広陵での生活が12年目になろうとする、ある日のこと。
正確には前209年の春、召平のもとに衝撃的な情報が飛び込んでくる。
今までも、各地にちらばる将軍・諸侯とは、時おり連絡を取りあっている。今回の便りは国都・咸陽(かんよう)から届いた。仲の良い将軍からである。
竹簡に言う。
「始皇帝は前年、東方を巡行中に崩御された。その時、帝のおそばには宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)、宰相の李斯(りし)、始皇帝の末子の胡亥(こがい)がいた。趙高は、蒙恬(もうてん)将軍がうしろだての長男の扶蘇(ふそ)が即位すると、自分の身があやういと考えた。そこで李斯とはかり、帝の崩御を隠し、同時に長男の扶蘇を後続者にするという始皇帝の遺言状を握りつぶした。そして偽りの詔勅(しょうちょく)をつくり、北方を警備中の大将軍・蒙恬とそこに身を置いている扶蘇に自害を命じた。匈奴征伐の功績なく、朕(ちん)の政治批判はなはだしきは不忠なり。との理由をとってつけた」
「辺境の地で勅命(ちょくめい)に接した長男・扶蘇は自害した。その前に蒙恬は制止した。あまりにも唐突な命令で理解できない。なにかの陰謀ではないか。一度助命を嘆願してみましょうと。
扶蘇は、それでは父の命を疑うことになり二重の不忠となる、と言って死を急いだ。蒙恬は自害をこばんだ。使者団は彼をとらえ、咸陽へ護送して獄につないだ。数ヶ月後、蒙恬は毒をあおいで死んだ。趙高と李斯は、自分たちのあやつりやすい末子の胡亥(こがい)を二世皇帝の座にすえた。
その後まもなく、趙高は李斯に冤罪をでっちあげ、皇帝の名のもとに群衆の前で宰相・李斯の首を刎ねた。現在秦の国権は、すべて宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)が握っている」
中央からの正式な通達は届いていないが、始皇帝が崩御されたのでは、、とのうわさは、広陵の地にも聞こえていた。
人はいずれ死ぬ。始皇帝の死にはまったく驚かない。衝撃を受けたのは扶蘇と蒙恬の死である。
蒙恬は、秦において突出した名将である。民のしあわせを思う仁徳の将軍であり、天下人民の信望はひとしくこの将軍にあった。召平自身、かつてこの将軍のもとに従軍し、その謦咳に接したことがある。この将軍を心から尊敬していた。
長男の扶蘇が、国都の咸陽から、匈奴を防衛している北辺の蒙恬の駐屯地に移ったのは、始皇帝の死の1年前のことだ。原因は始皇帝の行なった焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)にある。すべての儒書を焼き払い、儒者460人を坑(こう・いきうめ)にした。焚書のときまでは口をつぐんでいた扶蘇は、坑儒に至って強い口調で父・始皇帝をいさめた。扶蘇は人柄がおだやかで民を思う気持ちも強く、苛酷な法家の思想を好まず、儒家の言うことが道理に合うと考えていた。
始皇帝は息子からいさめられて、はなはだ面子(めんつ)を失う。
「しばらく北方の蒙恬のところに行って修行しなおしてこい!」と、咸陽の宮殿から辺境の地に追い出してしまった。ただ、この時の始皇帝の命令は衝動的なものであり、扶蘇を抹殺する気持ちはまったくなかった。二十余人の息子たちの中で、この長男が群を抜いた人物であることは、始皇帝自身が一番よく承知していた。
ひとびとは扶蘇に同情したが、本人はむしろ喜んで北の辺境の地に向かった。蒙恬の勇敢さと優しさが大好きだったからである。
「秦はもはやこれまでである」
今までも秦の悪政を憎み、この国を滅ぼさなければ民はしあわせになれない、との気持ちを抱いていた。しかし、心のかたすみに、灯(ともしび)のようなものがかすかに残っていたのも事実である。
その灯が、扶蘇と蒙恬であった。
いずれの日か、仁徳の皇太子・扶蘇が蒙恬将軍をうしろだてとして即位し、宦官・趙高と宰相・李斯を追い払い、まっとうな政治が行われる日が来るかもしれない、との希望があった。しかし、それは今回の一件で夢と化した。
0 件のコメント:
コメントを投稿