡姫が手と顔でテーブルに向かって合図する。テーブルの男性客はみんな下を向いて目線が合わないようにしている。私も同じように下を向いていた。そうしていたら、一人の胡姫がつかつかと舞台から降りてきて、私の腕をつかんで上がって一緒に踊ろうという。

美人の胡姫にここまでされて、グズグズするのは日本男児として恥ずかしい。私は意を決して舞台に上がる。下手な踊りを二つほどこなしてテーブルに戻ると「良くやった!」とみんなが言ってくれた。踊りの旨い下手ではない。破れかぶれの行動に対してのようだ。

下手な踊りでも、身体を動かして汗をかくと気持ちが良い。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らなにゃ損損」という言葉がある。本当だな、と思った。


トルファン・ウイグル族の郷土料理

胡姫の踊り






2025年10月13日月曜日

中国の新幹線・敦煌からトルファンへ

 シルクロードのものがたり(73)

旅の5日目、8月27日(水曜日)。この日はバスで2時間30分、新幹線で3時間30分と、6時間かけて敦煌からトルファンに移動する。

午前中はホテルから南西に50キロ、バスで1時間弱の西千仏洞に向かう。莫高窟の西にあるのでこう呼ばれている。同じように石窟の中に仏像・仏画がおさめられている。美術品としての価値は莫高窟に劣るといわれるが、川の流れと豊かな樹木の緑が心を癒してくれる。この西千仏洞からさらに西に30キロ進むと、王維の詩に出てくる「陽関・ようかん・南の玉門関」があるが、我々は行かない。玉門関にくらべると保存状態が良くないと聞いた。

その後、敦煌の町に戻り、夜光杯を売る店に案内される。「葡萄の美酒 夜光の杯」という王翰(おうかん)の有名な詩がある。よって、ここで買うのはワイングラスが似合うのだが、私には自宅でワインを飲む習慣がない。しかも2つセットで数万円と高い。原石から一つ一つ手作りするので、値段が高いらしい。純米酒を冷で飲むとき使おうと思い、ぐいのみを一つ買う。2杯で1合といった感じの大きさで、1万円だ。

このあとバスで2時間30分かけて、敦煌の町中から新幹線の柳園南駅に移動する。ガイドブックには敦煌の人口は14万人とある。2日間この街をウロウロした私の直感では、もう少し人口が多い気がするのだが。


敦煌はオアシスの町なので、町の周辺には畑があり果樹園がある。バスの中から目を凝らして見ていると、一番多いのは葡萄畑だ。「ハミウリ畑は?ハミウリ畑は?」とキョロキョロするのだが、なかなか見つからない。「あれがハミウリ畑だよ」と余さんが言うので、あわててスマホを取り出すが、その時はすでにハミウリ畑は過ぎ去っている。葡萄以外で目に付く農作物は、小麦と綿(わた)だ。樹木で一番多いのはポプラの木だ。あれは桑(くわ)の木です、と余さんが言うのを2度ほど聞いた。

ただし、町中から30分も走ると、あたりの景色はまた砂漠一色に変わる。玄奘が突然あらわれた僧にもらった梨をかじりながら、成都で助けたインド人の病僧がくれたサンスクリット語の般若心経、「ガテー・ガテー・パーラガテー・パーラサンガテー・ボーディ・スヴァーハー」を唱えながら、この砂漠の中を一人で北に向かった姿を想像する。


中国の新幹線は思ったより乗り心地が良い。でも、私が広島県に帰るとき毎月乗る「のぞみ号」に比べるとスピードが遅い気がする。添乗員のOさんがくれた列車案内を見ると、柳園南駅から吐魯番(トルファン)北駅までの乗車時間は3時間33分とある。距離は633キロだから、スピードは時速180キロとなる。のぞみ号は260-270キロだから遅く感じるのは当然だ。中国の新幹線に一抹の不安を持っている私は、あまりスピードを出さないで欲しいと思っていたので、これくらいがちょうどいいやと思った。

柳園南駅と吐魯番(トルファン)北駅のほぼ中間に哈密(ハミ)駅がある。「停車時間はたった2分間ですから、ホームには絶対に降りないでください」と添乗員のOさんは大声で注意するのだが、そうはいかない。ハミウリの哈密である。同時に、玄奘が苦難の末にたどり着いた場所が、この哈密の近くの伊吾(イゴ)なのだから。ホームに降りて、急いで写真を撮る。

予定通り20時45分にトルファン駅に到着する。荷物を受け取り、駅の改札を出たのはちょうど21時だ。外の夕焼けがとても美しい。


柳園南駅

新幹線の乗車案内

時刻表
これらは普通列車の寝台車
2日も3日もかかる鉄道の旅だ
広道なので新幹線と同じレールを使っているようだ

中国の新幹線

哈密駅

トルファン北駅

夜9時のチャイムと同時にネオンが灯った



2025年10月10日金曜日

【敦煌】玉門関と漢長城跡

 シルクロードのものがたり(72)

