2026年10月15日木曜日

春日大社

 大和の寺社・参拝紀行(10)

「とても美しい神社だ」 この神社を参拝してそう感じた。千三百年の歴史を持つ古社であるが、華やかな印象を受ける。この春日大社は中臣氏(藤原氏)の氏神社で、興福寺と春日大社は対をなしている。

建立の歴史は、次のような流れである。

和銅3年(710)に平城遷都が行われる。このとき新しい都の安全を願って、常陸国の鹿島神宮から武甕槌命(たけみかつ”ちのみこと)の神霊が三笠山に勧請された。これを行ったのは藤原不比等で、不比等はこの10年後に没している。神霊勧請から58年後の神護景雲二年(768)に、左大臣・藤原永手(ながて・北家・房前の次男、すなわち不比等の孫)によって、この神社が創建された。弓削道鏡が権力の絶頂にあったころである。

中臣氏について、私は長いあいだ思い違いをしていたようだ。20年ほど前に鹿島神宮を参拝したとき、地元の人から「中臣鎌足はこの地で生まれた」と聞き、神宮西側の生誕地にある鎌足神社を友人のU君と一緒に参拝した体験があるからだ。それ以来、私は次のように考えていた。中臣鎌足は鹿島神宮の子で、その後、飛鳥の地におもむいて立身出世した。それゆえに、平城遷都のとき鎌足の子の不比等は、実家である鹿島神宮の祭神・武甕槌命の神霊を白鹿に乗せて三笠山に勧請した。

どうも、そうではないようだ。

青木和夫氏の『古代豪族』によると、「中臣氏は少なくとも鎌足の五代前から朝廷に仕え、祭祀をつかさどる豪族であった」という。欽明天皇の御代に百済から仏教が伝来したが(538年?552年?)、この受け入れに賛成したのが蘇我氏で、反対したのが物部氏と中臣氏であったと『日本書紀』は記している。よって中臣氏は、この当時すでに、中央にあって大和朝廷の政策決定に加わっていたことがわかる。ただし、豪族としての勢力は、物部・大伴・蘇我氏などに比べると弱かったようだ。

鎌足の父親は中臣連御食子(なかとみのむらじ・みけこ)、母親は大伴連智仙娘(おおとものむらじ・ちせのいらつめ)というから、鎌足の血の半分は大伴氏だといえる。さらに、鎌足の曽祖父は常盤(ときわ)という人だが、この人の妻は物部氏の出である。よって、鎌足・不比等は物部氏とも親戚関係にあった。

研究者によると、中臣氏の本来の根拠地は河内国(大阪府)だという。ただ、その場所は生駒山のすぐ西側で、春日大社までの距離は直線で17キロほどで、とても近い。河内国一之宮・枚岡(ひらおか)神社が中臣氏の先祖を祀った神社で、主祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)と后神の比売御神(ひめのみかみ)である。社伝によると、この神社の創祀は神武天皇(崇神天皇?)が大和の地で即位される3年前だというから、ずいぶん古い。

このような次第で、不比等の孫の藤原永手が768年に春日大社を創建するとき、武甕槌命(鹿島神宮)、経津主命(ふつぬしのみこと・香取神宮)、天児屋根命・比売御神(枚岡神社)の四つをご祭神として祀った。


ただ、先に述べた「中臣鎌足は常陸の鹿島神宮で生まれた」との地元民の話は、あながち間違いではないのでは、と私は思っている。鹿島神宮には「昔この国土に天孫が降臨するに先立って天降(あまくだ)った神を祀った」という伝承がある。また「崇神天皇のとき太刀・鉾(ほこ)などの幣(へい)を奉り、景行天皇のとき中臣巨狭山(なかとみの・おおさやま)に神命が下ったので舟三隻を造って奉った」という伝承もある。ずいぶん古い神社なのだ。

鹿島神宮は、大神神社・大和神社・石上神宮の大和の三傑とくらべても、大和朝廷から見て同格、もしくはそれ以上に重要な神社であった。なぜなら、大和朝廷の意(威)に従わない日本列島東北部に住む蝦夷(えみし)の進入を、この常陸の地で防ぐ目的があったからだ。長途の旅に出ることを「鹿島立ち」という。これは奈良時代に常陸国に派遣された防人(さきもり)たちが、鹿島神宮の社頭に集合して北に向かって出発したという故事による。

