2024年11月13日水曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(13)

 シルクロードのものがたり(42)

インドに5年、セイロンを経由して船で青州(山東半島の青島)に漂着す


ホータン(和田)を出発して、パミール高原を越えた後も、〇〇国・△△国・××国など、法顕の記録にはやたら小さい国の名前が出てきて閉口する。

これについて、司馬遼太郎との対談で陳舜臣が、「村より小さい国」と題してユーモラスに語っている。NHK取材班に同行して西域各地を旅した昭和50年代の話であろう。

「今度の旅行から帰ってきて、旅行記を書くんで調べていたら、通ったところの一つに ”昔ここは西夜国” と『漢書』に出ていた。戸数が350。そこには52の国名が出てくるんですけど、これはしめた、これが西域最小の国にまちがいない、そう書いてやろうと思った。だけど一応念のためと思って調べたら、まだちっちゃいのがある。戸数41戸の国もある。烏貧言離国(うひんげんりこく)というものものしい国名をもっていた」

たしかに、法顕や玄奘の旅行記だけでなく、「史記」「漢書」を含め中国の古い史書に書かれた西域の数多くの国名には閉口させられる。あまりこだわらないで、このような村があるといった感じで、軽い気持ちで読み進んでゆくのが良いと思う。


このあとの法顕の旅については、「大幅に端折(はしょ)り」、要点だけを紹介する。

下記の地図が、法顕が長安を出発して12年後に中国に帰るまでの旅のルートである。法顕と青年僧の道整(どうせい)がサーへト・マヘート(祇園精舎の地)にたどりついたのは、405年の秋、法顕70歳のときである。

その後、地図にあるように、二人はインド北部をあちこち歩いているが、2年間をパータリプトラ(赤いしるしをつけた)に滞在している。ここは、古代アショカ王の時代に首都であったところで、ブッダが悟りを開いた場所でもある。また後世、玄奘三蔵が学んだナンダーラ大学(僧院)もここにあった。この地で法顕は熱心に梵語(サンスクリット語)を学んだと伝えられるが、いくら法顕でも70歳を過ぎての外国語の学習は骨が折れただろうと同情する。しかし、その好奇心・努力には感服する。

青年僧の道整と別れたのはこのパータリプトラである。「この地にとどまり、命が尽きるまで修行に努めたいと思います」と言う道整に、「それもよろしかろう。ただ私は中国にもどります」と答えている。

その後、法顕は一人で、経典などの荷物があったので何人かの現地の人夫が同行したと思うが、ガンジス川を下り、タームラリプティという港町に着いた。当初の法顕の考えは、ガンジス川河口のこの港町から中国に向かう商船を見つけるつもりだったようだ。

この町で、法顕は一人の中国人商人と巡り合う。どういういきさつか判らないが、法顕はこの中国人の船でセイロンに向かった。その後1年以上セイロン島に滞在している。

その中国人の世話になり、集めた経典を大船に乗せてセイロンを出帆した。船員と乗客を合わせて200人、救命ボート1隻を船尾につないであったというから、大きな船である。中国の船ではなく、アラビア船員の船もしくは海洋民族のクメール人(カンボジア)が運航する船であった可能性が高い。余談だが、カンボジアのプノンペン・ベトナムのホーチミンの沖のメコン川下流の海中から、現在でもBC100-AD200年頃のローマの金貨が時おり発見されるという。紀元前から、ローマと東南アジア・中国を結ぶ「海のシルクロード」があったようだ。

この船は、途中でスマトラ島のジャンビ(パレンバンの北方)に寄港している。この地に5ヶ月滞在して、別の中国人の支援を得て、別の大船に乗り換えて中国に向かった。「この大船にも200人ばかりの人が乗り50日分の食料が用意されていた」と法顕は記録している。

この船は中国南部の広州を目指していたのだが、航海術の未熟な時代である、風雨にほんろうされながら、結果的には中国北部の山東半島に漂着した。

412年7月14日のことである。法顕は77歳であった。






2024年11月6日水曜日

みちのく一人旅(4)

 岩手県の田頭(でんどう)城跡、20年後の訪問

翌朝、ご夫妻に大湊駅まで車で送っていただいた。このとき山崎医師が3本の万年筆をくれた。1本はペン先を曲げた極太文字や絵の描ける万年筆、2本は万年筆を太文字のボールペンに改造したものだ。このボールペンがとても書きやすい。以来、ブログなどの原稿用紙の下書きにはこれを使っている。私にはとてもできない芸当だが、バイク修理工場主の山崎医師にはたやすいことのようだ。

50年前の本も嬉しかったが、今回いただいた筆記用具も大変ありがたい。とても書きやすいので、執筆意欲がさらに高まりそうだ。


大湊駅を出発した電車は、右手に陸奥湾を見ながら南下する。八戸駅で新幹線に乗り換え盛岡駅で降りる。盛岡駅からローカル線で北上して8つ目の大更(おおぶけ)駅近くにある田頭城跡を訪問するためだ。この城跡については、「岩手県の古城跡(田頭城)」という題で、2019年5月にこのコーナーで紹介した。

