2020年7月13日月曜日

東陵の瓜(12)

三人は汨羅の地に到着する。

地元の農夫に聞き屈原が身を投じた淵におもむく。そのあと、近くにある彼の墓に詣でる。村人に聞いてその郷の父老(ふろう)を自宅に訪問する。

「三閭大夫公の霊を弔うためしばらくこの地に住みたいのですが。お許し頂けないでしょうか」
召平は身を低くして丁寧に希望を伝える。突然の来客に、はじめ父老の対応はぎこちなかった。しかし、屈原の墓に詣で花を手向ける旅人に悪い感情は持たない。

「よろしかったら、しばらく宅(うち)に泊まりなされ」と親切に招き入れてくれる。秦の東陵侯の爵位を持つことは絶対に言えない。「屈原を崇拝する旅の道者である」と述べ、この地を去る日までそれで通した。

三人は朝起きると、すぐに屈原の墓に詣でる。草を刈り、墓の周りを掃除して、花を手向ける。
ただそれだけのことを繰り返すだけで、ひと月もしないうちに村人の評判になる。「あれは賢者だ」と。礼儀正しく、律義に宿代・食事代を払う3人の旅人に、父老が心を許すのにさほどの時間はかからない。父老の好意で、彼の屋敷の一角に三人が住める程度の小さな家を建てたのは、ここに来てわずか半年後のことである。


この汨羅の地も、秦の役人は追われ無政府状態になっていたが、各郷の父老たちの団結と指導で村の治安はよく保たれている。田畑の地味は肥えている。洞庭湖の恵みも大きい。農業・漁業の収穫量は多く、人々のくらしは他の地域よりずいぶん豊かに感じられる。

父老や村人に頼まれ、召平は子供たちに論語・老子・荘子などを教える。「論語だけではだめだ。子供にも老荘を教えるべきだ」、これが召平の考えである。裕・浩の二人も長年召平のもとにいるので、子供たちへの手ほどきぐらいはできる。

子供たちを教えるだけでは時間が余り身体もなまる。父老に相談すると、快く3反(900坪)ほどの畑を使わせてくれるという。三人で耕し、何種類もの野菜を植える。ほかの野菜は二人にまかせ、召平はもっぱら、広陵の時のようにまくわ瓜の栽培に熱を入れる。

子供たちからは授業料は取らない。親たちはお礼のつもりであろう。洞庭湖で採れる魚・蝦(えび)・蟹(かに)・蜆(しじみ)などを持ってくる。なかには「精がつきますぜ!」と生きたスッポンを手にさげてくる者もいる。米・麦・酒を持参する親たちもいる。

文字通り、自給自足の楽しい日々が続く。雨の日はもっぱら書を読む。父老の家には三閭大夫・屈原公自筆の竹簡や木簡が残っていた。八十になる父老は、子供の頃屈原を見たことがあるという。これら屈原自筆の詩を見せられた時、召平は感激で身体が震えた。

近郊の父老たちの宴会に招待されたり、村祭りには主賓格で呼んでもらったりもする。
汨羅郷の父老は太鼓の名手だ。各郷の父老たちとの宴会で歌がはじまると、この老人が太鼓で音頭をとる。「やってみなされ。面白いですぞ」、父老に勧められて、召平は太鼓の稽古をすることにもなる。

当初は2-3年のつもりでいたのだが、なんとも楽しい毎日で、汨羅での生活は7年に入った。そして7年目のある晩秋の午後、久しぶりに故郷の長安から便りが届く。李照(りしょう)という名の幼なじみからである。





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