2025年9月26日金曜日

【敦煌】鳴沙山(めいさざん)と月牙泉(げっかせん)

 シルクロードのものがたり(68)

西安から敦煌までの飛行は2時間弱だが、出発が少し遅れたので、敦煌空港に着いたのは午後3時を過ぎていた。迎えのバスですぐに鳴沙山に向かう。日没は夜の9時ごろなので時間は充分ある。驚いたのは、空港を出てバスに乗ろうとしたら雨が降っている。パラパラであるが、敦煌の雨は珍しい。20分ほどでやんだ。

鳴沙山は、東西40キロ、南北20キロの砂漠のはしっこにある。空港から15分ぐらいでずいぶん近い。あまりにも突然、「月の砂漠をはるばると、、、」の世界が眼前に現れたのでびっくりする。

月牙泉は鳴沙山の谷あいに湧く三日月形の泉(オアシス)で、漢の時代から今に至るまで一度も枯れたことがないという。幅は広いところで50メートル、深さは平均5メートルだそうだ。「魚もいるよ」とガイドさんが言う。

敦煌でのガイドは余(よ)さんという漢人で、48歳の男性だ。大柄でゆったりとした言動の人で、中国の「大人・たいじん」といった雰囲気の人だ。余さんとはすぐに仲良しになる。共に喫煙者だということに理由がある。今回中国を旅行して驚いたのは、飛行機・新幹線に乗るたびに危険物ということでライターを取り上げられた。とても厳重にチェックをする。

よって、次の町に着くと同時に「ライターはどこで買えるの?」とガイドさんに聞くことになる。空港を出て余さんにこれを聞く。余さんはポケットからライターを取り出し、「これをやるよ」と言う。西安で買い物をしておつりをもらっていたので、10元札が数枚ある。一枚を渡そうとすると、「いいよ、いいよ。カバンの中にもう1個あるから」と笑って受け取らない。「謝謝、謝謝!」と二度言って頭をペコリとさげる。これで二人の間には、一種の友情らしき感情が芽生える。

喫煙者は世界中どこでも、軽蔑され虐げられていて、絶滅寸前の少数人種になりつつある。タバコを吸うというだけで、お互いが親近感を持つということがどの国でもあるようだ。種の保存という動物の本能が、互いに助け合おうという気持ちにさせるのであろうか。


中国のどこの観光地でも、バスを降りたあと入園・入館のゲートで顔写真を撮り、ものものしくチェックする。そこから目的の地点まで数百メートル、1-2キロの距離があることが多い。昔は歩いたようだが、今は電動のカートで移動する。15-20人が乗れ運転手もいる。この鳴沙山観光もそのスタイルだ。オレンジ色の綿製品の靴カバーを余さんがみんなに配っている。25元のレンタルで、靴の中に砂が入らないようにこれで靴を覆う。

鳴沙山は70-80メートルの高さで、登りやすいように、ワイヤーと木板で簡易階段がつくられている。みんなが一列になって、ワッセ・ワッセと登っている。楽ではないが、今年の4月からスポーツジムで体を鍛えているのでそれほど辛くはない。

頂上に到着すると、微風が吹いてとても涼しい。見晴らしも良く、月牙泉の泉の周辺だけにある樹木の緑が、砂だらけの景色の中でひときわ美しく見える。玄奘だけではない。古来から何千年のあいだシルクロードの砂漠をラクダと共に歩いた旅人たちが、目的地のオアシスにたどり着き、緑輝く樹木を見たときの感激がどれほどのものであったか、想像できる。

砂だらけの鳴沙山を降りるとき、砂の中にスマホが落ちているのを見つけた。古いものではない。今日か昨日の落し物らしい。中国語の画面が見える。山から下りて余さんに渡した。「ほう、良いことをしましたね。落とした人は喜ぶでしょう」そう言って、余さんは管理事務所に届けた。

砂山から降りて、ラクダに乗ろうと思った。100元(二千円)払えば30分ほど乗せてくれる。ところが、「今年から65歳以上の人は乗れないという規則ができた」と余さんが言う。なんでも、今年の春ごろ北京から来た60代後半の男性観光客が、ラクダから落ちて大怪我をしたのだという。「田頭さんは若く見えるから64歳と言ってもよいのだが、パスポートを見せろというから無理だな」と言う。