白馬塔の見学を終え、玉門関に向かう。いよいよ玉門関かと思うと、少し緊張する。鳴沙山・莫高窟・白馬塔は敦煌の市街地の南15-20キロに位置し、この3つは互いに近い。これに比べ、玉門関は市街地から北西100キロの場所にあり、バスで1時間半かかる。漢長城跡は玉門関のとなり合わせだ。

砂漠の一本道をバスは80キロのスピードで走る。砂漠だけの景色もあれば、時に緑の草が見える。円形にかたまった草を指し、「あれはラクダ草です。ラクダだけでなく馬やロバも好物です」と余さんが教えてくれる。もう一種類、別の植物が見える。私には笹(ささ)に見えたが、「葦(あし)の一種です。私が子供の頃はあれでほうきを作っていました」と余さん。

玉門関の遺跡の前に立つと、とても緊張する。目の前にある遺跡は漢の武帝のころに造られたものだという。その歴史の重みが、私に強い圧迫感を与える。

玄奘はどのあたりで、夜の闇にかくれて水を飲んだのであろうか。兵士に見つかり隊長の前に連行された。中国は文字の国・歴史の国だ。この隊長さんの名前が残っている。王祥(おう・しょう)という人だ。立派な人物であった。王祥は部下に水と食料(ナン)を用意させ、みずから十里ばかり玄奘を見送ってくれた。そして別れるときこう言った。「第二・第三の烽(ほう)には近寄らないで、この道をまっすぐ第四烽(ほう)にむかってください。第四烽の人は心正しい人物です。彼は私の一族の者で、姓は王、名は伯隴(はくりゅう)といいます。私の名前を言ってください」

玄奘のインドへの旅の途中、このような第三者の善意・好意によって助けられる場面が、いくつも、いくつも、出てくる。人はこれを幸運という言葉で表現するかもしれない。私はそうは思わない。玄奘の持つ熱意と、清らかな魂が、出会う人々をして、この人を助けたいと思う気持ちにさせたような気がしてならない。

玄奘だけではない。過去何千年のあいだ、この玉門関において、幾千・幾万の喜びと悲しみのものがたりが展開されてきたかと思うと、しばらくのあいだ、私は無口になってしまった。

漢長城跡は、ひと言でいえば、玉門関を取り囲む土塀だ。壁の強度を高めるため、土と土のあいだに藁(わら)・葦(あし)・柳の枝を入れて、上から槌(つち)で何度も何度も叩いて固めてある。雨が極度に少なく、地震もないからだろう。2100年前のものが、そのままの形で見える。これを造った兵士たちの姿が見え、その声が聞こえるような気がする。あの張騫(ちょうけん)も、あの李広・李陵も、そしてあの蘇武(そぶ)も、この土塀を見たに違いない。


バスの出発前のトイレタイム、灰皿の前で余さんが少年時代の思い出を語ってくれる。余さんは敦煌郊外の農家の生まれだという。

「子供の頃の私の役目は、さっきバスから見えたラクダ草と葦(あし)を集めることでした。ラクダ草は馬とロバの餌で、葦はほうきを作る材料です。それ以外にもこの二つの草はとても貴重です。乾かして燃料にします。湯を沸かしたり料理に使います。この二つの草を、私の村では親は『宝草・たからぐさ』と子供たちに教えていました。ラクダや馬・ロバのフンも集めました。これらも乾燥させて燃料にします。この辺りは木が少ないのです」

48歳の余さんの少年時代といえば、たった40年前である。文化大革命は終わり、鄧小平の「改革開放」はすでに始まっていた。そのような時、甘粛省の北西端の敦煌の農村の生活はこのようなものであったことを知り、中国の経済発展はごくごく最近の出来事なのだと改めて認識した。

この晩の敦煌での夕食は日本料理だった。鯖(さば)の塩焼き定食で、脂の乗りが少ない気はしたが、酢の物・漬物・茶碗蒸し・味噌汁が美味しかった。経営者は日本人ではなく現地の人だ。「日本酒もあるよ」と言ってくれたが、値段が3倍くらいするし、何よりも外国に輸出する日本酒には大量の防腐剤が入っている。酒は地元のものを飲むにかぎる。地元のビールを注文する。とても美味しい。


玉門関
左はヨット部のS君


玉門関

建物の内部

漢長城跡

漢長城の土塀
土の間に藁や葦が見える

呆然と立ちすくむ田頭

唐代の役人の姿をした観光局の人

2025年10月6日月曜日

【敦煌】白馬塔と梨の果樹園

 シルクロードのものがたり(71)

莫高窟での感激が大きかっただけに、直後の白馬塔見学は付け足しの気がして、さほど期待はしていなかった。ところが、この白馬塔見学は、今まで私の頭の中でモヤモヤしていたことの二つを、すっきりと解消してくれた。

