2023年9月7日木曜日

シルクロードを旅した野菜(1)大根ー3

 シルクロードのものがたり(26)

大根(3)

ずいぶん大根に力こぶを入れるじゃないか、と笑われるかもしれないが、あと一章だけ大根について書かせていただきたい。

鳥居民(とりい・たみ)という在野の昭和史研家がおられた。2013年に84歳で急逝された。何冊もの著作があるが、全13巻の「昭和二十年」が先生のライフワークである。徹底した調査・考察をもとに「あの戦争」とは何であったのか、を本質から探ろうとした名著である。この中に「大根の話」が出てくる。

私は2007年に「太郎のルーツ~われらは中年開拓団~」というエッセーを出版した。東京から月に一回、一週間、郷里広島県の農園に帰り、子供の頃からの仲間たちと農作業をしているという、百姓日記のような内容である。鳥居先生の「大根の話」を引用させていただき、一冊献本したことがご縁となり、先生の晩年の数年間、ずいぶん可愛がっていただいた。

以下は、鳥居先生の大根の話を、「太郎のルーツ」で紹介した文章である。


別格の野菜・大根

大根という野菜は日本人にとって半端な野菜ではない。別格な野菜と言ってよい。東の横綱が里芋なら、西の横綱は大根である、と私は格付した。大根をどのようにして食べてきたかを調べるだけで、「日本人とは何か」 がわかるような気さえする。

いきなり他人の書物の長い引用も心苦しいが、鳥居民氏の名著「昭和二十年」(草思社刊)より一節を要約してご紹介したい。昭和二十年だけではない。貧しくつましい生活の中で懸命に生きてきた過去何千年かの日本人の姿が、この文章の中に凝縮されているような気がする。

昭和19年9月、東京都渋谷区の常盤松(ときわまつ)国民学校の児童たちは集団疎開(そかい)する。疎開先は富山県城端町(じょうはなまち)である。日本全国食糧の乏しい中、富山県の田舎の人たちは親切に懸命のもてなしをする。自分たちの食も充分でないのに、昭和20年の正月には餅や汁粉や干柿などを児童たちに振舞う。学童たちは大喜びする。多くの少年・少女たちがこの日の喜びを日記に書き残している。読んでいて、その親切な思いやりに胸が熱くなってくる。


だが、ご馳走は正月で終わりだった、、、、、、お汁粉をつぎに食べることができるのはいつのことだかわからない。魚を食べることが出来るのは一ヶ月に2、3回。いったい、子供たちは毎日なにを食べてきたのか。庭に積み上げられ、雪をかぶっていた大根である。これまで長いあいだ、そしてこのさきもずっと日本の準主食の座にあるであろう大根について、もう少し述べることにしよう。

なによりも大根はかて飯(めし)の材料となる。かて飯とは、ご飯を増量することである。麦かて飯といえば、米に大麦をまぜることだ。芋を入れ、南瓜を入れ、昆布も入れるが、大麦を除けば、大根を入れることが一番多い。東北地方では、冬のあいだは毎日、大根飯である。かて飯は米・麦の量の三分の一ぐらいの量の大根を加えるのが普通だが、半々といったところもある。大根は細かく刻む。大根を切るためのかて切り器といった台所道具もある。冬の夜、農家から聞こえてくるたんたんという単調な音は、かて切りで大根を切る音である。

小さく、さいの目に切った大根は、前の晩にいろりの火で水煮しておき、朝、ご飯が炊きあがったときにそれを入れる。さいの目に切ったのをそのままご飯といっしょに炊くところもある。塩はいれない。塩味をつけるとたくさん食べられてしまうからだ。大根葉飯もつくる。大根の葉を刻み、熱湯をかける。米が炊きあがったとき、上にのせる。蒸らしてから混ぜる。大根を収穫してから、まずは大根葉飯をつくることをつつ”け、新鮮な大根葉がなくなってから、大根のかて飯をつくる地域もある。

