2026年3月16日月曜日

唐代の西域詩・李白

 シルクロードのものがたり(99)


子夜呉歌(しやごか)   李白(701-762)

長安 一片の月

万戸 衣(ころも)を打つの声

秋風 吹いて尽きず

総(すべ)て是(こ)れ 玉関の情

何(いず)れの日にか 胡虜(こりょ)を平(たい)らげ

良人は 遠征を罷(や)めん

これは天宝二年(743)、李白42歳、念願の朝廷歌人になった直後につくられた詩である。「子夜・しや」というのは娘さんの名前で、南北朝の初め東晋のころの人だという。陶淵明が生きていた時代の女性である。題を直訳すれば「子夜という娘がつくった南国・呉の歌」となる。李白はそれを長安に持ってきて、西域のことを詠った。珍しいスタイルの詩である。

この詩のスタイルは白居易の「長恨歌」にも似ている。長恨歌は玄宗と楊貴妃のロマンスを描いたものだが、時代があまりにも近くてなまなましい。よって、「漢皇 色を重んじて傾国を思う」と、冒頭から漢代の話として詩をはじめている。ノンフィクションではなく小説ですよ、とのスタイルをとっている。

この「子夜呉歌」は、出征軍人の妻に代わってその歎きをうたったものだ。見方によれば、反戦歌ともとれる。与謝野晶子の「ああ、弟よ、君を泣く、君死にたまふことなかれ」に通じるものを感じる。太平洋戦争中であれば二つとも大問題になったと思うが、唐王朝も日本の明治政府も、「女性の優しい感情表現」としてこれらを許しているところが奥ゆかしい。

土岐善麿は次のように訳している。「都の空の月冴えて きぬたぞ響く家ごとに ただふりしきる秋風の 関路にかよふうき思い いつかはあだをうちはてて 帰るわが夫(せ)を迎えまし」 悪い訳とは思わないが、原文の読みくだし文のほうが人の心を打つ。

この「長安一片の月」は子夜呉歌の其の三で、この次に其の四がある。

明朝 駅使(えきし)発せん

一夜 征袍(せいほう)に絮(じょ)す

素手(そしゅ) 針を抽(ひ)くこと冷ややかに

那(な)んぞ剪刀(せんとう)を取るに堪えんや

裁縫(さいほう)して 遠道に寄す

幾日(いくにち)か 臨洮(りんとう)に到らん

あすの朝、飛脚がたつので、夫に届けてもらう綿入れを、徹夜して縫っている。針をもつ手は冷える。はさみを持つのもなんとつらいことか。これを縫い上げて、遠い道のりを飛脚に託す。夫のいる臨洮に到着するのは、いつのことだろう。


次の李白の詩は、はつらつとして気持ちが良い。

少年行(しょうねんこう)  李白

五陵の年少 金市(きんし)の東

銀鞍白馬(ぎんあんはくば) 春風を度(わた)る

落花踏み尽くして 何処(いずこ)にか遊ぶ

笑って入(い)る 胡姫(こき)の酒肆(しゅし)の中

「いきで遊侠の富裕層の少年たち」を主人公にしたスタイルをとった詩であるが、実際は李白自身がこの「胡姫の酒肆」にひんぱんに通っていたようだ。李白の父は富豪の商人と前に紹介したが、大富豪であったらしい。李白という人は一生を通じてお金に何不自由なく、大酒を飲み旅を続けた、恵まれた人であった。飲みっぷりは良いし、話題も豊富、西域の言葉も話せる、そしてなによりも金払いが良い。「胡姫の酒肆」では大いにもてたに違いない。

この外人バーの金髪で青い目のホステスたちは、本人たちがイランやサマルカンドから出稼ぎに来たのではないようだ。当時、長安には百年前、二百年前に西方から渡来した青い目の胡人たちの大集落があった。ここの娘さんの中の美人が、この外人バーで働いたようである。

この「少年行」という題の詩は、当時長安で流行したらしい。王維にもこの題名の詩がある。王維の「少年行」を紹介する。漢代の任侠少年の心意気をうたったもので、最後の一行は特に有名で、禅宗の高僧が好んで使う言葉になった。一行目の「羽林郎」は「近衛将校」、二行目の「驃騎」とは「驃騎将軍・ひょうきしょうぐん・霍去病・かくきょへい」のことである。


