2020年7月13日月曜日

東陵の瓜(11)

急ぐ旅ではない。

馬でゆっくりと西に進む。15日目の昼過ぎ、目的の地に到着する。洞庭湖(どうていこ)の南に位置する汨羅(べきら)という村だ。

じつは召平は、10年ほど前から、ある人物への思いが強くなっていた。戦国時代、楚の三閭大夫(さんりょたいふ・副宰相格)であった屈原(くつげん)である。その思いは、興味から憧憬、さらには尊敬へと変化してきている。

屈原が没してすでに70年になる。召平からみれば敵の指導者だった人物で、当然快くは思っていなかった。頑固者のくせに女に手のはやい好色者だと聞いていた。秦の武将のころ、先輩の将軍からこのように教えられていた。

「楚の懐王(かいおう)が寵愛していた鄭袖(ていしゅう)という女性と情を通じた屈原は、その事実を王に悟られた。屈原は手勢を連れて楚の都から逃げる。洞庭湖の近くまで来たものの、王様の兵隊はなおも追ってくる。漁民に小舟を借りてなお逃げる。とうとう逃げきれなくなり、もはやこれまでと、汨羅に身を投げた。間男(まおとこ)が追っ手から逃げ切れなくなって自殺したのだ」と。

ところが、10年ほどまえ広陵の地に赴任して、楚の人々がこの屈原を敬慕していることを知る。
はじめの頃は、広陵の人々は秦の東陵侯である召平を警戒して、口をとざしていた。ただ、屈原の命日である5月5日になると、村人は粽(ちまき)をつくり、何か儀式のようなことをしている。

これを問うてみた。召平の人柄がわかるにつれて、村人はポツリポツリと屈原の逸話を話してくれるようになる。広陵の人々はこう言うのだ。

「屈原は博聞強記で、民のしあわせを願う仁徳の政治家だった。楚の懐王は彼をおおいに信任していた。上官大夫(じょうかんたいふ・官名)・斳尚(きんしょう)は屈原と同列であったが、王の寵愛を争って心ひそかに屈原の有能をにくんでいた。斳尚はないことまで王に告げ口をして、屈原は洞庭湖近くに流罪になった。その地で、国の将来を憂い ”楚辞” といわれるいくつもの憂国の詩を残す。何度も中央復帰を試みたが叶わず、ついに石をふところに入れて汨羅に身を投げた死んだ。汨羅の村人はそれ以来、屈原を偲び、命日の5月5日になると粽をつくり湖に投げ入れている。魚どもよ、屈原様を食べてはいけないよ。この粽を食べてくれと」

広陵の人から「楚辞」を借り受け読んでみた。同時に古老たちから話を聞き、召平は理解する。
屈原が「合従連衡・がっしょうれんこう」の「合従」派の急先鋒だったことを。すなわち、対秦外交では、「韓・魏・趙・燕・楚・斉の六ヵ国が団結し秦の領土拡大の野望を防ぐべし」との考えであった。

しかし、屈原が江南の地に流された直後、政敵の斳尚(きんしょう)は、秦王の意をくむ遊説家の張儀(ちょうぎ)が主張する「連衡策」を受けることを楚王に進言する。これにより、楚は日に日に領土を削減され、ついに秦に滅ぼされてしまった。

「70年の昔、屈原は秦の法治主義による統治が、人々に幸福をもたらさないことをすでに見抜いていたのではあるまいか」

召平はそう思った。そして、秦の悪政により日に日に困窮の度を増す農民の姿を見るにつけ、この人物に対する強い尊敬の念へと変化していった。

「できることならば、将来、屈原公の墓の近くにあばら屋を建て、その霊を弔いたい」

ここまで、召平の屈原崇拝の気持ちは高まっていたのである。













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