さて、大根飯を食べるところはもちろん、食べないところでも、大根は農家のいちばんの副食であることは変わりない。農家はふつう、大根が一年中食べられるように、春播きの大根にはじまって、つぎつぎと種を播いていく。そして初冬には大根を漬け込まねばならないから、8月の作付け面積はいちばん広くしなければならない。秋になって大根をとり入れ、どこの農家でも、大根を四斗樽、二斗樽に漬け込む。1月から2月ごろまでに食べる早漬けは甘塩とする。田植え時まで食べる大根漬けは、塩を多くする。初冬に漬け込むだけでなく、土にいけて囲っておいた大根を取り出し、春にもう一度漬けこむところもある。細かったり、折れた大根から干し大根もつくる。これは煮つけにしたり、はりはり漬けにする。

凍(し)み大根もつくる。囲ってあった大根を掘りおこし、洗って輪切りにし、沸騰した湯に入れ、さっとゆでる。ゆでた大根を竹の串にさし、表に吊るす。大根が凍ったり、解けたりしながら、からからに乾くのを待つ。重労働の田植えのご馳走には、この凍み大根と身欠きニシンを煮るところもある。

大根葉を塩漬けにすることろもある。冬のあいだ、この大根葉を雑炊の具にしたり、味噌汁の実にして毎日食べる地方もある。春になって、酸っぱくなった大根葉の漬物の残りをとりだし、煮てから干す。食べるときには、水でもどして味噌で煮つける。はじめに述べたことを繰り返すなら、大根はただの野菜ではない。まさしく日本の準主食なのである。




2023年9月3日日曜日

シルクロードを旅した野菜(1)大根ー2

 シルクロードのものがたり(25)

大根(2)

大根にまつわる話は、日本には昔から数多くあるが、私が気に入っている話が二つある。これをご紹介したい。

一つは「徒然草」の第六十八段にある。このブログの読者は学問のある方が多いと承知している。現代語訳は不要と思う。兼好法師の書かれた文章そのままで紹介する。


筑紫に、某(なにがし)の押領使(おうりょうし)などといふ様な者ありけるが、土大根(つちおおね)を万(よろつ”)にいみじき薬とて、朝ごとに二つつ”つ焼きて食ひけること、年久しくなりぬ。あるとき、舘(たち)の内に人もなかりける隙をはかりて、敵(かたき)襲ひ来て、囲み攻めけるに、舘の内に兵(つはもの)二人出で来て、命を惜しまず戦ひて、みな追い返してけり。いと不思議に覚えて、「ひごろここにものしたまふとも見ぬ人びとの、かく戦ひしたまふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年来(としごろ)頼みて、朝な朝なめしつる、土大根にさぶらふ」と言ひて失せにけり。深く信をいたしぬれば、かかる徳もありけるにこそ。


以上が全文である。

鎌倉時代に九州に住んでいた警察署長さんの話である。若い警察官がお花見かなにかで、出払って、署には年老いた署長さん一人が留守番をしていたのであろうか。当時は警察署を襲う盗賊がいたようである。

「大根は身体に良い。薬になるのだ」と言って毎日二本ずつ焼いて食べたいたというから、相当大根に入れ込んでいた人である。味噌も醬油もない時代だから、おそらく塩をふって食べたのであろう。家族や使用人にも 「もっと食べろ!もっと食べろ!」 と勧めていたに違いない。妻子や使用人たちが、「かんべんしてください!」と逃げ回っていた姿を想像すると、なんとも可笑しい。

「深く信をいたしぬれば、かかる徳もありけるにこそ」という兼好法師の締めくくりも良い。「徒然草」を読むと吉田兼好という人は、当時の人としては合理的な考えの人であり、かつバランスのとれた常識人だとわかる。この話は誰かに聞いた話であろが、兼好自身がこの話を信じていたとは思えない。

それでは、なぜ、この話をあえて書き残したのであろうか。「一途に信じることの大切さ」を、後世に人に伝えたかったのではあるまいか。


私は昔から、この話が気に入っている。11月とか12月になると、自分がつくった自慢の聖護院大根の煮物を食べるとき、家族にこの話をする。「旨い、旨いと、お父さんは13回も言ったよ」と小学生の頃、娘は言っていた。その頃は神妙な顔でこの話を聞いていた娘も、大人になった今では「またか!」という顔でニヤニヤするだけである。

