陸軍大将・今村均は、オランダによるジャワでの軍事裁判で無罪を言い渡され、昭和25年1月22日に日本に帰国した。すぐにアメリカ軍が管理する巣鴨刑務所に収監された。オーストラリア軍事裁判所がくだした禁固10年の刑に服すためである。
今村はGHQに、「自分だけが東京で刑に服すのは部下に対して心苦しい。自分も部下たちが収監されている豪・マヌス島の刑務所に移して欲しい」と申し入れ、マッカーサーはこれを許可した。マヌス島はパプアニューギニア島の北東にある孤島で、高温多湿の島である。
以下は本人の手記による。
このようにして、私はマヌス島の刑務所生活にはいった。
ラバウル以来私は、´´幽閉生活の中では野菜が不足する´´ と承知していたので、日本を出発するまえ、家内に依頼し、いろんな野菜の種を買わしめ、マヌス島に持っていった。日本ネギの一種のワケギの種やトマトの種も含まれていた。
私は、刑務所長に対し、50歳以上の戦犯者、私を含めた6人には野菜をつくらせてくれとたのんでみた。その結果、刑務所から500メートルくらいはなれた良い土質のところに畑を作ることを許された。6人は、ひとり五反歩(1500坪)ぐらいずつを受け持ち農作に従事した。私の分担の畑には、日本から持ってきたワケギとトマトの種をまいた。気候・土壌が合ったとみえて、立派にできる。
そのうち、豪海軍の将校や下士官が、毎土曜日になると、私の畑にやってきて、ワケギをくれと言い出した。どうしてワケギが必要なのかと問うと、「進駐軍として日本に行ったときに覚えました。´´すき焼き´´ぐらいうまいものはない。すき焼きには玉ネギではだめです。あなたのネギを分けてください」と言う。
私は、「よろしい。持っていきなさい」と言うと、みんな適当に数株をぬいていき、お礼のしるしだと言い、スリーキャッスルという巻きたばこをひと缶ずつ置いてゆく。私はたばこはのまないので「いらない」と言ったのだが、いっしょに畑仕事をやっている5人の戦友が「あなたはのまんでも私たちがのみます」というので、それ以後はもらっておくことにした。
いく月かのうちに、私以外の5人がサツマイモを作りはじめた。どうしてかなと思っていると、ドラム缶などで実に上手にイモ焼酎をつくりはじめた。なんの楽しみもない絶海の孤島での唯一の楽しみにしようとしたのである。
そのうち、土人の看守たちが、手に手に小瓶をもってきて、「トアン、どうか一杯」とせがみ、焼酎をわけてやると大喜びした。その後もたびたびやってきて焼酎の製造をさいそくし、しかも、焼酎を作るときになると、いつも私たちを監視するために中を向いている土人看守たちは、500メートル四方の畑の四隅に立ち外を向き、豪州人たちの来るのを見張っていた。
またトマトも土質が合うとみえて、りっぱに赤くみのった。私のトマト畑には、よく土人の子供らがやってきて、トマトをせがむ。与えてやると、お礼に畑のはしに生えているヤシの木に登り、その実をとってきてくれたりする。
数か月あとになると、豪・海軍司令官の官舎で給仕勤務させられていた日本人戦犯者の一人が、「昨晩、司令官舎の会食で、オーストラリア本国から送られてきたメロンが数個供された。種子はすべて捨てるように言われましたが、畑にまいてみてはどうですか」と言う。
芽がはえるかどうか確信はなかったが、ためしに翌日まいてみた。三か月ぐらい後には50個ほどの大きな実をむすんだ。以来ずっとこれをつつ¨け、メロンだけは戦友たちの医務室内の病人用に使用した。
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