2019年12月12日木曜日

熱田神宮(3)

熱田神宮は長い歴史を持つ古社である。

日本武尊以外にも、空海・源頼朝・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など日本史の巨人たちが、この神社に深い縁(えにし)を持っている。

なかでも、源頼朝のこの神社に対する思い入れは尋常ではない。頼朝の母が、熱田大宮司・藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘であることは知られているが、頼朝自身がここで生まれている。

現在でもその習慣は残っているが、当時は妻の実家で出産するのが普通だった。熱田神宮の道ひとつ隔てた西側にある神宮寺・誓願寺(せいがんじ)の門わきに、「右大将頼朝公誕生旧地」と記された石標がある。ここが熱田大宮司の館跡(やかたあと)で、頼朝が生まれた場所である。

頼朝が何歳までここで生活したかは知らないが、2歳・3歳のよちよち歩きの頃、熱田神宮の境内がその遊び場だった可能性は充分にある。頼朝の初陣は13歳のとき、平治元年(1159)の平治の乱である。源氏は平清盛に敗れ、父・義朝(よしとも)は殺された。母はその1年前に病死している。

頼朝は一命を許され、翌年3月伊豆に流された。天下は平家全盛の時代となる。
その厳しい監視の中の頼朝にたいして、経済的な支援を含めてなにかと温かい手を差しのべたのが、母の弟である熱田大宮司・藤原祐範(ふじわらのすけのり)であった。

古代から尾張国造である尾張氏が代々この神社の宮司であったが、11世紀の後半、その外孫にあたる藤原季範が大宮司になり、その後はその子孫がこの職を世襲した。

熱田神宮は広大な社領荘園を有し、大宮司家は武士団の頭領(とうりょう)でもあった。平安時代の末期、経済的にも裕福であった熱田大宮司の威勢は 「国司をもしのぐ」 といわれた。
天下人の平清盛ですら、藤原氏の一族であり、かつ三種の神器のひとつ「草薙剣」を抱える熱田大宮司・藤原祐範に対しては、遠慮があったかと思える。

後年、建久2年(1191)、祐範の子・任憲(頼朝のいとこ)が、代々熱田神宮が所有してきた神領を僧(寺)に奪われて争った時、頼朝は朝廷にとりなしをしている。「吾妻鑑」のなかの頼朝の副状
(そえじょう)には、「その土地には恩人の墓があり、子が父の霊を慰められないのは不憫」とあり、
頼朝の祐範に対する思いが伝わってくる。


余談ではあるが、全国の神社をお参りしていて、「それにしても、、、、!」と、深く感じ入ることがひとつある。

私がお参りした関東から中部地方にかけて、頼朝が寄進した、修理・再建したという神社がいたるところにあるのだ。頼朝の経歴からして、熱田神宮・三島大社・伊豆山神社・箱根神社・鶴岡八幡宮などを大切にしたことはよくわかる。しかし、とてもこれらにとどまらない。相模一宮・寒川(さむかわ)神社、二宮・川匂(かわわ)神社、三宮・日比多(ひびた)神社、相模国総社・六所(ろくしょ)神社などにも多額の寄進をしている。

さらには、常陸の古社・鹿島神宮を含め、下総・香取神宮、上総・玉前(たまさき)神社、安房・安房神社、安房・洲崎神社、下野・二荒山神社、武蔵・氷川神社、武蔵国総社・大國魂神社、さらには、とおく、加賀・白山比咩神社、近江・建部神社、伊予・大山祇(おおやまずみ)神社、豊前・宇佐神宮など、そしてこれら以外にも、おびただしい数の神社に源頼朝の寄進の跡が見られる。


織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・武田信玄・上杉謙信などの大物武将も、一様に神社・仏閣を大切にして寄進や修理・再建を積極的におこなっている。これには政治家としての人心掌握の一面がある。その土地の人たちが崇拝している神社・仏閣を大切にしてくれる為政者に対して、土着のひとびとが良い感情を抱くのは人情である。

頼朝にしても、当然そのような政治的な配慮があったには違いない。しかし、とてもそれだけでは説明できないほどの熱の入れようである。

三つ児の魂(たましい)百まで、という言葉がある。

母や祖父・叔父たちとの、幸せな幼少時代の記憶が、この熱田神宮にあったに違いない。

源頼朝という人は、よほど神社が好きな人だった気がする。



















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