2026年9月3日木曜日

神社の起源はいつ頃なのか?(3・完)

 大和の寺社・参拝紀行(4)

古代のひとびとは、山を見て、川を見て、滝を見て、岬を見て、岩や巨木を見て、畏(おそれ)を抱いて祈りを捧げた。と先に述べた。それと同じく、人々の幸せを念じ、人々の幸せのために努力した有徳の人の霊にも、敬慕の気持ちを抱いて祈りを捧げたようである。

縄文人たちは、きっとこのような人を神としてお祀りしたに違いない、と思える話が『街道をゆく・北のまほろば』の中に出てくる。

青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺蹟が発見されたのは1994年だから、司馬遼太郎にとってその晩年にあたる。「4500年前の巨大木柱出土」という朝日新聞の夕刊記事を読んで興奮した彼は、すぐに現地に取材に出かけている。ここから出土した高楼と巨大な翡翠(ひすい)を見ながら、次のような縄文時代の光景を想像したと語っておられる。


さて高楼のことである。現場で、私はただ一つの想像をするだけにした。農耕時代になって政治的権力者があらわれる。だから、採集の世の楼閣は、首長の権力をあらわすものではなかったろう。ひとびとは、丸木舟に乗って、海で漁をする。おえると、この高楼をめざして帰ってきたのに違いない。夜、漁からもどらない者があると、「高く、火を焚け」というのが、首長だったにちがいない。闇の海で方角をうしなった者は、望楼の火を見つつ帰ってくる。首長は情義の機関だったのではないか。むしろ宗教的存在といってもいい。

翡翠(ひすい)も出てきた。越後の糸魚川の産である。岡田主査が、現場で二個の翡翠をみせてくれた。野球のボールほどのもので、二つとも紐(ひも)通しの孔(あな)が、きれいに貫通されている。掌(て)にのせると、ばかに重かった。人が海から帰らぬ日、あかあかと望楼に火を焚かせ、戻るまで首長が =この翡翠をくびからぶらさげて= 待っていたであろうことを想像した。


このような人を、その方が亡くなったあと、縄文時代の人々は神として祀ったのであろうか。


おしまいに、西行法師の和歌一首を紹介したい。

「なにごとのおはしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

西行法師が伊勢神宮を参拝したときに詠んだ歌だといわれる。この歌の解釈にはいろいろの説がある。僧である西行が信じていたものは、古代の自然信仰のようなものであろうという人がいる。山や森・滝や河・岩や岬など、古代人があこがれ、感謝し、また恐れていたものを、西行もまた体で感じたのであろうという人もいる。私もそのように思っている。

西行法師は、この神宮の祭神である天照大神(あまてらす・おおみかみ)に対して、かたじけない気持ちで涙を流したのではないような気がする。

皇大神宮(内宮・ないくう)は天照大神を祀る二千年の古社だといわれる。これを否定する気持ちはまったくない。同時に私は、伊勢神宮を崇拝する気持ちは人一倍強い。そうではあるが、私の心の中には、それよりもはるか以前から、ここに「なにか」が祀られていたような気がしてならない。もしかしたら、西行法師も同じように感じておられたのではあるまいか。





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