少年行(しょうねんこう)  王維

出身 漢に仕(つか)う 羽林郎(うりんろう)

初めて驃騎(ひょうき)に随(したが)って 漁陽(ぎょよう)に戦う

たれか知らん 辺庭において苦しまざるを

縦(たと)い死すとも 猶(な)お侠骨(きょうこつ)の香(かんば)しきを聞かしめん

李白の項で王維の詩を紹介してしまった。おしまいは李白の詩で締めくくりたい。


漢詩のなかに「詠史・えいし」と呼ばれるものがある。文字通り歴史をテーマとして詠んだ詩で、唐代にかぎらず中国の歴代の詩にこの詠史は数多く残されている。先の王維の「少年行」も「詠史」に分類することができるかもしれない。次の李白の「蘇武・そぶ」は詠史のなかで特に秀作といわれている。匈奴の捕虜となり十九年、バイカル湖のほとりで羊を飼い、雁(かり)の足にくくりつけた手紙でその生存がわかり、めでたく唐に帰還したというあの有名な話である。蘇武の親友・李陵の名も入れて、じつに簡潔に蘇武の苦難を描いている。

蘇武(そぶ)   李白

蘇武 匈奴に在(あ)り

十年 漢節を持(じ)す

白雁(はくがん) 上林に飛び

空(むな)しく伝う 一書札

牧羊 辺地に苦しみ

落日 帰心絶ゆ

渇(かつ)しては 月窟の水を飲み

飢えては 天上の雪を餐(さん)す

東に還(かえ)らんとして 沙塞(ささい)遠く

北に愴(いた)む 河梁(かりょう)の別れ

泣いて 李陵の衣(ころも)を捉(と)り

相看(あいみ)て 涙血を成す

この蘇武十九年の捕虜生活とその帰還、および親友・李陵との別れの物語に、中国人だけでなく、過去多くの日本人が感動したようだ。江戸時代には狩野派の何人もの絵師や渡辺崋山などがこの蘇武の絵を描いている。明治期に入ってからも、橋本雅邦・中村不折をはじめとして多くの画家がこの詩の情景の名画を残している。私は不折の蘇武と李陵の別れを描いた「蘇李訣別」の絵が特に好きだ。













2026年3月9日月曜日

唐代の西域詩・王維(2)

 シルクロードのものがたり(98)

じつは、ここから先は、王維ともシルクロードともまったく関係ない。当時の極東アジアの政治・軍事についての私の考察と私見である。本題からは大いに脱線するが、おつきあいいただければありがたい。


朝鮮半島に「安東府」が置かれたのは漢の時代である。その前に、漢人の衛(えい)氏が朝鮮半島の北部一帯を支配していたが、漢の武帝が軍を派遣してこれを滅ぼした。そして楽浪郡を含め四郡を漢の出先機関とした。すなわち、朝鮮半島の北半分は漢の植民地になった。BC108年のことだ。そして、現在の平壌(ピョンヤン)に「安東府」を置いた。当然ながら、このときの安東府の長官である「安東将軍」は漢人であった。

それから400年後、AD313年に勢力を拡大した高句麗によってこの楽浪郡は滅ぼされた。高句麗以外にも新羅・百済(ひゃくさい)などが勢力を強めてきた。そこで中国は、これらの朝鮮半島の国々の王様に「安東将軍」の称号を与え、間接的に朝鮮半島を支配下に置くという方針に切り替えた。漢人の兵士は引揚げた。中国にとっては軍事費節減にもなった。

当時の中国のやり方は、アメリカ合衆国が現在、日本・韓国・フィリピンなど極東から自国の軍隊を縮小して、それぞれの国に軍事費の負担を増やすよう求めている姿に似ている。


ここで、中国にとって都合の良いことが発生する。「飛んで火にいる夏の虫」と言っても良い。朝鮮半島の東にある列島の国王(倭王)が、「自分も安東将軍に任命して欲しい」と言ってきたのである。中国側は大いに喜んだ。『宋書』には次のようにある。「438年 宋・文帝 倭国王珍(反正天皇?)を安東将軍に叙す」「462年 宋・孝武帝 倭国王の世子の興(安康天皇?)を安東将軍に叙す」

