2020年4月1日水曜日

人間魚雷・回天(2)

いつ、誰が名付けたか、表向きわかっている。昭和19年8月1日、海軍大臣の決裁がおり、「06金物1型」は正式に兵器に採用され、黒木大尉の提案通り、「回天1型」 と命名された。

この時、米内光政海軍大臣が命名したのである。開発した黒木大尉の意をくんだといわれる。それでは黒木大尉はどのような意味を込めて、この兵器に「回天」と名付けようとしたのか。常識的に考えれば、この兵器の出現によって天を回すように、時勢・戦局を一変させたいとの思いであろう。

しかし、私はこの20年ほど、回天の持つ別の意味について考え続けている。

19年8月1日という日は、戦局的にみて重要である。6月19日・20日のマリアナ沖海戦での日本海軍の大敗北から2ヶ月余、7月7日のサイパン・テニアンでの陸海軍の玉砕から1ヶ月後である。
マリアナ群島からの米軍機による本土爆撃が現実のものとなり、大本営がはっきりと負け戦を意識した、その時である。

「回天」が黒木博司大尉・仁科関夫中尉の二人によって研究開発されたことは知られている。黒木大尉は大正10年9月生まれ、海軍機関学校51期(兵学校70期コレス)、岐阜県の医者の次男。
仁科中尉は大正12年4月生まれ、海軍兵学校71期、長野県出身の教育者である父親の勤務地の滋賀県で生まれている。

両人とも大変な読書家で、特に黒木大尉は東洋思想・国学に造詣が深かった。仁科が潜水学校を卒業後、呉海軍工廠魚雷実験部ではじめて黒木に会ったのは、18年の12月である。黒木は1年前からこの基地にいた。同室となった二人は、兄弟のような親密さで体当たり兵器の開発を共にすすめた。

二人は人間魚雷の設計図を携え、18年12月28日、海軍省軍務局を訪問している。第一課長の山本義雄大佐(46期)に面会を求め、新兵器として採用されることを強く懇願した。

「山本課長は二人の説明のあと沈思熟考していたが、二人の憂国の熱情に敬意を表し、その研究努力を賞賛した。だが、兵器採用については種々問題があることを諄々と説き、時機到来を待つよう説得した」と、水雷参謀・鳥巣建之助中佐は、著書「人間魚雷」に中で記述している。

「帝国海軍としては、まったく生還の可能性がないものを兵器として採用することは出来ない」というのが、山本大佐の考えであった。理性ある合理的な考え方が、海軍省には残っていた。

却下されたものの、二人は呉に帰り、引き続きこの兵器の研究に没頭する。そして艦政本部・海軍省に対して具申を続ける。19年2月末、人間魚雷の試作が海軍省により決断され、「06兵器」と名付けられた。日に日に戦局が悪化していたからである。7月に入り、2基の試作兵器が完成し、7月25日、有人航走テストに成功した。その日の午後、呉基地でこの兵器の研究会がが開かれた。

この会議でも、生還の見込みがまったくないことが問題になった。兵器の性能を多少犠牲にしてでも脱出装置を考えられないか、という意見が海軍省や軍令部の一部から出た。この事実には注目してよい。

しかし、敵地に単独で乗り込んで奇襲するこの兵器からの脱出は、捕虜になることを意味する。黒木・仁科二人の必死の要請で脱出装置の件は取り止められた。このような経緯のあと、8月1日海軍省はこれを兵器として採用し、黒木大尉の提案を受け入れ、「回天」と命名した。


黒木大尉はこの1ヶ月後、山口県の大津島で訓練中に殉職した。仁科中尉が黒木大尉の遺骨を胸に抱き、ウルシーの敵艦隊に突入したのは19年11月20日のことである。










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