2025年10月20日月曜日

【トルファン】高昌故城

 シルクロードのものがたり(75)

トルファンは一泊だけなので、盛りだくさんの観光地見学で大忙しだ。特に印象が強かったこの高昌故城と、そのあとのカレーズ(地下水路)での見聞だけをお伝えしたい。

トルファンに関係する歴史上の重要人物は「玄奘三蔵」だと思う。トルファン観光とは少しずれるが、この玄奘についての私の考察を、次の掲載で、数編書き加えたいと考えている。玄奘に関心のない方にはあまり面白くないかもしれないが。

高昌国王・麴文泰(きく・ぶんたい)の玄奘に対する異常なまでの尊敬と好意について、私は何十年も不思議な気持を抱き続けてきた。麴文泰はなぜ、あれほどまでの好意を示したのか。いまひとつ。玄奘がインドから帰国するとき再度この地に立ち寄り、3年間ここに留まるという二人の固い約束は実行されなかった。高昌国が唐に滅ぼされたからである。高昌国はなぜ滅びたのか。

このような疑問を持っていた私にとって、この高昌故城は先の玉門関と並び、今回の旅行の最重要の見学地である。そして、まったくの偶然の出来事により、点と点が結びついた格好で、私の疑問はほぼ解消することができた。そして自分なりの仮説を組み立てることができた。学問的にどれだけの価値があるか分からないが、私としては「歴史の大発見」をしたような気持でいる。これについては、この先で語りたい。

高昌故城は、トルファン市街から東40キロの場所にある。城の周囲は約5キロ、城内の面積は200万平方メートルというから東京ドームの約40倍ほどの広さだ。

この高昌国という国は、6世紀・7世紀になって突如、麴(きく)氏という漢人がつくった国ではない。その歴史は古い。漢の武帝のころ、この地は中国の勢力圏に入った。武帝のひ孫の宣帝の時代、軍人とその家族がこの地に派遣され、いわゆる屯田兵としてこの地域の守備を行うことになる。中原の王朝の勢力が強いときには、彼らは中央の命令に従う軍人である。ところが、王朝が衰退したり他の王朝が取って代わると、彼らは独立した王様として行動し、中央の言いなりにならない。このような形での漢人によるこの地の支配が、「魏・晋・南北朝」の混乱のあいだ400年ほど続いたあと、麴氏・高昌国は140年ほど繁栄することになる。


入城手続きを終えると、ここでも15人乗りくらいの運転手付きカートで城内を移動する。カートが入れない場所は徒歩で歩く。高昌故城の入り口には、玄奘の像が勇ましい姿で建っている。玄奘に敬意を表し、帽子を脱いで写真を撮る。

故城の内部は、砂漠の中に土と煉瓦と石でできた宮殿跡・仏閣跡・住居跡があちこちに見えるといった光景である。英語・漢語・ウイグル語での案内板が見える。玄奘がこの地を訪れたと書いてある。我々日本人は、漢語を読むと8割がた理解できる。

「このお堂で玄奘が説法しました」とエイさんが教えてくれる。広いお堂ではない。30-40人程度が入れるスペースだ。ぎっしり詰めれば50人が入れるかもしれない。「今は上部は崩れていて青い空が見えますが、当時はレンガが積まれた立派な建物でした。音響効果も良く、マイク無しでも玄奘の声は全員にはっきり聞こえたはずです」とエイさんは説明する。

私からエイさんに質問する。「玄奘は中国を出発する前、サンスクリット語を含め西域の言葉を勉強していて、外国語にかなり堪能だったと聞きます。このお堂では何語で説法したのでしょうか?」

「漢語です」とエイさんは断定的に答えた。「当時の高昌国は支配層の漢人が人口の1割を占めていました。ウイグル人でも宮廷に出入りする人は、漢語を不自由なく使えたはずです」とエイさんは説明してくれる。現在のウイグル人もだいたい漢語が話せる。漢語が話せると豊かな生活ができるからだ。千五百年前のウイグル人も日常的に漢語を使っていたように思える。

帰路のカートの中でエイさんが言う。「あれを見てください。あそこが西門です。西門はVIP専用の出入り口です。玄奘があの門からこの城に入ったのは間違いありません」

エイさんの説明を聞いて私は胸が躍った。そして、その時の玄奘の姿を想像してみた。徒歩ではあるまい。馬車でもラクダでもない。玄奘は馬に乗って、この西門から入ったと考える。


