2025年9月17日水曜日

【西安】唐歌舞ショー・則天武后

シルクロードのものがたり(65)

朝、ホテルから兵馬俑へ移動するバスの中で、ガイドの高さんがみんなに質問する。

「昔日本には、女性の天皇が何人もおられました。中国では女性の皇帝は一人しかいません。さて誰でしょうか?」

そんなの簡単だ。「則天武后でーす」と大声で答える。

「ほう、良くできました!」と褒めてくれる。いつもは、あちこちで歴史のうんちくをひけらかして、家族や身近の人たちからひんしゅくを買っているのだが、ここでは、先生に褒められた小学校の優等生のような格好になった。

「今夜、西安第一の劇場で則天武后を主人公にした唐歌舞(かぶ・うたまい)のショーがあります。一人260元です。希望する方は私に言ってください」日本円で五-六千円だ。小学校の優等生の立場でもあるし、以前ブログの「日本一の外交官・粟田真人」を書くとき、則天武后のことは少し調べて知識もあったので興味を持ち、すぐに申し込みをした。グループ10人のうち6-7人が参加された。この観劇に参加したのは正解だった。

日本でいうと歌舞伎座と宝塚劇場を合わせたような、本格的な劇場だ。我々は外のレストランで食事を終えていたので、うしろの席で見物する。前のほうの席は食事やお酒を楽しみながら見物するスタイルで、欧米人の客が多い。一番前の席で飲食しながらショーを観ると、一人五万円とか十万円ぐらいかかるのではあるまいか。唐代の長安には歌舞を鑑賞しながら食事をとる劇場がいくつもあったらしい。この劇場はそれを再現したものだという。

この歌舞ショーはひと言でいえば、則天武后の一代記を踊りと歌で表現したものだ。則天武后には頭の良い娘がいて、母の死後、この娘が母親の一代記を書きそれが残っている。これをベースに脚本した歌舞だと高さんが教えてくれる。

役者は中国語でしゃべり、遠くに英語の字幕が出る。私はある程度の予備知識があったので、だいたいの流れは理解できたが、外国人にとってこの劇の内容を把握するのはむずかしい。それでも、きらびやかな衣装での舞と、豪華な舞台装置なので、意味がわからなくても充分楽しめる。

則天武后は、「中国史上最大の権力者」「英知・残虐性とも超弩級」「呂后・西太后をしのぐ中国三大悪女の筆頭」と言われている。同時に、「知性あふれる絶世の美女」との伝承もある。

その一代記をここで語るには紙面が足りない。よって、ほんのさわりだけを紹介する。

14歳のとき、二代・太宗の妃(きさき)として後宮に入り太宗の寵愛を受ける。太宗の病が重くなると看護した皇太子(のちの三代・高宗)に一目惚れされる。太宗の死後、高宗の妃となり皇后を蹴落して自分が皇后の地位につく。父の妃を息子がいきなり自分の妃にすることは儒教のおきてに背く。よって一年間仏門に入り尼となる。ただし、この寺は宮廷内にあったようで、喪が明ける以前から、二人はこっそりとあいびきを重ねていたに違いない、と私はにらんでいる。夫の高宗が亡くなったあとは、普通は皇太后となり息子に皇帝の地位を譲るのだが、彼女は息子たちを殺して自分が皇帝になる。そして、国名を「唐」から「大周」に変更する。高宗の統治時代も、この皇后は気の弱い皇帝に代わり垂簾(すいれん)政治をおこない、自分が政治と軍事を取り仕切った。倭国・百済の連合軍が白村江で唐に大敗したとき(660年)、唐側の実質的な最高権力者はこの則天武后であった。

高宗の皇后時代の34年間、自身が皇帝であった15年間、合わせて50年近く、この女性が唐の政治と軍事を仕切ったのである。そして705年に81歳で没している。

時代的には初唐の後半に位置し、隋が敗北した高句麗を滅ぼし、西域の領土を拡大し、このころ唐は過去最大版図を実現している。則天武后の時代の唐の西方の勢力範囲は、現在のウズベキスタン共和国のタシケント・サマルカンドを超えて、さらに西のアラル海まで達している。則天武后の時代のあとで、大唐文化の華が咲く盛唐の時代に入る。よって、現在の中国ではこの人は偉大な皇帝として尊敬を受けている。

則天武后のことを長々と書いているのには、じつは、わけがある。「日本国・日本人」にとって、過去2000年間で一番お世話になった中国の皇帝は、じつはこの則天武后であろうと私は考えているからである。


「漢委奴國王印」を北九州の豪族が後漢の光武帝からもらったのは西紀57年だ。「委奴國」は「倭國」と同じ意味である。「親魏倭王」の印を卑弥呼が魏の皇帝・曹叡からもらったのは西紀237年である。この頃から中国は日本のことを「倭国」と呼んでいた。

当初、漢字の意味がよくわからなかった我々のご先祖は、しばらくして、「倭」という文字に「小柄な人・ちびっこ」、「ヘイヘイと、人の言うことに従う従順な者」という意味があることを知った。聖徳太子の頃から、百年近く、日本は中国に対して「倭国と呼ばないで日本と呼んでください」とお願いを続けていた。そのつど中国側は「倭国のやつがなまいき言ってるぜ」という感じで相手にしてくれなかった。

それが西紀703年、突如として中国は我が国のことを「日本」と呼ぶようになる。702年、第七次遣唐使で唐に渡った粟田真人(あわたのまひと)が、出来上がったばかりの「大宝律令」を唐側に見せて、この則天武后に「日本と呼んでください」と強く要請して、それが認められたからである。

粟田真人を「異常に気に入った」則天武后は、宰相と担当の大臣を呼びつけて言った。「今日以降、倭国と呼ぶことを私は絶対に許しません。真人さんが、これだけ懇願されているのです。このまま我が国が倭国と呼び続けていたら、お国に帰られたあと、真人さんの面子がつぶれます。私は皇帝の権限で、今日以降この国のことを日本国と呼ぶことに決定します」と一方的に命令を下した。

この則天武后の厳命以降、すべての中国の正史は、我が国のことを「日本」と表記するようになる。朝鮮半島・越南などの漢字文化圏の国々も、すぐさまこれに倣った。『旧唐書』の前半は「倭国」と表記されているが、この日以降は「日本国」と表記されている。『新唐書』『宋史』『元史』『明史』『清史』などのすべては、「日本」「日本国」で統一されている。そしてそれが現在まで続いている。則天武后の命令の直後、うっかり「倭国」と口を滑らした大臣や将軍の二人や三人が殺された可能性があるかもしれない。

則天武后以降、千三百年に渡り、日本嫌いの中国の為政者を含めて、中国政府は公式には我が国のことを「日本」と言い続けている。則天武后の「威令」はすさまじいものであった。

則天武后と粟田真人の話は、ブログの初めの頃、「日本一の外交官・粟田真人」で紹介した。


唐歌舞(かぶ)ショー

左から将軍、則天武后、胡姫





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