若い頃、タイで象に乗ったことがある。今回ラクダに乗るのを楽しみにしていたので、誠に残念であった。

敦煌の砂漠にも楊貴妃が何人もいた




お揃いの靴カバーをして砂山に登る

左の三日月形が月牙泉

ラクダには乗れなかった


2025年9月24日水曜日

【西安】西大門

シルクロードのものがたり(67)

 西安に2泊して8月25日(月曜)、12時25分発の飛行機で敦煌に向かう予定だ。西安・敦煌・ウルムチは同じホテルに2泊、トルファンと最終日の上海は1泊だ。同じホテルに連泊するのは、何かにつけて便利で好都合だ。手洗いした下着や靴下がよく乾いて気分が良い。

西安の町の花はザクロ、木はアカシアだと聞く。これからしても、ここが乾燥した土地であることがわかる。中心部の人口は800万人、郊外を含めると1300万人というから大きな町だ。地形は地図でわかる通り盆地である。盆地だが海抜400-700メートルで乾燥しているので、東京や上海の蒸し暑さに慣れている我々には、かなり涼しく感じる。

飛行機の出発までには時間があるので、バスで最後の見学地である西大門に向かう。ここがシルクロードへの出発点である。

唐の時代、西域に向かう軍人・役人・商人たちを見送るために、家族や友人は西安から40キロ北西にある咸陽まで同行するのが慣習だったそうだ。歩いていくのは大変だな、と思ったが、旅人の多くは上級の軍人・役人・富豪の商人だったので、家族や友人たちもいわば富裕層である。馬車や馬で移動したようだ。

彼らは咸陽に一泊か二泊して、酒盛りをして旅人を見送る。咸陽は渭城(いじょう)ともいう。王維の「渭城の朝雨 軽塵を浥し」のあの渭城である。この「元二の安西に使いするを送る」の詩のはなしは、以前このブログのどこかで一度紹介している。機会があれば、どこかでもう一度整理・加筆してこれをお話ししたいと考えている。この詩を深く掘り下げて考えると、中国・日本の古代史が理解しやすい気がする。


高さんに案内され、西門の城壁に登る。城壁の上は思っていた以上に幅が広く、しかも頑強に造られている。れんがと石でできた現在のものは、明の洪武帝の頃(1370年頃)に築かれ、その後しばしば修復されているそうだ。

「少し傾いているのがわかりますか?」と高さんが聞く。言われてみれば、そうかなと感じる。雨が少ない土地なので、ほんの少し傾斜をつけておき、降った貴重な雨水を城壁の内側に流れるようにしている。あとで写真を見ると、たしかに右側に排水溝が見える。

守備隊の兵士は何百メートルかごとに複数名配置され、昼夜を問わず見張りを続けたという。兵士が宿泊するための巨大な宿舎が城門の上に造られている。将校の宿舎は近くに別棟がある。次の交代者が来るまで、将兵はこの城門の上で何か月も生活したようである。

西大門の見学を終え、バスで空港に向かう。空港内にある韓国料理店でビビンバとキムチを食べるが、これがとても美味しい。

右側が少し傾いていて排水溝が見える


兵士の宿舎
将校の宿舎は写真の左後にある

西大門 
画 及川政志氏

2025年9月18日木曜日

【西安】大慈恩寺・大雁塔と青龍寺

 シルクロードのものがたり(66)

咸陽で兵馬俑を見学したあと、ふたたびバスで西安市に戻り、西安中心部にある大慈恩寺(だいじおんじ)に向かう。

もとは隋代に建立された寺だが、隋末期の戦乱で焼失したあと、唐の三代皇帝・高宗が母親の文徳皇后を供養するために再建したという。647年のことだ。

玄奘が密出国から16年を経てインドから大量の経典を長安に持ち帰ったのは645年、二代皇帝・太宗の晩年である。日本では大化改新の年だ。当初、玄奘は浩福寺という寺で翻訳事業を開始したが、この事業の拠点は完成したばかりのこの大慈恩寺に移された。その後、高宗の肝いりで、大量のサンスクリット語の経典や仏像を保存するために建てられたのが大雁塔(だいがんとう)である。唐代、この寺の敷地は現在の7倍の広さだったという。

大雁塔は64メートルの高さで、てっぺんまで登れば西安市を一望できるとガイドの高さんは言う。唐代に建立されたものはインド風の丸型の五層の仏塔だったが、明代に現在の姿の四角七層に造り直されたとも教えてくれる。

