2025年10月2日木曜日

【敦煌】莫高窟(ばっこうくつ)

 シルクロードのものがたり(70)

敦煌という文字には「おおいに盛んなり」という意味があるそうだ。砂漠の都なので昔から沙州(さしゅう)とも呼ばれている。

敦煌が前秦・符堅(ふけん)の支配下にあった西紀366年ごろ、西方から来た楽僔(らくそん)という僧が、鳴沙山の東の断崖に洞窟を掘り仏塑像(そぞう)を安置した。これが莫高窟美術のはじまりだという。この楽僔という人はインド人だったと思われる。

同じ頃、亀茲国(きじこく・庫車・クチャ)の若き高僧・鳩摩羅什(くまらじゅう)は符堅の部下の将軍・呂光の捕虜となり、この敦煌を経由して、武威(ぶい)・長安へと連行されている。この二人の異国の僧は西方から中国に仏教を伝えた。同じころ、私の大好きな中国人僧・法顕(ほっけん)は、長安を出発して敦煌を経由しシルクロードを西に進み、インドで仏教を学んだ。

この三人の僧が、どこかで出会ったということは史書には残されていない。多分出会ってはいないだろう。しかし、ほぼ同じ時期に、この三人の僧が敦煌の景色を見ながら敦煌の空気を吸ったことを想像すると、えもいえぬ感動が私の胸に湧いてくる。

その後、元の時代に至るまでの千年間、修行僧・仏師の手によって洞窟での仏教美術の制作が続けられ、現在でも492窟にその作品が残っている。西方のカシュガル(喀仕)・クチャ(庫車・亀茲国)・ホータン(和田)の仏教美術品はイスラム教徒によって徹底的に破壊された。それに比べ、この莫高窟の仏教美術品が残ったのは、この地が漢族・チベット族・蒙古族によって支配されイスラムの侵入を防いだからである。

しかし、この莫高窟にも文化財の破壊や持ち出しの苦難の時代があった。19世紀後半から20世紀前半にかけての、欧州列強の探検隊による発掘と文化財の持ち出しである。英国のオーレル・スタイン、仏国のポール・ペリオ、スエーデンのスウェン・ヘディンらが有名である。大谷探検隊という日本人の名前も出てくる。浄土真宗本願寺派法主の大谷光瑞が指揮した探検隊である。

彼らは、この地に勝手に侵入して物品を奪い去ったというわけではない。清朝政府の了解のもとに、仏像や経典を管理する寺の住職に代価を払って購入している。ただ今日の感覚からすれば、弱体化した清朝政府の弱みにつけこみ、不当に安い代価をもって貴重な文化財を奪いとったという印象はぬぐえない。

ごく最近にも、敦煌・莫高窟の危機があった。文化大革命である。多数の紅衛兵がこの地に押し寄せて仏教遺跡を破壊しようとした。「紅衛兵を絶対に敦煌に入れるな」と人民解放軍に指示して、これを防いだのは宰相・周恩来だと聞いた。


男性ガイドの余さんが8つの洞窟を案内してくれる。わかりやすい説明で、それぞれの仏像や仏画も美しく感激する。ただし、この莫高窟内部はすべて写真撮影は禁止されている。特に美術価値の高い重要窟には昼間でも鍵がかかっていて、余さんは案内できない。

4つの重要窟を案内してくれたのは、敦煌研究院の研究員、王(おう)さんだ。王さんは35・6歳の美しい女性で、知的で人柄も良い。機転が利くというか、打てば響くといった感じの会話のやりとりが心地よい。「王さんは美人ですね。まるで楊貴妃みたいです」と私が言うと、睨み顔で「楊貴妃を見たこともないくせに!」と言って、あとでにっこりと笑う。

4つの重要窟を案内してもらった。その中の第45窟は、492窟あるなかで一番価値の高い最重要美術品だという。中央に釈迦の像があり、こちらから見て釈迦の左に弟子の阿難(あなん)、右に同じく弟子の迦葉(かしょう)の像が立っている。そのとなりには一体つ”つ、健康美あふれる菩薩像が立つ。その両外側には一体つ”つ、鬼を踏みつけている勇ましい武人の像が見える。盛唐を代表する第一級の塑像(そぞう)だそうだ。仏教美術に素人の私にも、これが素晴らしい作品だということがわかる。

「修復や、休館などで、この第45窟を見学するのはとても難しいのです。みなさんは幸運です」と王さんは言う。井上靖は、「第45窟を頂点とする唐代の諸像こそ、日本の白鳳・天平の仏たちの原流ではないかと思われる」と語っている。

王さんは中国の大学で歴史を専攻し、その後、東京の成城大学に留学したとおっしゃる。「王さん、私は敦煌がとても気に入りました。日本からここに移住して仏教修行をしようかと思います。その時は、週2-3回、王さんの助手で日本人観光客相手にガイドのアルバイトをしたいと思います」

こう言うと、「それは良い考えですね!」とにっこりと笑う。美人の王さんの写真を撮り忘れたのは、今回のシルクロード旅行での最大の不覚である。

莫高窟

莫高窟から見た外の景色
樹木はポプラ


ヨット部のS君は砂塵でくしゃみが出るらしい

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