城跡を出て、ここに隣接した食堂で西瓜をご馳走になる。私がハミウリに入れ込んでいるのを知っているエイさんは、「あれがハミウリの苗だよ。西瓜やハミウリを食べたお皿を店の人が洗ったあと、ハミウリの種が勝手に芽を出したんだ」と教えてくれる。私が田舎の畑に植えている胡瓜やまくわ瓜の苗とほとんど変わらない。これは、私にとっては貴重な光景だった。


高昌故城入り口にある玄奘の像


故城内部の景色

故城内部の景色

故城内部の景色

ここで玄奘が説法した



高昌故城全体の航空写真

食堂の流し場で見たハミウリの苗

2025年10月17日金曜日

【トルファン】ウイグル料理と胡姫の舞踊

 シルクロードのものがたり(74)

トルファンでのガイドはエイさんという名のウイグル人の男性だ。年のころ40過ぎか。この人が次のウルムチを含め、新疆ウイグル自治区全体を案内してくれる。この人もタバコを吸うのですぐに仲良しになる。エイさんにもライターをもらった。

「中学生のとき、ウルムチに住む日本人に日本語を教えてもらいました。ウルムチの日本語学校に通ったこともありますが、自分の日本語はほぼ独学です」と本人は言う。とても分かりやすい日本語を話す。本人の努力もさることながら、語学の才能があるのだろう。歴史の造詣も深くたいした人物である。

エイさんに案内され、バスでウイグル族の郷土料理のレストランでの夕食に向かう。どんな料理が出てくるのかと身構えていたが、写真に見えるとおり十種類の料理と共に米やナンを食べる。イスラム教徒が多いからであろう、豚肉は出ない。鶏料理が多いかと思っていたが案外少ない。牛肉と羊肉が多い。魚のスープも出るが、当然ながら淡水魚だ。まったく違和感は感じないで、美味しく食べられる。地元名産の赤ワインがサービスで出るが、これも美味しい。

食事が半ばを過ぎると、三人の胡姫が舞台に上がり、音楽とともにダンスをはじめる。三人の胡姫は感じも良く、踊りも上手だが、長い間自分がイメージしていた胡姫と違い、アジア人の顔立ちをしている。


高校時代から愛唱してきた李白の詩、「少年行」の中の胡姫のイメージが頭にしみついていたのかも知れない。

五陵の年少 金市(きんし)の東

銀安白馬 春風を度(わた)る

落花踏み尽くして 何処にか遊ぶ

笑って入る 胡姫(こき)酒肆(しゅし)の中

この詩には、「西域から来た金髪で青い目をした胡姫のいる外人バー」といった感じの解説があった。これにより、胡姫というのは、金髪で青い目をしたイラン系の彫の深い女性だと思い込んでいた。そういえば、ガイドのエイさんも、自分はウイグル族だというが、私から見たら日本人の顔とあまり違わない。

翌日のタバコ時間に、エイさんにこのことを聞いてみる。どうも私の認識が誤っていたようだ。ウイグル族というのは、人種的におおざっぱにいえば、「モンゴロイドとコーカソイド(コーカサス地方に住む原住民)の混血」らしい。これにイランやさらに西方から入ってきた金髪・青い目の人種の血がほんの少し混じっている。よって、町ゆく人の100人に2・3人ぐらいが私のイメージしていた胡人の顔であり、残る大部分は我々日本人の顔に似ている。


3人の胡姫が二曲ほど踊ったあと、我々のテーブルに向かい、男性客に舞台に上がって欲しいと言う。一緒に踊ろうというのだ。だれもが尻込みするなかで、成蹊ヨット部出身のS君はさすがだ。勇んで舞台に上がっていく。アフリカやベトナムでの駐在が長いので、こういう場面に慣れているのかもしれない。S君の踊りは結構上手い。やんやの喝采である。

S君一人では足りない、もう一人か二人上がってくれと、他の胡姫が手と顔でテーブルに向かって合図する。テーブルの男性客はみんな下を向いて目線が合わないようにしている。私も同じように下を向いていた。そうしていたら、一人の胡姫がつかつかと舞台から降りてきて、私の腕をつかんで上がって一緒に踊ろうという。

