2025年10月24日金曜日

【トルファン】玄奘と高昌国王

シルクロードのものがたり(76)

玄奘の伝記は、中国でも日本でも、また欧米でも、数多く出版されている。『西遊記』 は小説である。奇想天外なものがたりで事実とはずいぶん異なるが、これも玄奘の行跡からヒントを得て書かれたものであることはご承知の通りだ。

玄奘のすべての伝記の基となり、一番信頼できるものは、慧立(えりゅう)・彦悰(げんそう)著・『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』だといわれている。これは、当然のことなのだ。

玄奘がインドから大量の経典を持ち帰り、長安の浩福寺において(2年後に大慈恩寺に移る)漢語への翻訳に取りかかったのは645年のことだ。スタート時の翻訳チームは10人で、伝記作者の慧立という僧はこのスタートメンバーの一人である。このとき玄奘は43歳、慧立は30歳であった。大慈恩寺に移ったあと、翻訳チームは54人に増え、そのうち僧侶は44人だったという。慧立の没年ははっきりとは分からない。玄奘の没年664年の5年~7年後くらいと思われる。

よって慧立は、玄奘の弟子としてまた翻訳チームの重要人物として、玄奘のすぐ側で20年近く生活を共にしたことになる。慧立という僧名は皇帝・高宗から直接賜ったものといわれるので、この翻訳チームの指導的立場の高僧であったと察せられる。彦悰は慧立の弟子である。

それゆえに『玄奘三蔵伝』は、筆者が本人から何度か取材して、短時間で書いたという薄いものではない。20年近くにわたって、玄奘本人から根掘り葉掘り聞いたことの結晶であると考えてよい。本当かな?と思える箇所がいくつもあるが、ほぼすべて本当のことだと私は考えている。


玄奘が高昌国に入って十余日あと、その人物と識見に惚れ込んだ国王・麴文泰(きく・ぶんたい)は、インドに行かないでこの国に留まってくれと玄奘に懇願する。玄奘はこれを断るが、王は執拗に留まるように説得する。これに対して、玄奘はハンガーストライキを決行する。3日間の断食と断水で、玄奘の体力は急速に衰えてくる。深く恥じ恐れた国王は、頭を地につけて、「師よ、どうか自由に西行してください。どうか早く食事をしてください」と言った。

そして国王は、母親の張太妃(ちょう・たいひ)を立ち合い人として、玄奘と義兄弟の契りを結ぶ儀式を行う。「師よ、帰還のときは、どうかこの国に三年留まって私の供養を受けてください。出発をまげて、あと一か月ここに留まって我々に仏典の講義をしてください。その間に、師のために旅行用の服を作り、旅の準備をいたします」

玄奘は、国王・麴文泰のこの提案を受け入れる。そして、出発の日がやってくる。

慧立はその著書に、次のように記している。

「王は法師のために4人の少年僧を給侍とし、法服30具を作り、また西域は寒いので、面衣(めんい・オーバーコート)・手袋・靴・足袋(たび)などを数個ずつ作った。また黄金一百両・銀銭三万・綾(うすぎぬ)および絹(きぬ)など五百疋(ぴき)を法師の往還20年の経費に充てた。別に馬30匹・苦力(クーリー)25人を支給し、殿中侍御史(でんちゅうぎょし・役人)歓信(かんしん)をつかわし、西突厥(にし・とっけつ・当時の西域の大国)の葉護可汗(ヤブク・カガン)の衙帳(がちょう・西突厥王の居城・現在のカザフスタンにあった)に道案内させた。また24の封書を作り、屈支(クチャ)などの24国にあて、1封書ごとに大綾(たいりょう)一疋(いっぴき)を贈物としてつけた。別に綾絹(あやぎぬ)500疋と果物二車を葉護可汗(ヤブク・カガン)に献上させた」

当時の高昌国は十分な国力・財力があったのであろうが、目を見張るばかりの好意である。

慧立はさらに記している。

「そして、可汗への手紙には、『法師は私の弟です。仏法を婆羅門に求めようとしています。どうか可汗よ、師を憐れむこと私を憐れむようにしてください』と書いてあった。こうして高昌国以西の諸国に勅(みことのり)し、それぞれ駅馬を給し、逓送(ていそう)して次の国まで送るよう要請した」

考えられるかぎりの、至れり尽くせり、の配慮である。



大慈恩寺にある晩年の玄奘像










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