余さんは次のように話してくれる。

「鳩摩羅什は亀茲国(きじこく・クチャ)から中国の中原に向かう途中、敦煌で何日か休息しました。ある夜、夢をみました。自分が今まで乗ってきた白馬が夢に出てきて言うのです。 ”私は今まであなたをお守りしてここまでたどり着きました。ここまで来ればもう安心です。私は自分のやるべき勤めをはたしました” そう言って白馬は消えてしまった。不安に思った鳩摩羅什は、すぐに厩舎(きゅうしゃ)にかけつけました。馬はすでに死んでいました。地元の人々もこれを悲しみ、白馬をここに埋葬して塔を建てました。その後、何度も改修され現在の塔は清代に造られたものです。直径7メートル、高さは12メートルです」

鳩摩羅什は自国の敗北後、将軍・呂光に捕らえられ中国に連行される。385年のことだ。皇帝・符堅(ふけん)から「高僧・鳩摩羅什を連れて帰れ」と命令されていたので、手荒な扱いはしていないと思ってはいたが、この話から、将軍・呂光が鳩摩羅什に対して礼を尽くして丁寧に対応していたことが確認でき、とても嬉しく思った。

「この白馬塔の周りを、男性は右まわりに女性は左まわりに、3回まわると願い事が叶うといわれています」と余さんが教えてくれる。ツアー仲間の多くは3回まわっていたが、距離もあり、しかも直射日光が暑い。私には特に願い事はないので、右まわりで1回だけまわった。

白馬塔の手前に回廊(かいろう)があり、朱色の柱が何本も立っていて、それぞれの柱に鳩摩羅什が翻訳した「般若心経」が漢字で書いてある。スマホで撮ったのだが、ハンドルミスで消えてしまった。玄奘の訳とはかなり異なる。冒頭部分の玄奘訳は「観自在菩薩・かんじざいぼさつ」とあるが、鳩摩羅什の訳は「観自音菩薩・かんじおんぼさつ」と書いてあった。

白馬塔の敷地のとなりに果樹園がある。青い実がいっぱい見える。熟す前のリンゴではないかと思った。余さんに聞くと、「梨です。このあたり一帯は梨の名産地です」と答えてくれる。これでひらめいた。「そうなんだ!」と私は一人で合点して、思わず笑みが浮かんだ。


というのは、玄奘三蔵から直接指導を受けた日本人僧・道照(どうしょう)が残した言葉が真実だとわかったからだ。この話は『続日本紀・しょくにほんぎ』の最初あたりに記されている。文武天皇四年(700年)三月二十七日に道照が72歳で亡くなったときの、大和朝廷の行政日誌である。一部を引用する。

「道照は孝徳(こうとく)天皇の白雉四年(654年)に遣唐使(注・第二次)に随行して入唐した。ちょうど玄奘三蔵に会い、師と仰いで業を授けられた。三蔵は道照を特に可愛がって同じ部屋に住まわせた。ある時、次のように言った。『私が昔、西域に旅した時、道中飢えで苦しんだが、食を乞うところもなかった。そのとき突然一人の僧が現れ、手にもっていた梨の実を、私に与えて食わせてくれた。私はその梨を食べてから、気力が日々健やかになった。お前はあのとき私に梨を与えてくれた法師にそっくりである』と」

玄奘の天竺への旅で一番苦しかったのは、玉門関から伊吾国(イゴ・哈密の近く)の間であったと考えている。よって、この梨の話には合点がいく。別に疑ってはいなかったけれど、敦煌やトルファン(高昌国)あたりの果物は、ザクロ・葡萄・ハミウリなどが有名で、梨がよくできるとは思っていなかった。この梨の果樹園を見て、そして余さんの説明を聞いて、玄奘と道照の二人の高僧の言葉が真実であったと認識した。

この白馬塔でもバスの出発前にトイレ時間がある。早々とトイレをすませて、わきにある灰皿の前で余さんとおしゃべりをする。ここで余さんは、鳩摩羅什と玄奘の般若心経の違いを次のように解説してくれた。この二人の高僧の年齢差は268歳で、鳩摩羅什が先輩である。両者ともサンスクリット語を漢語に翻訳した。

「どちらが優れているかというのは難しい問題で、私にはわかりません。鳩摩羅什の父親はインドの貴族で、母親は亀茲国(クチャ)の王様の妹です。9歳のときインド北部のカシミールに留学しています。よって彼はインド哲学を充分に理解した上で、サンスクリット文字の内容を正確に漢語に訳しています。これにくらべ、玄奘のものは、できるだけ中国人が理解しやすいようにと配慮して、かなり意訳されている、といわれています」

