2021年2月15日月曜日

トルーマンとバーンズの陰謀(1)

 昭和天皇と鈴木貫太郎(13)

ルーズベルトは、多少の譲歩をしてでも、一日でも早く日本を降伏させようとしてグルーを起用した。ところが新大統領になったトルーマンは、二発の原爆を日本に投下するまでは日本を降伏させるな、との方針に変えた。

バーンズの影響がとても大きい。これを実行するため、二人は徹底した秘密保持をはかり、入念な小細工をほどこす。

ハリー・トルーマンは小物の政治家だ。多くのアメリカ国民・政治家・軍人はそう思っていた。彼自身、自分が小物と見られているという不安と劣等感をつねに持っていた。トルーマンの経歴はこうだ。

ミズーリ州の田舎町の雑貨屋の息子に生まれた。父の店が倒産したので大学には行けなかった。高校を卒業して銀行で下働きをして、ほどなく父のやる農業を手伝った。第一次大戦では、試験を受けて州軍の陸軍大尉として欧州戦線に参戦した。このような経歴で大尉になったのだから、努力家で、それなりの才能があったのであろう。現在だと、「下から這いあがった土の匂いがする大統領」と好意的に見られたかもしれない。

しかし、4歳年長のダグラス・マッカーサーが、大佐・師団参謀長として第一次大戦に出征し、まもなく少将・旅団長、その後師団長へと昇進したのにくらべると、月とスッポンである。ウエストポイント首席卒業のマッカーサーからみれば、「そんなやついたかなあ?」程度の認識だったと思う。

ミズーリ州選出の上院議員であったトルーマンは、45年1月のルーズベルト四選のとき、まぐれ当たりのかっこうで副大統領になった。そしてルーズベルトの急死により、まさかの大統領になってしまった。


原子爆弾の開発は、当然ながら国家の最高機密である。主導したのは陸軍だ。41年10月、原爆の開発が決定した時、この秘密を知る人は6人メンバーと呼ばれた。ルーズベルト大統領・ウォーレス副大統領・スティムソン陸軍長官・マーシャル参謀総長・ブッシュ博士(MIT工学部長→科学技術開発局長)・コリント博士(MIT教授)の6人である。海軍は加わっていない。

軍需物資の戦時動員局長だったバーンズが、職務上これを知ったのはかなり早く、43年である。統合参謀本部議長の海軍元帥・レーヒーが知ったのは44年9月だ。ドイツが降伏した45年5月7日に、陸軍長官・スティムソンは、海軍長官・フォレスタルと国務次官・グルーにこの原爆の秘密を明かした。

ワシントンがこのような状態だから、現場の太平洋方面の陸軍元帥・マッカーサーも、海軍大将・ニミッツも、また大西洋方面の陸軍大将・アイゼンハワーも、45年5月においては原爆のことは知らされていない。彼らがこのことを知るのは6月以降である。

じつは、副大統領だったトルーマンも、原爆のことは聞かされていなかった。それどころか、1月に副大統領に就任して4月にルーズベルトが急死するまでに、トルーマンがルーズベルトと二人だけで面談したのは二回にすぎない。ということは、政治・軍事・外交の重要問題については、トルーマンはまったく蚊帳の外に置かれていたのだ。原爆のことは、大統領になって陸軍長官のスティムソンから聞いた。


トルーマン






2021年2月8日月曜日

一号作戦とは何か?

 昭和天皇と鈴木貫太郎(12)

一号作戦は大陸打通(たいりくだつう)作戦ともいわれ、昭和19年4月から20年1月にかけておこなわれた。支那派遣軍の半分の51万人を使っての、蒋介石の国民政府軍への大攻勢である。参謀本部作戦課長の服部卓四郎が主導した。

中国大陸を南北に走る2500キロの鉄道とその沿線を制圧する。そうすれば、日本の商船隊が沈められても、インドシナから上海や天津を経由して、長い鉄路とわずかの海路で南方の資源と兵員を日本に運ぶことができる。いま一つは、この鉄道沿線にあるアメリカ軍のB29航空基地を占領・破壊し、対日空襲を阻止できる。服部はこう主張した。

