子供のときから役小角(役行者・えんのぎょうじゃ)のことは知っている。
保育所の頃だから4歳か5歳のときだ。我々の保育所は海のそばにあったが、裏手に小高い山が迫っていた。山の上に小さな祠(ほこら)があり、ここにみんなでよく遊びにいった。
そこには白い髭をはやした老人がいて、役行者の話を聞かせてくれた。老人はここに住んでいたのか、別の場所に住んでここで修行をしていたのか、はっきりとは記憶にない。
「わしはまだまだ修行中じゃ!」というのが、自分たちの祖父より年長のその老人の口癖だった。
老人は、子供たちを相手に目を輝かせて、役行者の偉大さを語ってくれた。
〇役行者は、都の仲間のつげぐちによって罪人にされ、天皇さまの命令で、伊豆の大島というところに島流しにされた。
〇ところがこの人は立派な仙人で、海の上を歩いたり、雲に乗って自由に空を飛ぶこともできた。
〇ふだんは獄の中でおとなしくしておるんじゃが、気が向くと雲に乗って飛んでいき富士山やほかの山々に行って修行をしておった。都から役人が見廻りに来るころには、また雲に乗ってその島に帰り、獄の中でしんみょうにしておった。
〇何年かたって、仲間のつげぐちが偽りであったことを天皇さまが知って、許されて都に戻った。
「あのお爺さんは変わったお人じゃけぇ、あんまりあの近くに行ったらいけんよ」と、親たちは言っていたが、我々はこの老人が好きで、おかまいなしでそこによく行った。夏にはヤマモモ、秋には山葡萄をふるまってくれた。晩秋から冬にかけて行くと干し柿をくれた。山々に自生するしぶ柿を、大量に干柿にして保存していた。
「爺様も雲に乗って空を飛べるんか?」あるとき、私は老人に聞いた。
「うん。もうちょっとじゃ。もうちょっと修行をしたら、わしも雲に乗って空を飛ぶぞ」、と老人ははっきりと言った。
親たちはこの人のことを良く言わなかったが、子供たちは「偉い爺様だ」と尊敬していた。この爺様は大きなほら貝を持っていた。大事そうにしていて、子供達には触らせてくれなかった。
私のふるさとは、当時、広島県沼隈郡浦崎村といい、となりに山南(さんな)という村があった。
このあたりには昔から、「山南坊主(さんなぼうず)に浦崎山伏(うらさきやまぶし)」という言葉がある。山南にはお寺さんが多い。小学校5・6年の担任だった山辺昭乗先生の実家も山南村の小さなお寺だった。「檀家の少ない小さな寺じゃけぇ、坊主だけじゃ食えんのよ。だから学校の先生になったんよ」と笑いながらおっしゃっていた。寺には建物や檀家があるので、山辺先生の実家のお寺は今でも残っている。山辺先生は93歳で、今もご健在だ。
かたや、浦崎山伏のほうは、今はあとかたもない。
明治新政府は、この山伏を神社の神主か仏閣のお坊さんに分類するかで、頭を悩ませたらしい。
「どちらかというと坊主に近かろう」との判断で、お坊さんのほうに分類した。
山伏はほら貝を吹いて、山にこもって修行する。修験僧という意味では仏教徒の一面もあるが、古神道の色彩と同時に道教的なにおいも持っている。正確には、神主でも坊主でもなく、「深山幽谷に分け入り厳しい修行をして霊験を得て、衆生の救済を目指す」という宗教であった。山に自生する薬草を見つけ出し病人を救う、という医者・薬剤師的な側面も持っていた。
この老人は、もしかしたら、「浦崎山伏」の最後の一人だったのかも知れない。
このようなことがあったので、私は子供のころから「役行者は偉い仙人さまだ」とずっと思っていた。
高校生か大学生の頃、今昔物語にある久米の仙人の話を読んだが、
「雲に乗って飛んでいる時、下の川べりで洗濯をしていた若い女の太ももを見て、煩悩が浮かび神通力を失って落下した久米の仙人なぞ、役行者さまに比べたらずいぶん小物だ。修行が足りんかったのだなあ」と馬鹿にしていた。
ただ、私でも大人になると、だんだん知恵がついてくる。
雲に乗って空を飛んだり、海の上を歩くなど、できるわけがない。役行者にしても久米仙人にしても、架空の人物であり、この話は史実ではなく、だれかが作り上げた物語なのだと気がついた。
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