美人の胡姫にここまでされて、グズグズするのは日本男児として恥ずかしい。私は意を決して舞台に上がる。下手な踊りを二つほどこなしてテーブルに戻ると「良くやった!」とみんなが言ってくれた。踊りの旨い下手ではない。破れかぶれの行動に対してのようだ。

下手な踊りでも、身体を動かして汗をかくと気持ちが良い。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らなにゃ損損」という言葉がある。本当だな、と思った。


トルファン・ウイグル族の郷土料理

胡姫の踊り






2025年10月13日月曜日

中国の新幹線・敦煌からトルファンへ

 シルクロードのものがたり(73)

旅の5日目、8月27日(水曜日)。この日はバスで2時間30分、新幹線で3時間30分と、6時間かけて敦煌からトルファンに移動する。

午前中はホテルから南西に50キロ、バスで1時間弱の西千仏洞に向かう。莫高窟の西にあるのでこう呼ばれている。同じように石窟の中に仏像・仏画がおさめられている。美術品としての価値は莫高窟に劣るといわれるが、川の流れと豊かな樹木の緑が心を癒してくれる。この西千仏洞からさらに西に30キロ進むと、王維の詩に出てくる「陽関・ようかん・南の玉門関」があるが、我々は行かない。玉門関にくらべると保存状態が良くないと聞いた。

その後、敦煌の町に戻り、夜光杯を売る店に案内される。「葡萄の美酒 夜光の杯」という王翰(おうかん)の有名な詩がある。よって、ここで買うのはワイングラスが似合うのだが、私には自宅でワインを飲む習慣がない。しかも2つセットで数万円と高い。原石から一つ一つ手作りするので、値段が高いらしい。純米酒を冷で飲むとき使おうと思い、ぐいのみを一つ買う。2杯で1合といった感じの大きさで、1万円だ。

このあとバスで2時間30分かけて、敦煌の町中から新幹線の柳園南駅に移動する。ガイドブックには敦煌の人口は14万人とある。2日間この街をウロウロした私の直感では、もう少し人口が多い気がするのだが。


敦煌はオアシスの町なので、町の周辺には畑があり果樹園がある。バスの中から目を凝らして見ていると、一番多いのは葡萄畑だ。「ハミウリ畑は?ハミウリ畑は?」とキョロキョロするのだが、なかなか見つからない。「あれがハミウリ畑だよ」と余さんが言うので、あわててスマホを取り出すが、その時はすでにハミウリ畑は過ぎ去っている。葡萄以外で目に付く農作物は、小麦と綿(わた)だ。樹木で一番多いのはポプラの木だ。あれは桑(くわ)の木です、と余さんが言うのを2度ほど聞いた。

ただし、町中から30分も走ると、あたりの景色はまた砂漠一色に変わる。玄奘が突然あらわれた僧にもらった梨をかじりながら、成都で助けたインド人の病僧がくれたサンスクリット語の般若心経、「ガテー・ガテー・パーラガテー・パーラサンガテー・ボーディ・スヴァーハー」を唱えながら、この砂漠の中を一人で北に向かった姿を想像する。


中国の新幹線は思ったより乗り心地が良い。でも、私が広島県に帰るとき毎月乗る「のぞみ号」に比べるとスピードが遅い気がする。添乗員のOさんがくれた列車案内を見ると、柳園南駅から吐魯番(トルファン)北駅までの乗車時間は3時間33分とある。距離は633キロだから、スピードは時速180キロとなる。のぞみ号は260-270キロだから遅く感じるのは当然だ。中国の新幹線に一抹の不安を持っている私は、あまりスピードを出さないで欲しいと思っていたので、これくらいがちょうどいいやと思った。

柳園南駅と吐魯番(トルファン)北駅のほぼ中間に哈密(ハミ)駅がある。「停車時間はたった2分間ですから、ホームには絶対に降りないでください」と添乗員のOさんは大声で注意するのだが、そうはいかない。ハミウリの哈密である。同時に、玄奘が苦難の末にたどり着いた場所が、この哈密の近くの伊吾(イゴ)なのだから。ホームに降りて、急いで写真を撮る。

