大和の寺社・参拝紀行(8)
『日本書紀』垂仁記(すいにんき・第十一代天皇)に次のようにある。
(垂仁天皇の)39年冬10月、朝廷において造らせた剣(つるぎ)一千口(ふり)を石上神宮に納め、(天皇の)長子である五十貮敷命(いにしきのみこと・第十二代景行天皇の兄)に管理させた。のち本人が老齢となり、妹の大中姫(おおなかつひめ)にその任を譲ろうとしたが、(姫は)私はか弱い女ですからといって辞退した。大中姫はこの任務を物部十千根大連(もののべの・とちおねのおおむらじ)に委譲された。物部連らが今に至るまで石上の神宝を治めているのは、これがそのもとである。
物部(もののべ)氏は、のちに石上(いそのかみ)氏と名を改めた。その後、子孫の中には再び物部氏を称した者もいた。さらに後世、子孫の中に布留(ふる)氏と称した者もいて、永くこの神宮の神主をつとめている。ちなみに、この神宮の現在の住所表示は、奈良県天理市布留(ふる)町384番地である。
『延喜式・神名帳』はこの神社のことを「石上座布留御魂(いそのかみにます・ふるのみたま)神社」と記している。平安時代以降は「フルの社(やしろ)」「振(ふる)神宮」「石上神社」など、人々は色々な呼び方をしている。現在の「石上神宮」の名称は、明治16年に内務省社寺局が定めたものである。
今まで述べたこの神社の由来からすると、この神社を「物部神宮」と呼んでもよい気がする。じつは、これとは別に「物部神社」という立派な神社が島根県大田市に現存する。明治4年に国幣小社に列した石見国の一之宮という由緒ある古社だ。第十二代・景行天皇の御代に物部氏が石見国造に任ぜられ、その後、第二十六代・継体天皇の頃にこの神社がつくられたと社伝はいう。
さて、物部氏について少しだけお話したい。もののべから、もののふ(武士)という言葉が生まれたという説もあり、物部氏は古代から武門の棟梁であった。いま一つの武門の棟梁が大伴(おおとも)氏である。両氏とも大和朝廷成立の初期からの大王家の側近であり、軍事をつかさどる家柄であった。軍事における両氏の役割の違いはどこか? 私の理解では、物部氏が攻撃集団としての日本陸軍の祖という立場であったのに対して、大伴氏は大王(天皇)をお護りすることを主任務とした近衛軍団の長(おさ)であった。このように認識している。
ご祭神について語りたい。現在この神宮がお祭りしている祭神は七つだが、平安時代の『延喜式・神名帳』には、この神社の祭神は「布都御魂大神・ふつのみたまのおおかみ」一つと書かれている。これは刀剣である。その昔の国譲り神話にさかのぼる。天照大神の命を受けた武甕雷神(たけみかつ”ちのかみ)は出雲国の稲佐浜(いなさのはま)で、大国主命の前にドンと座り国譲りを迫った。このとき武甕雷神が携えていたのが、この剣(つるぎ)だといわれる。
この話からすると、先の大神(おおみわ)神社と大和(おおやまと)神社の二社が「親大国主命」であるのに比べ、この石上神宮は「アンチ大国主命」と考えることができる。古代日本史の不思議さと、面白さを感じる。
この神宮には国宝が三つある。二つは鎌倉時代に造られた拝殿で、いま一つが刀剣だ。ただし、この国宝の刀剣は先に述べた「布都御魂大神」ではない。有名な「七枝刀・しちしとう」である。七枝刀については何冊もの書物があるので、ごく簡単に紹介したい。
七枝刀は、百済王・近肖古王の世子(皇太子)が倭王のために百済で造らせたものだ。ここまでは明治期にすでにわかっていた。ただ、刻んである漢字62文字の中の年号が、長い間わからなかった。それが2025年のX線CT調査によって判明されたのである。東晋の年号「太和・たいわ」の百済読みでの仮借文字「泰和四年」と読めた。すなわち、この七枝刀は西暦369年に造られたものだと判明した。当時、百済は宗主国ともいえる東晋の元号を使用していた。この太和四年は、私が大好きな東晋の田園詩人・陶淵明が、幼少四歳、のときにあたる。そう考えるとずいぶん古いものである。
この時代、すなわち西暦350年頃の極東アジアの政治状態は次のようであった。古くからの朝鮮半島における強国は、北方の高句麗であった。半島南部の東に新羅という国が建国され、西側に百済が建国される。南には倭国の影響力が強い任那(伽耶)があった。なにかにつけて新羅は百済を目の敵にし、そのために時に高句麗の力を借りようともした。百済に残された安全保障の選択肢は、東方において勃興しつつある倭国と手を結ぶ以外になかったのだ。この頃の極東アジアの政治・軍事の動きについては、『紀』の「神功皇后」の項に詳しい。
次の話は、ぐっと時代がくだる。
近代日本画壇の巨匠に富岡鉄斎(とみおか・てっさい)という人がいる。天保7年~大正13年であるから、高杉晋作より3歳年長である。この人は「万巻の書を読み万里の道を往く」をモットーとして、若い頃から東奔西走の生活を送り、87歳の長寿を得ている。大変魅力的な人物だが、同時に相当変わった人でもある。本業は画家だが、若い頃から国学や陽明学を学び勤皇思想を強く持っていた。明治初年には京都の立命館で教師をしたり、いくつかの神社で神官の仕事もしている。この人は明治9年から短期間ではあるが、この石上神宮で小宮司を勤めている。
この神宮は大和盆地の中央東寄りの山沿いに位置し、布留山(266米)の北西の高台に鎮座している。大神神社、大和神社に比べると一番北側にあり、日本最古の道といわれる山の辺の道は、この神宮の目の前を通っている。境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、じつに神さびた風格ある神社である。
帰り道では苦労した。行きの天理駅に着いた時はすでに午後4時をまわっていた。多くの神社は5時で門が閉まる。あわててタクシーを拾い無事に参拝を済ませることができたのだが、帰りはタクシーがまったく見えない。歩こうぜ、という話になり、4キロ弱の道をF君とテクテク天理駅まで歩いた。足がくたびれたので、途中で天理教団の中心部にある喫茶店に立ち寄って熱いコーヒーを飲んだ。この天理市というのは現在は天理教の王国のようだ。数多くの天理教の立派な施設が見える。この日ホテルに帰ってスマホの万歩計を覗いたら、二万歩を軽く超えていた。
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| 石上神宮 |
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| 石上神宮 |
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| 石上神宮 |
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| 石上神宮 ご朱印 |




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