時おり機嫌のよい時には、「お父さんが困ったときには、きっと聖護院大根の神様が助けに来てくれるよ」と私をからかう。







2023年8月27日日曜日

シルクロードを旅した野菜(1)大根ー1

 シルクロードのものがたり(24)

大根(だいこん) (1)

このブログの林檎の箇所で、「コーカサス地方あたりが原産地のリンゴは、シルクロードを東に向けて旅をしている間にだんだん小さくなり、日本に到着すると盆栽の姫林檎になってしまった。かたや西に向かって旅したものは欧州で品種改良されて大きく甘くなった。大西洋を越えて北米大陸に渡ったものはさらに大きなアップルになった」と紹介した。

大根はその逆である。欧州に入った大根は、ラディッシュのように小型になった。東に進んだ大根は中国で大きい姿に成長し、日本列島に渡るとさらに大きくなり、同時に突然変異をうまく利用した我々のご先祖は数多くの種類の大根を栽培するようになった。「日本は大根大国」と言うのは、決して誇張ではない。

細かく分類すると、日本では数十種類の大根が栽培されている。おおざっぱに分類すると、宮重大根系の青首大根・練馬大根・三浦大根が一つのグループで、我々はこれを普通の大根と認識している。直系2-3センチだが長さは1.5メートルになるのは名古屋方面の守口大根、蕪のように丸く大きいのは聖護院大根、一個20キロと巨大なのは桜島大根、蕎麦屋で薬味で出るのは辛味大根である。私が栽培しているのは青首大根と聖護院大根の二種類だが、煮物にするとすこぶる旨い聖護院大根には力こぶを入れている。じつは「のぶちゃんは聖護院大根作りの名人」と、地元では私は一目置かれているのだ。


野菜の原産地はどこか?という学問にはそれほど古い歴史はないが、大物学者としてスイス人のル・カンドルとロシア人のニコライ・バビロフがいる。二人とも経済学でいうとアダム・スミスのような存在である。バビロフ博士も、大根はコーカサス地方が原産地だと言っている。

バビロフには「資源植物探索紀行」という名著がある。この人は日本にも探検・調査に来ている。大正時代のことだ。バビロフは日本列島が、西側の国々から流入した野菜の終着駅だと認識した。そして日本に来て調査して、野菜の種類が他の国に比べて異常に多いことに驚いている。彼の日本探検の重要な訪問地は鹿児島であった。聞いていた「桜島大根」の調査がその目的であった。「遠くから見るとこの野菜は、大きな子豚と見違えるほど大きい。この大根は品種改良の世界的傑作である」と、その感激を著書に書き残している。

大陸から日本に大根が渡来したのは、縄文時代か弥生時代と思われる。米と大根の食の相性はとても良い。日本に稲作を伝えた中国・朝鮮の人々が、稲のモミと一緒に大根のタネを大事にしながら持ってきたに違いない。

それ以来、大根は日本において「野菜の王様」という扱いを受けるに至った。葉っぱと根に含まれている栄養価もさることながら、この大根がとても作り易い野菜であったことが大きな理由だと思う。

9月上旬は、百姓・田頭にとってとても重要な時期だ。この時期に大根のタネを播くが、1週間も経たずしてすべてのタネが発芽する。ここで大事なことは、一粒ではなく2・3粒同時に播く。半月とか、ひと月してこれを間引く。この「間引き菜」がとても旨い。栄養価も高い。その後1本にして大きく育てる。無農薬栽培を心がけている私だが、白菜・キャベツにはどうしても少量の農薬(オルトラン)を使う。ところが、大根には虫が付かないので、農薬をまったく使わないで立派な大根が出来る。

写真の大根は、コロナが始まる前年の田頭農園の青首大根だ。ちょっと早く収穫したので小ぶりだが、このくらいが旨い。あとひと月畑に置いていたら、2倍ぐらいの重量になる。