だが、この野心的で壮大な二つの目標が充分にかなえられるとは、服部を含む参謀本部は思っていない。勝ち戦(いくさ)を新聞で伝え、国民の士気を維持したいというのが、参謀本部の本心であった。

この一号作戦について語る人々は、現在まで、だれもがこれを非難してきた。無謀で愚劣な作戦だ、やみくもに断行された意味のない戦いだった、とずっと批判してきた。

ところが、この一号作戦はいくつもの要因が重なり、蒋介石と国民党政府の威信を突き崩し、その力を大きく削いでしまった。すなわち、延安の毛沢東の力を強大なものにさせた。なぜなのか?


日本側はこの作戦のため、内蒙古・山西・山東・河北などの中国北部の兵力を大きく引き抜いた。この結果、延安にある毛沢東の軍隊と工作隊は、中国北部で大手を振って活動するようになった。村々の住民を宣伝教化し、国民党政府の組織をかたっぱしから潰していき、共産党の支配地域を拡大したのである。

日本軍の攻撃の矢面に立ったのは100万人の国民党軍である。50万人以上を失った。日本軍の戦死・戦病死は10万人である。両者の戦力の差はこのくらいはある、と思っていたアメリカはこれには驚かなかった。ただ次の事実は、重慶にいるアメリカの高級軍人・外交官・新聞記者たちを唖然とさせるに充分だった。

戦いは44年4月に河南省ではじまった。5月、そこを守っていた5万人の国民党軍が、日本軍に攻撃される直前に、農民に武装解除され四散するという異常な出来事がおきたのだ。重税に怒っていた農民は、国民党政府を敵と思っていた。勇敢に戦った国民党軍もいたが、なかには将軍が家財を貨車に積み込みまっさきに逃げ出し、つつ”いて将校たちが逃げ出すという戦場もあった。

中国にいるアメリカの軍人・外交官・新聞記者は、口をそろえて国民党を非難した。蒋介石の反対など構うことではない。アメリカは毛沢東の共産軍に武器を与えるべきだ、と彼らは主張しはじめた。

蒋介石を支援するために重慶に派遣されていた米陸軍大将・ジョゼフ・スティルウィルは、この一号作戦がはじまる半年前に、「次に日本軍による大規模攻撃があれば、蒋介石の国民党軍は倒壊する」と、ルーズベルトに警告していた。その予言通りになってきたのだ。

このような背景のなかで、蒋介石はアメリカに対して少しばかり妥協した。今までアメリカ側から要請があったが断わり続けていた、アメリカ軍人と新聞記者の一隊が視察のため毛沢東の延安に行くのを許すことにした。ところが、延安地域を訪問したアメリカの記者たちが、共産党の指導者と兵士たちを褒めたたえたことから、蒋介石の国民党政府の権威はさらに下落することになった。


ルーズベルトは、日本との戦争が長引けば毛沢東はますます勢力を拡大すると考えた。日本が降伏したあとまもなく、中国では内戦が起こり、国民党政府は崩壊するかもしれない。そうなれば、デラノ家が経営するラッセル商会の中国利権などふっとんでしまう。いや、ルーズベルトは、そんな小さな個人的利益だけで判断したのではあるまい。アメリカ合衆国の利益に反すことになる、と強い危機感を抱いたのである。

このような状況のなかで、ルーズベルトは日本との戦争の終結を急いだ。その結果、ホーンベックの更迭、グルーの登場となったのである。

このルーズベルトの予感は的中するのだが、その結果を見ないで、彼は45年4月12日に急死した。そのあと、多くのアメリカ人が小物の政治家と軽視していたハリー・トルーマンが大統領に就任するのである。





2021年2月1日月曜日

ルーズベルトとグルー

昭和天皇と鈴木貫太郎(11)