予定通り20時45分にトルファン駅に到着する。荷物を受け取り、駅の改札を出たのはちょうど21時だ。外の夕焼けがとても美しい。


柳園南駅

新幹線の乗車案内

時刻表
これらは普通列車の寝台車
2日も3日もかかる鉄道の旅だ
広道なので新幹線と同じレールを使っているようだ

中国の新幹線

哈密駅

トルファン北駅

夜9時のチャイムと同時にネオンが灯った



2025年10月10日金曜日

【敦煌】玉門関と漢長城跡

 シルクロードのものがたり(72)

白馬塔の見学を終え、玉門関に向かう。いよいよ玉門関かと思うと、少し緊張する。鳴沙山・莫高窟・白馬塔は敦煌の市街地の南15-20キロに位置し、この3つは互いに近い。これに比べ、玉門関は市街地から北西100キロの場所にあり、バスで1時間半かかる。漢長城跡は玉門関のとなり合わせだ。

砂漠の一本道をバスは80キロのスピードで走る。砂漠だけの景色もあれば、時に緑の草が見える。円形にかたまった草を指し、「あれはラクダ草です。ラクダだけでなく馬やロバも好物です」と余さんが教えてくれる。もう一種類、別の植物が見える。私には笹(ささ)に見えたが、「葦(あし)の一種です。私が子供の頃はあれでほうきを作っていました」と余さん。

玉門関の遺跡の前に立つと、とても緊張する。目の前にある遺跡は漢の武帝のころに造られたものだという。その歴史の重みが、私に強い圧迫感を与える。

玄奘はどのあたりで、夜の闇にかくれて水を飲んだのであろうか。兵士に見つかり隊長の前に連行された。中国は文字の国・歴史の国だ。この隊長さんの名前が残っている。王祥(おう・しょう)という人だ。立派な人物であった。王祥は部下に水と食料(ナン)を用意させ、みずから十里ばかり玄奘を見送ってくれた。そして別れるときこう言った。「第二・第三の烽(ほう)には近寄らないで、この道をまっすぐ第四烽(ほう)にむかってください。第四烽の人は心正しい人物です。彼は私の一族の者で、姓は王、名は伯隴(はくりゅう)といいます。私の名前を言ってください」

玄奘のインドへの旅の途中、このような第三者の善意・好意によって助けられる場面が、いくつも、いくつも、出てくる。人はこれを幸運という言葉で表現するかもしれない。私はそうは思わない。玄奘の持つ熱意と、清らかな魂が、出会う人々をして、この人を助けたいと思う気持ちにさせたような気がしてならない。

玄奘だけではない。過去何千年のあいだ、この玉門関において、幾千・幾万の喜びと悲しみのものがたりが展開されてきたかと思うと、しばらくのあいだ、私は無口になってしまった。

漢長城跡は、ひと言でいえば、玉門関を取り囲む土塀だ。壁の強度を高めるため、土と土のあいだに藁(わら)・葦(あし)・柳の枝を入れて、上から槌(つち)で何度も何度も叩いて固めてある。雨が極度に少なく、地震もないからだろう。2100年前のものが、そのままの形で見える。これを造った兵士たちの姿が見え、その声が聞こえるような気がする。あの張騫(ちょうけん)も、あの李広・李陵も、そしてあの蘇武(そぶ)も、この土塀を見たに違いない。


バスの出発前のトイレタイム、灰皿の前で余さんが少年時代の思い出を語ってくれる。余さんは敦煌郊外の農家の生まれだという。

「子供の頃の私の役目は、さっきバスから見えたラクダ草と葦(あし)を集めることでした。ラクダ草は馬とロバの餌で、葦はほうきを作る材料です。それ以外にもこの二つの草はとても貴重です。乾かして燃料にします。湯を沸かしたり料理に使います。この二つの草を、私の村では親は『宝草・たからぐさ』と子供たちに教えていました。ラクダや馬・ロバのフンも集めました。これらも乾燥させて燃料にします。この辺りは木が少ないのです」

48歳の余さんの少年時代といえば、たった40年前である。文化大革命は終わり、鄧小平の「改革開放」はすでに始まっていた。そのような時、甘粛省の北西端の敦煌の農村の生活はこのようなものであったことを知り、中国の経済発展はごくごく最近の出来事なのだと改めて認識した。