2023年8月21日月曜日

シルクロードを旅した果物(6)西瓜(すいか)

シルクロードのものがたり(23)

西瓜(すいか)

ひと月ほどブログを書かないでいると、「田頭さん元気か?夏バテでくたばっているのではないか?」と心配して電話をくださる方がいる。有難いことだ。 「おかげさまで元気はつらつです。少しサボっていますがまた書きます。読んでくださいね」と答えている。読者から励ましをもらった作家のような気分になり、とても嬉しい。


さて西瓜であるが、植物学では、これは果物ではなく野菜に分類される。ただ、赤くて甘い西瓜を食べていると野菜という気はしない。よってこのコーナーでは、果物として紹介したい。

西瓜の原産地は「アフリカ中部の砂漠地帯」だといわれる。古代スーダンで栽培され、エジプトでは4000年前の西瓜の絵が残っている、との記述もある。「南アフリカのボツアナのカリハリ沙漠付近が原産地だ」という人もいるが、今アフリカの地図を見ているが、カリハリ沙漠からスーダン・エジプトまではずいぶん距離がある。私としては、アフリカ中部説を採りたい。

エジプトから中近東を経由してシルクロードに入り、その種子はラクダの背に乗って11世紀に中国に入った。北宋の時代であるから、私が大好きな蘇軾(そしょく・1036年生まれ)が生きていた時代である。

日本に入ってきた時期には諸説あるが、16世紀もしくは17世紀、中国経由らしい。この西瓜の日本入りも葡萄と同じようにヨーロッパ人がしゃしゃり出てくる。「天正7年・1579年・ポルトガル人が西瓜の種子を長崎に持ち込んだ」と欧州人は言うが、欧州人の我田引水ぶりにヘキヘキしている私は、これには首をかしげている。

江戸時代に我が国に入ってきたものの、当時はあまり人気がなかった。甘味が少なかったようで、江戸時代の庶民が好んだのは西瓜ではなく「まくわ瓜」であった。日本で西瓜が好んで食べられるようになったのは明治以降、というより大正時代になってから品種改良によって甘味が増してかららしい。

私もこの25年間、郷里の田頭農園で西瓜の栽培をしているが、立派な西瓜をつくるのは結構むずかしい。

まず第一に連作を嫌う。西瓜は6年、里芋は4年、ジャガイモ・トマト・茄子は3年、連作を避けるように、というが、やってみて本当の気がする。第二に多雨を嫌う。アフリカの砂漠地帯が故郷なのだからこれは理解できる。ホームセンターで苗を買って移植するのだが、畑の何か所に高さ30-40センチの小型の砲台みたいに土を盛り、そこに植える。過度な湿気を避けるためである。私の農園は日本では雨量の少ない場所なので、適地といえば適地だが、葉っぱや茎が育つ5月・6月に雨量が少ないと生育が悪い。雨が多いと甘味が少ない。第三に肥料をやる時期が早すぎると、せっかく結んだ果実がポロリと落ちる。ゴルフボールぐらいの大きさになった時、化学肥料を追肥する。

もう一つ大切なことは、受粉である。プロの西瓜農家は朝早く起きて、人工授粉を行っている。月1回、1週間百姓の私にはこれが出来ない。もっぱら「蜜蜂・蝶・てんとう虫」などの昆虫の活躍に全面的に頼っている。

たいした手入れもしていないので、「西瓜をつくっている」というには気が引ける。「勝手に育ってくれている」というのが正確な表現である。それでも、6株ほど植えて、3年に一度くらいのペースで、豊作がある。15,6個の大きな西瓜が収穫できるととても嬉しい。写真の西瓜は、コロナが始まる前年の豊作のときのものだ。今年の西瓜の出来は、大学の成績だと「良」と「可」の間ぐらいである。










2023年7月2日日曜日

シルクロードを旅した果物(5)無花果(いちじく)

 シルクロードのものがたり(22)

無花果(いちじく)