民主党の大統領、フランクリン・D・ルーズベルトは中国好きで日本嫌いだった。彼にかぎらずアメリカの民主党政権の多くはそうであった。現在でもこの傾向は感じられる。ちなみに日露戦争当時、日本に好意的に動いてくれたセオルド・ルーズベルトはフランクリンの親戚だが、この人は共和党選出の大統領である。

フランクリンが中国好きになったのは、母親が富豪デラノ家の娘だった ことに理由がある。デラノ家は、中国貿易で成功したラッセル商会の最初の六人の共同経営者の一員である。

英ジャーディン・マディソン商会と同じく、1830年代から広州・香港をベースに、トルコ・インド産アヘンを中国に売って巨富を得ていた。彼のミドルネームの「D」はデラノ家の「D」である。このようなわけで、フランクリンは幼い頃から、母の兄弟がおみやげで持ち帰る中国製の玩具や絵画・工芸品にかこまれて育った。中国に強い親しみを持っていた彼が、日本の軍事的な中国進出を中国いじめと感じたのは、無理からぬことである。

43年1月のチャーチルとのカサブランカ会談では、「日本に対して無条件降伏を要求する」と説き、「条件付き講和が現実的」と考えていたチャーチルを白けさせている。その年の11月、蒋介石を含めたカイロ会談では、日本に対してさらに苛酷な内容の宣言を主張した。

ところが、44年5月、ワシントンの国務省でおかしなことがおきた。

その年の1月に新設された極東問題局長に就任したばかりのホーンベックが更迭され、グルーが後任になったのだ。ホーンベックは国務省きっての中国びいき日本嫌いであり、ルーズベルトとはそこが一致していた。かたやグルーは、自他とも認める親日派である。

この時65歳のジョゼフ・グルーの経歴はこうである。異例の10年におよぶ東京での駐日大使をつとめ、42年の交換船で帰国していた。ボストンの名門家庭に生まれた彼は、全寮制のグルトン校に学び、ハーバード大学に進んだ。ルーズベルトは両校でグルーの2年後輩になる。もっとも二人が学生時代に深い交流があったという形跡はない。いま一つ、グルーとルーズベルトには接点がある。グルーの父の兄は、ラッセル商会の共同経営者であったことだ。

極東問題局長になったグルーは、東京の大使館時代の部下たちで周辺をかためる。参事官だったドーマンを特別補佐官に、一等書記官だったオーヴァを日本課長に任命する。ドーマンは宣教師の息子として大阪に生まれた。東京の暁星中学に学んだドーマンは、日本語を母国語として話す。彼は東京の大使館時代には、本物の歌舞伎役者を大使館に招き、同好のアメリカ人に着物を着させて歌舞伎の稽古をしていたほどの日本通である。

この年の12月、グルーは国務次官に就任する。20年前に一度やっているので二度目になる。国務省は東京のアメリカ大使館に占領された、と軽口をたたくアメリカ人もいた。

中立国経由でこのニュースを聞いた外務省・陸海軍・宮廷の高官たちは、だれもが首をかしげた。首をかしげながらも、親日派のグルーの登場に期待を寄せた。

実はグルーは、大使として日本に赴任する以前から日本の文化・歴史に造詣があった。理由は、夫人のアリスの曽祖父(オリバー・ペリー)の弟が、幕末に日本に開国を迫ったあのマシュー・ペリー提督だったからだ。かつ、アリスの父は明治30年代に三年間、慶應義塾で英文学を教えたので、母も本人も東京で生活して、アリスは日本語が出来た。昭和7年、グルーが大使として信任状を提出したあとのお茶会で、このことを聞いた昭和天皇がとても喜ばれたという話が残っている。


当然ながら、このような重要人事はルーズベルトの指示があってのことだ。じつは、ルーズベルトは考えを変えたのだ。いくばくかの譲歩をしてでも、日本との戦争を早く終わらせるほうが、アメリカにとって得策だと判断したのである。なぜ彼はそう考えたのか。

