「シルクロードのものがたり」という題で60編ほど書いているが、行ったことのない場所の物語を書くことに少し気恥ずかしい思いがしていた。辛口の友人の一人が、「うんちくを並べておるが迫力が足りんなあ。行ったことがないからだよ」と言う。自分でもそう思う。それゆえにこの数か月、筆が止まっている。
「松岡譲は敦煌を見ずに『敦煌物語』を書き、それに触発されて井上靖も『敦煌』を書いた」という陳舜臣の言葉に励まされてこの物語を書き始めたのだが、漱石門下の優等生の松岡譲や芥川賞作家の井上靖に比べると、自分の筆力はいささか劣ることに気が付いた。
そうしているうちに、成蹊大学の友人S君(ヨット部)とY君(陸上部)が、「9日間の西安・敦煌・トルファン(高昌国)・ウルムチのツアー旅行に行かないか」と声をかけてくれた。S君はヨット部で4年間、年間150日合宿所で同じ釜の飯を食い、3年生・4年生の2年間は吉祥寺の二部屋だけの小屋のような下宿で一緒に生活をした。いわば兄弟のような間柄である。陸上部のY君はS君と同じゼミで、私とも学生時代から仲良しだった。
S君は鉄鋼会社でアフリカ・ベトナム駐在が長く、Y君は商社でアメリカ・中国駐在が長い。両君とも「万里の道を旅した人」だ。この二人が一緒だと心強い。即断即決で8月23日出発のこのツアー旅行を決めた。8月にしたのは暑いのだがハミウリ(哈密瓜)が旨い季節だからだ。このハミウリのことは以前このブログでも書いた。私はこのハミ瓜にはかなりのこだわりがある。
中国元への両替は、東京の銀行や空港の両替所には100元札(約2000円)はいっぱいあるのだが、枕銭やチップに使う10元札はどこを探しても手に入らない。アメリカのアムトラック鉄道旅行の時は米1ドル札を常に100枚購入していた。それを思い出し、米1ドル札を50枚購入した。毎回2-3枚を枕銭・チップとして使ったが大変喜ばれた。アメリカ合衆国は近頃落ちぶれてきた気がするが、米ドルの価値は健在だと感じた。
写真は「玉門関」のものだ。
国禁をおかして長安を密出国した玄奘は、玉門関の水場で夜ひそかに水を飲んでいたら、いきなり矢が飛んできた。防備の兵士に見つかったのだ。将校の前に連行された。慈悲深い将校は玄奘の心意気に感じるところがあり、同情してくれた。しかし国禁を犯して密出国した者を城門の中に入れると、他の将校の目に触れ捕獲される恐れがある。親切な将校は皮袋に詰めた水といくばくかの食料を玄奘に与えた。そして玄奘の次の目的地である哈密(ハミ)県の伊吾(イゴ・哈密の西方で現在の地名は鄯善・ゼンゼン)への道順を丁寧に教えてくれた。
玄奘は革袋の水といくばくかの食料を背負い、月明かりの中、一人北に向かった。
玄奘の苦労を想い、私は思わず敬礼の姿勢で敬意を表した。
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玉門関で玄奘を偲ぶ |
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羽田空港出発 左からY君、S君、田頭 |