城跡を再訪したい気持が2割ほど、あとの8割はあの時のタクシー運転手さんに会って、20年前に渡しそびれた1万円のチップを渡したいとの気持ちだった。1度会っただけの運転手さんで、この方の名前はわからない。会えないにしても、彼の消息はつかめるのではないか。そういう気持ちが心の中にあった。

正午過ぎに盛岡駅に着いた。以前と同じくローカル線で啄木のふるさと渋民駅経由で大更(おおぶけ)駅に向かおうとしたら、次の電車の出発は午後4時過ぎだという。これには驚いた。帰りの電車はいつになるやらわからない。20年の間にローカル鉄道の便数はずいぶん減っている。「バスだと1時間後に駅前から出ますよ」と駅員さんが教えてくれる。バスだと50分と鉄道より時間がかかるが、違った景色が見られるのでバスの旅も楽しい。

大更駅前でバスを降りて、タクシー乗り場に向かう。2台のタクシーが停まっている。20年前に、「ここでタクシー運転手をしているのは私だけですよ」と私と同い年だという運転手は言っていたが、2人のタクシー運転手は共に50歳前後に見える。先頭の運転手に声をかけて聞いてみるが、「知りませんなあ」と愛想がない。

2人目の運転手はその方を知っていた。「ああ、その人なら数年前にお百姓に専念するといって会社を辞められましたよ。大きなお百姓さんでしてね、時々この駅前で見かけますよ。今はちょうど稲刈りで忙しそうですよ」とおっしゃる。「そうか、お元気なんだ!」と私は嬉しくなった。このタクシーに乗り田頭城跡に向かう。6ー7分で到着する。

20年前の運転手は、嬉々としてまるで従者のように城跡のてっぺんまで同行してくれた。私のことをこの城の若君の子孫だと思い込んでいる運転手は、私とは400年前の因縁がある身内だ、と思ってくださったからであろう。今度の運転手は、いわば他人だ。「ここで待っていますから」と城跡の下の駐車場にタクシーを停めた。

1人で50メートルほどの山城に登る。20年前と異なるのは、「ずいぶん長い滑り台」と「公衆便所」が造られているだけで、それ以外は何も変わらない。訪問客は私以外はだれもいない。八幡平市は観光名所にしたいらしいが、どうもそうでもないらしい。25分ほどで降りてきた。「桜の時期にはけっこう観光客がいるんですがねえ」と運転手は言う。

大更駅に着いた。待機料金2000円ほどを加えた料金が提示されたので、チップは払わなかった。それでも親切な人で、タクシーから降りてきて、「電車が早いかな、それともバスが早いかな?」とそれぞれの時刻表を調べてくれている。結局、40分待ちの電車で盛岡駅に向かった。


20年前の運転手さんは、お元気で400年以上続いているご先祖様の田圃で稲作に専念されていることがわかった。よかった、よかった。今年はお米の値段が高いから、米農家さんには良い年であろう。この岩手県への小旅行も愉快な旅であった。






2024年10月30日水曜日

みちのく一人旅(3)

 50年前の浪人生との再会(3)

自宅で美味しいリンゴとお茶をいただきながら、1時間ほど語り合う。50年間の出来事を1時間で語り尽くすのはむずかしい。「青年は弘前の人で医者の息子」と私は長い間ずっと思っていた。なぜ北の果てのむつ市で医者をやっているのか、何か問題をおこし父親に勘当されたのだろうか、と気にしていた。このことをお聞きした。

そうではなく、元々むつ市の生まれだとおっしゃる。両親が教育に理解があり、中学・高校の6年間を弘前市に遊学させてもらった。親は立派な職業だが医者ではない。50年前に弘前高校の卒業だと聞いた私は、本人が医学部を目指して勉強していたので、勝手に弘前の医者の息子だと思い込んでいたようだ。陸軍士官学校を卒業して硫黄島から生還された陸軍中尉の父上の若い頃のものがたりは、戦史に関心を持つ私にはとても興味深いものだった。

自宅からホテルに移動する前、「ちょっと私の研究所を覗いてください」と言われる。外科医の研究所というから、人間の骨でも飾ってあるのかな、と恐る恐るついていく。自宅の隣が駐車場で、その向こうに研究所がある。入口にモーターバイクが2・3台並んでいる。ドアを開けると中にもバイクが置いてあり、バラバラに解体してそれを再度組みなおしている様子だ。おびただしい数の工作道具が整然と置かれている。これはまさにモーターバイクの修理工場だ。「これが趣味なんですよ」と笑いながらおっしゃる。


