2026年10月27日火曜日

東大寺(2)

 大和の寺社・参拝紀行(12)

このような秋(とき)にあって、聖武天皇は東大寺の大仏建立を決意された。華厳宗の高僧である良弁(ろうべん)に、この寺の造営を命じた。官僧の良弁一人では民衆がついてくるかどうか、天皇は不安であったようだ。民衆から圧倒的な支持を得ていた僧・行基(ぎょうき)を引っ張り出すことにした。行基はこれに同意して、大仏建立に全面的に協力した。

この行基に対する大和朝廷の対応・スタンスは、時代と共に大きく変化している。その肩書が「小僧」から「法師」そして「大僧正」「菩薩」へと変化しているところがとても興味深い。少し長い引用になるが、『続日本紀』の中の行基に関する部分を紹介したい。


「養老元年(717)4月23日 元正天皇は次のように詔(みことのり)した。(注・この時行基49歳) およそ僧尼はしずかに寺にいて、仏の教えを学び、仏の道を世に伝えるのがつとめである。いま小僧(つまらぬ僧)の行基とその弟子たちは、道路に散らばって、徒党を組んでよくないことを教え、家々をめぐり、いい加減なことを説き、むりに食物以外のものを乞い、人民を惑わせている。(中略)今後はそのようなことがあってはならない。このことを村里に布告して、つとめてこれを禁止せよ」

「天平15年(743)10月19日 行基法師は弟子たちを率いて、ひろく民衆に廬舎那仏の像をお造りすることに参加するよう勧誘した」(行基73歳)

「天平17年(745)正月21日 聖武天皇は詔して、行基法師を大僧正(だいそうじょう)に任じた」(行基77歳)

「天平勝宝元年(749)2月2日 大僧正の行基が遷化(せんげ)した。和尚は薬師寺の僧である。俗姓は高志氏(こしし・渡来系の技術者集団の氏)で和泉国の人であった。和尚は性質が純粋で、すぐれた生まれつきの才能をもち、人の手本となる徳風がはやくからあらわれていた。はやくから都や田舎をあまねく廻って、多くの人々を教化した。僧侶や俗人の多くの人々が教化を慕ってつき従い、千人単位で数えるほどであった。みずから弟子たちを率いて、諸所の地に橋を造り堤防を築いた。人々はすべて仕事に協力したので、日ならずして完成した。人民は今に至るまでその利益を蒙っている。

天皇(聖武)は行基を大変敬い重んじられた。詔して大僧正の位を授けた。時の人は行基菩薩と号した。行基の滞在した処にはみな道場が建った。畿内にはそれが49カ所、他の諸道にも方々にあった。弟子たちは皆行基の残した仏法を守り、今に至るまで住持している。薨じたとき、享年八十歳であった」


そして、行基の死の3年後、聖武天皇の発願から9年後、東大寺の大仏殿が完成して開眼供養がおこなわれた。病弱の聖武天皇は長女の孝謙(こうけん)天皇に皇位を譲られていた。聖武太上天皇は当日は体調が悪く参列できなかった。(注・その後健康を回復され、この4年後に崩御された) 娘の孝謙天皇と共に光明皇太后はこれに列席された。一万人を超える僧侶をはじめ、官僚・楽人(がくにん)・舞人(まいびと)が総出で大仏の開眼を祝った。中国人僧だけでなく、多数のインド人僧や西域人の僧が参列したというから、シルクロードのホータン(和田)から来た僧も参列していたに違いない。

『続日本紀』は次のように記録している。天平勝宝4年(752)のことである。

「夏4月9日 東大寺の廬舎那大仏の像が完成して開眼供養をした。この日、天皇(孝謙)は東大寺に行幸し、天皇みずから文武の官人をひきつれて、供養の食事を設け、盛大な法会(ほうえ)を行った。僧一万人を招請した。またすべての皇族・官人・諸氏族による五節の舞(ごせちのまい)・久米舞(くめまい)・楯伏(たてふし・楯・刀などを持って舞う)などの歌舞が行われた。東西に分かれて歌い、庭にそれぞれ分かれて演奏した。その状況のすばらしさは、一々書きつくせない程であった。仏法が東方に伝わって以来、斎会(さいえ・食事を供養する法会)として、いまだかつてこのような盛大なものはなかった」  (次項に続く)


東大寺 大仏殿


廬舎那大仏


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