ところが、「続日本紀」を読んでいて、この役小角のことが出ていて驚いた。
「続日本紀は日本書記にくらべて物語性はまったくない。すべてが史実である」と聞いている。そうであれば、役小角は実在の人物だ。
「続日本紀」の最初あたりに、次のようにある。
文武天皇3年(699)5月24日
役の行者小角を伊豆嶋に配流した。はじめ小角は葛木山(かずらぎやま)に住み、呪術をよく使うので有名であった。外従五位下の韓国連広足(からくにのむらじ・ひろたり)の師匠であった。
のちに小角の能力が悪いことに使われ、人々を惑わすものであると讒言されたので、遠流(おんる)の罪に処せられた。世間のうわさでは「小角は鬼神を思うままに使役して、水を汲んだり薪を採らせたりし、もし命じたことに従わないと、呪術で縛って動けないようにした」といわれる。
正史である「続日本紀」に書かれているのはこれだけである。
これがどうして海の上を歩いたり、雲に乗って飛んで行ったという話に変化したのだろうか。私なりに考えぬいて、浮かんだのは次のような光景である。
偉大な人格の持主である役小角は、伊豆大島の獄舎の役人たちを、みな弟子にしてしまったのではあるまいか。このような話は日本史の中に数多くある。
吉田松陰が萩の野山獄に収監されたとき、他の囚人たちは、富永有隣・高須久子を含めてみな松陰の弟子になってしまった。看守の福川犀乃助(さいのすけ)までが、松陰の講義に耳をかたむけたという。
西郷隆盛も同じである。奄美大島・徳之島・沖永良部島とあちこちに流されるが、いずれの地でも島民から慕われ、看守たちから尊敬を受けている。人間というものは、自分に学問や教育がなくても、目の前にいる人物の重みが、なんとなく判るものらしい。
これと同じようなことがおこったのではあるまいか。
伊豆の八丈島は本土から300キロも離れた絶海の孤島だが、それに比べ、大島は伊豆半島から東にわずか30キロほどの距離である。
我々の36フィートのクルーザーで下田や東伊豆から出帆すると、風を真横から受けるアビームの順風だと3-4時間で大島に着く。飛鳥・奈良時代の帆かけ舟でも、朝出帆すれば夕方までには到着できる。無風で手漕ぎの場合でも大丈夫で、日没前に島に着く。
弟子になった看守たちを前に、役小角はこう言ったのではあるまいか。
「富士のお山というのが駿河にあるだろう。わしはあのお山に登ってみたいなあ」
看守たちはハイハイと、すぐに米や路銀を含めて旅支度をととのえた。「行者さまお一人では心配です。うちのせがれを含めて島の屈強の若者三人を手下に使ってください」
「そうか、そりゃありがたいのう」
看守の長(おさ)が手配してくれた舟に乗り、三人の手下を連れて伊豆半島に渡り、小角はゆうゆうと富士登山を終えた。帰ってきてしばらくは島でおとなしくしていたのだが、また山登りの血がむずむずと騒ぐ。「武蔵国の秩父あたりにも三峰山とかいう良いお山があるらしい。旅支度をととのえてくれんか」
看守を含め、島の人たちは準備を急いだ。出発の朝、看守の長が小角に言った。
「行者さま。10月1日には都から役人が視察にやってきます。それまでにはかならず帰ってきてくださいね。そうでないと、私の立場がありませんから」
「わかった、わかった、大丈夫じゃ」
役小角はそう笑って、供の三人を連れて秩父方面に出かけた。そして9月29日の夕方、島に戻ってきた。ところが、都から派遣された役人たちは前日すでに島に到着していた。予定が早まったらしい。
「あいつがおらんではないか!」と大騒ぎになった。
「あれっ、あれっ、さっきまでしんみょうにして獄の中にいたのですがねぇ」看守の長は部下に目くばせをしながら、とぼけた返事をした。
「そうですねぇ。さっきまで獄の中におりましたが。でも、あいつは仙人ですから、時々すーっと、獄からかってに出て、雲に乗ってブラブラと空を飛んで遊んでいることもありますよ」と部下たちは口を合わせた。その翌日、日が暮れてから、小角たち四人は元気いっぱいで帰ってきた。
「都からの役人たちは、今となりの棟で酒を飲みながら大騒ぎをしています。ともかく急いで湯を使い旅の疲れを流して、獄の中に入って休まれてください。酒と食事はすぐにお届けしますから」
看守の長は、そう言って小角に風呂をすすめた。
この役人たちが、「役小角のやつ、雲に乗って空を飛んだり、海の上を歩いていやがった」と、都に帰って報告したのではあるまいか。
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