シルクロードのものがたり(100)
涼州詞(りょうしゅうし)というのは西域を詠った辺塞詩(へんさいし)の中の一つのジャンルといってよい。この涼州詞は玄宗皇帝の時代に長安で流行した。王翰(おう・かん)と王之渙(おう・しかん)の二人が、この涼州詞の巨頭といわれている。
涼州は狭義では甘粛(かんしゅく)省の武威(ぶい)郡だが、広義には甘粛省の北西全体を指す。漢代の河西四郡の武威(ぶい)・張液(ちょうえき)・酒泉(しゅせん)・敦煌(とんこう)を含み、いわばシルクロードの入り口にあたる地域である。
王翰(おう・かん・687-726)
この王翰という人は李白や王維よりひとまわり年上で、孟浩然より二歳年長だ。酒を好み、家に名馬と美妓を集めて、狩猟や宴会にあけくれた豪放な性格の人だったようだ。『唐詩選』に収録されているこの人の「涼州詞」は特に有名だ。ただし、本人は涼州での勤務はない。みやこ長安で想像の上でつくられた詩である。
涼州詞 王翰
葡萄の美酒 夜光(やこう)の杯
飲まんと欲すれば 琵琶馬上に催(うなが)す
酔うて沙場(さじょう)に臥(ふ)すも 君笑うこと莫(なか)れ
古来征戦(せいせん) 幾人か回(かえ)る
この詩にまつわる興味深い話を聞いたことがある。
日本軍が中国に侵攻した頃だから、昭和12-3年頃の話だと思う。汽車の中で日本軍の若い将校が、酒の酔いにまかせて傍若無人なふるまいをした。車中の中国人はそれを見て眉をひそめたが、後難を恐れてだれも注意しようとしない。たまたま同じ車両に日本人が乗りあわせていた。漢詩に明るい人だったようだ。これを見かねて「酔臥沙場君莫笑 古来征戦幾人回」と書いて中国人に示したところ、かれらは苦笑しながらうなずいて納得してくれたという。
この「夜光の杯」は正倉院にもあるイラン方面から入った「ガラスのコップ」か、それとも「玉(ぎょく)か石をくりぬいた杯」なのか、昔から議論がある。私は、自分がこの前のシルクロード旅行で一個一万円で買った、ぐい飲みの杯に似た、「蛍光物質の入った原石をくりぬいた杯」の気がしている。
王之渙(おう・しかん688-742)
王翰より一歳若い人で、王翰とともに、「涼州詞の双璧」といわれている。進士合格のエリートだが人つ”きあいが悪く、詩人としては有名だが役人としては出世しなかった。この人も王翰と同じく辺境には行っていない。昨年秋のシルクロード旅行のとき、最近造られた玉門関の建物の壁に、この人の次の詩が大きく描かれていた。
涼州詞 王之渙
黄河(こうが)遠く上(のぼ)る 白雲の間(かん)
一片の孤城(こじょう) 万仭(ばんじん)の山
羌笛(きょうてき)何ぞ須(もち)いん 楊柳(ようりゅう)を怨むを
春光(しゅんこう)度(わた)らず 玉門関
辺境の守りに動員された兵士たちの孤絶した心境を代弁している詩といわれる。守屋洋氏は次のように訳している。
黄河を遠くさかのぼっていくと、幾重にもかさなる山々に囲まれて、ポツンと小さな町が横たわっている。羌(きょう・チベット系の民族)の人々よ、いくら笛が好きだからといって、なにもそんなに物悲しい別れの曲ばかり吹き鳴らすことはないではないか。ここ玉門関までは、春の風さえ渡ってこないのだから。
岑参(しん・じん・715-770)
上記の王翰・王之渙の二人が「涼州詞の双璧」といわれているが、この岑参という人も盛唐の一流詩人だ。杜甫・李白・王維に次いで第4位、28首が『唐詩選』に収録されている。横綱級の詩人といってよい。
先の二人が西域に足を踏み入れていないのにくらべ、この岑参はウルムチ・クチャ方面に節度使の幕僚として10年以上も従軍している。進士合格の文官だったので、日本陸軍にたとえれば主計中佐か大佐のような立場だったと思われる。辺境への従軍は自ら志願したものだというから、冒険心に富んだ人だったようだ。杜甫より3歳若く、杜甫とつきあいのあったことが記録に残っている。
この人の場合は、長安において想像で書いたのではなく、最前線に身を置いて書いた詩なので、涼州詞というより「辺塞詩・へんさいし」というほうが適切かも知れない。いくつもの名詩を残している。
封大夫(ほう・たいふ)の播仙(はせん)を破るの凱歌(がいか) 岑参
漢将 恩を承(う)けて 西のかた戎(じゅう)を破(やぶ)る
捷書(しょうしょ)先(ま)ず奏す 未央宮(びおうきゅう)
天子預(あらかじ)め 麟閣(りんかく)を開いて待つ
只今(ただいま)誰(たれ)か数(かぞ)えん 弐師(じし)の功(こう)
封(ほう)大夫とは節度使であった封常清という人で、岑参はこの人の幕僚であった。節度使の下には何人もの将軍がいた。「漢将」とは漢代の大将軍「李広利・り・こうり」のことで、「弐師・じし」とは漢の武帝が李広利に与えた尊称である。
「漢の大将軍・李広利は戎(じゅう・西方の異民族)を破り、中央宮へその戦勝が報告された。今回自分の上司である封(ほう)節度使が播仙(はせん・夷狄)を破った大勝はそれ以上の戦功である。この大手柄の前には李広利大将軍の功績さえも色あせる」といった意味であり、自分の上司の手柄を大きく描いた祝賀の詩である。封(ほう)節度使は、自分の功績を讃えてくれる良い部下を持った、と喜んだに違いない。
日露戦争に奥大将の第二軍の軍医部長として従軍した森鴎外は、文官ではなく医官だが、二百三高地で文筆家として慰霊の文章をいくつか書き、この岑参と似た役割をはたしている。
京(けい)に入(い)る使いに逢(あ)う 岑参
これは沙漠を西に旅する途中、都へ向かう使者に出会ったときの詩だ。この東方に向かう使者は、岑加の知人であったように思える。
故園(こえん) 東を望めば 路漫漫(みちまんまん)たり
双袖(そうしゅう) 竜鍾(りょうしょう)として涙乾(かわ)かず
馬上に相遭(あいお)うて 紙筆(しひつ)無し
君に憑(よ)って伝語して 平安を報ぜん
いま一つ、岑参の詩を紹介する。
碩中(せきちゅう)の作 岑参
馬を走らせて 西来(にしのかた)天に到(いた)らんと欲す
家を辞して 月の両回円(りょうかいまど)かなるを見る
今夜知らず 何(いず)れの処(ところ)にか宿らん
平沙万里(へいさばんり) 人煙(じんえん)を絶つ
「月の両回円か」とは二ヶ月経ったという意味。「碩(せき)」は小石のまじった沙漠のことだ。我々はシルクロードの旅で、トルファン・ウルムチ間を高速バスで横断したが、そこは「礫砂漠・れきさばく」といわれる石交じりの沙漠だった。あのあたりでつくった詩かも知れない。
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| 玉門関の壁にある王之渙の詩 |


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