長安郊外の召平の実家に着いたのは、前199年2月である。この時、召平の懐中はまったくの無一文だった。
二人は、長安まで2日ほどの潼関(どうかん)という町で、ここ一番の高級旅館に数日間泊まる。
連日酒を飲み、軍資金の残りをきれいさっぱり使い切る。余ったかね全部を、宿の者に「旨い弁当を二日分作ってくれ」、と言って手渡した。
宿に作らせた弁当を背負い、二人は元気いっぱいで出発する。人気のない山中の大きな池の前で最初の弁当を食う。食い終わると、弁当を包んでいた竹の皮に、秦からもらった東陵侯の金印と金の爵(しゃく・酒を飲む杯)を包み、目に前の池に惜しげもなくドボンと投げ捨てた。これは召平にとってのけじめの儀式であった。
「ああ、せいせいしたわい。これで秦との縁は切れた。十五の春、身体一つで家を出た。五十の今、手ぶらで家に帰る。幸いにも身体は健康だ。これを幸運と言わないで何が幸運か。畑を耕せばちゃんと食えると爺さまはおっしゃっていた」
召平はそう思い、微笑を浮かべながら浩と一緒に旅の足を速める。
実家は何も変わっていなかった。杏(あんず)も桃も棗(なつめ)の木も、35年間で大きく成長して元の場所にある。両親は思ったより元気そうだ。
「ようもどったなあ。ようもどったなあ」
母親は嬉しそうに二度つぶやいた。父は言葉も出ないのか、何も言わず、立ったままただ笑っている。泣いているようでもある。弟二人はそれぞれ家庭を持ち、本家の敷地の中に新屋(しんや)を建てている。二人とも大喜びで迎えてくれる。
「あんちゃんは偉いよ。大将軍になったのだからなあ。戦(いくさ)で怪我はせなんだか?」
敗軍の将という表現は少し違うが、そう言われて召平は嬉しいというより気恥ずかしい。
「秦は滅びてなくなった。大将軍さまも東陵侯さまも消えてなくなったよ。今は一介の布衣(ふい)だ」
「爺さまが亡くなられた時、親父が竹簡を送ったので届いたと思う。あんちゃんが東陵侯になって5年目だった。八十だから古希を十も超え村一番の長寿者だった。爺さまは日ごろから ”秦の天下は長くない。平は失業してもどってくる。五十になったらかならずもどってくる” とおっしゃっていた。
”昔からの我が家の農地七町歩は平のために残しておけ” といつも言っておられた。大将軍になり東陵侯にまで出世したあんちゃんが、この草深い田舎にもどってくるとは親父も我々も思ってもみなかった。爺さまはどうしてわかったのだろう?」
統一後の秦の後半になると、農地を手放す農民が増えてきた。爺さまは、頼まれてそれを少しずつ買い増していったそうだ。
「亡くなる前日も、 ”余裕ができたらどんどん畑を買い増しておけ。平はかならずもどってくる。” と言われた。だから親父も我々二人もがんばって農地を増やして、今では買い増した畑が八町歩ほどある。我々二人はこの八町歩で充分食える。元の畑はあんちゃんのものだ」と二人の弟は笑う。
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