このことについてはっきりと触れた歴史家は、不思議なことに、アメリカにも日本にもほとんどいない。これについてはっきりと述べたのは、鳥居民先生一人ではあるまいか。

ルーズベルトの考えを一変させたのは、支那派遣軍が昭和19年4月から20年1月にかけておこなった「一号作戦」にある、と鳥居先生はおっしゃる。

今までだれも語らなかった、この「一号作戦」について語りたい。

フランクリン・D・ルーズベルト










2021年1月25日月曜日

大根の話(2)

 中学生の時、野島先生が「大根の原産地はコーカサス地方だ」と胸を張っておっしゃったのをはっきりと覚えている。野島先生の担当する学科がなんであったか記憶にない。ただ、不思議なことに、この先生の授業の大半は、野菜の作り方や野菜の原産地・いつ頃日本に渡来したかなど、野菜の話ばかりだった。

戦前に農業の学校を卒業して農業に従事された。いってみればお百姓さんだ。兵隊にも行かれた。戦後の混乱の中で中学校教師の資格を取った、と自分でおっしゃっていた。だから、農業の話以外にはネタがなかったのかも知れない。野菜の話になると先生はいきいきされていた。

今だったら、「高校受験の役に立たない」と父兄から文句が出そうだが、当時そんなことを言う親はいなかった。この先生は、私の両親より5歳年長だったから、今年で100歳になられる。少し認知症がはじまったようだと地元の友人から聞いたが、今なおご健在である。教師を辞めてからも農作業をされていた。それが長寿と関係あるのかも知れない。

野島先生は、コーカサス地方だと言われたが、そうとは断定できないらしい。ロシアにニコライ・バビロフという有名な植物学者がいた。野菜の起源・原産地などを研究する人にとって、この人は経済学におけるアダム・スミスのような存在らしい。

バビロフは、中央アジア・西南アジア(トルコ・エジプト)・インド北部の三カ所で、別々に発祥したと説いている。コーカサス地方はトルコのすぐ北だから、野島先生の話は間違いではない。近頃では、欧州東部のバルカン半島も発祥の地だという学者もいる。

そして多くの書物に、「中国が第二原産地」と書かれている。りんごがヨーロッパで品種改良されたように、大根は中国で品種改良されたらしい。学者の誰も言ってないのだが、私は「第三の原産地は日本である」とひそかに考えている。

青首大根・三浦大根・亀戸大根・聖護院大根・辛味大根だけではない。1メートルをゆうに超える守口(もりぐち)大根、でかいのは40キロを超える世界最大の桜島大根など、日本は世界一の大根の品種改良大国なのである。赤大根などを含めると、日本には50種類もの大根があるそうだ。


大根をつくって感じることは、この野菜には多くの料理方法があり、また保存がきくことである。収穫したばかりの大根は、大根おろし・刺身のつま・薄切りのサラダなどでなまで食べる。なまの大根には強力な殺菌効果がある。「酢牡蛎」に大根おろしを入れるのはこのためだ。昔の人は風邪薬として大根を食べたと聞いた。風邪のバイ菌をやっつけるならコロナにも効くはずだ、と考え近頃私はせっせと大根を食べている。

煮物やおでんも旨い。沢庵漬けだと3か月・半年先に美味しく食べられる。よく干して多めの塩で漬けると1年先、2年先でも食べることができる。

大根は三月にとうが立ち、四月に花が咲く。二月に入っての我々の大切な農作業は、切り干し大根をつくることだ。小さく切ってむしろに干す。聖護院大根は5つか6つに輪切りにして、竹の串に通して寒風にさらす。ひと月ほどして、これを油揚げと一緒に煮るとじつに旨い。味噌汁に入れても旨い。二月まで畑に置いた大根は甘みが強い。

「古代エジプトでは、ピラミッド建設の労務者にタマネギ・ニンニクを配給した」と昔本で読んだ。ビールも配給されたらしい。タマネギ・ニンニクを油でいためビールを飲み、肉を食べれば精力がつきそうだ。でも、これではむねやけするのでは、と今まで労務者に同情していた。

今回、青葉高先生の「日本の野菜」という本を読んで、「大根も一緒に配給された」と知った。口直しに、なまの大根をかじったのであろう。なるほど、これなら合点がいく。ピラミッド建設の労務者のことを思い、なんだか安心した。

