2020年3月22日日曜日

高麗神社(3)

古代朝鮮半島の国々と倭国との関係を調べてみて、興味深いことがある。

倭国が任那・百済と友好関係にあったことはよく知られているが、この高句麗との関係も良い。高句麗滅亡のあと、その遺民が建国した渤海(ぼっかい・698-926)も、日本に親しみを寄せしばしば通交し、ある意味日本に対して甘えている。大和朝廷もこの渤海に対しては、とても好意的に対応している。

日本国の一部という認識なのか、あるいは親戚という意識なのか、「続日本紀」はこの国のことを「渤海郡」と表記している。「日本が兄、渤海が弟」という認識が両者にある感じがする。

唯一、新羅(しらぎ・359-935)との関係だけは、ほぼ一貫して良くない。新羅は中国の王朝から冷たくされると、時として倭国にすり寄ってくることもあるが、おおむね中国の子分筆頭をもって自らを任じ、中国の威を借りて倭国に対して「上から目線」でものを言ってくる。倭国がいかに誠意を持って対応しようとしても、新羅は倭国をつねに目のかたきにする。

「日本書紀」や「続日本紀」を読んでいると、「新羅だけはどうにもならん。嫌な国だよ」との「空気」が大和朝廷の内部に漂っている。この新羅の遺伝子を濃厚に受けつでいるのが大韓民国だといわれている。もしかしたら100年後、北朝鮮と日本は仲良しになっているかも知れない。でも韓国と日本の関係は現在とあまり変わってないのではあるまいか。1500年間の両国の関係を眺めていてそのように感じる。

国同士の関係はそうなのだが、不思議なことに、個人と個人の関係になると、かならずしもそうではない。

少し時代は下るが、承和5年(838)から10年間入唐留学した僧・円仁は、行きも帰りも、さらに唐に滞在中も新羅人に大変世話になっている。当時、中国の山東半島一帯には多くの新羅人海商が活躍していた。円仁の人柄が気に入られたのか、在唐の新羅人は陰に日向に円仁を助けている。後日、円仁は「新羅人の助けがなかったら自分は生きて帰れなかった」とまで語っている。

日本史でいう弥生時代から奈良時代にかけて、おびただしい数の人々が、半島の政情変化や戦乱のたびに倭国に亡命してきた。大和朝廷は親切にこれらの人々を受け入れている。任那・百済・高句麗からの亡命者が多いのは理解できるが、不思議なことに新羅からの亡命者も多い。新羅国内での政争に敗れた人たちが渡来したのであろうか。

国と国との対立はさておいて、「倭国に行けば食えるぞ」との常識が、当時の新羅の人々の頭にあったからだと思う。日本列島の風土は稲作に適している。渡来系の人々が持ってきた鉄器や土木灌漑の技術により、農業の生産性が飛躍的に向上していたのである。


そう考えれば、弥生時代から奈良時代に至る千年間のわが国は、あたかも建国から現在に至るアメリカ合衆国と同じく、「移民受け入れ超大国」 だったといえる。

そしてこの移民たちのエネルギーが、農業を中心とした産業や文化の発展向上につながり、倭国すなわち日本の国力を充実させる要因になったと考える。







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