2026年7月30日木曜日

大学卒の初任給50万円(1)

 3年ほど前から、お客様の人事の方にお会いするたびに、次のように言ってひんしゅくを買っていた。私が出入りしている企業の人事の方々はおおらかで懐が深い。この無遠慮な発言を理由に、出入りを禁止された会社はない。

「初任給が27~8万円では若者の生活が大変です。50万円が適当だと思います。もっと新卒の初任給を上げるべきです」

怖い顔で、「馬鹿なことを言わないでください。我が社にはとてもそんな体力はありません」とおっしゃる方が多かった。中には笑いながら、「新卒採用は少ないから50万円程度なら払うことは出来ますよ。でも、そのそうなると、入社2~10年の社員の給与が新卒より低くなってしまいますよ」と言われる方もあった。


この「初任給」については歴史のうんちくではなく、私自身の体験をベースに語りたい。次のような体験である。最初に葉書の値段についてお話したい。

昭和39年4月、私は岡山県の金光学園高等学校に入学して、山の中にある大正時代に建てられた古い寄宿舎に入った。15歳の春のことだ。一緒に入寮した同期生は約50人だった。入寮したその晩の、69歳の老舎監長・佐藤岩男先生がおっしゃった言葉を今でもハッキリと覚えている。

「週一回かならず親にハガキを書いて近況報告をしなさい。週一回も書くことはないと言う者がいるかも知れないが、それは間違いだ。書くことはいっぱいある。もし本当に書くことがないなら、今夜は何を食べた、昨晩は何を食べたと、1週間分の寄宿舎の夕食の料理を書き並べなさい。それだけで両親は安心される」

各人が一冊のノートを持たされ、文具でも牛乳でも、そして郵便局のハガキでも、すべてツケで買っていた。郵便局でツケでハガキを買うなんて、今思うと不思議な気がする。舎監長先生はこのノートをチェックされる。月4枚のハガキを買っていない生徒は、舎監長室に呼ばれて頭をゴツンと殴られて説教される。このような環境だったので、私はかならず週一回親にハガキを書いていた。大学生になってからもこの習慣は続いた。高校時代・大学時代のハガキの値段は1枚7円だったと記憶する。

大学を卒業して三光汽船に入社したのは、昭和47年4月だ。自宅が東京にある人が数人いたが、関西出身者が多く大部分の新入社員は横浜の寮に入った。このとき、人事総務担当専務の平山隆三さんは、新入社員47人を前に次のような訓示ををされた。私はこれを聞いて、とても驚いた。

「辞令にある通り、君たちはこれから月給5万1千円をもらう。千分の一の50円でハガキが5枚買える。週一回親にハガキを書いて近況報告をしなさい」驚いたのはこれに続く次の言葉である。

「週一回も書くことはないと言う者がいるかも知れないが、それは間違いだ。もし本当に書くことがないなら、会社の寮で今夜は何を食べた、昨晩は何を食べたと1週間分の寮の食事を書き並べなさい。それだけでご両親は安心される」

異なる場所と人の瓜二つの言葉に、私は長い間、不思議な気持ちを抱いていた。平山専務は太平洋戦争末期、大本営の少佐参謀で瀬島龍三中佐の部下だった、と後で他の人から聞いた。それ以前、陸大を卒業してからの1年間は大阪陸軍幼年学校の教官をされていたという。

高校寄宿舎の老舎監長の佐藤岩男先生は、戦争中は寮生の食糧確保のため、地元の教え子の自宅を一軒つ”つ回って米・麦・芋を手に入れるため努力・苦労をされていた。同時に生徒たちと共に山野を開墾して、さつま芋やじゃがいもを植えておられた、そして豚や鶏を飼っておられた、と後になって寄宿舎の大先輩からお聞きした。

食糧難の頃、15・6歳の少年多数を預かっていた先生方は、このような思いで生徒や親たちに接しておられたのかと思い、深く感じ入るものがあった。真面目人間の私は、この尊敬するお二人のいいつけをその後も守り続けた。そしてハガキを書くことが一つの楽しみになった。母親が99歳までボケないで元気でいてくれたおかげで、私は週一回のハガキ書きを60年続けるという幸運に恵まれた。


念のため、当時のハガキの値段を改めて調べてみたが、私の記憶に間違いなかった。昭和36年から46年までは7円。私が社会人になる前年の昭和46年からは10円に改正され、その4年後には20円になっている。2年前の令和6年9月から、ハガキは85円に値上がりした。現在進行中のインフレを考えると、今後2~3年の間には100円を軽く超えると思われる。

ハガキが10円の時、私の初任給は5万1千円だった。ハガキが100円になろうとする現在、大卒初任給50万円は当然の話だと思う。これが、「大卒の初任給は50万円であるべきだ」と私が考える理由の一つである。


吉野山の「白桜」




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