陸上部のY君とヨット部のS君は共に健脚だ。てっぺんまで登るという。私は足がだるかったので、「二人を下から仰ぎ見ているよ」と言って、木陰にある喫煙所でタバコを吸いながら二人が降りてくるのを待った。それでもこの夜スマホを覗いたら、この日、2万歩あるいていた。

そのあと、近くの青龍寺にバスで移動する。

空海ゆかりの寺である。

空海は師匠の恵果(えか)から、短期間で密教の秘法を伝授された。恵果が何十人もの中国人の高弟子たちを飛び越えて、空海を自分の後継者に決める感動的なものがたりを肌で感じるには、司馬遼太郎の『空海の風景』を読むのが一番早い。805年のことである。

じつは、天台三代座主・円仁(えんにん)も五代座主・円珍(えんちん)も、この青龍寺で学んでいる。円仁がここで学んだのは840年頃で、空海はその5年前に高野山で没している。円珍は四国の讃岐の豪族・佐伯氏の生まれである。空海の甥(おい)、もしくは姪(めい)の息子といわれている。この円珍という人はは面白い人で、親戚である空海の高野山に赴かず、そのライバル最澄の比叡山に学んでいる。いわば福沢諭吉の甥が慶応にいかないで早稲田で勉強したようなものだ。円珍がここで学んだのは850年ごろである。

円仁・円珍がこの青龍寺に来山したとき、恵果から空海と一緒に教えを受けた中国人僧は、すでに老僧となっていたが、まだ何人もこの寺に残っていた。二人の日本人僧は、空海の伝説的な成功物語を、空海を直接見た青龍寺の中国人の老僧から聞いたにちがいない。

じつはこの青龍寺は千年間近く、廃墟となり地上から消えていた。唐末期から宋代にかけて、中国では仏教は衰退していく。円仁・円珍の入唐のころから廃仏運動のきざしがあり、その後この運動は長く続いた。北宋の元佑元年(西紀1086)以降、この寺は次第に荒廃し、ついに仏閣は地上から消えてしまった。

この青龍寺が再度建立されたのは、じつに1980年代に入ってからである。仏閣と同時に恵果・空海記念堂が建立され、また空海記念碑が造られた。「これらの費用の多くを、日本の四国の八十八のお寺さんが寄進してくださったのです」と高さんが教えてくれる。高野山金剛峰寺も多額の寄進をしたに違いない。西安市と四国四県は現在でも定期的な交流が行われているそうだ。

このような背景から、青龍寺では日本人にとても親切にしてくださる。我々もお茶をご馳走になり、「参拝弘法大師修行古刹・青龍寺」と書いた御朱印をプレゼントしていただいた。日本で使っている仏閣用の朱院帳を持参していたので、開いてお願いしたら、達筆で「青龍寺」と書いてくださった。こちらには、日本と同じくらい500円程度お礼をした。

両方に「第0番札所」の朱印が押してある。四国八十八ヶ所、第一番札所である阿波・霊山寺(りょうぜんじ)の前の寺という意味らしい。

青龍寺にかぎらず、新疆ウイグル自治区を含め、中国の観光地のあちこちで、唐代の貴婦人の格好をした若い女性に数多く出会った。コスプレというのか。邦貨で二千円程度払うと、唐代貴婦人の衣装を着せて厚化粧をしてくれる。それをボーイフレンドや親たちが嬉しそうにスマホで撮っている。商売人がビジネスで行っているのだが、その背後には、過去の中国の栄光の歴史を国民に認識させたいとの、政府の意図があるようにも感じた。良いことだと思う。

楊貴妃に似た女性がいたら一枚撮ろうとキョロキョロするのだが、なかなか見当たらない。青龍寺を出る直前に、はつらつとした感じの良い若い女性がいたので、あわててスマホのボタンを押した。あとで拡大して見ると、楊貴妃とは少し違うような気がする。ヨット部のS君が撮ったのは、熟女の楊貴妃のようだ。



大慈恩寺の大雁塔


青龍寺


楊貴妃スタイルのお嬢さん

恵果から後継者に指名される空海



熟女の楊貴妃







右が日本からの添乗員のOさん、左が西安でのガイド高さん
中央の二人が長野県から参加の82歳と84歳の女性
お二人の健脚ぶりには恐れ入った

2025年9月17日水曜日

【西安】唐歌舞ショー・則天武后

シルクロードのものがたり(65)

