2023年3月19日日曜日

張騫とシルクロード(4)

 シルクロードのものがたり(10)

張騫「大月氏国」に向かう(2)

司馬遷の「史記・大苑列伝」を続ける。

「単于は張騫を拘留して言った。” 月氏はわが北方にある。漢はどうして使者を往復させることができようか。考えてもごらん。わしが越(漢の南方の地)に使者を送ろうと思ったら、漢はあえて許すか。それと同じことだろう” 

かくして、騫をとどめること10余年、妻をあたえ、子もできた。しかし、騫は漢の使者の節(しるし)を身につけていて失わなかった。匈奴人のなかに居住していて、取り締まりがますます寛大になったので、騫はそのともがらとともに逃亡して、月氏に向かい、西に走ること数十日で大苑(カザフスタン南部)にいたった」

匈奴の単于の対応は、なんとなくユーモラスでおおらかだ。先述の李陵や蘇武に対する対応も、同じような寛大さを感じる。「漢人の良質人材を優遇して自国の発展に使いたい」との考えがあったように感じる。捕虜として虐待しないで、むしろヘッドハントした高級人材として優遇していたようである。

蘇武の羊飼い19年もたいしたものだが、張騫の10余年、漢の使者の節(しるし)をを身につけてその志を失わなかった話にも感激する。

司馬遷の生年については諸説ある。もっとも古いBC145年説を採ると、彼が5歳のとき、張騫は大月氏国への使者として長安を出発したことのなる。張騫の遠征は漢帝国にとって、国威をかけた大イベントであったと思える。

司馬遷はその時は当然知らなかったが、張騫が10年の拘留ののち匈奴陣営を脱出して再度大月氏国に向かったのは、司馬遷が15歳の時となる。

司馬遷の家系は(どこまで本当かわからないが)、堯・舜の時代から歴史・天文をつかさどる一族といわれる。父親の司馬談が、「張騫はどうなったのか?生きているのか?殺されたのか?」と心配顔で人に語る姿を、少年の頃に何度も見ていたに違いない。

このように想像してみると、後日、司馬遷は張騫から直接聞き取り調査をして、「史記・大苑列伝」を書いたと考えるのが自然である。

干上がったアラル海 
張騫が通過した頃は、満々たる湖であったに違いない
辻道雄氏提供






2023年3月12日日曜日

張騫とシルクロード(3)

 シルクロードのものがたり(9)

張騫、大月氏国に向かう(1)

司馬遷の「史記・大苑列伝」は言う。

「大苑(だいえん・天山山脈の北西部にあたるカザフスタン南部・キルギス北部あたり)の事跡は、張騫が西方に使いしてから明らかになった。当時、天子が匈奴の投降者に問うと、みな言った。 ”匈奴の単于(ぜんう)は月氏(げっし)の王をやぶり、その頭骨で飲酒の器をつくりました。月氏は遁走し、つねに恨んで匈奴を仇(かたき)視しております”

時あたかも漢は匈奴を撃滅しようと考えていたので、これを聞いて月氏に使者を送ろうとした。月氏への道はどうしても匈奴領内を通過しなければならなかった。そこで、よく使者となりうるものを募集した。騫(けん)は郎官の身分で募集に応じ、月氏に使いすることになった。

堂邑県(どうゆうけん・現在の江蘇省)出身の、もとの奴僕であった匈奴人の甘父(かんほ)とともに、隴西(ろうせい・現在の甘粛省)を出て匈奴領を通過した。匈奴はこれを捕らえて単于のもとに送った」


漢の武帝が16歳で即位したのはBC140年で、張騫が100人余を率いて長安の都を出発したのはその翌年である。張騫の年齢はハッキリとはわからないが、20代の近衛将校だったと想像する。冒険心に富んだ若者だったのであろう。

漢の初代の皇帝・劉邦が即位したのはBC202年だから、その63年後である。劉邦が即位したころの匈奴の王は冒頓単于(ぼくとつぜんう)という指導力のある大物で、匈奴の軍事力はすこぶる強大だった。劉邦は何度も匈奴と戦っているが、ことごとく敗戦している。「当時の漢は、項羽と攻防を展開し、中国は戦争で国力が衰退していた。それ故に、冒頓は自国の軍事力を強化することができた」と司馬遷は「匈奴列伝」に、その理由を冷静に分析して記述している。