不思議なことに、大根のヨーロッパでの普及は意外に遅く、イギリスでは15世紀、フランスでは16世紀といわれる。ラディシュという小型の大根である。現在でもヨーロッパでは大根は東アジアの国々に比べ、さほど重要な野菜とは見られてないようだ。


コロナ問題で、日本を含む東アジア人が欧州人に比べて極端に患者が少ないことが話題になった。ある学者は「ファクターX」と言った。このファクターXとは、実は大根ではあるまいか。私はひそかにそう考えて、せっせと大根おろしを食べている。気のせいか、なんだか効能があるような気がする。








2021年1月18日月曜日

大根の話

 日本という国ができて今日まで、日本人が一番大量に食べた野菜は何か、と空想している。

日本の建国がいつかというのはむずかしい問題だ。縄文・弥生時代には国はなかった。天照大神・スサノオノミコトの実在性には自信が持てない。神武天皇も自信がない。日本武尊(やまとたけるのみこと)なら大丈夫だろう。

3-4世紀に活躍した人で、仁徳天皇の曽祖父にあたる。日本武尊の時代に日本という国の基礎ができた、と私は考えている。以来1700年、日本人が一番多く食べた野菜は、「大根に違いあるまい」と思う。

日本人が現在食べている野菜の95%以上は外国から入ってきた。太古の昔から日本列島に自生していた野菜は、「やまいも・蕗(ふき)・芹(せり)・三つ葉・野蒜(のびる)・独活(うど)・山葵(わさび)・蓼(たで)」ぐらいだと、その方面の研究者は述べておられる。渡来の時期は、縄文・弥生時代から古墳・奈良・平安・鎌倉・室町・江戸・明治以降とそれぞれに分類される。古い時代に渡来した野菜に強みがある。

大根は、大豆(だいず)・牛蒡(ごぼう)・生姜(しょうが)・瓜(うり)と共に、第一陣として縄文時代に日本列島に入ってきた。よって、日本武尊も弟橘媛(おとたちばなひめ)も大根を食べていたことになる。

大根に間違いないと思うのは、自分の20年間の野菜作りの経験で、この栽培がとても容易だからだ。虫がつかないので農薬はまったく不要である。我々は無農薬栽培を目指しているのだが、白菜やキャベツにはどうしても少量の農薬・オルトランを使う。昔の人にとって、大根は作りやすい野菜だったと思う。

茄子の渡来も弥生時代と古いのだが、ナス科の野菜は連作を嫌う。同じ場所に続けて植えると連作障害で虫がつきやすく、収穫量も落ちる。この点、アブラナ科の大根は毎年同じ場所でうまく栽培できるので助かる。このようなわけで、大根という野菜は日本人にとって半端な野菜ではない。昔から今に至るまで、格別に重要な野菜だと言っていい。

私があらためて力こぶを入れなくても、「徒然草」の中に、「熱狂的な大根ファン」が登場する。これを読むたびに、いろいろと想像をめぐらせて、クスリと笑ってしまう。第68段に次のようにある。

「九州に何某(なにぼう)とかいう押領使(警察官)がいた。大根を万事によく利く薬だと言って、毎朝かならず2本つ”つ焼いて食うこと長年におよんだ。あるとき、屋敷に賊がおし寄せてきて一人で戦っていたら、武士が二人現れて、命を惜しまず戦って敵をみな追い返してしまった。” 普段は見かけないお二人ですがどなたさまですか ” と聞くと、” 長年頼みにして毎朝召しあがっていただいている大根です ” と言って消えてしまった。深く信心するとこういう功徳もあるものとみえる」

ここまでくると、大根大好きというより、一種の信仰である。味噌も醤油もない時代だ。焼いた大根に塩をふって食べたのだろうが、本当に毎朝2本の大根を食えるものかと首をかしげる。