朝、ホテルから兵馬俑へ移動するバスの中で、ガイドの高さんがみんなに質問する。

「昔日本には、女性の天皇が何人もおられました。中国では女性の皇帝は一人しかいません。さて誰でしょうか?」

そんなの簡単だ。「則天武后でーす」と大声で答える。

「ほう、良くできました!」と褒めてくれる。いつもは、あちこちで歴史のうんちくをひけらかして、家族や身近の人たちからひんしゅくを買っているのだが、ここでは、先生に褒められた小学校の優等生のような格好になった。

「今夜、西安第一の劇場で則天武后を主人公にした唐歌舞(かぶ・うたまい)のショーがあります。一人260元です。希望する方は私に言ってください」日本円で五-六千円だ。小学校の優等生の立場でもあるし、以前ブログの「日本一の外交官・粟田真人」を書くとき、則天武后のことは少し調べて知識もあったので興味を持ち、すぐに申し込みをした。グループ10人のうち6-7人が参加された。この観劇に参加したのは正解だった。

午前の兵馬俑、午後の大慈恩寺・青龍寺を見学したあと、西安名物の餃子料理を食べ、この唐歌舞ショーに向かう。ちなみに西安の餃子は数種類出たががすべて「蒸し餃子」で、我々の感覚からすれば「シュウマイ」「香港の点心」といった感じがする。とても美味しい。


日本でいうと歌舞伎座と宝塚劇場を合わせたような、本格的な劇場だ。我々は外のレストランで食事を終えていたので、うしろの席で見物する。前のほうの席は食事やお酒を楽しみながら見物するスタイルで、欧米人の客が多い。一番前の席で飲食しながらショーを観ると、一人五万円とか十万円ぐらいかかるのではあるまいか。唐代の長安には歌舞を鑑賞しながら食事をとる劇場がいくつもあったらしい。この劇場はそれを再現したものだという。

この歌舞ショーはひと言でいえば、則天武后の一代記を踊りと歌で表現したものだ。則天武后には頭の良い娘がいて、母の死後、この娘が母親の一代記を書きそれが残っている。これをベースに脚本した歌舞だと高さんが教えてくれる。

役者は中国語でしゃべり、遠くに英語の字幕が出る。私はある程度の予備知識があったので、だいたいの流れは理解できたが、外国人にとってこの劇の内容を把握するのはむずかしい。それでも、きらびやかな衣装での舞と、豪華な舞台装置なので、意味がわからなくても充分楽しめる。

則天武后は、「中国史上最大の権力者」「英知・残虐性とも超弩級」「呂后・西太后をしのぐ中国三大悪女の筆頭」と言われている。同時に、「知性あふれる絶世の美女」との伝承もある。

その一代記をここで語るには紙面が足りない。よって、ほんのさわりだけを紹介する。

14歳のとき、二代・太宗の妃(きさき)として後宮に入り太宗の寵愛を受ける。太宗の病が重くなると看護した皇太子(のちの三代・高宗)に一目惚れされる。太宗の死後、高宗の妃となり皇后を蹴落して自分が皇后の地位につく。父の妃を息子がいきなり自分の妃にすることは儒教のおきてに背く。よって一年間仏門に入り尼となる。ただし、この寺は宮廷内にあったようで、喪が明ける以前から、二人はこっそりとあいびきを重ねていたに違いない、と私はにらんでいる。夫の高宗が亡くなったあとは、普通は皇太后となり息子に皇帝の地位を譲るのだが、彼女は息子たちを殺して自分が皇帝になる。そして、国名を「唐」から「大周」に変更する。高宗の統治時代も、この皇后は気の弱い皇帝に代わり垂簾(すいれん)政治をおこない、自分が政治と軍事を取り仕切った。倭国・百済の連合軍が白村江で唐に大敗したとき(660年)、唐側の実質的な最高権力者はこの則天武后であった。

