大和の寺社・参拝紀行(5)
F君と一緒の、奈良の寺社・参拝紀行がはじまった。
この神社は「日本最古の神社」と多くの書物で紹介されている。「おおかみ」と読まないで「おおみわ」と読む。漢字の読み方は便利というか、いいかげんだ。ある意味自由自在ともいえる。百済を「ひゃくさい」と読むことはまれにあるが、多くは「くだら」と読むのに似ている。いずれの読み方にも、いにしえ人の深い思い入れがあるようだ。
よってこの神社を最初に参拝して、次に大和(おおやまと)神社と石上(いそのかみ)神宮をお参りするのが日本人としての礼儀であろうと考えた。ただ、あとでお参りした大和・石上の二社の由緒書にも、それぞれ「日本最古の神社」と書かれてあった。
先に述べた「神社の起源は縄文時代」から、話がずれてしまう。しかし、それはそれとして、ここでは、おおらかで素直な気持ちで対応する。屁理屈は言うまい。神道には「言挙(ことあげ)せず」という言葉があるそうだ。「神々のことについてはあれこれ議論すべきではない」というほどの意味らしい。「この三つは大和朝廷が成立して以降の、この地における古い神社の大物三人衆」との認識で筆をすすめていく。
JR奈良駅から桜井線に乗り南に30分、三輪という小さな無人駅で降りる。駅から歩くこと5分、うっそうと茂る樹木をバックに「大神神社」と刻んだ立派な石柱と大きな鳥居が見える。
境内に足を踏み入れると「日本最古の神社」の言葉が頭にあるせいか、いささか緊張して、霊感のようなものを身体に感じる。私は単純なところがあり、話を聞くとすぐにその気になる弱点がある。快晴に恵まれたが、2月5日の午前10時なのでずいぶん寒い。でも、神社をお参りするには寒い時期が気が引き締まって良いなあ、と思った。
「うしろにひかえる三輪山がご神体なのでこの神社には本殿はない」と聞いている。私が参拝した立派な建物は拝殿らしい。
学生時代から師匠の故・鮫島豪太郎さんから教えを受けている。「神社にお参りして家内安全・健康長寿をお願いするのは悪いことではない。しかし、同時に、かならず国家の安寧(あんねい)を祈らなくてはいけない」と。近頃は神社参拝の時は、国家の安寧だけをお祈りしている。心を込めて「日本国の安寧」をお祈りする。お賽銭は500円。これも、5年玉や10円玉では神さまに失礼だ、という鮫島さんの教えである。
参拝を終えて、社務所でご朱印と由緒書をいただく。この神社の由来についてはお参りする前から調べていたが、分からないことだらけだ。東京に戻りこの神社の元宮司・中山和敬氏の書かれた『大神神社』を購入して読み、同時に『記紀』の中にあるこの神社に関係する箇所を丁寧に読んでみた。しかし、読めば読むほど矛盾が出てきて、いよいよわからなくなる。『古事記』と『日本書紀』では言うことが違うので困ってしまう。迷路に迷い込んだ気になる。
しかし、分かりません、では読者の方々に対して男が立たない。私のわかる範囲で語ってみたい。基本は『日本書紀』をベースに話をすすめたい。
『日本書紀』には次のようにある。
五年、国内に疫病多く、民の死亡するもの半ば以上に及ぶほどであった。 六年、百姓の流離(りゅうり)するもの或いは反逆するものあり。その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。七年、天皇の夢に一人の貴人が現われ、自ら大物主(おおものぬし・大国主)と名乗って、「天皇よ、そんなに憂えなさるな。わが子大田田根子(おおたの・たねこ)に吾を祀らせたら、たちどころに平らぐだろう」と告げた。 あまねく天下に告げて大田田根子を探し求め、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)(現在の大阪府八尾市付近)に見つけてお連れした。この人を大物主を祀る祭主とした。ここで疫病ははじめて収まり、国内はようやく鎮まった。五穀はよく稔って百姓は賑わった。
五年というのは、第十代・崇神(すじん)天皇の即位五年の意味だが、これがいつなのかわからない。令和八年(西暦2026年)は皇紀では2686年にあたる。「神武天皇が日本という国を建国されて今年で2686年になる」というのはロマンがあって良いのだが、常識で考えるとずいぶん無理がある。その頃はまだ縄文時代だ。
水野祐博士が言われるように、崇神天皇と神武天皇は同一人物であり、二代・綏靖(すいぜい)天皇から九代・開化(かいか)天皇までの八代の天皇は、後世に創作された架空の天皇(欠史八代)との説明のほうが納得感がある。私だけでなく、大方の日本人はこれを是としているように思える。