よって、鹿島神宮の運営や指導のために、一時的に、祭祀をつかさどる家系の中臣鎌足の両親がこの地に赴任していて、鎌足がここで生まれたということは充分考えられる。


「春日大社の燈篭(とうろう)の数と鹿の数を、三日三晩でかぞえたら長者になれる」という言い伝えが、昔から奈良にあるそうだ。「そんなこと、できっこない」という意味らしい。たしかに春日大社には燈篭がとても多い。ちなみにその数は、石燈篭二千・釣燈篭一千の合計で三千といわれる。帰路に私の眼で見たのだが、さらに現在も新しい巨大な石燈篭がいくつも造られて奉納されている。夫婦の名前で一対、建造中の巨大な石燈篭を見た。燈篭の制作費については私はまったく無知であるが、でも、二、三千万円ではとてもできないように感じる。ひとつが、一、二億円はかかるのではないか、と思った。

日本全国どの神社にも石燈篭があるが、これには、それほど古い歴史はないらしい。平安時代の終わりころ(1137年)、藤原忠道(ただみち・摂政・関白・太政大臣、僧・慈円の父)がこの春日大社に寄進したのが、日本の石燈篭の第一号だという。これらの燈篭には、節分と八月に一斉にあかりが灯されるという。さぞ幻想的な夜景だろう。

奈良公園の鹿の数は、2026年7月16日現在で、1687頭いるそうだ。1頭は春ごろ大阪府に亡命したらしい。それを入れると1688頭になる。「鹿政談」という題の、味わい深い落語がある。これも小三治の噺(はなし)が面白い。ユーチューブで聴いていただく価値はあると思う。「小三治 鹿政談」で出てくる。


春日大社



春日大社 ご朱印

2026年10月8日木曜日

興福寺

 大和の寺社・参拝紀行(9)

二日目の2月6日は、興福寺・春日大社・東大寺を参拝する。近鉄奈良駅近くのホテルでF君と朝食を一緒して、徒歩で興福寺に向かう。この三つの寺社をむすぶ三角形の内側が奈良公園になる。

「日本文化史で、もし興福寺という存在を除外するとしたら、様相が変わってしまうにちがいない。それほどこの寺の存在はわれわれ日本人にとって重要である」と司馬遼太郎は述べている。平安時代、日本の寺社のなかで最大の荘園を持っていたのがこの興福寺だ。藤原氏の氏寺という権力を背景に、巨額の富を持っていたこの寺は、建造物・仏像などを合わせると現在、数十件の国宝を所蔵している。

この寺で、私がもっとも興味があったのは、五重塔と阿修羅(あしゅら)像の二つだ。

この寺は最初からこの地にあったのではない。天智天皇8年(669)中臣鎌足の妻が、夫・鎌足の病気平癒を願って京都の山階に創建した山階寺(やましなでら)がこの寺の起源だという。その後、天武天皇の御代に飛鳥の地に移り、さらに和銅3年(710)平城遷都とともに現在の地に移った。この寺に「興福寺」と名付けたのは藤原不比等である。

「国宝・興福寺五重塔・令和大修理」との巨大な表示があり、工事完了は令和16年と書いてある。あと8年ほどかかるらしい。高さ50メートルのこの五重塔は、55メートルの京都の東寺(とうじ)の五重塔に次いで日本で二番目に高いそうだ。余談だが、私の広島県の実家の築山にも五重塔が建っている。祖父が戦前に庭師に造らせたもので、藤原氏ほどの財力はなかったので高さは2メートル半ほどである。

興福寺国宝館の拝観券を買う。900円。国宝・金剛力士像、国宝・天燈鬼(てんとうき)・龍燈鬼(りゅうとうき)立像、国宝・千手観音菩薩(せんじゅ・かんのんぼさつ)立像、国宝・十大弟子立像など、それぞれの国宝を見学する。いずれも迫力があり素晴らしい。

「これらは本物なの?それともレプリカなの?」とF君に聞いてみる。つまらんことを聞くなよといったニュアンスで「全部本物だよ」との返事が返ってくる。海外の博物館で一級の美術品を見学したことがあるが、いくつかがレプリカだった。すべてが本物と聞いて感激する。そうだとすれば、この拝観料は安い。