高宗の皇后時代の34年間、自身が皇帝であった15年間、合わせて50年近く、この女性が唐の政治と軍事を仕切ったのである。そして705年に81歳で没している。

時代的には初唐の後半に位置し、隋が敗北した高句麗を滅ぼし、西域の領土を拡大し、このころ唐は過去最大版図を実現している。則天武后の時代の唐の西方の勢力範囲は、現在のウズベキスタン共和国のタシケント・サマルカンドを超えて、さらに西のアラル海まで達している。則天武后の時代のあとで、大唐文化の華が咲く盛唐の時代に入る。よって、現在の中国ではこの人は偉大な皇帝として尊敬を受けている。

則天武后のことを長々と書いているのには、じつは、わけがある。「日本国・日本人」にとって、過去2000年間で一番お世話になった中国の皇帝は、じつはこの則天武后であろうと私は考えているからである。


「漢委奴國王印」を北九州の豪族が後漢の光武帝からもらったのは西紀57年だ。「委奴國」は「倭國」と同じ意味である。「親魏倭王」の印を卑弥呼が魏の皇帝・曹叡からもらったのは西紀237年である。この頃から中国は日本のことを「倭国」と呼んでいた。

当初、漢字の意味がよくわからなかった我々のご先祖は、しばらくして、「倭」という文字に「小柄な人・ちびっこ」、「ヘイヘイと、人の言うことに従う従順な者」という意味があることを知った。聖徳太子の頃から、百年近く、日本は中国に対して「倭国と呼ばないで日本と呼んでください」とお願いを続けていた。そのつど中国側は「倭国のやつがなまいき言ってるぜ」という感じで相手にしてくれなかった。

それが西紀703年、突如として中国は我が国のことを「日本」と呼ぶようになる。702年、第七次遣唐使で唐に渡った粟田真人(あわたのまひと)が、出来上がったばかりの「大宝律令」を唐側に見せて、この則天武后に「日本と呼んでください」と強く要請して、それが認められたからである。

粟田真人を「異常に気に入った」則天武后は、宰相と担当の大臣を呼びつけて言った。「今日以降、倭国と呼ぶことを私は絶対に許しません。真人さんが、これだけ懇願されているのです。このまま我が国が倭国と呼び続けていたら、お国に帰られたあと、真人さんの面子がつぶれます。私は皇帝の権限で、今日以降この国のことを日本国と呼ぶことに決定します」と一方的に命令を下した。

この則天武后の厳命以降、すべての中国の正史は、我が国のことを「日本」と表記するようになる。朝鮮半島・越南などの漢字文化圏の国々も、すぐさまこれに倣った。『旧唐書』の前半は「倭国」と表記されているが、この日以降は「日本国」と表記されている。『新唐書』『宋史』『元史』『明史』『清史』などのすべては、「日本」「日本国」で統一されている。そしてそれが現在まで続いている。則天武后の命令の直後、うっかり「倭国」と口を滑らした大臣や将軍の二人や三人が殺された可能性がある。

則天武后以降、千三百年に渡り、日本嫌いの中国の為政者を含めて、中国政府は公式には我が国のことを「日本」と言い続けている。則天武后の「威令」はすさまじいものであった。

則天武后と粟田真人の話は、ブログの初めの頃、「日本一の外交官・粟田真人」で紹介した。


唐歌舞(かぶ)ショー

左から将軍、則天武后、胡姫





2025年9月16日火曜日

【西安】兵馬俑坑(へいばようこう)と始皇帝陵

 シルクロードのものがたり(64)

西安の飛行場に到着したとき「いよいよ漢や唐の古都・長安に着いたのだ」と感激した。ところが我々が降り立った場所は、長安ではなく秦のみやこの咸陽(かんよう)だった。

これを教えてくれたのは、西安でのガイド・高(こう)さんだ。高さんは漢人で、50代半ばの男性で歴史にすこぶる詳しい。この人は留学だったか旅行会社での勤務だったか、3年間ほど日本で暮らしたことがあるとおっしゃていた。高さんに二泊三日の西安案内をしてもらえたのは幸運だった。

「この飛行場は咸陽市にあり、南東の西安市まではバスで40分ほどかかります。この空港の正式名は、西安・咸陽国際空港といいます」日本でいえば、成田空港と東京都心の関係に似ている。「この空港は最近拡張工事がされましたが、秦代の多くの出土品が発掘されました」