いってみれば、鳩摩羅什の般若心経は「直訳」で、玄奘のものは「意訳」ということらしい。我々日本人が日頃使っている般若心経は、すべて玄奘の訳したものである。玄奘の愛弟子である法相宗の道照からの流れであろう。中国では現在どちらの般若心経が使われているのかは聞きそびれたが、たぶん玄奘のものではないかと思う。


中華人民共和国が成立して以降、中国では仏教はすたれていると私は思っていた。しかし、この余さんにしても、莫高窟研究員の王さんにしても、仕事柄とはいえ、仏教についての知識を豊富に持っておられたのには驚いた。

私が手に持っている小型バックの中に、たまたま般若心経を一枚入れてあるのを思い出した。それを取り出し、漢字で書かれた262文字の般若心経を余さんに見せた。

余さんは驚いた顔で、「日本人はこれが読めるのか?日本人はいつも般若心経を持ち歩いているのか?」と聞く。私は郷里の広島県に帰ると、仏壇で般若心経を何十年も唱えているのでだいた覚えている。「かんじーざいぼーさつ ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー しょうけんごーおんかいくう、、、、、」とそらで、三分の一ほど、このお経を唱えてみせた。

余さんはびっくり顔で、「すごい、すごい。日本人はみんな般若心経を暗唱しているのか?」と聞く。「そうですよ」と答えて、日本人の民度の高いことを誇示しようかとも思ったが、嘘はいけない。「いいえ。寺のお坊さま以外で般若心経を暗唱している人は、私みたいな変わり者だけですよ。普通の人はやりません」と答える。余さんはホッとしたような顔をしていた。

西安の高さん、敦煌の余さんとの会話の中で、数多く出た中国人の歴史上の人物の名前は、秦の始皇帝・漢の武帝・張騫・則天武后、そして僧では鳩摩羅什・玄奘であった。私の好きな李広・李陵、そして僧・法顕(ほっけん)の名前は出なかった。

余さんが、「現在、中国の高校の歴史の教科書で、唐代に出てくる日本人の名前は3人です」と教えてくれる。阿倍仲麻呂(晁衡)、吉備真備、空海だそうだ。これには納得できる。


白馬塔


敦煌の梨畑








2025年10月2日木曜日

【敦煌】莫高窟(ばっこうくつ)

 シルクロードのものがたり(70)

敦煌という文字には「おおいに盛んなり」という意味があるそうだ。砂漠の都なので昔から沙州(さしゅう)とも呼ばれている。

敦煌が前秦・符堅(ふけん)の支配下にあった西紀366年ごろ、西方から来た楽僔(らくそん)という僧が、鳴沙山の東の断崖に洞窟を掘り仏塑像(そぞう)を安置した。これが莫高窟美術のはじまりだという。この楽僔という人はインド人だったと思われる。

同じ頃、亀茲国(きじこく・庫車・クチャ)の若き高僧・鳩摩羅什(くまらじゅう)は符堅の部下の将軍・呂光の捕虜となり、この敦煌を経由して、武威(ぶい)・長安へと連行されている。この二人の異国の僧は西方から中国に仏教を伝えた。同じころ、私の大好きな中国人僧・法顕(ほっけん)は、長安を出発して敦煌を経由しシルクロードを西に進み、インドで仏教を学んだ。

この三人の僧が、どこかで出会ったということは史書には残されていない。多分出会ってはいないだろう。しかし、ほぼ同じ時期に、この三人の僧が敦煌の景色を見ながら敦煌の空気を吸ったことを想像すると、えもいえぬ感動が私の胸に湧いてくる。

その後、元の時代に至るまでの千年間、修行僧・仏師の手によって洞窟での仏教美術の制作が続けられ、現在でも492窟にその作品が残っている。西方のカシュガル(喀仕)・クチャ(庫車・亀茲国)・ホータン(和田)の仏教美術品はイスラム教徒によって徹底的に破壊された。それに比べ、この莫高窟の仏教美術品が残ったのは、この地が漢族・チベット族・蒙古族によって支配されイスラムの侵入を防いだからである。

しかし、この莫高窟にも文化財の破壊や持ち出しの苦難の時代があった。19世紀後半から20世紀前半にかけての、欧州列強の探検隊による発掘と文化財の持ち出しである。英国のオーレル・スタイン、仏国のポール・ペリオ、スエーデンのスウェン・ヘディンらが有名である。大谷探検隊という日本人の名前も出てくる。浄土真宗本願寺派法主の大谷光瑞が指揮した探検隊である。

彼らは、この地に勝手に侵入して物品を奪い去ったというわけではない。清朝政府の了解のもとに、仏像や経典を管理する寺の住職に代価を払って購入している。ただ今日の感覚からすれば、弱体化した清朝政府の弱みにつけこみ、不当に安い代価をもって貴重な文化財を奪いとったという印象はぬぐえない。

