2020年7月27日月曜日

東陵の瓜(15)

翌日から、浩や弟二人そして何人かの作男を連れて畑に出る。

「まあ、まあ。ゆっくりしたらええのに。せっかちは子供の時とちっとも変わらんなあ」、母親は嬉しそうに軽口をたたく。畑を見廻りながら、春の農作業の段取りを考える。農に関しては素人ではない。

同じ場所に同種類の野菜を続けて植えると出来が悪い。連作障害である。前年、そのまた前年、ここに何を植えていたのか。一つ一つを聞いて頭に入れる。大事なことは木簡に記す。
「研究熱心なことじゃなあ」、李照が顔をだして召平を冷やかす。
一ヶ月はすぐに経った。父親に申し出る。

「五反(1500坪)ほどを勝手に使わせてほしい。残りは今まで通り親父が作男に指示なされたら良いから」。「おう、おう。好きにやったらええ」、と父親は笑う。

(素人が五反に何を植える気かな。そのうち雑草に手を焼いて途中で投げ出すじゃろう。平は子供のじぶんは畑仕事を嫌がって逃げ回っていたのに。どうした風の吹きまわしじゃ?)

だれもが召平に20年の畑仕事の経験があることを知らない。浩には、広陵や汨羅での農作業のことは絶対に言うなよ、と強く言い聞かせてある。「突然立派な瓜をつくって、みんなを驚かせてやるんじゃ」。「はっはっはっ。そいつは愉快ですね」

「瓜で勝負する」

召平はそう決心する。子供の頃、今は亡き祖父が何かのおりに、「このあたりの気候と土壌は瓜に最適なんじゃ」と漏らした言葉も頭の片隅に残っている。

後世、「東陵の瓜」と呼ばれ名声を博す、召平の美味な瓜は、広陵と汨羅での20年の経験と、このような周到な準備と研究のもとにつくられたのである。作男にはたのまず、浩・李照・二人の弟を連れて、長安の市場に瓜の種を買いに行く。3世紀の古文書が、「東陵瓜は五色に輝いていた」と書き残しているが、これは事実である。長安の町中で買い求めた瓜の種は、はじめから数種類あったのだ。

召平がつくった瓜を大きく分けると、甘みがあり果物として食べるまくわ瓜(真桑瓜)と、野菜として食べる白瓜の二種類である。前者の仲間として何種類にものメロンがある。西域から入った甘みの強いハミ瓜もつくる。後世のマスクメロンの原種のような瓜もつくっていた。すでにこの頃から長安は、シルクロードの出発点として西域との交流があったのだ。

胡瓜(きうり)と西瓜(すいか)はつくっていない。胡瓜は召平より80年ほど後に生まれる張騫(ちょうけん)という人が西域から種を持ち帰る。西瓜が中国に入るのは、はるか後世、11世紀になってからである。

1500坪の畑を、召平と浩の二人だけでたがやす。雨の降らない日は、早朝から暗くなるまで瓜畑で農作業に没頭する。召平にとって、戦(いくさ)も瓜作りもまったく同じだ。全身全霊を打ち込む。

みんなが驚いた。はじめの頃はその熱心さに驚いていたが、青々と葉が繁り、花が咲き、大きな実を結ぶころになると、百姓としてのその力量にみなが感嘆する。肉厚の甘みの強いハミ瓜を、近所の人を多数を呼び、召平の家でふるまう。弟の娘が10キロをゆうに超えるハミ瓜を、肩に背負って畑から収穫してくる。包丁で切り、各人の前にならべる。

「これほど旨い瓜は食ったことがない!」
「平は瓜作りの名人じゃ!」

みんなが口々に絶賛する。ある古老に至っては、「まったくの素人が、これほどの瓜を、、、、、」
と言ったきり絶句して、恐怖に近い狼狽ぶりを示した。
















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