始皇帝が定めた秦のみやこの咸陽は、2300年経った現在でも同じ地名で呼ばれている。かたや漢の高祖・劉邦がみやこに定めた長安は現在は西安と呼ばれている。ここを西安と呼ぶようになったのは、明(1368年ー)の時代に入ってからだという。北宋のみやこは開封で、南宋のみやこは臨安(杭州)である。

明王朝の最初のみやこは南京だったが、その後、北京に遷都した。北京・南京と対比させ、「かつて西にあったみやこ」という意味で「西安」と呼んだようだ。当時ここは「西京」とも呼ばれている。この地が長安と呼ばれたのは漢・三国・西晋・東晋十六国・南北朝・唐代の約800年間、西安と呼ばれているのは明以降の約700年間ということになる。この西安には、黄河最大の支流である渭水(いすい)を含め8つの川があり、水に恵まれた町である。


8月24日(日曜日)、西安での最初の見学地は兵馬俑だ。バスは西安のホテルから昨夜到着した飛行場の方角の北西に向かって40分ほど走る。

兵馬俑を見学した人から話を聞いたり写真集を見たりして、ある程度の知識は持っていたが、実際に見るとその巨大さに圧倒される。6000体の将兵の像は実在した将兵がモデルであり全員の顔が異なる、とは以前から聞いていた。なるほど、各人の顔がそれぞれ違う。

高さんが、「将兵の頭を見てください」と何度も言う。髪型や帽子の形によって、下っ端の兵士か、尉官・佐官・将軍の区別がつくのだという。たしかに二等兵や一等兵クラスの若い兵士の体型はスリムだが、将官クラスのお腹は中年肥りで少しふくらんでいる。「この人は数千人を率いた将軍でしょうね」とある像の前で高さんが言う。帽子から見て三軍を率いた大将軍ではなく、少将か中将クラスの将軍の像だと言う。

その気品ある顔つきに、もしかしたらこの人は、私の尊敬する「東陵候召平」の30代の姿ではあるまいかと思った。将軍にしてはお腹もあまり出ていない。召平は若くして秦の将軍となり、大将軍・蒙恬(もうてん)の部下として北方の匈奴との戦いで手柄を立て、その後、始皇帝により江南の地・広陵の東陵候に任ぜられている。この兵馬俑が造られていたころ、召平は若いながら現役の秦の将軍であった。この召平の話は、以前このブログで「小説・東陵の瓜」で紹介した。

いまひとつ、私が興奮したのは、「あの黒い部分を見てください。あれは項羽が咸陽に入城して出来たばかりのこの兵馬俑を掘って、火をつけて燃やした跡なのです」という高さんの説明だった。項羽が咸陽に入城したのは前205年であるから、始皇帝の死の5年後である。この兵馬俑は始皇帝が13歳で即位した時すぐに建造にとりかかり、死の2年後、すなわち前208年に完成している。38年かけて完成したことになる。よって項羽がこの兵馬俑を掘り起こしたのは、完成の3年後ということになる。

司馬遷は『史記・項羽本紀』に次のように記している。

「項羽は兵をひきいて西の方咸陽を攻めた。秦の降参した王・子嬰(しえい)を殺し、秦の宮室を焼いた。火は三か月のあいだ消えなかった。それから、秦の貨宝・婦女を没収して東にむかった」

兵馬俑に埋めてあった金目(かねめ)のものを持ち去ったのであろうか。将兵の像には関心がなくそのまま残したのだろうか。それとも、先に咸陽に入城していた配下の劉邦にたしなめられたのか。あるいは、すでに劉邦との対決が始まっていて、この兵馬俑全体を破壊する余力がなかったのであろうか。いろいろと勝手な想像をめぐらす。


始皇帝陵は、兵馬俑からバスで10分ほどの場所にある。我々はここには行かないでバスから遠望しただけである。


外国人は少なく中国各地からの観光客が多い







兵馬俑全体


熱弁をふるう高さん


黒い部分が項羽が焼き払った跡だという


東陵候召平の若い頃の姿ではあるまいか?