きのどくなのは家族と使用人である。「大根は身体にいいんだ。もっと食べろ!」と主人に強制され、「勘弁してください」と逃げまわっている妻子や使用人の姿が目に浮かぶ。

これほど熱狂的な人は少なかったと思うが、こういう話があるところを見ると、大根は身体に良いんだぜ、と当時の人々はせっせと大根を食べていたのだと思う。


私はこの20年間、月1回1週間、東京から郷里の広島県の農園に帰り農作業をしている。昨年はコロナで帰れなかった。「東京からコロナを持って帰られたらたまらん。今帰ると村八分になるよ」と、一緒にやっている小学校時代の友人二人に言われて、郷里に帰らなかったからだ。そのようなわけで、この写真は一昨年につくった青首大根だ。

何年も中断すると百姓の腕がにぶってしまう。今年はぜひ農作業をやりたい。早くコロナが片付いて欲しい。近頃は奈良・平安時代の人々のように「疫病退散」を神仏に祈っている。英語は下手だが、祝詞(のりと)と「般若心経」は得意である。






2021年1月12日火曜日

天皇の受けた衝撃・6月9日

 昭和天皇と鈴木貫太郎(10)

6月9日の午前、天皇は内大臣の木戸を通じて二人の東大教授が説いたことを聞き、大きな衝撃を受けた。その日の午後3時、参謀総長の梅津美治郎が参内して、大連出張の報告を行う。

梅津は天皇に書面を添えて、支那派遣軍と関東軍の現状を報告する。軍令部総長の豊田副武が、根拠のない希望的観測や楽観論を述べ続けているのにくらべ、梅津の報告は正直でかつ客観的なものである。

天皇は梅津に向かって「沖縄のあと揚子江下流方面に米軍の来攻があるとして、敵は何個師団を上陸させるだろうか」と聞く。

梅津は「沖縄には敵は4個師団、予備部隊として3個師団、計7個師団を用意した。上海周辺に上陸するとすれば、8個師団を準備するのではないか」と答える。

「それに対してわが軍はどのように戦うのか」と天皇は聞く。

「この地域の日本軍は第13軍の担当地域であり、師団が8つと、航空師団が1つ、それに独立旅団がいくつかある。ただ米軍の8個師団と対等に戦うことはできない。士気は旺盛だが弾薬が欠乏しており一合戦すら戦うことはできない」と答える。さらに続けて、「支那派遣軍の全ての戦力(約105万人)をあわせても、アメリカ軍の8個師団(約16万人)の力ぐらいしかない」と梅津は答える。

天皇はびっくりする。支那派遣軍こそが、帝国陸軍最強の兵力と実力を持っている、と固く信じていたからだ。梅津が退出したあと、天皇は考えに沈んだ。目眩がする思いだった。


そのあとで天皇は散歩に出た。昨日からの雨はあがったばかりだ。皇居の木々の緑はかがやいている。あじさいの花は濡れている。背の高い栗の小道を天皇は歩く。歩きながら頭に浮かぶのは、「陛下はどうなされているのかという国民の声なき声がある」と語ったという二人の東大教授の言葉である。

侍従武官の一人から、沖縄の梅雨が明けるのは6月23日ごろだとも聞いた。しかし梅雨が明ける前に、沖縄の戦いは終わってしまうのではないかと思う。そうだ。6月23日には田植えをしなければならない。毎年この日に、吹上御所の圃場(ほじょう)で田植えをおこなっている。

田植えのことを思えば、根こそぎ動員がはじまって、農家の田植えの手は足りているのだろうかと考える。そして天皇は、宮中でもっとも大切な祭儀である新嘗祭(にいなめさい)のことを思う。新嘗祭のお供えやお神酒をつくる米は吹上の圃場のものだけではない。全国の篤農家から各府県ごとに、精米1升・精粟5合が毎年10月30日までに宮内省に納められるように決めてある。しかし、たとえ1升であっても、今の国民にとってこの供出は苦しいのではあるまいか。今年の新嘗祭の儀式は古式どおりにおこなうことはできないかもしれない。

天皇はひとりうなずいたのであろう。

もしかしたら、天皇が終戦をひそかに決意したのは、6月9日の夕刻であったかもしれない。







2021年1月4日月曜日

鈴木総理は何を考えているのか?