このあと自宅近くのホテルにチェックインしてシャワーを浴びる。二人が6時半前に迎えに来てくださり、徒歩で夕食の場所に向かう。

田名部(たなぶ)の中心街を歩いているらしい。『街道をゆく・北のまほろば』の中に、司馬遼太郎が旧会津藩士の末裔の人たちと夕食を一緒するくだりがある。ふとそれを思い出し、「あの店はこの近くですか?」と二人に尋ねると、「そこの右側のお店です」と奥様が答えてくださる。ご主人だけでなく奥様も相当な読書家のようだ。

夕食の店に着いた。「東(あずま)寿し」という立派な寿司割烹だ。店の前を清流が流れていて小さな橋を渡って店に入る。この店の経営者とも二人は親しい仲のようだ。出てくる料理のすべてが極上の味だ。私はビールのあと純米酒を一合いただく。山崎医師はビールのジョッキ2杯を軽く空けた。さらに日本酒を注文して、奥様を交えて3人で酒盛りを続ける。実に愉快だ。

「堀さん、内島さん、中村さんはお元気ですか?」と突然山崎医師が問うたのには驚いた。3人とも私の成蹊の学友だが、この3人と隣の部屋の青年が会ったのは、多くても2-3回のはずだ。しかも50年前のことだ。立派な大学の医学部に合格したのだから、青年はもともと頭が良かったに違いない。でも、それだけが理由とも思えない。この3人の言動の何かが、当時20歳前後の青年の心に響いたのではあるまいか。ともあれ、50年前の青年が私の学友3人の名前を憶えていたことに、とても不思議な思いがした。

青年からもらった『一休狂雲集』をカバンに入れていた。「贈 田頭東行大兄 昭和五十二年七月二十九日 山崎總一郎」と書いてある。

「久しぶりです。一筆書いてください」とお願いした。山崎医師は口元にわずかに笑みを浮かべて私の万年筆を握った。

「犬も歩けば、猫も歩く。再会50年 山崎總一郎」

禅味のある、じつに味わい深い言葉である。

令和六年。今年も楽しいことがいくつもあった。その中でも、私にとっての楽しいことの筆頭がこの下北半島への旅であった。山崎ご夫妻に心から感謝している。




みちのく一人旅(2)

50年前の浪人生との再会(2)

訪問のひと月前、奥様から丁寧な案内をいただいた。「主人が田頭さんをお連れしたい場所があると言っています。当日は昼前に下北駅に着けるよう、始発の新幹線に乗ってください」とのことだ。令和6年10月12日、06時32分東京駅発のはやぶさ1号に乗り、八戸でローカル線に乗り換え、11時07分に下北駅に着いた。

ご夫婦で駅に迎えに来てくださっていた。お互い顔を見てすぐにわかった。50年前はひょうきんで快活な若者、との印象を持っていた。今回会ったら重厚な感じの紳士である。50年間の自己錬磨の賜物であろう。他者に対して気配りする親切な気質は昔と変わらない。

高級車のトランクに私の荷物を入れ、すぐに奥様の運転で北に向かった。しばらくすると海が見えた。快晴でかなり風がある津軽海峡はキラキラと輝いている。そのまま海岸線に沿って走り、正午過ぎに着いたのはまぐろで有名な大間(おおま)漁港だ。


「さつ丸」というまぐろ料理店に入った。大トロのまぐろ丼 の上に生うにが乗せてある。素晴らしく旨い。70代半ばのご主人が「さつ丸」の船長で鮪を獲っていて、奥様がこの店を切り盛りしている。奥様の名前が「さっちゃん」というらしい。この日は時化ているので漁が休みなのだろうか、ご主人も店におられる。若い女性が「山崎さんの奥様には大変お世話になっています」とおっしゃる。この女性はむつ市に住んでいて、通いでこの店を手伝っている。さつ丸夫婦の姪(めい)らしい。「サービスです」と、あぶったタコの足が皿に乗って出てきた。店の写真の右上にタコの足が干してあり、その下にコンロが見える。塩味だけのこのタコの足がとても旨い。

漁港のこのような雰囲気の海鮮レストランは、台湾の花蓮港(かれんこう)やマレーシアのフィッシャーマンズ・マーケットで何度か立ち寄ったことがある。店のつくりは素朴でシンプルだが、魚の味は超一流、というのが世界中で共通している。若い頃、東南アジアの港町をウロウロしていた頃を思い出す。

美味しい大トロのまぐろ丼で腹いっぱいになり、徒歩で「本州最北端の地」の石碑に向かう。津軽海峡の向こうに函館がはっきりと見える。3人で周辺を20分ほど散歩する。「さつ丸」と同じような海鮮レストランが10軒以上あちこちに見える。観光客が多い。アメリカ人らしき子供2人が海鮮料理店の前に立っていたので、片言の英語で話していたら、両親が勘定を済ませて店から出てきた。「三沢から来た」とおっしゃる。「グレイトUSエアーフォースですね!」と言ったらずいぶん喜んでくれる。お返しのつもりか、「お前さん英語がうまいね」とお世辞を言ってくれた。


大間漁港をあとにして、車は南に向かって山に入っていく。恐山(おそれざん)に向かっているらしい。山道はきれいに舗装されているのだが、道の中を5匹・10匹の猿の群れが我がもの顔で歩いているので、運転する奥様があわててブレーキを踏む。