真冬なので拝観者は少ない。

阿修羅像の前で、私は10分間ほど立ちすくみ、そのお姿をじっくりと拝観する。なんとも神秘的で魅力的なお顔の表情だ。純粋さの中に憂いを感じる。少年のようでもあり、少女のようでもある。これを造ったのは天平時代の仏師だが、その仏師はきっすいの倭人だったのか、それとも渡来系の人だったのかと思いをめぐらす。始皇帝・兵馬俑の何千もの将兵の像は、一体一体にモデルの人物がいたという。この阿修羅像にもモデルがいたような気がする。「この像高は153・4センチ」と案内書に書いてある。これはモデルの人物の実際の身長だったのではあるまいか。

寺務所で「千手観音・興福寺」のご朱印をいただく。5メートルの巨大な観音像も拝観している。この観音さまは千の手と千の眼を持っておられる。助けを求めるすべての人のもとに、どこにでも、すぐに駆け付けてくださる。そして一人も漏らさず全員を救ってくださる。このようなありがたい観音菩薩さまだと教えていただいた。


興福寺を出て、春日大社に向かって奈良公園を横切って歩く。数多くの鹿と観光客が一緒になって遊んでいる。日本人も外国人もスマホで鹿の写真を撮っている。鹿センベイを与えている人もいる。鹿センベイを与えると、鹿がペコリとお辞儀をするのが可愛いい。みんなが鹿を可愛がっているのがよくわかる。

奈良を訪問する少し前に、「奈良公園ではアジア系の観光客が鹿を蹴飛ばして虐めている」と言った政治家がいた。日本人ファーストと叫び、外国人の入国を制限することを主張としている人だ。「あの話、本当なの?」とF君に聞く。「ウソに決まっているだろう。鹿をいじめる外国人など一度も見たことがないし、そんな話聞いたこともないよ」と言う。みんなが嬉しそうに鹿を大切にしている姿を見て、私もそうだろうなと思った。

「そうそう、この前こんなことがあったんだ。俺びっくりしたよ」と、F君が笑いながら言う。次のような話だ。

観光客だけでなく、奈良で働いている外国人はけっこう多いらしい。アジア系の青年が自転車の荷台に小さな荷物を積んで走ってきた。F君の目の前で荷物が落ちた。オーイ、オーイと大声で呼んだら青年は引き返してきたので、事なきを得た。青年はF君にお礼を言った。なんと言ったのか聞いてみる。「かたじけない」と言ったそうだ。


興福寺

興福寺

興福寺




阿修羅像

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          


奈良公園の鹿

興福寺 ご朱印


私の実家の五重塔

2026年10月1日木曜日

石上(いそのかみ)神宮

 大和の寺社・参拝紀行(8)

『日本書紀』垂仁記(すいにんき・第十一代天皇)に次のようにある。

(垂仁天皇の)39年冬10月、朝廷において造らせた剣(つるぎ)一千口(ふり)を石上神宮に納め、(天皇の)長子である五十貮敷命(いにしきのみこと・第十二代景行天皇の兄)に管理させた。のち本人が老齢となり、妹の大中姫(おおなかつひめ)にその任を譲ろうとしたが、(姫は)私はか弱い女ですからといって辞退した。大中姫はこの任務を物部十千根大連(もののべの・とちおねのおおむらじ)に委譲された。物部連らが今に至るまで石上の神宝を治めているのは、これがそのもとである。


物部(もののべ)氏は、のちに石上(いそのかみ)氏と名を改めた。その後、子孫の中には再び物部氏を称した者もいた。さらに後世、子孫の中に布留(ふる)氏と称した者もいて、永くこの神宮の神主をつとめている。ちなみに、この神宮の現在の住所表示は、奈良県天理市布留(ふる)町384番地である。

『延喜式・神名帳』はこの神社のことを「石上座布留御魂(いそのかみにます・ふるのみたま)神社」と記している。平安時代以降は「フルの社(やしろ)」「振(ふる)神宮」「石上神社」など、人々は色々な呼び方をしている。現在の「石上神宮」の名称は、明治16年に内務省社寺局が定めたものである。

今まで述べたこの神社の由来からすると、この神社を「物部神宮」と呼んでもよい気がする。じつは、これとは別に「物部神社」という立派な神社が島根県大田市に現存する。明治4年に国幣小社に列した石見国の一之宮という由緒ある古社だ。第十二代・景行天皇の御代に物部氏が石見国造に任ぜられ、その後、第二十六代・継体天皇の頃にこの神社がつくられたと社伝はいう。