以来60年間、漢は匈奴と条約をむすび、「穀物や絹など、匈奴の欲しいものを毎年与えるから攻め込まないでくれ」と匈奴に対して下手に出て、ひたすら自国の経済力と軍事力の強化に励んだ。5代目の皇帝・武帝が若くして即位すると同時に、漢帝国は北へ西へと、一気に勢力拡大路線に打って出たのである。


私が「月氏」、「大月氏」という言葉をはじめて聞いたのは、中学か高校の授業だった。「中国の西にある国だ」と社会の先生は説明してくれたが、どんな顔をした人々で、どのあたりに住んでいるのかわからず、雲のかなたのおとぎの国、のような印象を持った記憶がある。先生も深く理解していなかったような気がする。それから数十年。大月氏国がどこにあったかやっとわかった。自分にとって大発見で昂奮している。

さてその前に、張騫はどのあたりで匈奴の軍団に捕まったのか? 私の認識では、今日の中国の領土である「玉門」、「安西」、「敦煌」あたりの気がする。

800年後の盛唐の頃には、このあたり一帯は唐の支配の最西端にあたる。王維や李白の詩の中に、これらの地名は頻繁に出てくる。しかし漢の時代には、このあたりは中国の支配下に入っていなかった。

南ゴビ砂漠 辻道雄氏提供



2023年3月6日月曜日

張騫とシルクロード(2)


 シルクロードのものがたり(8)

張騫の活躍については、できるだけ司馬遷の「史記・大苑(だいえん)列伝」から直接引用して紹介したい。ただ、これをまとめるにあたり、長澤和俊先生の著書「張騫とシルクロード」をずいぶん参考にさせていただいた。

私は学生時代から「史記列伝」が好きで、おもだった人物の列伝はだいたい読んでいる。大好きな「屈原」、「魯仲連」、「東陵侯召平」、「季布」の箇所は、ノートに写して大声で読んでいた時期があるので、これらの人々は今でも身近な「お友達」のような気がする。

このように、「史記列伝」をある程度読んでいると思っていたのだが、張騫については見落としていた。現代の学者や作家の本を読んでいて、いくつかの箇所に「司馬遷の史記列伝によれば」と張騫のことを紹介している。「見落としていたのかな?」と手元にある「史記列伝」・野口定男訳を、改めてひも解いてみた。やはり見落としていた。

「大苑(だいえん)列伝」の8割が張騫の伝記であることを最近になって知った。大苑というのは地名なので見落としていたのだ。

考えてみれば張騫は司馬遷より20-30歳年長で、漢帝国の英雄であった。武帝が張騫に与えた「博望公(はくぼうこう)」という称号は、現在の日本でいえば国民栄誉賞くらいの価値があったかと思う。後世、中国から外国に使いする者は皆、この「博望公」を名乗ったというから、当時の中国における張騫の名声がうかがい知れる。

司馬遷は、自分は張騫に会ったとは史記の中では語っていない。しかし、漢帝国のお抱え歴史家の家系に生まれた者として、司馬遷は張騫に直接面談して取材して、この「大苑列伝」を書いたに違いあるまい、と私は想像している。


「史記」や「漢書」を読んでいて閉口するのは、西域の国々の名前が数多く漢字で登場することである。鳥孫・大苑・康居・大夏・安息・身毒などなど、ほかにも数多く漢字の国名が登場するのでわかりにくい。身毒以外のこれらの国々には遊牧民族が多いので、一か所に定住せず移動しながら生活している。なおかつ、数十年程度で、これらの国の勢力が拡大したり縮小したりしているので、始末が悪い。

ここでは「だいたいの場所」として現在の国名でご紹介したい。専門家の方から見れば、私の認識は少々雑かもしれない。もし誤りがあればご指摘いただきたい。

おおざっぱに、私は次のように理解している。「大苑」とは天山山脈の北から西にあたる。カザフスタン南部・キルギスあたり。「康居」とは現在のタシケントあたり。「大夏」とはアフガニスタン。「安息」とはイラン北部。「身毒」とはインドである。張騫は大夏(アフガニスタン)で聞いた話として、「条枝」についても武帝に報告している。これは現在のシリア・レバノンあたりにあった国のようだ。その北西には「ローマ」という国があることまで報告している。

司馬遷の「史記大苑列伝」を丁寧に読んでいて、それぞれの国々に関する位置関係を含めてその情報がとても正確なことに驚く。張騫の武帝への報告が正確だったこともあろうが、司馬遷が張騫から直接聞き取り調査したのは間違いないと思っている。

