シルクロードのものがたり(72)
白馬塔の見学を終え、玉門関に向かう。いよいよ玉門関かと思うと、少し緊張する。鳴沙山・莫高窟・白馬塔は敦煌の市街地の南15-20キロに位置し、この3つは互いに近い。これに比べ、玉門関は市街地から北西100キロの場所にあり、バスで1時間半かかる。漢長城跡は玉門関のとなり合わせだ。
砂漠の一本道をバスは80キロのスピードで走る。砂漠だけの景色もあれば、時に緑の草が見える。円形にかたまった草を指し、「あれはラクダ草です。ラクダだけでなく馬やロバも好物です」と余さんが教えてくれる。もう一種類、別の植物が見える。私には笹(ささ)に見えたが、「葦(あし)の一種です。私が子供の頃はあれでほうきを作っていました」と余さん。
玉門関の遺跡の前に立つと、とても緊張する。目の前にある遺跡は漢の武帝のころに造られたものだという。その歴史の重みが、私に強い圧迫感を与える。
玄奘はどのあたりで、夜の闇にかくれて水を飲んだのであろうか。兵士に見つかり隊長の前に連行された。中国は文字の国・歴史の国だ。この隊長さんの名前が残っている。王祥(おう・しょう)という人だ。立派な人物であった。王祥は部下に水と食料(ナン)を用意させ、みずから十里ばかり玄奘を見送ってくれた。そして別れるときこう言った。「第二・第三の烽(ほう)には近寄らないで、この道をまっすぐ第四烽(ほう)にむかってください。第四烽の人は心正しい人物です。彼は私の一族の者で、姓は王、名は伯隴(はくりゅう)といいます。私の名前を言ってください」
玄奘のインドへの旅の途中、このような第三者の善意・好意によって助けられる場面が、いくつも、いくつも、出てくる。人はこれを幸運という言葉で表現するかもしれない。私はそうは思わない。玄奘の持つ熱意と、清らかな魂が、出会う人々をして、この人を助けたいと思う気持ちにさせたような気がしてならない。
玄奘だけではない。過去何千年のあいだ、この玉門関において、幾千・幾万の喜びと悲しみのものがたりが展開されてきたかと思うと、しばらくのあいだ、私は無口になってしまった。
漢長城跡は、ひと言でいえば、玉門関を取り囲む土塀だ。壁の強度を高めるため、土と土のあいだに藁(わら)・葦(あし)・柳の枝を入れて、上から槌(つち)で何度も何度も叩いて固めてある。雨が極度に少なく、地震もないからだろう。2100年前のものが、そのままの形で見える。これを造った兵士たちの姿が見え、その声が聞こえるような気がする。あの張騫(ちょうけん)も、あの李広・李陵も、そしてあの蘇武(そぶ)も、この土塀を見たに違いない。
バスの出発前のトイレタイム、灰皿の前で余さんが少年時代の思い出を語ってくれる。余さんは敦煌郊外の農家の生まれだという。
「子供の頃の私の役目は、さっきバスから見えたラクダ草と葦(あし)を集めることでした。ラクダ草は馬とロバの餌で、葦はほうきを作る材料です。それ以外にもこの二つの草はとても貴重です。乾かして燃料にします。湯を沸かしたり料理に使います。この二つの草を、私の村では親は『宝草・たからぐさ』と子供たちに教えていました。ラクダや馬・ロバのフンも集めました。これらも乾燥させて燃料にします。この辺りは木が少ないのです」
48歳の余さんの少年時代といえば、たった40年前である。文化大革命は終わり、鄧小平の「改革開放」はすでに始まっていた。そのような時、甘粛省の北西端の敦煌の農村の生活はこのようなものであったことを知り、中国の経済発展はごくごく最近の出来事なのだと改めて認識した。
この晩の敦煌での夕食は日本料理だった。鯖(さば)の塩焼き定食で、脂の乗りが少ない気はしたが、酢の物・漬物・茶碗蒸し・味噌汁が美味しかった。経営者は日本人ではなく現地の人だ。「日本酒もあるよ」と言ってくれたが、値段が3倍くらいするし、何よりも外国に輸出する日本酒には大量の防腐剤が入っている。酒は地元のものを飲むにかぎる。地元のビールを注文する。とても美味しい。
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| 玉門関 左はヨット部のS君 |
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| 玉門関 |
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| 建物の内部 |
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| 漢長城跡 |
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| 漢長城の土塀 土の間に藁や葦が見える |
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| 呆然と立ちすくむ田頭 |
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| 唐代の役人の姿をした観光局の人 |







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