恐山については多少の知識は持っていたが、自分がここに来る機会があるとは思ってもいなかった。比叡山・高野山と共に日本三大霊山の一つ。恐山菩提寺の創建は862年、慈覚大師円仁による。このようにいわれている。山形県の立石寺(りっしゃくじ)は860年、円仁によって創建といわれているが、円仁自身ではなくそのお弟子さんの手によるものらしい。これと同じく、この恐山も円仁の弟子か孫弟子によって開山されたと私は考えている。ともあれ、この恐山に連れてきてもらえたのは僥倖(ぎょうこう)であった。

恐山の菩提寺・賽の河原をあとにして、右にカルデラ湖を見ながら、車はどんどん山を登っていく。航空自衛隊のレーダー基地近くの展望台に連れて行かれた。あとで地図を見ると、この山は釜臥山らしい。ここから大湊湾が一望できる。

会津藩がこの地に入り、斗南(となみ)藩を名乗ったのは明治3年5月である。この地で藩政を担った3人の人物は偉かった。山川浩(ひろし)・広沢安任(やすとう)・長岡久茂(ひさしげ)である。長岡はこの大湊をひらいて、10年後には世界の船を寄港させようと奮闘した。明治35年、日本海軍はこの地に大湊水雷団を置いた。その後、軍港として発展した。津軽海峡の防備、すなわちロシアの日本侵入を防ぐ防人(さきもり)たちの軍事拠点である。山のてっぺんから大湊湾を眺めながら先人たちの労苦を想った。

この展望台を最後に、車はお二人の自宅に向かった。


さつ丸

本州最北端の碑

まぐろ一本釣の町 おおま




恐山

大湊湾 左がむつ市

2024年10月24日木曜日

みちのく一人旅

 50年前の浪人生との再会

私の小さな書斎の本箱に1冊の本がある。『一休狂雲集』という古典だ。引越しのたびに大事に持ち運んでいた。50年ほど前にこの本をくれたのは、同じアパートで隣の部屋に住む、医学部を目指して勉強していた青年である。

私は27歳、独身で三光汽船に勤務していた。吉祥寺の井の頭公園にほど近いアパートで、場所が便利なので成蹊の学友や三光汽船の仲間がよく泊まりに来ていた。私がこの竹貫アパートに住んだのは1年ほどだった。友人たちには、「となりは浪人生だから、大声を出してはいけないよ」と、私なりに浪人生に気を使っていた。

しばらくしてこの青年が、「田頭さん今夜一緒に夕食しませんか?」と誘ってくれた。土曜日か日曜日の夕方だった。快諾して、1時間ほどして彼の部屋に入ると2人分の料理が並んでいる。自分でつくったらしい。

食事が始まる前、青年は部屋の電灯を消し、古めかしいランプに火をともした。ランプに凝っていて、大正時代や昭和初期の骨とう品のランプをいくつか持っていると言う。変わった若者だなと思った。たしかにランプの灯のもとで食事をするのは心が落ち着いて雰囲気が良い。料理もとても美味しい。食事が終わったらランプを消して電灯をともした。

食後の一服と思い、私がタバコに火をつけようとしたら、「ダメダメ」と言う。タバコを吸うのがダメというのではないらしい。「食事が終わったらすぐに食器を洗わなくてはいけません。私も自分の分は洗います。田頭さんも自分の食器を洗ってください」 これが終わって、タバコを吸わせてもらった。

うるさいことを言うなあ、とこの時は思ったのだが、その後これが私の習慣となった。今でも家内の旅行中とか郷里広島県の実家で一人で食事をするときには、食事が終わったら1分も経たないうちに食器を洗う。お返しのつもりで、私もこの青年を自分の部屋に招いて何度か食事を一緒した。双方合わせて10回程度の会食だった気がする。このアパートを出たのは私が先だった。その時、青年が餞別だといってくれたのがこの本である。


以来50年、「彼は元気かな、立派なお医者さんになったのかなぁ」と時々この青年のことを思い浮かべていた。住所も電話番号もわからない。ただ、名前はわかっている。本に私と自分の名前を書いてくれていた。青森県の人だったという記憶もある。今年の8月、中野の自分の部屋で彼のことを想っていたら、ふと頭の中にひらめいた。もし青森県で医師として働いておられるなら、青森県医師会に聞いたらわかるのではないか。

ネットで調べたら電話番号が出ていたので、思い切って電話をかけてみた。「50年前のことなのですが、かくかくしかじか。この名前の医師が青森県にいらっしゃいますか?」と聞いたら、「いますよ」との返事だ。年配の男性の声だ。「私の名前と電話番号をお伝えします。先生にお伝えいただき、よろしかったら先生から私にお電話をいただきたいのですが、、」と言いかけたら、「電話番号を教えますよ。自分で電話をしてください」とおっしゃる。

