2020年7月1日水曜日

東陵の瓜(5)

「秦を滅ぼさねばならない。自分もどこかで兵を挙げる」
短時間の熟考の末、召平は次のように当面の方針を決める。

「金(かね)は勝者についてくるというが、当初兵を食わせるには、それなりの種銭(たねせん)が要る。館にある金目の骨とう品や重い銭(ぜに)を、持ち運びやすい玉(ぎょく)・金・銀に換えておくのがよかろう」

使用人に命じ、県令や商人たちのうわさにならぬよう気を配りながら、すぐさま実行に移す。後日、これがおおいに役に立つ。


四ヶ月後、決起のときが来る。前209年7月のことだ。
陳勝(ちんしょう)という男が友人の呉広(ごこう)と共に、「打倒秦」 ののろしをあげたのだ。その勢いは燎原の火のごとくに広がっているという。すぐに人をやって情報を集める。事実であった。

二人は楚の土民である。何の準備もないやぶれかぶれの挙兵が、大成功しているという。他の農民と共に、兵士要員として北辺の地に送られる旅の途中であった。この年の7月は中国全土に大雨が降る。大沢郷(だいたくきょう)という土地まで来たとき、豪雨で道路が不通になり動けなくなる。

秦の法律では、徴発された兵士や労役夫が期日までに目的地に着かない場合、全員が死刑になる。この天候では絶対に到着できない。「逃げるも死だが行くのも死だ!」二人は仲間900人を前に、一世一代の大演説を吼える。すぐさま秦の監督官を殺し、反乱ののろしをあげる。

出たとこ勝負で立ち上がったこの陳勝という男のもとに、みるみる兵が集まる。わずか二ヶ月ののち、陳(ちん)という町にたどりついた時には、なんとその勢力は数万にふくれあがっていた。陳は楚(そ)が最後に国都とした町である。

陳勝が数万の兵を率いてこの町に迫った時、郡守は恐れをなして逃げだしてしまった。町の人々は歓呼の声で迎い入れた。陳勝は、民衆の代表である父老たちに押されて陳王となり、国号を「張楚」(ちょうそ)と称した。「大いなる楚」という意味である。

「人心は秦からまったく離れている。実行の時だ」

報告を聞いて召平は立ち上がった。県令を殺し、広陵の町を乗っ取り、これを手土産に陳勝の軍に合流する。そう考えて、召平は行動に移る。

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しかし、この企ては失敗に終わる。


作戦は正しかった。この反乱の直後、沛(はい)において劉邦(りゅうほう)が、会稽(かいけい)において項梁(こうりょう)・項羽(こうう)が挙兵する。そのとき、両者とも一番はじめに県令や郡守の首を刎ねている。その後、みずからを義軍と称し、県庁や郡庁の金庫にある国庫金を没収し、自分に従うことを約束した秦の兵士を義兵とした。召平が考えた通りの作戦で成功している。

しかし、広陵において召平は失敗した。

人がついてこなかったのである。

その理由はただ一つ。召平が秦の爵位を持っていたことにある。やむなく40人ほどの手勢をつれて逃げた。当初はこれをふくらませつつ、陳勝の軍に合流するつもりだった。ところが兵の数はいっこうに増えない。

「よほど俺に徳がないのか」

一時期、召平は暗い気持ちになる。じつは旅の途中でも、この秦の爵位がじゃまをしていた。もちろん、東陵侯だとは名乗らない。部下にも秘するように命じている。しかし、近郊の主だった者たちは召平のことをよく知っていたのだ。

「東陵候の爵位がこれほどじゃまになるとはなあ、、、」、召平は一人苦笑いする。

















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