 昭和天皇と鈴木貫太郎(9)

鈴木貫太郎も自分の考えをだれにも話していない。外務大臣に入閣を求められた東郷が、今後の戦局の見通しを問うたのに対し、「なお2ー3年は戦争を続けることができるだろう」と答え、東郷を呆れさせている。

もちろんこれは鈴木の本心ではない。腹心ともいえる書記官長の迫水にも、海軍の後輩である海軍大臣の米内光政にも、自分の本心を漏らしていない。

鈴木は三方ヶ原(みかたがはら)の戦いの逸話が好きだ。

閣僚や秘書官の多くはこの話をしばしば聞かされて、あきあきしていた。前年、米内光政・井上成美の二人から”極秘の終戦工作”を命じられていた海軍少将の高木惣吉は、「こんな話を繰り返しているようでは鈴木内閣での終戦は到底無理だ」とあきらめていた。そして鈴木の悪口をあちこちで言いふらしていた。高木は鈴木の真意を見抜けなかったのだ。

これは、武田信玄と徳川家康とが戦い、家康がこっぱみじんに負けた時の話だ。

三万の兵を有す信玄は、家康の部下が守る二俣城(ふたまたじょう)を攻撃しこれを落とした。天竜川沿いにあるこの城は家康の居城・浜松城の北20キロにある。これを落とした信玄の軍は、浜松城の北に広がる三方ヶ原の台地にむかった。一万の家康の軍隊がこれを迎えうったが、徳川軍は総崩れとなり、三千人の死者を残して敗退した。午後六時、家康はかろうじて浜松城の北口から城内に逃げ込んだ。

ここからが鈴木の得意とする話である。

家康はこの北の口を守る鳥居元忠に、城門を閉じないで開けておけ、外から見えるように薪を焚かせよと命じた。武田軍の先鋒隊が城門前まで来た。城門は開かれており、見えるのは赤々と燃えるかがり火だ。武田軍は躊躇して進まなかった。

鈴木は閣僚や秘書官に、つぎのように解説する。

家康は城門を開け放し、来るなら来てみろと敵方に叫んだ。武田側はなにか策略があるなと思い、城攻めを断念して撤収したのだと。

だれにも語らなかったが、鈴木はこの時、次のように考えていたのだ。

「どこまでも戦い抜くぞとの決意を示すのだ。そして和平の用意があることをわずかに匂わせば、敵側は荒っぽい無条件降伏の要求をしてこないのではないか。敵はなんらかの譲歩をおこない、こちら側に戦いの継続を断念することができる条件を提示してくるに違いない」


6月14日の重臣懇談会でも、鈴木のこの姿勢は一貫している。参加した重臣は、近衛・平沼・若槻・岡田・広田・東條・小磯たちである。複数の証言を合わせると次のようなやりとりがあった。

元首相の若槻礼次郎が言う。「この戦争に勝つ見込みがないとすれば、何らかの手段で和平の考えをすべきだ。ドイツが降伏した以上は、日本も何らかの決意をしなければならない」

東條・小磯の二人はこれに対し、「絶対反対」を称えた。総理の鈴木も、この二人の陸軍大将に同調して若槻にくってかかった。若槻はこれに対して、「このような状態においてなお抗戦することにいかなる意味があるのか」と問うた。

これに対する鈴木の反論はまったく論理的なものではない。腕白小僧の破れかぶれの返答のようだ。「徹底抗戦して利あらざる時は死あるのみだ」と机を叩いて大声を張り上げた。この時、東條英機ただ一人がおおいにうなずいたという。

この時点においても、鈴木は当面の敵である陸軍を、さしあたって今なお陸軍内部に影響力を持っている東條元首相を、徹底的にたぶらかしておく必要があると考えていたのだ。東條大将は鈴木老人のたぶらかしに見事に引っかかった。そして、わが意を得たりとばかりに大いにうなずいたのである。