ごく最近にも、敦煌・莫高窟の危機があった。文化大革命である。多数の紅衛兵がこの地に押し寄せて仏教遺跡を破壊しようとした。「紅衛兵を絶対に敦煌に入れるな」と人民解放軍に指示して、これを防いだのは宰相・周恩来だと聞いた。


男性ガイドの余さんが8つの洞窟を案内してくれる。わかりやすい説明で、それぞれの仏像や仏画も美しく感激する。ただし、この莫高窟内部はすべて写真撮影は禁止されている。特に美術価値の高い重要窟には昼間でも鍵がかかっていて、余さんは案内できない。

4つの重要窟を案内してくれたのは、敦煌研究院の研究員、王(おう)さんだ。王さんは35・6歳の美しい女性で、知的で人柄も良い。機転が利くというか、打てば響くといった感じの会話のやりとりが心地よい。「王さんは美人ですね。まるで楊貴妃みたいです」と私が言うと、睨み顔で「楊貴妃を見たこともないくせに!」と言って、あとでにっこりと笑う。

4つの重要窟を案内してもらった。その中の第45窟は、492窟あるなかで一番価値の高い最重要美術品だという。中央に釈迦の像があり、こちらから見て釈迦の左に弟子の阿難(あなん)、右に同じく弟子の迦葉(かしょう)の像が立っている。そのとなりには一体つ”つ、健康美あふれる菩薩像が立つ。その両外側には一体つ”つ、鬼を踏みつけている勇ましい武人の像が見える。盛唐を代表する第一級の塑像(そぞう)だそうだ。仏教美術に素人の私にも、これが素晴らしい作品だということがわかる。

「修復や、休館などで、この第45窟を見学するのはとても難しいのです。みなさんは幸運です」と王さんは言う。井上靖は、「第45窟を頂点とする唐代の諸像こそ、日本の白鳳・天平の仏たちの原流ではないかと思われる」と語っている。

王さんは中国の大学で歴史を専攻し、その後、東京の成城大学に留学したとおっしゃる。「王さん、私は敦煌がとても気に入りました。日本からここに移住して仏教修行をしようかと思います。その時は、週2-3回、王さんの助手で日本人観光客相手にガイドのアルバイトをしたいと思います」

こう言うと、「それは良い考えですね!」とにっこりと笑う。美人の王さんの写真を撮り忘れたのは、今回のシルクロード旅行での最大の不覚である。

莫高窟

莫高窟から見た外の景色
樹木はポプラ


ヨット部のS君は砂塵でくしゃみが出るらしい

2025年9月29日月曜日

【敦煌】敦煌のハミウリは旨い!

シルクロードのものがたり(69)

今回のツアーは少しだけ値段の高いものを選んだ。西安のホテルも立派で部屋も広い。一人一部屋なので快適だ。ホテルの朝食を含め、外のレストランでの昼食・夕食も美味しい。ただ食後にデザートとして出る、西瓜はそれなりに美味なのだが、ハミウリの味がよくない。

私にすれば唯一、これが面白くない。

日本から同行したベテラン添乗員のO女史にこれを言うと、「こんなもんじゃありませんか」と答える。そんなことはない。若い頃、香港で食べたハミウリはこんな味ではなかった。もっと美味しかった。しかも8月のツアーを選んだのは、ハミウリが一番旨い時期と知っての上だ。司馬遼太郎も陳舜臣も、あちこちに感激の気持ちを込めて「ハミウリの旨さ」を語っている。こんななさけないハミウリを食べて日本に帰ることになれば、私としては男が立たない。

私がハミウリに異常な執着心を持っているのを察したOさんは、助け舟を出してくれる。
「この前の仕事で敦煌に行ったとき、お客様を連れてバザールに行きました。ハミウリを売っている果物屋が数軒ありました。あそこに行けば美味しいハミウリがあるかも知れません」

親切な提案に感謝して、「よろしくお願いします」と答えたのだが、内心では大きな期待はしていなかった。「敦煌は中国の北西端に位置するが、中国本土である甘粛(かんしゅく)省にある。旨いハミウリは、やはり本場の新疆ウイグル自治区のトルファン・ウルムチに行かなければ食べることができないのではないか」と勝手に想像していた。


砂漠見物のあと外のレストランで夕食を終え、ホテルにチェックインする。敦煌のホテルも立派だ。各人は部屋でシャワーを浴び、ほぼ全員でホテルから徒歩5分のバザールに向かったのは夜の10時を過ぎていた。でも、敦煌の夏の日没は夜9時過ぎなので、「これからが涼しいバザールのはじまり」といった感じで、観光客の数がとても多い。300ほどの店が並び大変な賑わいだ。

入り口から4-5軒目に大きな果物屋がある。ここで買おうと思ったが、余さんが、「そんなにセカセカしないで、全体を一回り見物したあとでいいのでは」と言う。もっともだと思い、40分ほど数軒の果物屋を含めてバザール全体を見て歩く。

