昭和20年1月26日、午後4時すぎのことだった。
慶応大学から三田網町の自宅に戻っていた小泉信三は、ふたたび身支度をした。ゲートルを巻き、外套を着こみ、ステッキを持った。
今日は妻とみ子の誕生日だった。夜には妻の弟を招くことになっていた。妻に花を贈ろうとかれは考え、出かけようとしていた。このとき、玄関まで送りに出てきた下の娘のタエに、内証だよと念を押した。
小泉信三が向かう花屋は六本木の後藤だった。あらかたの花屋は店を閉じていた。花どころではなかった。百合の根やチューリップの球根を煎じ、代用コーヒーに変えてしまったのは4年前のことだ。
2キロ近い道を早足で歩いてきて、かれは爽快な気分だった。われ知らず上機嫌になった。
「女の人の誕生日に贈るんだから、適当にえらんでください」と言ってから、余計なことを言ったものだと思い、いかにも西洋の通俗小説にありそうな言い方をしたことに、自分でおかしく思った。
選ぶほどの花の種類はなかった。カーネーションも、アイリスも、バラも、チューリップもなかった。花屋がとってくれたのは、水仙・ストック・エリカだった。いずれも房総南部安房郡の露地栽培の花だった。水仙は日当たりのよい土手で蕾をつけていたのであろう。
帰り道、外は十二夜か、十三夜の月で明るかった。この戦いのさなか、妻の誕生日に花を買いにきたことが、なにかわくわくする冒険のようで、愉快だった。同時に、東京でまだ花が買えるのがなんとも頼もしい気がした。
鳥居民「昭和二十年」の一節です。
0 件のコメント:
コメントを投稿