バスから遠望した始皇帝陵

2025年9月9日火曜日

上海ー西安の機上から、隋の煬帝(ようだい)を想う

シルクロードのものがたり(63)

 羽田から上海までは2時間半の飛行だ。四国沖を西に向かうのかと思っていたら、本州の上空を真西に飛び、広島県尾道市の私の実家の上空を横切っている気配がする。どれどれ、我が家の畑の里芋の成長ぐわいは、と目を凝らしたが、雲があってよく見えなかった。その後、山口県、長崎県の五島列島の上空を通過して上海に到着した。

上海で、北京時間に合わせて1時間時計の針を先に進める。すなわち11時25分を12時25分にした。その後1週間、北西へ、北西へと、飛行機・新幹線・高速バスで長時間移動したのだが、新疆ウイグル自治区でも北京時間を使っているので、新幹線でトルファンの駅に着いたのは夜の9時だったが夕焼けが美しかった。

上海からトランジットで西安に向かう。上海空港から一駅だけ地下鉄に乗り、ローカル線の飛行場に移動する。地元の若い女性が、我々のグループ最年長の84歳の日本人女性に「どうぞ、どうぞ」と席をゆずったのには感心した。地下鉄の中で大声でしゃべる中国人はいない。中国人のマナーは良く、民度が向上している気がする。多くの人が黙ってスマホを見ている姿は日本の地下鉄の光景と同じだ。

16時45分上海発、18時45分西安着の予定だったが、出発が1時間ほど遅れた。それでも西安空港に到着するころに陽が没したので、窓側の席から上海・西安間の景色をじっくりと見ることができた。

機上から中国大陸をながめた印象をひと言でいうと、「大河と湖と巨大運河。そしてそれらを結ぶ小川と小運河」という風景である。大河は長江(揚子江)で巨大運河は隋の煬帝が造ったものだ。農業用水や生活用水として、同時に物資や人間を運ぶ運搬手段として、たくみに河川と運河と湖を活用している。14億の人々を食わせる米・小麦など穀物の生産は、この上手な河川の利用によるのだな、と思った。


秦帝国も漢帝国も黄河と揚子江の治水と活用に力を入れたが、この両大河を結びつける巨大運河を建設し、さらに網の目のような小運河を造り、農業生産と交通の便を飛躍的に向上させたのは隋の煬帝である。

隋という王朝は、初代・文帝(ぶんてい)15年、2代・煬帝(ようだい)14年、計29年と短く、西紀618年に滅びている。しかも煬帝は「中国史上まれにみる淫乱暴虐な君主」として今なお中国での評判はよろしくない。大運河の建設や高句麗との戦争で、何百万人もの人が死んだのも理由の一つであろう。

その後、煬帝は都落ちした。部下の将兵や皇后・皇太子・多数の美女の妃たちを引き連れて、長安から洛陽へ、そして江南の地に移動した。そして、部下の将軍の手によって江南の地で殺されている。

煬帝の最後の光景を、宮崎市定氏はその著書『隋の煬帝』の中で次のように述べている。

煬帝は白刃をつきつけた将軍に向かって言った。

「朕は何の罪があってこのような目にあわされるのか」

将軍は嘲笑って、詰問した。

「陛下は外国に向かって戦争をしかけ、国内では贅沢のかぎり尽くされました。兵士は戦争で命を失い、婦人子供は飢えで死にました。人民は失業し盗賊が蜂起している中に、陛下はおべっかい者の言うことばかりを聞いて、人民の声を聞こうとされませんでした。それでも罪がないとおっしゃるのですか」

煬帝は相手をにらみつけて言った。

「なるほど、おれは人民に対して申し訳ないことをしたと思っている。ところでいったい、今日の首謀者は誰か。会って話をしたいのだ」

「天下の人間すべてが首謀者でしょう。誰といって一人の名前をあげるわけにはいきません」

この問答、公平に見て煬帝の負けであろう。


2013年、上海と南京のほぼ中間の揚州市で煬帝の墓が発見されたという。江南の地だ。父は文帝(ぶんてい)と呼ばれるのに、息子は煬帝(ようだい)と呼ばれているのを不思議に思っていた。帝を漢音では「てい」と読み、呉音では「だい」と読むらしい。仏典と同じく江南の地、呉音での読み方が日本に伝わったのではあるまいか。

たしかに煬帝は暴君であった。しかし機上から大運河を見ていると、暗君とは呼べないような気がする。

煬帝の死から200年後、日本から空海が入唐する。流着した閩(びん・福建)の浜辺から長安まで、もちろん馬や徒歩で陸路をも進んでいるが、行程の半分以上はこの煬帝が建設した運河と川を利用して、船で進んだといわれている。空海の34年後に入唐した最澄の弟子・円仁もまたこの運河の恩恵を受けている。そして現在でも、中国の人々はこの運河の恵みを受け続けている。