これにより、中国の東方の勢力範囲は日本列島にまで拡大したことになる。

この頃の倭王の多くは「大将軍」の称号が欲しかったようだ。朝鮮半島の国々と同じ「将軍」では面白くない、という気概があったのだろう。宋の順帝、昇明2年(478)の『宋書』の記述はとても面白い。倭王・武(雄略天皇?)が順帝に奉じた上表文には次のようにある。

「自分は東に毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐこと九十五国なり」と。あたかも日本列島の面積が中国大陸に匹敵するくらい広いと印象つ”けるような、大言壮語の上表文である。「このような大国の王であるから、自分を安東将軍ではなく安東大将軍に任命して欲しい」と言っているのだ。

このブログで以前、「精力絶倫・雄略天皇」の題でこの天皇のことを紹介した。精力絶倫であると同時に、やる気満々の積極的な気質の人であったようだ。

面白いことに、中国側はこれを認めている。

「詔(みことのり)して武を使持節・都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭王に叙す」との辞令を発している。なんだか「朝鮮半島を含めた極東の政治・軍事はすべてお前さんに任せるよ」と言っているような、たいそうな肩書である。

もっとも、丁寧に中国史の年表を見ると、「宋」という王朝はこの年478年に滅亡して、翌479年には「斉」という王朝が建国されている。その23年後には「斉」もまた滅び、「梁」の武帝があらたな国を建国している。だから、滅亡寸前の宋王朝にとって、倭王・武の肩書どころではなかったのだ。「やりたいというのだから、やらせてやれよ」程度の話で朝儀は決したのであろう。倭王・武は、いわば、どさくさに紛れて安東大将軍になった。

かたや、日本史の年表を見ると、この年478年に雄略天皇は崩御している。安東大将軍になった喜びを、本人が味わったかどうかはわからない。


日本男児の私としては、「日本はいまだかつて他国の属国であったことはない」と言いたいのではあるが、上の出来事からして、残念ながら、3世紀から6世紀の日本が中国の属国であったことは否定できない。

これに真っ向から反旗をひるがえしたのが聖徳太子(574-622)である。この人は偉い人であった。聖徳太子や藤原鎌足・藤原不比等・粟田真人たちの努力で、日本が中国の属国から離れてすでに千数百年が経つ。ただ残念なことに、現在の日本国は、またしてもアメリカ合衆国の属国の立場にある。大きな戦争に負けたのだから仕方がないことかも知れない。

アメリカは太平洋戦争で日本に勝利した。日本の各都市への無差別爆撃や原子爆弾の投下など、非人道的な行為に心やましい気持ちがあったのだろう。戦後、当面の間、食料の援助を含めて日本をおおいに助けてくれた。これには感謝している。その後、ソ連の東アジアへの赤化を食い止める防波堤として、アメリカは自国の西にある日本を「安西将軍」の立場に置いた。日本は経済発展を成し遂げると同時に、アメリカ側の期待に充分に応えた。

そして現在、アメリカは中国の勢力拡大を抑えるため、「日本を安西大将軍にしてやる。だからもっと金を出せよ」と言ってきている。馬鹿なふりをして、嬉しそうな顔をして、この「安西大将軍」の称号を受けるのが良いのだろうか?アメリカ帝国の皇帝様から「安西大将軍」の称号を受けるのは気が進まない。私はこれに躊躇している。そうかといって、中華帝国の皇帝様から「安東大将軍」に任命してもらうのはまっぴらごめんだ。

どうすれば日本は真の独立国家になれるのか。

鎌倉時代、北条時宗の頃のような「凛とした独立国家」になりたいものだ。そのためには、日本人は、そして私自身は、どうすれば良いのか。私は近頃このことをまじめに考えている。







2026年3月2日月曜日

唐代の西域詩・王維(1)

 シルクロードのものがたり(97)


元二(げんじ)の安西(あんせい)に使いするを送る   王維(701-761)