石榴や胡桃にくらべると、このイチジクには、子供の頃から馴染みが深い。広島県東南部にある私の村ではこれを「とうがき」と呼んでいた。「唐柿」と書くのであろう。この言葉から、中国を経由して日本に入ってきた果物であろう、と子供の私は思っていた。

唐という国は長い間、日本人にとって先生ともいえる、偉大な国であった。唐が滅びて、宋・元・明・清の時代になってからも、日本人は中国のことを「唐・とう・から」と呼んで尊敬していた。

「唐柿・とうがき」以外にも「唐鍬・とうぐわ」という言葉を今でも私の故郷では使う。村の地区に「唐樋・からひ」という場所がある。「樋」というのは「木でつくった水を通すみち」のことだ。子供の頃、村の物知り爺さまから、「江戸時代に当時最先端の唐(から)の技術を導入して造った水門跡だからこう呼ぶのだ」と聞いた記憶がある。

小学生のころ、近所の富有柿の樹によじ登って柿を食って、持ち主の爺さまに「このトージンが!」と追い回されていた。「トージン」とは「盗人」と書いて「ドロボウ」の意味がと思っていたのだが、「唐人」と書いて「馬鹿者」という意味だとずいぶん後で知った。長い間中国のことを尊敬していた日本人が、このような言葉を使い始めたのは日清戦争のあとのような気がする。「イチジク」とは関係ない話になってしまった。


この「イチジク」、人類にとってずいぶん昔から縁のある果物らしい。旧約聖書の「禁断の実・林檎を食べたアダムとイブが、裸であることに気付いて下半身をイチジクの葉で隠した」というのはずいぶん新しい話である。エジプトでは4000年前、メソポタミアでは6000年前に栽培されていた、1万2000年前の石器時代の遺跡からイチジクの痕跡が発見された、などとその方面の研究者は言う。

原産地はアラビア半島、というのは間違いないらしい。ただ、半島の南部説と北部説と二つがある。アラビア半島の北西部ヨルダン川近く現在のエルサレム近郊との説があるが、私にはこの説はキリスト教徒の我田引水のように思える。私自身は、イチジクの原産地はアラビア半島の南部、現在のイエメン・オーマンあたりだと考えている。

日本への伝来は、シルクロードを通って中国経由で入ったと考えられるが、中国に入ったのは13世紀で、日本に入ったのは戦国時代か江戸時代の初めといわれるので、案外新しい。イエズス会の文書では、ポルトガル航路(リスボン・ゴア・マカオ・長崎)経由で日本に入ったと書かれている。ただ、ヨーロッパ人は我田引水(自己中心)の癖があるので、私はこの説には首をかしげている。

コルシカ島の貧乏貴族の息子だったナポレオン・ボナパルトは、「子供の頃の家庭における自分の役目は、朝早く起きて籠をもってイチジクを採ることだった」と自伝に書き残している。パパイアと同じくタンパク質分解酵素を多く含むので、食後のデザートには好都合の果物らしい。

私も子供の頃、家のイチジクの樹に登ってこれを採っていた。樹の上からヘビがぶら下がって私の顔の前でベロペロと赤い舌を出している。びっくりして樹からずり降りた。イチジクの樹の根元に座り込んでいる私を見て、祖母が「どうした?」と聞く。かくかくしかじか、と言うと、「ヘビを見たぐらいで腰を抜かず奴がいるか!」とこっびどく怒られてしまった。

自分が子供だったこともあろうが、昔のイチジクの樹はけっこうな巨木で、それによじ登って採っていたような気がする。近頃のイチジク栽培農家は樹を高くしない。原則、立ったまま手で収穫できるよう低い樹に剪定している。広島県の南東部にある私の故郷は、イチジクの栽培に適しているらしく、イチジク農家が多い。我が家の畑にも、イチジク栽培のプロの友人が10年ほど前に植えてくれたイチジクの樹が2本ある。1本の樹で、100や200は実をつける。

無花果






2023年6月18日日曜日

シルクロードを旅した果物(4)胡桃(くるみ)

 シルクロードのものがたり(21)

胡桃(くるみ)