この晩の敦煌での夕食は日本料理だった。鯖(さば)の塩焼き定食で、脂の乗りが少ない気はしたが、酢の物・漬物・茶碗蒸し・味噌汁が美味しかった。経営者は日本人ではなく現地の人だ。「日本酒もあるよ」と言ってくれたが、値段が3倍くらいするし、何よりも外国に輸出する日本酒には大量の防腐剤が入っている。酒は地元のものを飲むにかぎる。地元のビールを注文する。とても美味しい。


玉門関
左はヨット部のS君


玉門関

建物の内部

漢長城跡

漢長城の土塀
土の間に藁や葦が見える

呆然と立ちすくむ田頭

唐代の役人の姿をした観光局の人

2025年10月6日月曜日

【敦煌】白馬塔と梨の果樹園

 シルクロードのものがたり(71)

莫高窟での感激が大きかっただけに、直後の白馬塔見学は付け足しの気がして、さほど期待はしていなかった。ところが、この白馬塔見学は、今まで私の頭の中でモヤモヤしていたことの二つを、すっきりと解消してくれた。

余さんは次のように話してくれる。

「鳩摩羅什は亀茲国(きじこく・クチャ)から中国の中原に向かう途中、敦煌で何日か休息しました。ある夜、夢をみました。自分が今まで乗ってきた白馬が夢に出てきて言うのです。 ”私は今まであなたをお守りしてここまでたどり着きました。ここまで来ればもう安心です。私は自分のやるべき勤めをはたしました” そう言って白馬は消えてしまった。不安に思った鳩摩羅什は、すぐに厩舎(きゅうしゃ)にかけつけました。馬はすでに死んでいました。地元の人々もこれを悲しみ、白馬をここに埋葬して塔を建てました。その後、何度も改修され現在の塔は清代に造られたものです。直径7メートル、高さは12メートルです」

鳩摩羅什は自国の敗北後、将軍・呂光に捕らえられ中国に連行される。385年のことだ。皇帝・符堅(ふけん)から「高僧・鳩摩羅什を連れて帰れ」と命令されていたので、手荒な扱いはしていないと思ってはいたが、この話から、将軍・呂光が鳩摩羅什に対して礼を尽くして丁寧に対応していたことが確認でき、とても嬉しく思った。

「この白馬塔の周りを、男性は右まわりに女性は左まわりに、3回まわると願い事が叶うといわれています」と余さんが教えてくれる。ツアー仲間の多くは3回まわっていたが、距離もあり、しかも直射日光が暑い。私には特に願い事はないので、右まわりで1回だけまわった。

白馬塔の手前に回廊(かいろう)があり、朱色の柱が何本も立っていて、それぞれの柱に鳩摩羅什が翻訳した「般若心経」が漢字で書いてある。スマホで撮ったのだが、ハンドルミスで消えてしまった。玄奘の訳とはかなり異なる。冒頭部分の玄奘訳は「観自在菩薩・かんじざいぼさつ」とあるが、鳩摩羅什の訳は「観自音菩薩・かんじおんぼさつ」と書いてあった。

白馬塔の敷地のとなりに果樹園がある。青い実がいっぱい見える。熟す前のリンゴではないかと思った。余さんに聞くと、「梨です。このあたり一帯は梨の名産地です」と答えてくれる。これでひらめいた。「そうなんだ!」と私は一人で合点して、思わず笑みが浮かんだ。


というのは、玄奘三蔵から直接指導を受けた日本人僧・道照(どうしょう)が残した言葉が真実だとわかったからだ。この話は『続日本紀・しょくにほんぎ』の最初あたりに記されている。文武天皇四年(700年)三月二十七日に道照が72歳で亡くなったときの、大和朝廷の行政日誌である。一部を引用する。

「道照は孝徳(こうとく)天皇の白雉四年(654年)に遣唐使(注・第二次)に随行して入唐した。ちょうど玄奘三蔵に会い、師と仰いで業を授けられた。三蔵は道照を特に可愛がって同じ部屋に住まわせた。ある時、次のように言った。『私が昔、西域に旅した時、道中飢えで苦しんだが、食を乞うところもなかった。そのとき突然一人の僧が現れ、手にもっていた梨の実を、私に与えて食わせてくれた。私はその梨を食べてから、気力が日々健やかになった。お前はあのとき私に梨を与えてくれた法師にそっくりである』と」