このおおらかな返答に私は嬉しくなった。西欧文明の性悪説から出る発想なのだろうか、近頃は個人情報の保護だとか、メールに添付する書類にパスワードをかけるとか、人を疑うような話が多い。私のことを信用してくださったからであろうが、このおおらかな対応に、「これぞ日本人同士の会話だ。さすが、みちのくの人は人物が大きい!」と、私はこの方の対応に感激してしまった。

その病院は青森県の最北端、下北半島のむつ市にあるという。電話を入れると今度は若い女性の声だ。「50年前にお会いした田頭と申します」と伝えたら「少々お待ちください」と快活な声だ。しばらくして、本人が電話口に出た。「いやあ、田頭さん、お久しぶり!」 これが彼の第一声だった。これには感激した。久しぶりも久しぶり、50年ぶりなのだ。

私が青年のことを時おり思い浮かべていたように、彼もまた私のことを気にかけてくれていたようだ。私が三光汽船という海運会社で働いていたことは彼は知っている。同じアパートの時から10年後、三光汽船は「史上最大の倒産」ということで新聞紙上を賑わせた。その時、私はシンガポールにいた。「田頭さんはどうしているのだろう、ちゃんと食っているのかしら」と心配してくれていたようである。「下北まで遊びに行きたいよ」と言ったら、「来い、来い!」という話になって、少し涼しくなった10月頃に、この地を訪問する約束をした。





2024年10月14日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(12)

 シルクロードのものがたり(41)

法顕は、病気はしなかったのだろうか?

65歳で長安を出発して陸路インドに向かい、77歳でセイロンから商船に便乗して海路中国に帰った。この事実からしても、法顕が頑強な人だったことがわかる。65歳で天竺に行こうと考えるだけでも、体力には自信があったのだろう。

しかし、法顕とて人間である。病気をしたり弱気になったりしたことはなかったのだろうか?インドに到着するまでの「法顕伝」や他の書物を読む限り、そのような事実は見えない。むしろ、自分の強い体力をベースに物事を判断したために、他者への思いやりに欠けていたのではないか、と反省する場面が見える。

パミール高原を超えて現在のアフガニスタン領に入った。ヒンズークシ山脈のふもとを通って、現在のカブールの東方・ジャラバードあたりからカイバル峠を越える。このあと現在のパキスタン領に入り峠をくだり、インダス川を渡る予定だ。このカイバル峠はインドに入るための重要拠点で、かつてはBC4世紀にアレキサンダー大王が、7世紀には玄奘もこの峠を越えている。

このあたりで慧景(えけい)という青年僧が、口から白い泡を吹いて亡くなった。高山病だったのかも知れない。じつは、ここに到る以前にも、3人の僧が中国に引き返している。このとき、「頑張れ、頑張れ。初志を貫き天竺まで行こう」と法顕は僧たちを励ましている。ところが、僧の一人は「あなたは常人ではありません。私たちは平凡な人間です」と答えている。これは法顕の強靭な体力を言ったものと思える。

「わかった。気を付けて帰りなさい」と法顕は答えている。このようにして、無事にインドに到着したのは、法顕と道整(どうせい)という青年僧の二人だけであった。


ところが、ある書物で、「法顕がインドで病気にかかって弱気になり、しょんぼりしていた」という話を発見した。法顕も人の子であったのだと、私はこの話に興味を持った。

ある書物とは、吉田兼好の「徒然草」である。第八十四段に次のようにある。

法顕三蔵の天竺に渡りて、故郷(ふるさと)の扇を見て悲しび、病(やまい)にふしては、漢(かん)の食(じき)を願ひたまひけることを聞きて、「さばかりの人、むげにこそ、心弱き気色(けしき)を、人の国にて見えたまひけり」と人の言ひしに、弘融僧都(こうゆうそうつ”)、「優(ゆう)になさけある三蔵なり」と言ひたりしこそ、法師の様にもあらず、心にくくおぼえしか。

私の成蹊の古い先輩である川瀬一馬先生は、次のように現代語訳されている。

法顕三蔵がインドへ渡って、故郷の扇(おうぎ)を見ては悲しみ、また病気にかかっては、故郷(中国)の食物を欲しがられたことを聞いて、「それほどのえらい人が、ばかに弱気なところを、他国でお見せになったものだ」とある人が言ったところ、弘融僧都(こうゆうそうつ”)が、「やさしくも、情味のある三蔵だな」と言ったのは、坊主のようでもなく、おくゆかしく感ぜられたことだ。


私も兼好法師と同じ思いだ。この話を聞いて、ますます法顕が好きになった。弘融僧都は仁和寺の僧であったと解説にある。兼好法師とこの人は仲良しだったような気がする。

吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人だ。この頃、日本ではこの法顕について、読書階級の多くが知っていたようである。






2024年10月7日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(11)

 シルクロードのものがたり(40)

