これは当時、佐伯海軍航空隊で零式三座水偵の操縦員だった人から聞いた話である。
「昭和20年の4月6日の夕方のことです。
あの日は、豊後水道から日向灘・佐多岬までの水域の敵潜水艦の索敵攻撃を命じられていました。作戦の中身は知らされていませんでしたが、近いうちに海上部隊による重大な作戦が行われるので、敵潜水艦をこの水域に入れるな、との分隊長からの命令でした。
佐多岬の沖で帰投を開始して、佐伯航空隊のすぐ手前までもどった時です。
時刻は18時前でしたが、日没までには時間があり、昼間と同じように外の景色は、はっきりと見えていました。
私は操縦をしており、前方を見ていたので気が付きませんでした。
中央座席のラバウル帰りの偵察の八幡兵曹長が、私の背を押して、下を、下を、と合図するので、下の海面に目をやりました。
中央の巨大な軍艦を取り囲むように、7-8隻の駆逐艦が南下していました。あとで聞いたら、軽巡洋艦もいたらしいですが、私の眼には大型艦以外はすべて駆逐艦に見えました」
大和乗組員で、生き残られた兵士の手記に、
「四国の最西端、佐田岬の突端の桜が、大和の艦上から肉眼で見えた」
とあるので、この零式三座水偵の操縦員の証言とも一致する。
戦艦大和は沖縄にたどり着けず、この天一号作戦では3721名の将兵が戦死された。
大和特攻だけではない。神風特別攻撃隊、回天特別攻撃隊、そして、北の島で、南の島々で勇敢に戦って戦死された陸軍や海軍の数多くの兵隊さんたち。そして軍属の方々。
戦後70年以上、日本が他国から侵略されていないのは、日米安保条約だけが理由ではないように思える。
これらの勇敢に戦って戦死された数多くの方々の霊魂が、日本という国を護ってくださっているような気がしてならない。
先の大戦で戦死なされた、数多くの方々に対して、心からの哀悼の気持ちと感謝の誠を捧げたい。
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