始皇帝が統一した秦帝国の寿命はわずか15年でしかない。しかしその短い間に、度量衡と貨幣の統一・郡県制の制定・幹線道路の建設・万里の長城の修復を行っている。それらを土台として、長期の漢帝国が繫栄した。

科挙制度を最初に導入したのは隋王朝である。秦の後、漢が長期にわたって繁栄したのと同じように、唐の長期の繁栄の前に、短い期間ではあったが、隋という帝国の存在は大きな意味があったように思う。


西安の空港で荷物を受け取り、迎えのバスに乗り込んだのは夜の9時半を過ぎていたが、外の気配と我々の腹ぐあいは夜7時ごろという感じがする。すぐに夕食のレストランに向かった。

西安での食事
10種類ほどの総菜と共に、左奥にある炒飯・焼きそば・ジャージャー麺を食べる

ジャージャー麺はこのような漢字になる(当て字らしいが)

西安・咸陽国際空港




















2025年9月4日木曜日

田頭、シルクロードの入り口を行く!

シルクロードのものがたり(62)

「シルクロードのものがたり」という題で60編ほど書いているが、行ったことのない場所の物語を書くことに少し気恥ずかしい思いがしていた。辛口の友人の一人が、「うんちくを並べておるが迫力が足りんなあ。行ったことがないからだよ」と言う。自分でもそう思う。それゆえにこの数か月、筆が止まっている。

「松岡譲は敦煌を見ずに『敦煌物語』を書き、それに触発されて井上靖も『敦煌』を書いた」という陳舜臣の言葉に励まされてこの物語を書き始めたのだが、漱石門下の優等生の松岡譲や芥川賞作家の井上靖に比べると、自分の筆力はいささか劣ることに気が付いた。

そうしているうちに、成蹊大学の友人S君(ヨット部)とY君(陸上部)が、「9日間の西安・敦煌・トルファン(高昌国)・ウルムチのツアー旅行に行かないか」と声をかけてくれた。S君はヨット部で4年間、年間150日合宿所で同じ釜の飯を食い、3年生・4年生の2年間は吉祥寺の二部屋だけの小屋のような下宿で一緒に生活をした。いわば兄弟のような間柄である。陸上部のY君はS君と同じゼミで、私とも学生時代から仲良しだった。

S君は鉄鋼会社でアフリカ・ベトナム駐在が長く、Y君は商社でアメリカ・中国駐在が長い。両君とも「万里の道を旅した人」だ。この二人が一緒だと心強い。即断即決で8月23日出発のこのツアー旅行参加を決めた。8月にしたのは暑いのだがハミウリ(哈密瓜)が旨い季節だからだ。ハミウリのことは以前このブログでも書いた。私はこのハミ瓜にはかなりのこだわりがある。

中国元への両替は、東京の銀行や空港の両替所には100元札(約2000円)はいっぱいあるのだが、枕銭やチップに使う10元札はどこを探しても手に入らない。アメリカのアムトラック鉄道旅行の時は米1ドル札を常に100枚購入していた。それを思い出し、米1ドル札を50枚購入した。毎回2-3枚を枕銭・チップとして使ったが大変喜ばれた。アメリカ合衆国は近頃落ちぶれてきた気がするが、米ドルの価値は健在だと感じた。

写真は「玉門関」のものだ。

国禁をおかして長安を密出国した玄奘は、玉門関の水場で夜ひそかに水を飲んでいたら、いきなり矢が飛んできた。防備の兵士に見つかったのだ。将校の前に連行された。慈悲深い将校は玄奘の心意気に感じるところがあり、同情してくれた。しかし国禁を犯して密出国した者を城門の中に入れると、他の将校の目に触れ捕獲される恐れがある。親切な将校は皮袋に詰めた水といくばくかの食料を玄奘に与えた。そして玄奘の次の目的地である哈密(ハミ)県の伊吾(イゴ)への道順を丁寧に教えてくれた。

玄奘は革袋の水といくばくかの食料を背負い、月明かりの中、一人北に向かった。

玄奘の苦労を想い、私は思わず敬礼の姿勢で敬意を表した。

玉門関で玄奘を偲ぶ




羽田空港出発
左からY君、S君、田頭