法顕、ホータン(和田)を経由してパミール高原を超える

法顕はホータンが大いに気に入ったようだ。カラシャール(烏夷国)での冷たい仕打ち、タクラマカン砂漠を決死の覚悟で横断をしたあとである。これを思えば理解できる。

「この国は豊かで人民の生業は盛んである。人々はみな仏法を奉じ喜び楽しんでいる。僧侶はなんと数万人もいる。国王は自分たちを大乗学の寺に住まわせた。この寺では三千人の僧が、ケンツイ(日本の禅寺の魚板のようなもの)を合図に食事をする。一切が寂然(じゃくぜん)として器鉢(きはつ)の音一つしない。給仕人に食物をおかわりするときは、声を出して呼んではいけない。ただ手でさし招くだけである」

ホータンの人々の親切に感謝し、彼らに対する尊敬の気持ちが感じられる。このホータンに3ヶ月滞在したあと、法顕は何人かの僧と一緒にタクラマカン砂漠の南を西に歩き、パミール高原を超えることになる。


ここで少し趣(おもむき)を変えて、法顕が長安を出発したあと滞在した町々の現在の様子を眺めてみたい。滞在はしないが、名前の出たいくつかの町も簡単に紹介したい。これらは、2021-2022年版の「地球の歩き方」を参考にした。

「蘭州・らんしゅう」  長安から西北600キロの都市で、法顕はここで3ヶ月滞在している。物資や人夫の手配をしたのだと思う。この町の現在の人口は322万人とあり、甘粛省の省都でもあり、青海省に発した黄河が初めて通過する大都市である。李広将軍・その孫の李陵の故郷の天水は、長安とこの蘭州の中間点にある。

「張掖・ちょうえき」 北涼王・段業の庇護のもと、ここで1年間滞在した。この町は元(げん)の時代にマルコ・ポーロも1年近く滞在している。現在の人口は132万人。中国の人口は漢の時代に約6000万人で、現在はその20倍といわれる。これを参考に推定すると、法顕がこの張掖に滞在したころの人口は10万人程度だったと思える。

「酒泉・しゅせん」  霍去病(かくきょへい)が武帝からもらった十樽の酒を泉に入れて、兵士全員が歓喜して飲んだこの場所は、現在は人口101万人の都市である。

「敦煌」  李広将軍の16代孫の李暠に1ヶ月世話になったこの町は、現在でも多くの観光客が訪れる。人口は14万人とある。

「高昌国・トルファン」  法顕自身はここに立ち寄っていない。烏夷国(カラシャール)での冷たい待遇に憤慨したとき「智厳・ちげん・等三人の僧は引き返して高昌国に移った」と記録するあの高昌国である。この高昌国は玄奘三蔵が往路で、この国の王様に異常なくらいの親切を受け、天竺に行かないで国師としてこの国に残ってほしい、と懇願された場所でもある。現在でも観光地として名高い。私の友人・先輩の二人もここを訪問したことを話してくれ、羨ましく思った。現在の人口は63万人とある。

「烏夷国・カラシャール」  法顕一行が冷たくされたこの場所の現在が気になったが、「地球の歩き方」には何も紹介されていない。パグラシュ(ボスデン)湖の北西、という言葉を頼りに地図を見ると、和静(ホーチン)という地名が見える。おそらくこの町だと思うが、現在は特筆する場所ではないみたいだ。

「亀茲国・庫車・クチャ」  符公孫が法顕に、絶対に立ち寄るな、と言ったであろうこの町の現在の人口は47万人である。先述した鳩摩羅什(くまらじゅう)の父親はインドの名門貴族だが、母親はこの亀茲国の王族の娘である。玄奘三蔵も天竺に向かう往路でこの地に立ち寄っている。法顕や玄奘の頃、このクチャはタクラマカン砂漠周辺のオアシス都市の中で群を抜く大きな都市で、当時の人口は10万人を超えていたという。

「和田・ホータン」  法顕が気に入り、玄奘が絹の伝来の物語を記したホータンの現在の人口は33万人とある。ここは現在でも「絹」と「玉」が大きな産業のようだ。

「楼欄・ローラン」  法顕が滞在した町の中で、このローランだけは今はあとかたもない。法顕が立ち寄った時が、この国の終末に近い頃であったようだ。その250年後にこのあたりを歩いた玄奘の時は、住む人もない廃墟と化していた。「幻のみやこ楼欄」という言葉の通り、消えてなくなったのである。

その理由は、ひとことで言えば、人間が生きるために必要な水がなくなったのである。このあたりのことは、ヘディンの「さまよえる湖」や井上靖の「楼欄」に詳しい。


1979年からシルクロードを取材したNHKの取材班は、当初、楼欄地域を取材することを禁止されていたという。「理由は何ですか?」との日本側の問いに、「それはみなさんが想像される通りです」と中国側の役人は答えたという。ところが、最終的には、撮影は中国側だけが行うという前提でこれは許可された。同行の中国の放送局CCTVのスタッフにとっても、思いがけない喜びであったらしい。「楼欄に入るのは、解放後、私たちが初めてです」と日本側の人に、何度も何度も繰り返したという。