結局、最初の果物屋で買うことにする。一番大きいよく熟した8キロのハミウリを、Oさんに交渉してもらい75元で買う。1500円だから安いものだ。果物屋の主人はその場で切って、大型のプラスチック容器2つに山盛りにして、竹の串を10本つ"つ付けてくれる。容器に入りきらない10片ほどはここで食ってくれと言う。

その場に居合わせた仲間数人で、2切れつ”つ立ったまま食べる。素晴らしく旨い。「旨い!旨い!」の歓声がみんなからあがる。容器一つでも我々3人で食べきるのはむずかしい。「ほかの方々にも食べてもらってください」ともう一つの容器を添乗員のOさんに渡す。

ホテルに戻ると、果物屋に寄らなかったツアー仲間の数人が、ロビーに座って休んでいる。その場で食べてもらった。「旨い!旨い!」と皆さん大変喜んでくださる。
この美味しいハミウリとの出会いで、私は敦煌がいっぺんに好きになってしまった。

これに味をしめて、「トルファンでもウルムチでもハミウリを丸ごと買って食べるぞ!」と意気込んでいたのだが、いずれの地でも、食後に出るハミウリが大量でしかも美味しい。丸ごとハミウリの購入は敦煌だけで終わった。

敦煌のハミウリ

果物屋のご主人


仲良しになった

果物は豊富だ

パパイアもある

ロビーで仲間の皆様に食べてもらった

2025年9月26日金曜日

【敦煌】鳴沙山(めいさざん)と月牙泉(げっかせん)

 シルクロードのものがたり(68)

西安から敦煌までの飛行は2時間弱だが、出発が少し遅れたので、敦煌空港に着いたのは午後3時を過ぎていた。迎えのバスですぐに鳴沙山に向かう。日没は夜の9時ごろなので時間は充分ある。驚いたのは、空港を出てバスに乗ろうとしたら雨が降っている。パラパラであるが、敦煌の雨は珍しい。20分ほどでやんだ。

鳴沙山は、東西40キロ、南北20キロの砂漠のはしっこにある。空港から15分ぐらいでずいぶん近い。あまりにも突然、「月の砂漠をはるばると、、、」の世界が眼前に現れたのでびっくりする。

月牙泉は鳴沙山の谷あいに湧く三日月形の泉(オアシス)で、漢の時代から今に至るまで一度も枯れたことがないという。縦200メートル、幅は広いところで50メートル、深さは平均5メートルだそうだ。「魚もいるよ」とガイドさんが言う。

敦煌でのガイドは余(よ)さんという漢人で、48歳の男性だ。大柄でゆったりとした言動の人で、中国の「大人・たいじん」といった雰囲気の人だ。余さんとはすぐに仲良しになる。共に喫煙者だということに理由がある。今回中国を旅行して驚いたのは、飛行機・新幹線に乗るたびに危険物ということでライターを取り上げられた。とても厳重にチェックをする。

よって、次の町に着くと同時に「ライターはどこで買えるの?」とガイドさんに聞くことになる。空港を出て余さんにこれを聞く。余さんはポケットからライターを取り出し、「これをやるよ」と言う。西安で買い物をしておつりをもらっていたので、10元札が数枚ある。一枚を渡そうとすると、「いいよ、いいよ。カバンの中にもう1個あるから」と笑って受け取らない。「謝謝、謝謝!」と二度言って頭をペコリとさげる。これで二人の間には、一種の友情らしき感情が芽生える。

喫煙者は世界中どこでも、軽蔑され虐げられていて、絶滅寸前の少数人種になりつつある。タバコを吸うというだけで、お互いが親近感を持つということがどの国でもあるようだ。種の保存という動物の本能が、互いに助け合おうという気持ちにさせるのであろうか。


中国のどこの観光地でも、バスを降りたあと入園・入館のゲートで顔写真を撮り、ものものしくチェックする。そこから目的の地点まで数百メートル、1-2キロの距離があることが多い。昔は歩いたようだが、今は電動のカートで移動する。15-20人が乗れ運転手もいる。この鳴沙山観光もそのスタイルだ。オレンジ色の綿製品の靴カバーを余さんがみんなに配っている。25元のレンタルで、靴の中に砂が入らないようにこれで靴を覆う。

鳴沙山は60-70メートルの高さで、登りやすいように、ワイヤーと木板で簡易階段がつくられている。みんなが一列になって、ワッセ・ワッセと登っている。楽ではないが、今年の4月からスポーツジムで体を鍛えているのでそれほど辛くはない。

頂上に到着すると、微風が吹いてとても涼しい。見晴らしも良く、月牙泉の泉の周辺だけにある樹木の緑が、砂だらけの景色の中でひときわ美しく見える。玄奘だけではない。古来から何千年のあいだシルクロードの砂漠をラクダと共に歩いた旅人たちが、目的地のオアシスにたどり着き、緑輝く樹木を見たときの感激がどれほどのものであったか、想像できる。