日本では胡桃は栽培されていないと長い間、私は思っていた。東京の大学に入学して、多くの長野県出身の良友に恵まれた。小諸出身の友と千曲川を見た時か、飯田出身の友と天竜川で遊んだ時か記憶は定かではない。「あれが胡桃の樹だよ」と信州の大河のそばで聞いた時はとても驚いた。

世の中に胡桃(くるみ)というものがあることは子供のころから知っていた。中学生の時、音楽の時間に「この曲はチャイコフスキーのくるみ割り人形というのだ」と先生から聞いた。小学生の時、近所の老人が胡桃を一つか二つ手にして、握ったり離したりしているのを見た。「中風の再発防止に指を動かすのが良いんだ」とその爺さまが言ったのを覚えている。その爺さまはとても大事そうにその胡桃を扱っていたので、外国から輸入した高価なものだと子供心に思っていた。


胡桃の原産地はイラン、というのが植物学者の常識らしい。漢人がなぜ「胡桃」と名付けたのかよくわからない。「桃」は古代から中国では縁起の良い果物として大切にされてきた。「胡の桃」のつもりで名付けたのであろうが、柔らかい果実を食べる桃にくらべ、胡桃は硬い種子(仁)を食用にする。タネの形は桃にとてもよく似ている。種子に視点をあてて、このような呼び方にしたのであろうか。

中国経由で日本に入ったクルミは、奈良・平安時代には「それなりに存在感を持った果実」として扱われている。仏教の普及と関係がある気がする。仏教の広がりと共に肉食が減ってきた。人間の健康のための「脂肪分の補給」として胡桃の重要度が増したのではあるまいか。平城京跡から出土された木簡にクルミの貢進が記録されている。

平安時代の「延喜式」には、「年料別貢雑物」としてクルミが記されている。「租庸調」の「租」は原則「米」でおさめられていたが、米の収穫が少ない地方ではその国の特産物をもって可とされた。対馬では「干アワビ」、瀬戸内海地方では「塩」が米に代わる税として納められていた。平安時代の「延喜式」には、「甲斐国・越前国・加賀国では胡桃をもって納税してよい」と書かれている。

くるみの実には脂肪分だけでなく、様々なビタミン・ミネラル・タンパク質が含まれていて、高血圧・糖尿病・認知症の予防に良いらしい。適度に食べるのは健康に良いと本に書いてある。

「くるみ船長」と呼ばれた人がいる。私が尊敬する今東光のお父さん、今武平氏である。明治元年、津軽藩士の家に弘前で生まれた。函館商船学校に学び長く日本郵船の船長をした。インドの神智学に凝り菜食主義者になり、くるみを主食のようにしていたという。昭和11年に68歳で没している。当時としてはかならずしも短命ではない。

くるみというものは身体に良いらしいが、私はビールのつまみにナッツとして時たま食べるだけである。長野県を旅行した時、「くるみ味噌」というものを食べたことがある。くるみ味噌を使った「五平餅」というものが岐阜の名物と聞くが、まだ食べたことはない。

多くの日本人にとって、くるみとのかかわりは私と似たようなものではあるまいか。そう考えると、日本における「胡桃」の格付けは、いいとこ前頭15枚目あたりだと思う。

胡桃






2023年6月5日月曜日

シルクロードを旅した果物(3)葡萄(ぶどう)

 シルクロードのものがたり(20)

葡萄(ぶどう)

漢詩を読んでいて、石榴・林檎を詠んだものに出会ったことことはないが、葡萄に関しては盛唐の王翰(おうかん・687-726)が有名な詩を残している。漢代に中国に入った葡萄は、唐代にはポピュラーな果物となり、長安の酒場では葡萄酒が飲まれていたようである。

葡萄の美酒 夜光の杯 飲まんと欲すれば 琵琶 馬上に催(うなが)す

酔うて沙場に臥すとも 君笑うなかれ 古来 征戦 幾人(いくにん)か回(かえ)る

「涼州詞(りょうしゅうし)」という題で、涼州とは現在の甘粛(かんしゅく)省・武威県である。ここから北西に進めば、玉門関・安西・敦煌に到着する。この三地域までが現在、甘粛省の行政範囲であり、これより西は新疆ウイグル自治区となる。自治区というものの、行政を仕切っているのは中華人民共和国である。