軍事に関する地域、というのがその理由であった。1964年から25回行なわれた中国の核実験は、いずれもこの楼欄地域で行われた。私は今まで、周辺住民の健康への配慮で、この核実験はタクラマカン砂漠のど真ん中で行われたと思い込んでいた。この沙漠の東のはてのローラン遺跡の近くで行われたことを、最近知って驚いている。

理由は知らない。おそらく核実験の設備や資材の搬入の問題ではないかと思う。タクラマカン砂漠の砂は、ゴビ砂漠・サハラ砂漠などの砂とはまったく異なり、粒子が極めて細かい小麦粉のようなパウダー状であるらしい。少し風が吹くだけで、足跡がすぐに消えてなくなるという。ジープやトラックでの走行は難しい。この沙漠を35日間かけて横断した法顕の苦労が偲ばれる。


ロバに乗りバザールに向かうホータンの庶民 1970年代





2024年9月30日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(10)

 シルクロードのものがたり(39)

法顕、ローラン(楼蘭)を経由して天山山脈の南東・カラシャール(烏夷国)に到着す

今のペースで筆を進めると、法顕が船で中国に帰り着くまでに、あと20回ほど書くことになりそうだ。これでは読者も飽きてくると思う。よって、話を大幅にスピードアップしていきたい。あと4-5回で法顕の話を終えたいと考えている。


敦煌からローランまで17日間で到着した。法顕は次のように書いている。

「敦煌太守・李暠が資財を提供してくれたので、沙河(さか・敦煌ー楼蘭間の大沙漠)を渡った。見渡すかぎりの沙漠で、ただ死人の枯骨を標識として進んだ。行くこと17日、鄯善国(ぜんぜんこく・ローラン)に着いた。その地はやせてゴツゴツしており、俗人の衣服はだいたい中国と同じで、ただ生地が毛織物である点が異なる。国王は仏教を奉じおよそ4000人の僧がいる」

「ここ鄯善国(ローラン)にひと月滞在し、また西北に行くこと15日で烏夷国(ういこく・カラシャール)に到った」

烏夷国(カラシャール)は天山山脈の南東に位置し、パグラシュ湖の北西にある。ここでの法顕一行に対する地元民の対応はすこぶる悪かったようだ。ずいぶん悪口を書いている。

「中国の僧はこの国の僧たちの儀式の仲間に加えてもらえない。烏夷国の人は礼儀知らずで、非常に粗末に一行を待遇したので、智厳(ちげん)等三人の僧は引き返して高昌国に移り、旅の資金を求めようとした。法顕らは符公孫(ふこうそん)から出資の提供を受けたので、二ヶ月余り滞在したのち、西南方面に直進することができた。この行路中は住む人もなく、艱難、経験した苦しみは、とうていこの世のものとは思われなかった。こうして旅すること35日、干闐国(うてんこく・ホータン・和田)に到ることが出来た」


この箇所は少し説明が要る。なぜカラシャールの人々が、法顕一行に対して冷淡であったかを知るために。

法顕一行がこの烏夷国(ういこく・カラシャール)に到着する十数年前のことである。前秦(ぜんしん・五胡十六国の一つ)の王・符堅(ふけん)は、配下の将軍・呂光に7万の兵を与えて、カラシャール(烏夷国)およびクチャ(亀茲国・庫車)方面を攻略させるため軍団を送った。この地域を自己の支配下に置き、同時に亀茲国の秘宝といわれた僧・鳩摩羅什を拉致・獲得するためである。382年9月のことだ。

384年7月、呂光は亀茲(クチャ)城の攻略に成功した。ところがそれ以前、383年に淝水(ひすい)の戦いにおいて、符堅は晋軍に大敗し敗走したのである。符堅は385年に殺され、前秦は滅亡した。

本国がこのような状態であることを知った将軍・呂光は、いったん占領した亀茲(クチャ)・烏夷国(カラシャール)地方を放棄して中国に帰国する。385年のことである。この時、2万頭のラクダに略奪した金・銀・財宝を積んで中国に持ち帰ったと伝えられている。私が高校生時代に使った「世界史年表」を見ると、この呂光について、「386年呂光自立・後涼国」と書かれている。1600年後の異国の高校生の使う年表に記載されるのだから、呂光もかなりの大物だったようだ。

このような出来事のたった15年後である。中国人僧の法顕一行がカラシャールで歓迎されるはずは元からなかったと言える。この国において、ただ一人親切にしてくれた、と法顕が書き残している符公孫(ふこうそん)という人物について語りたい。


名前から察せられる通り、じつはこの人は秦王・符堅(ふけん)の甥であった。この人の烏夷国での立場はきわめて微妙であった。大王・符堅は将軍・呂光に対する目付け役として、この甥を文官として遠征軍に加わらせていた。中国における符堅の敗北を知った呂光は、獲得した西域の領土を放棄して奪った財宝を持って中国に帰る決意をした。ところが、呂光は放棄とは言わなかった。「大王・符堅さまの甥の符公孫を都督として、西域の経営の一切をまかせる」と宣言して、自分は7万の兵と2万頭のラクダを連れて中国に帰ってしまったのだ。