さて、物部氏について少しだけお話したい。もののべから、もののふ(武士)という言葉が生まれたという説もあり、物部氏は古代から武門の棟梁であった。いま一つの武門の棟梁が大伴(おおとも)氏である。両氏とも大和朝廷成立の初期からの大王家の側近であり、軍事をつかさどる家柄であった。軍事における両氏の役割の違いはどこか? 私の理解では、物部氏が攻撃集団としての日本陸軍の祖という立場であったのに対して、大伴氏は大王(天皇)をお護りすることを主任務とした近衛軍団の長(おさ)であった。このように認識している。

ご祭神について語りたい。現在この神宮がお祭りしている祭神は七つだが、平安時代の『延喜式・神名帳』には、この神社の祭神は「布都御魂大神・ふつのみたまのおおかみ」一つと書かれている。これは刀剣である。その昔の国譲り神話にさかのぼる。天照大神の命を受けた武甕雷神(たけみかつ”ちのかみ)は出雲国の稲佐浜(いなさのはま)で、大国主命の前にドンと座り国譲りを迫った。このとき武甕雷神が携えていたのが、この剣(つるぎ)だといわれる。

この話からすると、先の大神(おおみわ)神社と大和(おおやまと)神社の二社が「親大国主命」であるのに比べ、この石上神宮は「アンチ大国主命」と考えることができる。古代日本史の不思議さと、面白さを感じる。


この神宮には国宝が三つある。二つは鎌倉時代に造られた拝殿で、いま一つが刀剣だ。ただし、この国宝の刀剣は先に述べた「布都御魂大神」ではない。有名な「七枝刀・しちしとう」である。七枝刀については何冊もの書物があるので、ごく簡単に紹介したい。

七枝刀は、百済王・近肖古王の世子(皇太子)が倭王のために百済で造らせたものだ。ここまでは明治期にすでにわかっていた。ただ、刻んである漢字62文字の中の年号が、長い間わからなかった。それが2025年のX線CT調査によって判明されたのである。東晋の年号「太和・たいわ」の百済読みでの仮借文字「泰和四年」と読めた。すなわち、この七枝刀は西暦369年に造られたものだと判明した。当時、百済は宗主国ともいえる東晋の元号を使用していた。この太和四年は、私が大好きな東晋の田園詩人・陶淵明が、幼少四歳、のときにあたる。そう考えるとずいぶん古いものである。

この時代、すなわち西暦350年頃の極東アジアの政治状態は次のようであった。古くからの朝鮮半島における強国は、北方の高句麗であった。半島南部の東に新羅という国が建国され、西側に百済が建国される。南には倭国の影響力が強い任那(伽耶)があった。なにかにつけて新羅は百済を目の敵にし、そのために時に高句麗の力を借りようともした。百済に残された安全保障の選択肢は、東方において勃興しつつある倭国と手を結ぶ以外になかったのだ。この頃の極東アジアの政治・軍事の動きについては、『紀』の「神功皇后」の項に詳しい。


次の話は、ぐっと時代がくだる。

近代日本画壇の巨匠に富岡鉄斎(とみおか・てっさい)という人がいる。天保7年~大正13年であるから、高杉晋作より3歳年長である。この人は「万巻の書を読み万里の道を往く」をモットーとして、若い頃から東奔西走の生活を送り、87歳の長寿を得ている。大変魅力的な人物だが、同時に相当変わった人でもある。本業は画家だが、若い頃から国学や陽明学を学び勤皇思想を強く持っていた。明治初年には京都の立命館で教師をしたり、いくつかの神社で神官の仕事もしている。この人は明治9年から短期間ではあるが、この石上神宮で小宮司を勤めている。

この神宮は大和盆地の中央東寄りの山沿いに位置し、布留山(266米)の北西の高台に鎮座している。大神神社、大和神社に比べると一番北側にあり、日本最古の道といわれる山の辺の道は、この神宮の目の前を通っている。境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、じつに神さびた風格ある神社である。


帰り道では苦労した。行きの天理駅に着いた時はすでに午後4時をまわっていた。多くの神社は5時で門が閉まる。あわててタクシーを拾い無事に参拝を済ませることができたのだが、帰りはタクシーがまったく見えない。歩こうぜ、という話になり、4キロ弱の道をF君とテクテク天理駅まで歩いた。足がくたびれたので、途中で天理教団の中心部にある喫茶店に立ち寄って熱いコーヒーを飲んだ。この天理市というのは現在は天理教の王国のようだ。数多くの天理教の立派な施設が見える。この日ホテルに帰ってスマホの万歩計を覗いたら、二万歩を軽く超えていた。


石上神宮


石上神宮


石上神宮


石上神宮 ご朱印