この王翰の詩は、ワインは旨いなあ、といった明るい詩ではない。張騫の遠征以来800年にわたって、この西域の地で、中国人と異民族とのあいだに血みどろの戦いが続けられてきたことをものがたっている。

これに比べると、李白の「少年行・しょうねんこう」は、はつらつとした詩である。

五陵の年少 金市(きんし)の東 銀鞍白馬(ぎんあんはくば)春風を度(わた)る

落花踏み尽くして 何れの処(ところ)に遊ぶ 笑って入る 胡姫酒肆(こきしゅち)の中

葡萄酒とはどこにも書いていない。しかし、金髪青眼の西域美女がもてなす外人バーに入ったのだから、長安のエリート青年たちが、西域から輸入されたガラスのコップでワインを傾けたのは間違いない。


中学生の時、野島先生が「葡萄の原産地はコーカサス地方です」と教えてくださった。林檎も大根もコーカサスだとおっしゃる。コーカサス地方原産の果物や野菜はずいぶん多いなあ、と中学生の私は驚いた。この野島先生の説明は正しいのだが、葡萄にはもう一つの原産地がある、というのが現在の植物学者の常識らしい。そこは、アメリカ合衆国・オハイオ州・デラウェアだという。

葡萄は奈良時代に遣唐使によって日本に持ち込まれた。当然ながらコーカサス地方原産でシルクロード経由で中国に入った種類である。鎌倉時代の初期に甲斐国(山梨県)の勝山で本格的な栽培がはじまった。「勝沼や 馬子も葡萄を食いながら」という松尾芭蕉の句がある。江戸時代には、葡萄は甲斐の名産品、と認知されていたようである。

明治に入るとアメリカ原産のデラウェアや、コーカサス原産ではあるがヨーロッパにおいて品種改良された何種類もの葡萄が、アメリカや欧州経由で日本に入ってくる。

令和元年の日本の果物の生産量は、1位みかん、2位林檎、3位梨、4位柿で、5位が葡萄である。葡萄の生産高の順位を県別でいうと、1位山梨県、2位長野県、3位山形県、4位岡山県、5位福岡県、6位北海道となる。

世界全体で見れば、葡萄の生産量が果物のダントツ一位で、世界の果物の生産高の80パーセントを占める。ただし、生でフルーツとして食べられている果物の1位はバナナ、2位は柑橘類(オレンジ・みかん・レモンなど)で、葡萄は3位となる。その理由は、葡萄の80パーセントがワインに加工されているからだ。10パーセント程度が干し葡萄にされ、残りの10パーセントをフルーツとして生で食べているのだという。

これらからすると、葡萄は世界で見れば横綱、日本では関脇に格付けするのが適当と思える。

おしまいに「ぶどう」という名前についての「うんちく」を披露したい。

現在のウズベキスタン共和国の東のはずれに、フェルガーナという都市がある。北がキルギス、南がタジキスタンで、張騫が遠征したころはこのあたりは「大苑国」と呼ばれていた。当時、この地方の人々はこの果物を「ブーダウ」と呼んでいた。これを聞いた漢人が中国に帰って「これはブーダウと言うんだよ」と教え、「葡萄」と書いて「ブーダウ」と読ませた。遣唐使の日本人留学生・留学僧がそのまま日本に伝えた、と考えられている。「ザクロ」と同じく「ブドウ」という言葉も、原産地に近い「西域」を源とする言葉のようである。

葡萄の画像が必要と思い、近くのスーパーに買いに行った。5月の下旬では日本の葡萄は無い、南半球の輸入物があるだろうと思った。あるにはあったのだが鮮度が悪い。島根県産「種なしデラウェア」というのを購入した。温室栽培のものらしい。残念だがこの葡萄の画像は、コーカサス地方ではなくアメリカが原産の葡萄である。

葡萄