2020年4月8日水曜日

天守閣のない江戸城(2)

この ものがたり を続けるには、数奇な運命のもとに生まれた幸松(こうまつ)という名の赤ちゃんのことを語らなくてはならない。

この赤ちゃんは、慶長16年(1611)5月7日、お静という女性を母として、神田白銀町にある静の姉むこの家でひそかに産み落とされた。父親は2代将軍・徳川秀忠であるから、3代将軍・家光の7歳年下の異母弟になる。

2代・秀忠には、父が浅井長政・母が織田信長の妹である、お江与の方(おえよのかた)という正室がいた。秀忠より6歳年上で、気性が激しく嫉妬心が強かった。当時は血統を保つために側室を置くことはあたりまえだったが、お江与の方はこれを許さなかった。

しかし、秀忠は自分のかつての乳母にお付きの静という若い女性に手をつけた。手をつけたというより、元乳母が手引きをしたように思える。

男子を出産したことは、静の義兄が町奉行所に届け、さらに老中の土井利勝を通じて秀忠に伝えられた。しかし秀忠は、「覚えはある」と言うだけで、お江与の方が怖くて認知しない。老中を通じて、お静に徳川の子としての証である 「葵の紋付の小袖」を届けるものの、生まれた子を江戸城に呼ぼうとしない。いわば、私的には認知するが、公的には認知しないという態度だった。

しかしやがて、幸松の存在をお江与の方が知るところとなる。この人はご落胤情報に敏感で、配下に命じて情報網を張りめぐらせていた。いるとわかれば抹殺する考えである。実際に、幸松に対して刺客が放たれた形跡がある。

父である将軍からは認知も援助もなく、御台所(みだいどころ・お江与の方)からは刺客を放たれる母子を救ったのは、武田信玄の次女・見性院(けんしょういん)であった。幸松1歳10ヶ月の時だ。

土井利勝と本多正信(ともに家康の側近で、この時の老中と大老)の二人が見性院を訪問し、「幸松様をそのもとのお子として御養育するようにお頼みしたい」との秀忠の内々の上意を伝えた。
史書はこのように伝えている。

しかし筆者は、この指示は当時34歳の秀忠ではなく、70歳の徳川家康から出たものだと考えている。幸松誕生の報は、すぐさま幕府の重役から駿府に隠居している家康に伝えられていた。
幸松は家康にとって実の孫である。

息子・秀忠の嫁のお江与の方の動きには問題があるものの、お江与は家光・忠長の二人の男子を産んでいる。自分がお江与の方を説教するよりも、幸松を見性院のもとに預けるほうが万事穏便に解決する。家康はこう考えたのではあるまいか。

翌年、大阪冬の陣に出陣する徳川家康は、この時70歳ながら頭脳明晰、体力気力共に充実していた。見性院自身、これが家康からの指示であることを認識していたようである。ということは、幸松の命を助けたのは祖父の家康であったといえる。







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