玄奘の天竺への旅で一番苦しかったのは、玉門関から伊吾国(イゴ・哈密の近く)の間であったと考えている。よって、この梨の話には合点がいく。別に疑ってはいなかったけれど、敦煌やトルファン(高昌国)あたりの果物は、ザクロ・葡萄・ハミウリなどが有名で、梨がよくできるとは思っていなかった。この梨の果樹園を見て、そして余さんの説明を聞いて、玄奘と道照の二人の高僧の言葉が真実であったと認識した。

この白馬塔でもバスの出発前にトイレ時間がある。早々とトイレをすませて、わきにある灰皿の前で余さんとおしゃべりをする。ここで余さんは、鳩摩羅什と玄奘の般若心経の違いを次のように解説してくれた。この二人の高僧の年齢差は268歳で、鳩摩羅什が先輩である。両者ともサンスクリット語を漢語に翻訳した。

「どちらが優れているかというのは難しい問題で、私にはわかりません。鳩摩羅什の父親はインドの貴族で、母親は亀茲国(クチャ)の王様の妹です。9歳のときインド北部のカシミールに留学しています。よって彼はインド哲学を充分に理解した上で、サンスクリット文字の内容を正確に漢語に訳しています。これにくらべ、玄奘のものは、できるだけ中国人が理解しやすいようにと配慮して、かなり意訳されている、といわれています」

いってみれば、鳩摩羅什の般若心経は「直訳」で、玄奘のものは「意訳」ということらしい。我々日本人が日頃使っている般若心経は、すべて玄奘の訳したものである。玄奘の愛弟子である法相宗の道照からの流れであろう。中国では現在どちらの般若心経が使われているのかは聞きそびれたが、たぶん玄奘のものではないかと思う。


中華人民共和国が成立して以降、中国では仏教はすたれている私は思っていた。しかし、この余さんにしても、莫高窟研究員の王さんにしても、仕事柄とはいえ、仏教についての知識を豊富に持っておられたのには驚いた。

私が手に持っている小型バックの中に、たまたま般若心経を一枚入れてあるのを思い出した。それを取り出し、漢字で書かれた262文字の般若心経を余さんに見せた。

余さんは驚いた顔で、「日本人はこれが読めるのか?日本人はいつも般若心経を持ち歩いているのか?」と聞く。私は郷里の広島県に帰ると、仏壇で般若心経を何十年も唱えているのでだいた覚えている。「かんじーざいぼーさつ ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー しょうけんごーおんかいくう、、、、、」とそらで、三分の一ほど、このお経を唱えてみせた。

余さんはびっくり顔で、「すごい、すごい。日本人はみんな般若心経を暗唱しているのか?」と聞く。「そうですよ」と答えて、日本人の民度の高いことを誇示しようかとも思ったが、嘘はいけない。「いいえ。寺のお坊さま以外で般若心経を暗唱している人は、私みたいな変わり者だけですよ。普通の人はやりません」と答える。余さんはホッとしたような顔をしていた。

西安の高さん、敦煌の余さんとの会話の中で、数多く出た中国人の歴史上の人物の名前は、秦の始皇帝・漢の武帝・張騫・則天武后、そして僧では鳩摩羅什・玄奘であった。私の好きな李広・李陵、そして僧・法顕(ほっけん)の名前は出なかった。

余さんが、「現在、中国の高校の歴史の教科書で、唐代に出てくる日本人の名前は3人です」と教えてくれる。阿倍仲麻呂(晁衡)、吉備真備、空海だそうだ。これには納得できる。


白馬塔


敦煌の梨畑








2025年10月2日木曜日

【敦煌】莫高窟(ばっこうくつ)

 シルクロードのものがたり(70)

敦煌という文字には「おおいに盛んなり」という意味があるそうだ。砂漠の都なので昔から沙州(さしゅう)とも呼ばれている。

敦煌が前秦・符堅(ふけん)の支配下にあった西紀366年ごろ、西方から来た楽僔(らくそん)という僧が、鳴沙山の東の断崖に洞窟を掘り仏塑像(そぞう)を安置した。これが莫高窟美術のはじまりだという。この楽僔という人はインド人だったと思われる。

同じ頃、亀茲国(きじこく・庫車・クチャ)の若き高僧・鳩摩羅什(くまらじゅう)は符堅の部下の将軍・呂光の捕虜となり、この敦煌を経由して、武威(ぶい)・長安へと連行されている。この二人の異国の僧は西方から中国に仏教を伝えた。同じころ、私の大好きな中国人僧・法顕(ほっけん)は、長安を出発して敦煌を経由しシルクロードを西に進み、インドで仏教を学んだ。