次回から、司馬遷の書いたものを直接引用しながら、張騫の歩いたシルクロードのルートを探ってみたい。


ウズベキスタンの西瓜とハミ瓜 辻道雄氏提供









2023年2月10日金曜日

「香月経五郎と三郎の美学」 出版のお知らせ

 推敲にもたもたと時間がかかっていましたが、一昨日、最終原稿を長野県諏訪市にある出版社・鳥影社に送りしました。


題名:香月経五郎と三郎の美学ー副島種臣・江藤新平の憂国の志を継ぐー

出版社:鳥影社(長野県諏訪市)

筆者:田頭信博

出版予定日:令和5年3月13日


一昨日、最終原稿をお送りしたのですが、

すぐに出版社から、「Amazonなどで、もう予約受付が出来ますから」と連絡がありました。スピーディーでありがたい話です。「たいして売れない本だと思うから、しっかり宣伝してくださいよ」との意味と理解しました。

この題名で今、インターネット検索しましたら、

Amazon、honto、Rakutenブックス、紀伊国屋書店 などで購入できるようです。紀伊国屋書店の中でも、「東京大手町の紀伊国屋書店」と「佐賀市の紀伊国屋書店」に注文していただければ、鳥影社から手配します、とのことです。

「本の画像が写ってないのでインパクトが少ないかも?」と言いましたら、「近いうちに各販売ルートに画像を載せます」とのご返事でした。

ヘッドハンティングの話はどこにも出ていないので、このコーナーで宣伝するのは恥ずかしいのですが、歴史好きの方に読んでいただければ思い、ご案内させていただきます。

本がまだ出来上がっていないので、下記の写真は、出版社から見本としていただいた表紙の写真です。


(目次より)

1、香月経五郎略伝

2、佐賀・弘道館と長崎・致遠館

3、明治二年五月、岩倉・鍋島連立政権

4、大学南校・江藤新平宅に寄宿

5、幕末の日本人はすべて「攘夷派」だった

6、アメリカへの旅立ち

7、岩倉使節団・鍋島直大と久米邦武

8、イギリスに向け大西洋を渡る

9、経五郎の帰国

10、「征韓論」と香月経五郎

11、佐賀の乱をどう呼ぶべきか

12、経五郎、江藤と共に佐賀に向かう

13、弟・香月三郎






2023年2月6日月曜日

張騫(ちょうけん)とシルクロード(1)

 シルクロードのものがたり(7)

張騫に「アジアのコロンブス」という名を付けたのは19世紀の欧州の学者らしいが、私としては面白くない。そもそもが、大航海時代以降、ヨーロッパ人はそれ以外の地域の人々に対して「上から目線」の態度がある。この風潮は現在でも続いているような気がする。アジア人の一人として、それがなんとも不愉快である。

欧米人にとって、コロンブスはアメリカ大陸を発見した英雄らしいが、黄金を得るためにアメリカインディアンを大虐殺したことを知っている日本人の私は、コロンブスをそれほど立派な人とは思っていない。いや、けしからん男だと思っている。


19世紀以降、スエーデンの探検家・ヘディンや、ハンガリー出身でイギリスの考古学者・スタインなどが、タクラマカン砂漠を含む西アジア探検のきっかけをつくった。この中央アジア探検ブームに、20世紀にはいると我々日本人も乗り出した。1902年から14年にかけて(明治35-大正3)三次にわたって、浄土真宗西本願寺派第二十二代法主・大谷光瑞(25歳)が隊長をつとめた大谷探検隊である。

じつは、我々日本人が憧れを感じている「シルクロード」という言葉の歴史は極めて短い。

ドイツの地理学者・リヒトホーフェンが1867-1872年にかけて中国大陸を調査して「シナ」という本を出版した。その中に、「ザイデンシュトラーセン(絹の道)」という言葉をはじめて使った。このドイツ語が英語に訳されて「シルクロード」となったわけで、この言葉の歴史は150年に満たない。

これらヨーロッパの探検家たちが、この地域を探検して、また司馬遷の「史記・大苑伝」を読んで、「2000年前に張騫とかいう、とんでもない大冒険家がいたぞ」と驚いて「アジアのコロンブス」という有難くもない名前の付けたのであろう。「新しい交通ルートを発見した英雄」との気持ちであろうが、張騫を尊敬している私としては、余計なことをしやがって、、、という気持ちである。