砂だらけの鳴沙山を降りるとき、砂の中にスマホが落ちているのを見つけた。古いものではない。今日か昨日の落し物らしい。中国語の画面が見える。山から下りて余さんに渡した。「ほう、良いことをしましたね。落とした人は喜ぶでしょう」そう言って、余さんは管理事務所に届けた。

砂山から降りて、ラクダに乗ろうと思った。100元(二千円)払えば30分ほど乗せてくれる。ところが、「今年から65歳以上の人は乗れないという規則ができた」と余さんが言う。なんでも、今年の春ごろ北京から来た60代後半の男性観光客が、ラクダから落ちて大怪我をしたのだという。「田頭さんは若く見えるから64歳と言ってもよいのだが、パスポートを見せろというから無理だな」と言う。

若い頃、タイで象に乗ったことがある。今回ラクダに乗るのを楽しみにしていたので、誠に残念であった。

敦煌の砂漠にも楊貴妃が何人もいた




お揃いの靴カバーをして砂山に登る

左の三日月形が月牙泉

ラクダには乗れなかった


2025年9月24日水曜日

【西安】西大門

シルクロードのものがたり(67)

 西安に2泊して8月25日(月曜)、12時25分発の飛行機で敦煌に向かう予定だ。西安・敦煌・ウルムチは同じホテルに2泊、トルファンと最終日の上海は1泊だ。同じホテルに連泊するのは、何かにつけて便利で好都合だ。手洗いした下着や靴下がよく乾いて気分が良い。

西安の町の花はザクロ、木はアカシアだと聞く。これからしても、ここが乾燥した土地であることがわかる。中心部の人口は800万人、郊外を含めると1300万人というから大きな町だ。地形は地図でわかる通り盆地である。盆地だが海抜400-700メートルで乾燥しているので、東京や上海の蒸し暑さに慣れている我々には、かなり涼しく感じる。

飛行機の出発までには時間があるので、バスで最後の見学地である西大門に向かう。ここがシルクロードへの出発点である。

唐の時代、西域に向かう軍人・役人・商人たちを見送るために、家族や友人は西安から40キロ北西にある咸陽まで同行するのが慣習だったそうだ。歩いていくのは大変だな、と思ったが、旅人の多くは上級の軍人・役人・富豪の商人だったので、家族や友人たちもいわば富裕層である。馬車や馬で移動したようだ。

彼らは咸陽に一泊か二泊して、酒盛りをして旅人を見送る。咸陽は渭城(いじょう)ともいう。王維の「渭城の朝雨 軽塵を浥し」のあの渭城である。この「元二の安西に使いするを送る」の詩のはなしは、以前このブログのどこかで一度紹介している。機会があれば、どこかでもう一度整理・加筆してこれをお話ししたいと考えている。この詩を深く掘り下げて考えると、中国・日本の古代史が理解しやすい気がする。


高さんに案内され、西門の城壁に登る。城壁の上は思っていた以上に幅が広く、しかも頑強に造られている。れんがと石でできた現在のものは、明の洪武帝の頃(1370年頃)に築かれ、その後しばしば修復されているそうだ。

「少し傾いているのがわかりますか?」と高さんが聞く。言われてみれば、そうかなと感じる。雨が少ない土地なので、ほんの少し傾斜をつけておき、降った貴重な雨水を城壁の内側に流れるようにしている。あとで写真を見ると、たしかに右側に排水溝が見える。

守備隊の兵士は何百メートルかごとに複数名配置され、昼夜を問わず見張りを続けたという。兵士が宿泊するための巨大な宿舎が城門の上に造られている。将校の宿舎は近くに別棟がある。次の交代者が来るまで、将兵はこの城門の上で何か月も生活したようである。

西大門の見学を終え、バスで空港に向かう。空港内にある韓国料理店でビビンバとキムチを食べるが、これがとても美味しい。

右側が少し傾いていて排水溝が見える


兵士の宿舎
将校の宿舎は写真の左後にある

西大門 
画 及川政志氏

2025年9月18日木曜日

【西安】大慈恩寺・大雁塔と青龍寺

 シルクロードのものがたり(66)

咸陽で兵馬俑を見学したあと、ふたたびバスで西安市に戻り、西安中心部にある大慈恩寺(だいじおんじ)に向かう。

もとは隋代に建立された寺だが、隋末期の戦乱で焼失したあと、唐の三代皇帝・高宗が母親の文徳皇后を供養するために再建したという。647年のことだ。

玄奘が密出国から16年を経てインドから大量の経典を長安に持ち帰ったのは645年、二代皇帝・太宗の晩年である。日本では大化改新の年だ。当初、玄奘は浩福寺という寺で翻訳事業を開始したが、この事業の拠点は完成したばかりのこの大慈恩寺に移された。その後、高宗の肝いりで、大量のサンスクリット語の経典や仏像を保存するために建てられたのが大雁塔(だいがんとう)である。唐代、この寺の敷地は現在の7倍の広さだったという。

