大和の寺社・参拝紀行(13)
私は神社・仏閣を参拝するとき、神官やお坊さまにお声をかけて話を聞くのが好きだ。時に無遠慮な発言をして、あとで反省することもある。目からウロコが落ちるような珍しい話を聞くこともある。そうでなくても、クスッと笑うユーモラスな返答をいただき、心がなごむことも多い。
東大寺の寺務所には、50歳ぐらいの二人のお坊さまが座っておられた。朱印帳を両手で持って丁寧に「よろしくお願いします」と頭を下げる。ここでいつもの癖が出て、余計なことを言ってしまった。
「神社とお寺さんでご朱印をいただいていますが、お寺さんのほうが字が上手ですね。お坊さまのほうが学問があるからでしょうかね」 そう言うと、大笑いしながら、右手を左右に振って、「やめてください、やめてください。褒め殺しはやめてください。手が震えて字が書けません」とおっしゃる。
書きあがった「華厳・東大寺」の文字は、堂々たる達筆である。私はつまらぬことを言ったと反省して、お坊さまに敬意を表して、両手で朱印帳をおしいただき、深々とお辞儀をしてお礼を言った。変なヤツが来たなと思われたであろうが、お坊さまはニコニコと和顔をもって対応してくださった。ありがたいことだ。
神官より僧侶のほうが達筆というのは、統計的に事実の気がする。筆で文字を書く機会が多いからだと思う。もっとも例外もある。見事な達筆でご朱印を書いてくださる神官もおられる。
東大寺には修二会(しゅにえ・お水取り)というものがあるそうだ。特に修二会14日間のうち、5日目と12日目に読み上げられる「過去帳」に私は強い興味を持っている。自分ではこれを見聞していないので、司馬遼太郎の『街道をゆく・奈良散歩』の受け売りになるが、これを紹介したい。ご存じの方も多いかと思うが、当時は戒名はなかった、という点が興味深い。この「戒名」というものは、徳川幕府が寺院を懐柔するために取った政策のように思える。
「東大寺上院(じょういん) 修中(しゅちゅう) 過去帳」とまず読みあげられる。過去帳には東大寺の創建・再建・運営に縁の深かった人の名が記帳されており、その名の列は天平の昔にはじまり、現代に至る。千三百年間、これを一度も中断したことがないというから驚く。
筆頭に「大伽藍本願・だいがらんほんがん・聖武皇帝」と読みあげられる。聖武天皇のことだ。ついでその母である「聖母皇太后宮」(注・藤原不比等の長女宮子・この人は大仏開眼の時は68歳で存命であった)、次は「光明皇后」、その次は「行基菩薩」と続く。行基の次は「孝謙天皇」で、以下天皇の名がしばしば出るが「皇帝」という称号になっているのは筆頭の聖武天皇だけである。
光明皇后の父だった藤原不比等は「不比等右大臣」というよび方で登場する。橘諸兄は「諸兄左大臣」と呼ばれる。開山の良弁(ろうべん)僧正も、良弁の弟子で修二会の創始者である実忠(じっちゅう)和尚も出てくる。大仏開眼の導師だったインド人僧のセンナ(僊那)も「大仏開眼導師」というよび方で出てくる。
天平の頃の人は、ほかに鋳物師や大工さんも実名で出てくる。役夫(えきふ)も出てくる。これにはいちいち名は記されないが、百六十六万五千七十一人という人数が誦(ず)せられる。
空海も「真言宗ヲ興セル根本(こんぽん)弘法大師」という名で出てくる。空海は一時期、東大寺に乞われて別当(長官)を兼ねていたのでこの寺にとって有縁の人である。最澄は出てこない。南都(なんと・興福寺や東大寺など)を敵として論争をつつ”けた最澄が出るよしもない。源平では、平清盛は出ずに、源頼朝が出てくる。俗人はすべて俗名(ぞくみょう)である。これは仏教本来のもので、まことにすがすがしい。戒名というようなばかばかしいものは、聖武皇帝も源頼朝にもついていないのである。
死者に戒名をつけるなどという奇習がはじまったのは、ほんの近世になってからである。インド仏教にも中国仏教にも、そんな形式も思想もない。江戸期になって一般化したが、おそらく寺院経営のためのもので、仏教とは無縁のものといっていい。戒名がさほどの歴史性もなく、仏教の教義にも関係がないというのは、わが国最古の過去帳をもつ修二会がそれを証明している。
鎌倉期の源頼朝は、この寺にとって重要人物である。「当寺造営ノ大施主将軍頼朝ノ右大将」と読まれたあと、17人が続く。ほとんどが僧か寄進者である。その17人の名が読まれおえると、よみ手は急に一拍おき、声をひそめて、 「青衣(しょうえ)ノ女人(にょにん)」とよむ。これは、女人の亡霊である。名はわからない。
鎌倉のころ、集慶(じゅうけい)という東大寺僧がいた。修二会の練行衆として20年つとめた人で、承元年間(1207-11)の修二会のときである。源実朝が将軍の時だ。源頼朝のくだりで一つの山を終え、あとは坂をくだるように読んでいると、にわかに青い衣を着た女人があらわれ、するすると集慶のそばに寄ってきて、「など我をば過去帳にはよみおとしたるぞ」といった。集慶はとっさに「青衣ノ女人」と読みあげると、その女人は搔き消えた。
以上は『奈良散歩』からの引用である。
司馬遼太郎も、この女人がどのような人かと、色々と想像をめぐらせている。現在でも、歴史好きの日本人のあいだでは、この女人が誰であったか調べている人がいるらしい。私はこれについての知識は乏しい。ただ、何人かの人が指摘している「吉備内親王」(きびないしんのう・草壁皇子と元明天皇の次女で元正天皇の妹・長屋王の妃・すなわち聖武天皇の叔母)という説に、心が惹かれている。
長屋王の変で、この人も不遇の死を遂げた。聖武天皇が幼少の頃、この叔母が幼少の聖武天皇を可愛がった。同時に仏教のありがたさについて、少年の聖武天皇に教えたのではあるまいか。私はそのように想像している。
正倉院は東大寺の境内にある。ここの宝物の中核は、聖武天皇崩御のあと、天皇愛用の品々を光明皇后が廬舎那仏に献納したものである。当時から長いあいだ大和朝廷の監督のもとで東大寺が管理していたが、現在は宮内庁が管理しているそうだ。
東大寺の南大門を出て、奈良公園の鹿を見ながらホテルに向かう。70代と見える元気そうな女性が大声を張りあげて、英語で鹿センベイを売っている。珍しいのか、他の売人のところに比べて3倍くらいの欧米人がその女性を取り囲んでいる。上手な英語ではない。しかし、節(ふし)をつけて歌うように、身振り手振りを交えて売るのが、外国人に受けるのだろう。飛ぶように売れている。50代か60代か、年齢がいってから、どこかの時点で発奮して英語を勉強されたに違いない。偉いものだと思った。
二日目も、スマホの万歩計は2万歩を超えていた。
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| 東大寺 ご朱印 |