『日本書紀』は唐に見せることを前提に、完璧な漢文で書かれている。聖徳太子以降、我が国の指導者たちは司馬遷の『史記』を丁寧に読んで、中国の長い歴史については充分に認識していた。日本の建国史の「皇紀」は、中国にあなどられないために、無理に無理を重ねて日本史を引き伸ばしたのだと私は考える。
『紀』が言う通りの、初代・神武127歳、二代・綏靖(すいぜい)84歳、三代・安寧(あんねい)57歳、四代・懿徳(いとく)77歳、五代・孝昭(こうしょう)113歳、六代・孝安(こうあん)137歳、七代・孝霊(こうれい)128歳、八代・孝元(こうげん)116歳、九代・開化(かいか)111歳の九代の天皇の享年を合わせると950年になる。全員が100歳以上ではあまりにも不自然だ。よって、84歳・57歳・77歳の天皇をつくった。要するに、『日本書紀』の編纂者は、苦労に苦労を重ねて日本史を950年ほど引き伸ばした、と私は考えている。
今年の皇紀2686年からこの950年を引くと、1736年という数字が出る。これが大和朝廷が成立して以降の日本の歴史だと私は考えている。西暦2026年からこれを引くと、崇神天皇の即位は西暦290年頃ということになる。そうであれば、前後の多くの出来事とのつじつまが合う。
『紀』は、大田田根子(おおたの・たねこ)を大物主の子供のような表現で記しているが、多くの書物には「数代のちの子孫」と書かれている。こちらのほうが自然に感じられる。有名な『延喜式・神名帳』(延長5年・928年)にはこの神社は、「大神大物主(おおみわの・おおものぬし)神社」と書かれている。いくつかの書物には「崇神天皇よりも昔から、この神社には大物主命(大国主命)は祀られていた」とも書かれている。
子供の頃、私は親や学校の先生に「大国主命・おおくにぬしのみこと」と教えてもらった。この表現のほうが自分は親しみを感じる。よって、今後、大国主命という言葉を使うことが多いかも知れない。
出雲族の大国主命は、出雲の地から大和の地に打って出て、一度は中原を支配した。その後、天照大神ら高天原の神々に国を譲り、その代わりに立派な宮殿(出雲大社)で祀られることを条件に身を引いた。これが「国譲り神話」であり、私もそのように理解していた。
司馬遼太郎はこれと異なる考えを持っていたようだ。彼はイズモ(出雲)というのは地名ではなく、種族の名だという。しかも大和土着の種族であり島根県とはまったく関係ないという。イズモ族の中に二つのグループがあり、一つが大和盆地の南東のミワ(三輪)・グループで、いま一つが盆地の南西のカモ(鴨)・グループだという。大国主命はこのイズモ族の中のミワ・グループの大王であり、大和盆地の南東部を仕切っていた。そこに現れたのが渡来系の崇神天皇だと、司馬遼太郎はいう。カモ・グループは後に、鴨、加茂、加毛、蒲生などと書き、日本各地にちらばっていった。「イズモ族の使っていた言語がこんにちの日本語の原型であろう」と彼は言っている。渡来系である崇神天皇を含めたそれ以降の倭王たちは、故郷の大陸の言葉を捨てて、このイズモ族の言語に同化したに違いない、とまで司馬遼太郎は語っている。この考え方も魅力的である。
『紀』に言う「崇神天皇の五年、国内に疫病多く、民の半ばが死亡した」の疫病とは、「天然痘」のことだ。「弥生時代から平安時代に至る千年間の日本史は、天然痘との戦いの歴史」ともいえる。島国に住むゆえに、この病気に対する免疫力のなかった倭人は、大陸からの渡来人、そして隋や唐・三韓各国との交流によって列島に侵入したこの天然痘によって、すさまじい苦しみを味わった。この当時、ずいぶん多くの人々が天然痘で亡くなっている。
じつは、日本列島に、今なおこれほど多くの神社と仏閣が残っているのは、天然痘と深い関係がある。我々の先祖たちが、この天然痘に打ち勝つべく強い力を得たいと、神様と仏様に助力を求めた結果なのだ。現在、我々が参拝している多くの神社や仏閣には、いにしえの日本人の苦難と涙、そして希望のなごりが残っているのである。神社・仏閣にお参りするとき、私はいつもこのことを思う。
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| 大神(おおみわ)神社 |
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| 由緒書 |
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| 拝殿 |
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| 大神神社 ご朱印 |




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