大雁塔は64メートルの高さで、てっぺんまで登れば西安市を一望できるとガイドの高さんは言う。唐代に建立されたものはインド風の丸型の五層の仏塔だったが、明代に現在の姿の四角七層に造り直されたとも教えてくれる。

陸上部のY君とヨット部のS君は共に健脚だ。てっぺんまで登るという。私は足がだるかったので、「二人を下から仰ぎ見ているよ」と言って、木陰にある喫煙所でタバコを吸いながら二人が降りてくるのを待った。それでもこの夜スマホを覗いたら、この日、2万歩あるいていた。

そのあと、近くの青龍寺にバスで移動する。

空海ゆかりの寺である。

空海は師匠の恵果(えか)から、短期間で密教の秘法を伝授された。恵果が何十人もの中国人の高弟子たちを飛び越えて、空海を自分の後継者に決める感動的なものがたりを肌で感じるには、司馬遼太郎の『空海の風景』を読むのが一番早い。805年のことである。

じつは、天台三代座主・円仁(えんにん)も五代座主・円珍(えんちん)も、この青龍寺で学んでいる。円仁がここで学んだのは840年頃で、空海はその5年前に高野山で没している。円珍は四国の讃岐の豪族・佐伯氏の生まれである。空海の甥(おい)、もしくは姪(めい)の息子といわれている。円珍という人は面白い人で、親戚である空海の高野山に赴かず、そのライバル最澄の比叡山に学んでいる。いわば福沢諭吉の甥が慶応にいかないで早稲田で勉強したようなものだ。円珍がここで学んだのは850年ごろである。

円仁・円珍がこの青龍寺に来山したとき、恵果から空海と一緒に教えを受けた中国人僧は、すでに老僧となっていたが、まだ何人もこの寺に残っていた。二人の日本人僧は、空海の伝説的な成功物語を、空海を直接見た青龍寺の中国人の老僧から聞いたにちがいない。

じつはこの青龍寺は千年間近く、廃墟となり地上から消えていた。唐末期から宋代にかけて、中国では仏教は衰退していく。円仁・円珍の入唐のころから廃仏運動のきざしがあり、その後この運動は長く続いた。北宋の元佑元年(西紀1086)以降、この寺は次第に荒廃し、ついに仏閣は地上から消えてしまった。

この青龍寺が再度建立されたのは、じつに、1980年代に入ってからである。仏閣と同時に恵果・空海記念堂が建立され、また空海記念碑が造られた。「これらの費用の多くを、日本の四国の八十八のお寺さんが寄進してくださったのです」と高さんが教えてくれる。高野山金剛峰寺も多額の寄進をしたに違いない。西安市と四国四県は現在でも定期的な交流が行われているそうだ。

このような背景から、青龍寺では日本人にとても親切にしてくださる。我々もお茶をご馳走になり、「参拝弘法大師修行古刹・青龍寺」と書いた御朱印をプレゼントしていただいた。日本で使っている仏閣用の朱印帳を持参していたので、開いてお願いしたら、達筆で「青龍寺」と書いてくださった。こちらには、日本と同じくらい500円程度お礼をした。

両方に「第0番札所」の朱印が押してある。四国八十八ヶ所、第一番札所である阿波・霊山寺(りょうぜんじ)の前の寺という意味らしい。

青龍寺にかぎらず、新疆ウイグル自治区を含め、中国の観光地のあちこちで、唐代の貴婦人の格好をした若い女性に数多く出会った。コスプレというのか。邦貨で二千円程度払うと、唐代貴婦人の衣装を着せて厚化粧をしてくれる。それをボーイフレンドや親たちが嬉しそうにスマホで撮っている。商売人がビジネスで行っているのだが、その背後には、過去の中国の栄光の歴史を国民に認識させたいとの、政府の意図があるようにも感じた。良いことだと思う。

楊貴妃に似た女性がいたら一枚撮ろうとキョロキョロするのだが、なかなか見当たらない。青龍寺を出る直前に、はつらつとした感じの良い若い女性がいたので、あわててスマホのボタンを押した。あとで拡大して見ると、楊貴妃とは少し違うような気がする。ヨット部のS君が撮ったのは、熟女の楊貴妃のようだ。



大慈恩寺の大雁塔


青龍寺


楊貴妃スタイルのお嬢さん

恵果から後継者に指名される空海



熟女の楊貴妃







右が日本からの添乗員のOさん、左が西安でのガイド高さん
中央の二人が長野県から参加の82歳と84歳の女性
お二人の健脚ぶりには恐れ入った