2020年6月19日金曜日

東陵の瓜(2)

15歳で軍に身を投じたこの少年の昇進ぶりには目を見張る。

18歳で千人の兵を指揮する都尉(将校)となる。21歳で一万二千の将軍となり、大将軍・蒙恬(もうてん)に従い匈奴征伐に功を立てる。そしてわずか26歳にして、六万の将兵に号令をかける大将軍に昇った。後世の軍制度でいえば、21歳で師団長、26歳で軍司令官になったわけだ。

このスピード出世記録は、召平の100年後に生まれる漢の大将軍・霍去病(かく・きょへい)によって塗り替えられるが、それ以前には例がない。

伯父の衛青(えいせい)大将軍に従い匈奴征伐におもむく霍去病は、18歳でいきなり驃騎(ひょうき)将軍として出陣する。匈奴に連勝を重ね20歳で大将軍となったこの天才青年は、24歳の若さで病没している。

召平は天才ではない。努力と運の人である。
驚くことは、百回の戦に出陣しながらその身にかすり傷ひとつ負わなかった。稀有なことである。
後年、このことを人に問われた召平は、「人生の出来事の9割は運である。残りの1割が努力だ。自分は運が良かった」と答えている。

秦王・政(せい)が六ヵ国をたいらげ中国を統一したのは前221年、召平が27歳のときだ。翌年、28歳のとき、「東陵侯」(とうりょうこう)に任ぜられ、揚子江下流北岸の広陵(こうりょう)の地に移る。ここはかつての敵、楚の領土である。後世の地理でいうと、上海の北・南京の東に位置する。


少年の日に憧れた爵位を、28歳という若さで手に入れたのだ。
ところがまことに奇妙なことに、この時から召平の心楽しまざる毎日が始まる。

始皇帝が中国を統一して、その後秦が滅びるまでの十数年間の 「侯」 の爵位ほど、不思議な存在は中国史に例がない。それまでの「諸侯」は、土地や財産を与えられると同時に、その地域の行政権や司法権を与えられていた。ところが中国大陸を統一した始皇帝は、今まで秦の本国だけで行われてきた 「郡県制」 を全土に施行する。中央から派遣された郡守が行政・司法・軍事のすべての権をにぎり、その下に県令が置かれた。中央集権国家を目指したのである。

「侯」には、それなりの名誉と財産が与えられたが、政治的にはまったくの「お飾り」であった。

この秦の爵位は、明治維新ののち旧大名に与えられた公・侯・伯・子・男に似ている。いや、明治新政府の知恵者が、秦の爵位制度をまねたとみるのが正確かも知れない。すなわち、過去の功績に対して名誉と金は与える、ただし政治には一切関与させない。

ひろびろとした広陵の館(やかた)で、使用人たちに囲まれた召平には経済的な心配はない。同時にやるべき仕事もない。郡守や県令の仕事を傍観するだけの毎日である。中央から派遣されてくる郡守は、血も涙もない悪法の忠実な番犬であった。県令もまた同じである。

農民の苦しみは戦国時代よりはるかに増大する。租税は農民の収穫の三分の二という過酷なもので、一家が飢えようとも徹底的に税を徴収する。収めきれないと罰として土木現場に送る。始皇帝は六国を征服すると同時に、巨大な自分の陵墓をつくりはじめる。工事の着手時だけで人夫80万人を動員する。これだけではない。万里の長城・阿房宮(あぼうきゅう)・全国を結ぶ官用道路の建設に数百万人もの農民が徴用された。そして多くが病気と飢えで死んでいった。

「農民が可哀そうではないか」
「田植えの季節になる。労役を少し減らしてやったらどうか」
当初、召平は郡守や県令にそう意見した。しかし、それはまったく聞き入れられない。

何度も意見しているうちに気がついた。
「郡守も県令もたしかに悪い。しかし、中央から命じられた額の税を徴収しなければ彼らは左遷される。へたをすれば秦の法にもとつ¨いて彼ら自身が殺されるのだ。この国を亡ぼさないかぎり、民は幸せになれないのではあるまいか」

こう考えついた時、召平はいたたまれない気持ちになる。極度の自己矛盾におちいったのだ。
少年の日、功名を夢見て秦の軍に身を投じた。幸運に恵まれ、将になり侯にまで昇った。秦は中国統一をはたした。ここまでは良い。

しかし今、民は塗炭の苦しみにあえいでいる。戦国時代の農民の暮らしのほうがはるかにましだ。自分が直接手を下しているわけではないが、自分がやってきたことにより、民は不幸になっている。これは間違いない。


食も喉(のど)に通らず、夜も眠れない日々が続く。





















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