この三人の僧が、どこかで出会ったということは史書には残されていない。多分出会ってはいないだろう。しかし、ほぼ同じ時期に、この三人の僧が敦煌の景色を見ながら敦煌の空気を吸ったことを想像すると、えもいえぬ感動が私の胸に湧いてくる。

その後、元の時代に至るまでの千年間、修行僧・仏師の手によって洞窟での仏教美術の制作が続けられ、現在でも492窟にその作品が残っている。西方のカシュガル(喀仕)・クチャ(庫車・亀茲国)・ホータン(和田)の仏教美術品はイスラム教徒によって徹底的に破壊された。それに比べ、この莫高窟の仏教美術品が残ったのは、この地が漢族・チベット族・蒙古族によって支配されイスラムの侵入を防いだからである。

しかし、この莫高窟にも文化財の破壊や持ち出しの苦難の時代があった。19世紀後半から20世紀前半にかけての、欧州列強の探検隊による発掘と文化財の持ち出しである。英国のオーレル・スタイン、仏国のポール・ペリオ、スエーデンのスウェン・ヘディンらが有名である。大谷探検隊という日本人の名前も出てくる。浄土真宗本願寺派法主の大谷光瑞が指揮した探検隊である。

彼らは、この地に勝手に侵入して物品を奪い去ったというわけではない。清朝政府の了解のもとに、仏像や経典を管理する寺の住職に代価を払って購入している。ただ今日の感覚からすれば、弱体化した清朝政府の弱みにつけこみ、不当に安い代価をもって貴重な文化財を奪いとったという印象はぬぐえない。

ごく最近にも、敦煌・莫高窟の危機があった。文化大革命である。多数の紅衛兵がこの地に押し寄せて仏教遺跡を破壊しようとした。「紅衛兵を絶対に敦煌に入れるな」と人民解放軍に指示して、これを防いだのは宰相・周恩来だと聞いた。


男性ガイドの余さんが8つの洞窟を案内してくれる。わかりやすい説明で、それぞれの仏像や仏画も美しく感激する。ただし、この莫高窟内部はすべて写真撮影は禁止されている。特に美術価値の高い重要窟には昼間でも鍵がかかっていて、余さんは案内できない。

4つの重要窟を案内してくれたのは、敦煌研究院の研究員、王(おう)さんだ。王さんは35・6歳の美しい女性で、知的で人柄も良い。機転が利くというか、打てば響くといった感じの会話のやりとりが心地よい。「王さんは美人ですね。まるで楊貴妃みたいです」と私が言うと、睨み顔で「楊貴妃を見たこともないくせに!」と言って、あとでにっこりと笑う。

4つの重要窟を案内してもらった。その中の第45窟は、492窟あるなかで一番価値の高い最重要美術品だという。中央に釈迦の像があり、こちらから見て釈迦の左に弟子の阿難(あなん)、右に同じく弟子の迦葉(かしょう)の像が立っている。そのとなりには一体つ”つ、健康美あふれる菩薩像が立つ。その両外側には一体つ”つ、鬼を踏みつけている勇ましい武人の像が見える。盛唐を代表する第一級の塑像(そぞう)だそうだ。仏教美術に素人の私にも、これが素晴らしい作品だということがわかる。

「修復や、休館などで、この第45窟を見学するのはとても難しいのです。みなさんは幸運です」と王さんは言う。井上靖は、「第45窟を頂点とする唐代の諸像こそ、日本の白鳳・天平の仏たちの原流ではないかと思われる」と語っている。

王さんは中国の大学で歴史を専攻し、その後、東京の成城大学に留学したとおっしゃる。「王さん、私は敦煌がとても気に入りました。日本からここに移住して仏教修行をしようかと思います。その時は、週2-3回、王さんの助手で日本人観光客相手にガイドのアルバイトをしたいと思います」

こう言うと、「それは良い考えですね!」とにっこりと笑う。美人の王さんの写真を撮り忘れたのは、今回のシルクロード旅行での最大の不覚である。

莫高窟

莫高窟から見た外の景色
樹木はポプラ


ヨット部のS君は砂塵でくしゃみが出るらしい