この張騫という人はただならぬ豪傑である。勇気と智謀だけでなく、人情味があり、誰からも好かれた。人間としてはコロンブスよりよほど上質の人である。

「シルクロードのものがたり」は、桃李成蹊の李広将軍から始めた。よって、その孫の李陵、友人の司馬遷、蘇武と続けたのだが、歴史の流れの順番からすれば、李広将軍の次にこの張騫を書くのが順番としては正しかった。

張騫の生年は不明、とあるが、細かく推測することにはあまり意味がないと思う。だいたいのイメージとして、この張騫は李陵や司馬遷の父親と同じ世代の人と考えて良い。李広将軍が衛青(えいせい)大将軍に従って匈奴征伐に出陣して道に迷って、責任を取って自ら首を刎ねた話は先に述べた。

この時、同じく道に迷い合戦の期日に遅れて、斬罪を言い渡されたのがこの張騫である。この斬罪の刑というのは、いきなり首を刎ねるものではないらしい。自分の財産をすべて朝廷に差し出し、官位はく奪の上庶民への格下げを甘んじることによって、命は助かるケースが多かった。張騫は李広と異なり、この道を選び命をつないでいる。

李広はこの時「自分は六十を過ぎた」と言っているが、張騫はこの時四十前後だったと思われる。李広と同じ規模の軍団を率いているので、この張騫もまた陸軍中将クラスの軍人であったと思われる。

ウズベキスタンのざくろ 辻道雄氏提供



2023年1月30日月曜日

中島敦のこと



 シルクロードのものがたり(6)

前回の「李陵と蘇武」をまとめるにあたり、中島敦の「李陵」を参考にさせてもらった。「山月記」・「弟子」・「名人伝」を今回改めてじっくり読んで、その簡潔で美しい文章に感服した。中島敦は明治42年(1909)に生まれ、昭和17年(1942)に33歳で没している。

彼の作品の中に、「和歌(うた)でない歌」という55編の作品がある。中島の読んだ古今東西の古典の内容と自身の気持ちを重ねた感じの、「超短い読書感想文」 のようなおもむきのものである。これを読んで感激してしまった。

29歳の時に書いたもののようであるが、これだけの古典を読破し、それを自分の血と肉として、古の賢人と一体になった、その境地に憧れの気持ちを強く持った。いくつかをここで紹介したい。

文豪・中島敦と張り合おうとの気持ちはみじんもないのだが、これを読んで、「いたずらに馬齢を重ね」という日本語が、自分に向かって迫ってくるのを強く感じる。


〇ある時はヘーゲルの如(ごと) 万有をわが体系に統(す)べんともせし

〇ある時はアミエルが如 つつましく息をひそめて生きんと思ひし

〇ある時は若きジイドと 諸共(もろとも)に生命に充ちて野をさまよひぬ

〇ある時は淵明(えんめい)が如 疑わず かの天命を信ぜんとせし

〇ある時は観念(イデア)の中に 永遠を見んと願ひぬプラトンのごと

〇ある時は李白の如 酔ひ酔ひて歌ひて世をば終らむと思ふ

〇ある時は王維をまねび 寂(じゃく)として幽葟(ゆうおう)の裏(うち)にあらなむ

〇ある時は阮籍(げんせき)が如 白眼に人を睨(にら)みて琴を弾ぜむ

〇ある時はフロイトに行き もろ人の怪しき心理(こころ)さぐらむとする

〇ある時はバイロンが如 人の世の掟(おきて)踏みにじり呵々(かか)と笑はむ

〇ある時はパスカルの如 心いため弱き蘆(あし)をば賛(ほ)め憐れみき

〇ある時は老子の如 この世の玄(げん)のまた玄空(むな)しと見つる

〇ある時はストアの如 わが意志を鍛へんとこそ奮ひ立ちしか

〇ある時はバルザックの如 コーヒーを飲みて猛然と書きたき心

〇ある時は西行が如 家をすて道を求めてさすらはむ心

〇ある時は心咎めつつ 我が中のイエスを逐(お)ひぬピラトの如く

〇ある時は安逸(あんいつ)の中ゆ 仰ぎ見るカントの「善」の巌(いつ)くしかりき

〇ある時は整然として澄(す)みとほるスピノザに来て眼をみはりしか

〇ある時は山賊多き コルシカの山をメリメとへめぐる心地

〇ある時はツァラツストラと山に行き 眼(まなこ)鋭るどの鷲(わし)と遊びき

〇遍歴(へめぐ)りていつ”くに行くかわが魂(たま)ぞ はやも三十に近しといふを





2023年1月23日月曜日

李陵と蘇武(2)

