2020年7月1日水曜日

東陵の瓜(6)

4ヶ月も大陸の東部を流浪しているが、兵の数は増えるどころか逆に減っている。秦の役人とのこぜりあいや、流賊団から襲われて手勢は30人になる。陳勝のいる陳のみやこへ接近することさえできない。

そのうち、秦の官軍が東進して、あちこちで陳勝の軍を撃破しているといううわさが耳に入る。召平は行くべき方角を失ってしまった。このような状況に至っても、召平は希望を捨てない。楽天的な智謀の人なのである。一晩の熟考ののち、次のように決心する。

「陳王・陳勝の勅使(ちょくし)になりすまし、会稽郡(かいけいぐん)の項梁(こうりょう)・項羽(こうう)の陣営に乗り込む。そして、項梁に張楚国の上柱国(じょうちゅうごく・宰相)の印綬を与え、秦を滅ぼすべしとの命令を下そう」

恐るべき大胆な発想である。

「陳勝軍は負けるかもしれない。残念だがそれはそれでやむを得ない。しかし、打倒秦の炎を消すわけにはいかない。沛(はい)で挙兵したという劉邦という男より、会稽(かいけい)の項梁のほうがはるかに有望に思える。なによりも氏素性が良い。項梁は秦に殺された楚の大将軍・項燕(こうえん)の息子だ。この男に (張楚上柱国) の印綬を与えれば、楚の人民は雪崩を打って項梁に従うに違いない」

召平には確信がある。
「項梁は馬鹿ではない。かならずこの印綬をありがたく受けるに違いない」

冷静に考えてみればわかる。項梁・項羽はすでに江南の地を制し、みずからを義軍と称しているものの、はたから見ればあちこちで決起している流賊団の一つの頭目にすぎない。陳勝自身がその最大の頭目ではあるが、彼はすでに張楚国を建て自らを陳王と称し、人々はそれを認めている。名前だけの張楚国であり、名前だけの陳王ではあるが、歴史はすでにそのように動きはじめているのだ。

項梁が今いちばん欲しいものは 「錦の御旗」 のはずだ。彼は自分が陳王の勅使(ちょくし)だということに疑問を抱くかもしれない。しかしたとえ疑問を持ったにせよ、かならずこの話に乗ってくるに違いない。

偽りの勅使になりすますことにも、ニセの印綬をつくることにも、罪悪感はまったくない。
「今にあってはこれが正義だ」とのゆるぎない信念がある。

しかし一抹の不安もある。項梁は冷静な男だが、甥の項羽は激情家だと聞く。項梁が不在で項羽が対応して話がこじれると、六千の軍団の中に30人で飛び込むのだから「袋の鼠」だ。全員が殺されることもある。

「ままよ、男一匹出たとこ勝負だ!」

馬の踵(きびす)をかえし、30人の部下に南進を命じる。そして、さらに半月の旅を続ける。揚子江を渡り、建康(けんこう・現在の南京)という大都市に着く。ここから会稽までは5日間の旅である。召平たちの一行は、ここで10日間逗留する。召平がこの建康の地に入った時、陳勝は部下に殺されていた。兵を挙げてわずか6ヶ月後のことである。だが、このことは召平はまだ知らない。正月早々の建康の地は、すでに梅の花が満開である。

長寿であることを貴とするならば、二十代で死んだであろう陳勝という男の一生は、まことに可哀そうなものだ。しかし、己の身を挺することで歴史の流れを一変させることが男子の本懐であるならば、それを実現できた幸運な人ともいえる。打ち上げ花火のような華麗な六ヶ月間を送って死んでいったこの青年は、後世の数多くの少年を奮い立たせる名言を残す。

「王侯将相(おうこうしょうしょう)、寧(いずく)んぞ種(しゅ)あらんや」
「燕雀(えんじゃく)寧(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」

ともに陳勝の口から出た言葉だ。名言の宝庫のような男である。
ただの土民ではなかったのかも知れない。

















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