2020年4月13日月曜日

天守閣のない江戸城(3)

この時の見性院の返答は、すでに50歳を超えていた女性とは思えぬ堂々たるものだった。

「自分は女であるが、世にも知られた武田信玄の娘である。承知いたしました。この子は自分が引き取ります。母子ともに、すぐに自分の屋敷に連れてくるように」と即答して、翌日にはお静と幸松を田安門内の屋敷に引き取ったのである。これ以降、お江与の方の幸松に対する迫害はぴたりと止んだ。

2歳に満たない幸松という名の家康の孫は、自分の知らぬ間に、今度は武田信玄(すでに亡くなっていたが)の孫ということになった。死後40年が経っていたが、武田信玄の名前は徳川幕府内においても、当時大きな重みを持っていた。

なによりも、家康自身が信玄のことを崇拝していた。若いころ武田軍団に敗北した家康は、それをうらみとせず、むしろそれを手本として武田の軍略を学ぼうとした。

信長勢に敗れた武田の遺臣を陰で助け、自分の陣営に引き入れた。同時に信玄亡き後、勝頼に不満を持つおもだった武将に礼を厚くして、自分の側に取り込んでいた。いわば、有能な人材を積極的にヘッドハントしていたのである。

実は、見性院の夫もその一人であった。信玄の副将で武田氏の一族でもあった穴山梅雪は、信玄が死んで勝頼の代になると、勝頼の能力を見限って徳川家康の側についている。その後この人は、家康の部下として戦死する。義理堅い家康は、その未亡人を手厚く保護し、江戸田安門内に住居と600石を与えて住まわせた。見性院は尊厳を保ったかたちで江戸で余生を送っていた。

この子を養子にすることで武田家を再興できるかもしれない。見性院はそう夢見ていたのかも知れない。

しかし見性院の周辺には女性しかいない。男の子を立派なサムライに育てるには、立派な武士のもとに置かねばならない。幸松が6歳の時、見性院が一番信頼していた信濃・高遠藩主・保科正光のもとに幸松を預ける。このあたりの判断力は、さすが信玄の娘である。

織田軍団5万に包囲されながら、3千の兵をもって一歩もひかず、全員が城内で玉砕した時の高遠藩主は、見性院の異母弟で、その時26歳だった仁科盛信である。盛信の副将格であった保科正直はその時、武田勝頼の人質となっていて、高遠城にはいなかった。

話は飛ぶが、先述した「人間魚雷・回天」で第一陣として、ウルシーの敵艦隊に突撃した仁科関夫中尉は長野県出身と聞いている。この仁科盛信とご縁のある方なのであろうか。


後日、おそらく家康の配慮であろう。この高遠藩主に正直の息子の正光が充てられている。この保科正光という人は勇者かつ律義者で、武田家が滅びて20年も経つのに、見性院に対して中元・歳暮などの季節のあいさつを欠かさなかった。見性院はこれを徳としていた。

見性院からの頼みを快諾した正光は、2代将軍・秀忠の意向もたしかめ、「養子分にいたし養育せよ」との秀忠の返事を得る。このとき高遠藩は2万5千石だったが、幸松の養育費として徳川家から5千石を加増され、3万石となった。

幸松は20歳の時、保科正之の名で高遠藩主となる。母のお静も一緒に高遠で暮らしたというから、お静の晩年は幸福なものであった。

保科正之の聡明で勇敢、かつ慈悲深い人間性は、この草深い信州の小さなお城で養われたのである。













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