 シルクロードのものがたり(5)

蘇武が漢へ帰国する6年前、武帝が崩御するとまもなく、漢の上層部で李陵を帰国させようとの作戦が練られた。わずか8歳の皇太子が即位するや、遺詔(いしょう)により霍光(かくこう)が大司馬大将軍として新帝を補佐した。この人は李陵の友人である。

ナンバー2の左将軍となった上官桀(じょうかんけつ)もまた李陵の親友であった。二人のあいだで、なんとかして李陵を呼び戻そうとの相談が出来上がった。

武帝の崩御をきっかけとして、漢と匈奴の双方に和平の気運が高まり、「友好関係を結ぶための和平の使節派遣」が決まったのだ。霍光と上官桀は、その使節に李陵の若いころからの親友たちを選んだ。任立政(じんりつせい)を首席とする三人である。

このとき、陵と親しかった左賢王が匈奴の単于の座にあった。孤鹿姑単于(ころくごぜんう)という。単于の前で使者の表向きの用事が済むと、次に盛んな酒宴が始まる。

当時、李陵はこの地で賓客として遇されていた。李陵の友人が使節としてきたので、単于の好意で李陵もその宴席に連なった。親友の任立政は陵と目が合ったが、匈奴の大官がいならぶ前であからさまに漢に帰るれとは言えない。

公式の宴が終わったあと、二次会として李陵と少数の陵の側近が漢使をもてなした。これも李陵を信頼している単于の配慮であった。その席で、使節筆頭の任立政は、漢への帰国を熱心に李陵に説いた。しかし、「帰るのは易い。だが、丈夫再び辱めらるる能わず」と言って、陵は頭を横にふった。

それから五年が経った。

先述したように、蘇武は19年目にしてバイカル湖近くの掘っ建て小屋から単于の前に呼び出されて、漢に帰国するよう告げられた。別れに臨んで李陵は、友・蘇武のために宴を張った。蘇武は李陵に、自分と一緒に帰国することを強く勧めた。

李陵は杯をあげて、次のように慶賀の辞を述べた。

「いま蘇武どのは晴れて帰国の途につかれる。名声はここ匈奴の地でも響き、功績は漢室にあっても光り輝くことでしょう」 そして続けた。

「わたし陵は、意気地のないものではありますが、漢がしばし大目に見てくださり、老いた母親や妻子を生かして、私に屈辱を晴らす機会を与えてくださったなら、自分は単于に単身でもいどもうと考えていました。しかし私の一家は収監の上誅殺されました。これ以上ないはずかしめを受けました。私にとってはもはやこれまで、万事終わりと言わなければなりません。もはや二人は別世界に住む人間です。これで永遠の別れです。さらばです」

その後、二人は黙って酒を飲んだ。宴たけなわにして、李陵は立ち上がり、舞い、かつ歌った。

「万里を経て 沙漠を渡る  君が将と為りて 匈奴を奮(ふる)わす

路(みち)は窮絶(きわま)り 矢刃(しじん)摧(くだ)かる

士衆 滅びて 名はすでに隤(お)つ

老母 已(すで)に死して 恩に報いんと欲すると雖(いえど)も 将(まさ)にいずくにか帰せん」

この詩は「漢書・蘇武伝」に載せられている。


蘇武が漢に帰国したのは始元六年(BC81)夏、59歳ぐらいであったと思える。この人は長寿を保ち80歳ぐらいまで生きた。

司馬遷は、蘇武の帰国の6年前に「史記」を完成させ、その翌年、おそらく58歳ぐらいで没した。

李陵は蘇武と別れて7年後、63歳前後でバイカル湖の南の地で没した。


今から20年ほど前だったと思う。日経新聞の文化欄で次のような記事を読んだ。記憶だけが頼りなので、多少の間違いがあるかも知れない。

「バイカル湖の南、モンゴルとの国境に近いロシアの領内で、石と木材で造られた中国式の住居跡が発見された。内容は判明しないが、発掘された木簡や竹簡に漢字が書かれている。これは匈奴の地で没した、漢の将軍・李陵の屋敷跡ではあるまいか、とロシアと中国の専門家たちは語っている」

ゴビ砂漠 辻道雄氏提供