シルクロードのものがたり(64)
西安の飛行場に到着したとき「いよいよ漢や唐の古都・長安に着いたのだ」と感激した。ところが我々が降り立った場所は、長安ではなく秦のみやこの咸陽(かんよう)だった。
これを教えてくれたのは、西安でのガイド・高(こう)さんだ。高さんは漢人で、50代半ばの男性で歴史にすこぶる詳しい。この人は留学だったか旅行会社での勤務だったか、3年間ほど日本で暮らしたことがあるとおっしゃていた。高さんに二泊三日の西安案内をしてもらえたのは幸運だった。
「この飛行場は咸陽市にあり、南東の西安市まではバスで40分ほどかかります。この空港の正式名は、西安・咸陽国際空港といいます」日本でいえば、成田空港と東京都心の関係に似ている。「この空港は最近拡張工事がされましたが、秦代の多くの出土品が発掘されました」
始皇帝が定めた秦のみやこの咸陽は、2300年経った現在でも同じ地名で呼ばれている。かたや漢の高祖・劉邦がみやこに定めた長安は現在は西安と呼ばれている。ここを西安と呼ぶようになったのは、明(1368年ー)の時代に入ってからだという。北宋のみやこは開封で、南宋のみやこは臨安(杭州)である。
明王朝の最初のみやこは南京だったが、その後、北京に遷都した。北京・南京と対比させ、「かつて西にあったみやこ」という意味で「西安」と呼んだようだ。当時ここは「西京」とも呼ばれている。この地が長安と呼ばれたのは前漢・後漢・三国・西晋・東晋十六国・南北朝・唐代の約1000年間、西安と呼ばれているのは明朝以降の約700年間ということになる。この西安には、黄河最大の支流である渭水(いすい)を含め8つの川があり、水に恵まれた町である。
8月24日(日曜日)、西安での最初の見学地は兵馬俑だ。バスは西安のホテルから昨夜到着した飛行場の方角の北西に向かって40分ほど走る。
兵馬俑を見学した人から話を聞いたり写真集を見たりして、ある程度の知識は持っていたが、実際に見るとその巨大さに圧倒される。6000体の将兵の像は実在した将兵がモデルであり全員の顔が異なる、とは以前から聞いていた。なるほど、各人の顔がそれぞれ違う。
高さんが、「将兵の頭を見てください」と何度も言う。髪型や帽子の形によって、下っ端の兵士か、尉官・佐官・将軍の区別がつくのだという。たしかに二等兵や一等兵クラスの若い兵士の体型はスリムだが、将官クラスのお腹は中年肥りで少しふくらんでいる。「この人は数千人を率いた将軍でしょうね」とある像の前で高さんが言う。帽子から見て三軍を率いた大将軍ではなく、少将か中将クラスの将軍の像だと言う。
その気品ある顔つきに、もしかしたらこの人は、私の尊敬する「東陵候召平」の30代の姿ではあるまいかと思った。将軍にしてはお腹もあまり出ていない。召平は若くして秦の将軍となり、大将軍・蒙恬(もうてん)の部下として北方の匈奴との戦いで手柄を立て、その後、始皇帝により江南の地・広陵の東陵候に任ぜられている。この兵馬俑が造られていたころ、召平は若いながら現役の秦の将軍であった。この召平の話は、以前このブログで「小説・東陵の瓜」で紹介した。
いまひとつ、私が興奮したのは、「あの黒い部分を見てください。あれは項羽が咸陽に入城して出来たばかりのこの兵馬俑を掘って、火をつけて燃やした跡なのです」という高さんの説明だった。項羽が咸陽に入城したのは前205年であるから、始皇帝の死の5年後である。この兵馬俑は始皇帝が13歳で即位した時すぐに建造にとりかかり、死の2年後、すなわち前208年に完成している。38年かけて完成したことになる。よって項羽がこの兵馬俑を掘り起こしたのは、完成の3年後ということになる。
司馬遷は『史記・項羽本紀』に次のように記している。
「項羽は兵をひきいて西の方咸陽を攻めた。秦の降参した王・子嬰(しえい)を殺し、秦の宮室を焼いた。火は三か月のあいだ消えなかった。それから、秦の貨宝・婦女を没収して東にむかった」
兵馬俑に埋めてあった金目(かねめ)のものを持ち去ったのであろうか。将兵の像には関心がなくそのまま残したのだろうか。それとも、先に咸陽に入城していた配下の劉邦にたしなめられたのか。あるいは、すでに劉邦との対決が始まっていて、この兵馬俑全体を破壊する余力がなかったのであろうか。いろいろと勝手な想像をめぐらす。
始皇帝陵は、兵馬俑からバスで10分ほどの場所にある。我々はここには行かないでバスから遠望しただけである。
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外国人は少なく中国各地からの観光客が多い |
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兵馬俑全体 |
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熱弁をふるう高さん |
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黒い部分が項羽が焼き払った跡だという |
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東陵候召平の若い頃の姿ではあるまいか? |
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バスから遠望した始皇帝陵 |
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