渭城(いじょう)の朝雨 軽塵(けいじん)を浥(うるお)し

客舎青青(かくしゃせいせい)として 柳色(りゅうしょく)新たなり

君に勧む 更に尽くせ一杯の酒

西のかた陽関(ようかん)を出つ”れば 故人無からん


この詩は以前に紹介したが、もう一度取り上げてみたい。今回シルクロード旅行をご一緒した方々は、大学教授を含めて知的レベルの高い人が多かった。ある晩の夕食のとき、この詩が話題になった。この詩は高校の漢文の教科書に出てくるので、日本人のだれもが知っている。

ある方が、「それにしても、夜を徹して朝まで飲み続けていたんですね。出発する元二さんは馬に乗ってフラフラしていたでしょうね」とおっしゃる。私自身、高校時代からこの詩が好きだったが、「夜を徹して朝まで飲んでいた」という認識はなかった。じっくりこの詩を読むと、そうであることがわかる。

この話を聞いて、私が以前に抱いていた疑問がふたたび頭にもたげてきた。この詩について、「王維の親友である元二(元兄弟の二番目の弟)を見送ったときの詩」と多くの先生方が解説していることへの疑問である。王維が若い時これを書いたのがわかれば、私の疑問は解消されるのだが、それはどの解説書にも書かれていない。

確たる証拠はないのだが、どうも私には、この詩が王維の晩年とは言わないまでも、中年以降の作品の気がしてならない。もしそうであれば、主人公の「元二さん」は、王維の親友の息子、もしくは親友の弟だったのではあるまいか。というのは、このように遠方に使いに行く人物の年齢は三十歳前後だと思うからだ。軍人であれば大尉か少佐、文官であれば課長補佐クラスが、このような遠方への使者として派遣されるのが世界史や日本史の通例である。

いま一つ。クチャに使いに行く人物が王維の親友であれば、「元二」(元兄弟の二番目の弟)というあやふやな表現ではなく、まじめ人間の王維であるから、きちんと親友の下の名前を書いたに違いない。

張騫が漢の武帝の命令で、100人の供を連れて大月氏国に向かったのは、彼が35歳ごろである。瀬島隆三が大本営参謀の身分を隠し、シベリア鉄道を使って同盟国ドイツに使いに行ったのは、彼が30歳、少佐の時である。

この役職には機敏な判断力と同時に頑強な体力が求められる。少尉・中尉クラスの若造では実力不足で、大佐以上の老齢では体力的にきつい。王維と親しかった元二の父親もしくは長兄が、社会的な地位がありかつ有名な詩人でもある王維に、息子もしくは弟のために、咸陽で開かれる送別会とそこでの詩会への参加をお願いしたような気がしてならない。

昨年、私がこの詩をあらためて読んで、それ以降半年間も「変だな、変だな」と悩んだ話は以前お話しした。シルクロード旅行にそなえ、現在の中国の地図をながめていて「安西」という都市を発見したことにより、その悩みが始まった。

地図を見ると「安西」は敦煌の東北200キロの場所にある。すなわち、玉門関や陽関よりも長安寄りに位置する。そこへ使いに行く元二さんに対して、「西のかた陽関を出ずれば故人無からん。だからもう一杯飲めよ」と酒を勧める王維の言葉に、とても違和感を感じていた。

その後何冊かの本を読んで、この「安西」という言葉のもとの意味は、固有の地名ではなく「西方を安んじるために安西将軍が駐屯する場所」であることを知った。中国の国力の強弱によって、この駐屯地はあちこちに移動している。王維がこの詩を詠んだとき唐の勢力範囲はとても広大で現在のウズベキスタンまで至っている。このときの「安西府」は敦煌・陽関より1000キロも西方のクチャ(庫車)にあったことを知り、ようやく納得できた。

安西があるのだから、当然、安北・安南・安東もある。それぞれの地に、数千の兵を率いる将軍が駐屯していた。唐の勢力が強い頃の安北はバイカル湖の近くにあったが、北方の匈奴の勢力が強くなると500キロほど南方に後退している。ほぼ一貫して同じ場所にあったのは、現在のハノイにあった安南府だけである。

日本人の私にとって気になるのは「安東」である。倭の五王といわれる日本の古代の天皇が「安東将軍」の称号を中国の皇帝や王様からもらったという話が、頭の片隅にあったからである。

(次号に続く)