2020年4月1日水曜日

人間魚雷・回天

「カイテン」という言葉をはじめて聞いたのは15歳の春だった。

広島県の中学を卒業した私は岡山県の高校に入学し、山の中にある寄宿舎に入った。大正時代に造られた古ぼけた建物で、北寮と南寮とがあった。同級生は約50人で、岡山県の人が半分、残りは四国・九州を含む西日本の各県から集まっていた。東京・京都から来た少年もいた。

夕食のあと、気の合う友人の部屋で雑談した。皆15歳の少年だ。たわいもない郷土自慢である。
別府から来た少年は、口をとがらせて温泉の熱でゆで卵ができると力む。岡山県最北端出身の少年は、清流の水が飲める。そこには岩魚がうようよいるんだ、と自慢する。

各人のお国自慢が終わりかけたころ、部屋の片隅で暗い顔をして我々の会話に加わらなかったSという少年が、突然口を開いた。

「カイテンタイの人たちはだまって死んでいかれたんじゃ。わしらはこのことを忘れてはいけんのじゃ」 「なんじゃ、そのカイテンタイというのは?」
「いや。この話はよその人に話してはいけん、とお爺ちゃんが言うちょった」

自分から言いだしたくせに、その少年はそれだけ言って口をつぐんだ。少年は山口県の光市の出身だという。その時、「カイテンタイ」というのは恐ろしいもの、悲しいものとの印象を持った。ただそれ以降、この話は高校時代は話題にならなかった。

これが「人間魚雷・回天特別攻撃隊」のことだと知ったのは、大学に入ったあとである。以来、回天に関す本に出くわすと、かたっぱしから購入した。今手元にあるものを数えてみたら16冊ある。
著者はこの作戦に従事した参謀や、生き残られた回天隊の士官や下士官で、みずからの体験を書き残されている。戦後70年以上経った今でも、新たに回天関係の書籍が出版されている。

日本の現状を憂い、あとに残る家族や国民の幸せを願い、黙って死んでいかれた若者たちの行為が、今なお多くの日本人の胸を打つからであろう。

回天作戦にかかわった方々の名著が数多くある中、戦後生まれの私が改めて回天特攻について語るつもりはまったくない。

私が考えているのは、この兵器につけられた「回天」という名前そのものについてである。いつ、誰が、どのような意味・思いを込めて、この必死必殺兵器に「回天」という名をつけたのであろうか。







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