2020年4月22日水曜日

天守閣のない江戸城(4)

3代将軍・家光は、この異母弟・保科正之の人柄を愛し、その能力を高く評価した。数年後に山形20万石、その後、会津23万石に転封させている。

会津藩主として、「90歳以上には身分男女の区別なく終生一人扶持(ぶち)を与える」、「行き倒れの人間を見たらすぐに医者に診せろ。治療費がなかったらすべて藩が支払う」などの善政を敷き、またたくまに領民の信頼を一身に集め、会津藩の行政は全国の模範となる。

家光は臨終のとき、正之の手を握り「家綱を頼む」と後見を託し、「萌黄色(もえぎいろ)の直垂(ひただれ)」を与えた。家光は萌黄色が好みで、将軍と同じ色の直垂を着ては申し訳ないと、大名たちが遠慮したため、この色は事実上禁色となっていた。これを家光が正之に与えたことは、「将軍に準じる者として行動せよ」と命じたも同然だった。事実、大名や旗本たちはそのように理解した。

11歳の4代将軍・家綱の後見人となった正之は、江戸城を離れることができず、それ以降の23年間、会津藩の藩政のすべては名家老・田中正玄がとり仕切る。

家光の死の6年後におきたのが「明暦の大火」である。
この時の正之の行動は、果敢かつ大胆であった。そしてなによりも敏速であった。危機に遭遇すると庶民だけでなく為政者側もパニックにおちいる。断固とした指導力が必要となる。

本人の指導力も立派であったが、この時、家光が与えた「萌黄色の直垂」が正之の発言に重みを与えた。家光は将来のこのような出来事を想定していたのであろうか。


明暦3年(1657)の大火で江戸の大半が焼失し、焼死者は10万人にのぼった。
このとき保科正之が出した指示は後世の参考になる。

①現在の台東区・蔵前に幕府の大きな米蔵があった。火消し役は前日からの消火でことごとく出払っている。半日もすればここも焼け落ちる。このとき正之は、消火活動と難民救済の両方を兼ねてユニークな指示を出す。

「蔵前の米蔵に走って、その米を取り出せば取り放題だ」、とのお触れを出した。幕閣の重役たちから反対論が続出する。曰く、「取った者勝ちでは不公平になる」。曰く、「多くの人が殺到するので危険である」  すべて正論である。

それでも正之はこれを強行した。「焼けてなくなるよりは良い」と。

難民は火を消しながら米蔵に殺到し、そこから米を運び出した。人は一日に二升も三升も食えるものではない。あとで調べてみたら、多くの米を持ち帰った者はみな周辺の人たちに分け与えていた。火事場泥棒的にこれを転売して財を成したものはいなかった。正之は危機に遭遇した時の日本人の気質を知っていたのであろう。

②この時の出来事で興味深い話がある。

この大火で、火は墨田川までおよび、伝馬町の牢獄も火に囲まれた。幕閣に指示を仰ぐ時間がない。牢奉行・石田帯刀は、まかりまちがえば腹を切る覚悟で、すべての囚人を解き放った。そのとき、「火がしずまれば下谷(したや)のれんけい寺にもどって来い」と伝えた。

げんに一人をのぞき、数百人のすべてがもどってきたという。帯刀は囚人たちの義に感じ、老中に命乞いをしてすべての囚人を赦免した。ひとつには牢が焼けていて、かれらを収容する施設がなかったこともあったらしいが。

一人だけ故郷の村に潜伏して帰らなかった。村人が彼を説いて後日自首させたが、帯刀はこの男だけは許さず、できたばかりの新築の牢獄にぶち込んだという。

なんとなく良い話である。

史書には残されていないが、老中から相談を受けた保科正之の判断だったのかも知れない。

③このとき正之は、家を失った庶民たちに救済金としてすぐさま16万両を配っている。あまりに巨額の支払いに驚いた幕閣が、「それでは緊急用にたくわえている御金蔵のお金がなくなってしまう」と反対した。これに対して正之は、「御金蔵の金というものはこのような時に使うために貯めてあるのだ。今使わないといつ使うのだ!」と一喝して、すぐさま実行した。

④そして、冒頭の天守閣の話にもどる。
大火後の復興が順調に進みはじめたころ、武断派の幕閣から、「天守閣は江戸城の象徴だから再建しよう」との声があがる。これに対して正之は、反対を主張する。

「天守閣というものは織田信長が安土城を建てた時つくったもので、たいして歴史のあるものではない。同時にそれほど役に立った例はない。てっぺんに登れば見晴らしが良いだけのものである。天守閣がないからといって徳川幕府の威信はいささかも揺るがない」、そして、「そのようなものを造る金があれば江戸庶民の生活を優先すべし」と締めくくった。


このようなわけで、現在でも江戸城には天守閣がないのである。

幸か不幸か、東京オリンピックは来年に延期された。時間は充分にある。コロナ問題が落ち着いたら、東京の一流ホテルが協力して、来年、世界中から来られるお客様に知っていただくために、「なぜ江戸城に天守閣がないか」を数か国の言語で、美しいパンフレットを作ったら良いと思うのだが、いかがであろうか?


この稿をまとめるにあたり、中村彰彦氏の名著・「会津武士道」と、司馬遼太郎著「街道をゆく・本所深川」、を参考にさせていただいた。













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