いってみれば、符公孫は置き去りにされたのだ。四面すべてが敵である。一兵も帯びず、この都督の役がつとまるわけがない。自立を決意した呂光にとって、旧主の甥は厄介な存在であった。簡単に殺すことはできない。呂光の部下の中には符堅の恩顧の将校が何人もいた。東帰するにも、「前王の遺志を継いで」という旗印が要る。だからその甥を殺してはならない。そうかといって東帰に同行させばその処遇に気を使わねばならない。そこで考えたのが、置き去りであった。

掠奪した財宝を2万頭のラクダに乗せて引揚げた占領軍は、ただ都督という名だけの符公孫一人を残して去って行った。「ここで死ね」という意味にひとしい。

ところが符公孫は死ななかった。

「私は仏教に帰依します」 呂光が烏夷国を立ち去った直後、符公孫は烏王にそう宣言して、個人の財産すべてを寺院に喜捨した。呂光からもらった「都督」の印綬も放棄した。しかし、彼の命を救ったのはこれらの行為ではなかった。普段の彼の生活態度にあったのだ。彼は当初から、この国の人たちに謙虚な姿勢で親切に接した。征服者的な言動は一切しなかった。烏夷国王やその側近たちは、呂光と符公孫のどちらが悪玉でどちらが善玉かは当初からわかっていたようだ。すなわち、符公孫は彼らの同情を得て、好かれていたのである。

符公孫には烏夷王から、定期的に給与が渡されていた。よって、法顕一行の二ヶ月程度の食事の提供にはまったく問題はなかった。ただ法顕一行のインド行きには、ラクダや人夫の手配でまとまった資金が必要である。符公孫は法顕にこう言った。

「伯父の大王の腹心の将校がおりました。呂光が引き揚げるときその人物が私を訪ねてきました。むろん呂光側近の人たちが監視しています。うかつなことは言えません。私は彼を送り出すとき、庭を横切って門に行くまで、二人きりになりました。そのとき彼は小声でこう申したのです。”万一のときの用意に、かくかくしかじかの場所に財宝を埋めておきました” と」その後、15年間、符公孫はこの財宝にはまったく興味がなく放っておいたという。

「いまこそ、その人物が言った、万一の時が来たのだと思います」符公孫は法顕にそう語った。その後の符公孫のことは、史書には何も書かれていない。おそらくこのカラシャールの地で没したのだと思われる。しかしこの人は、法顕へ喜捨したことに満足して、幸せな気持ちで死んでいったに違いない。

「クチャ(亀茲・庫車)には絶対に立ち寄ってはいけない。命の危険がある。それよりも、タクラマカン沙漠を横断するほうがまだしも危険が少ない」こう強く法顕に忠告したのは、この符公孫であったと、私は考えている。


提供 辻道雄氏













2024年9月22日日曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(9)

 シルクロードのものがたり(38)

法顕、安西(瓜州)を経由して敦煌に到着す

法顕はまだ張掖(ちょうえき)にいるのに、王維の詩とか、ホータン(和田)の絹(シルク)の話とか、ずいぶんと先回りをしてしまった。


法顕が一年ほど張掖に滞在しているあいだに、敦煌の太守問題は解決した。李広将軍の16代の孫・李暠(りこう)が勝利したのである。北涼王・段業側についていた晋昌(酒泉)太守の唐瑶(とうよう)が、段業に反旗をひるがえして李暠を支持したのだ。これ以上李暠と対立していたら自分の身が危うい。そう考えた段業は李暠に鎮西将軍の称号を与えた。李暠の自立を認めた恰好である。史書は李暠について、「温毅(おんき)にして恵政有り」 と書いている。民に情をかける仁徳の人だったようだ。

張掖を出発する際に、段業は護衛の兵士をつけ、法顕にラクダを贈った。法顕はここではじめてラクダに乗っている。長安から同行した四人の僧に加え、張掖周辺の五人の僧が徒歩であとに続いた。このように多い時には十人程度の僧が法顕に従っているが、かならずしも法顕が全体を指揮する統率者といった感じではない。その後も、問題が発生して次の目的地を決める際には、法顕は各自の意見・希望を尊重している。途中で法顕とわかれ別の方向に向かった僧が何人もいる。

張掖から安西(瓜州)に向かう中間点に、酒泉(しゅせん)という町がある。

この町の名は、前漢の大将軍・霍去病(かくきょへい)に由来する。霍去病はBC121年に匈奴を攻撃して河西の地を奪取した。これを喜んだ武帝は、霍去病のもとに十樽の酒を送り届けた。全兵士に飲ませてやりたいと思ったが、それほどの量ではない。霍去病は近くにあった泉に兵士を集め、酒をそそいだ。すると泉の水はたちまち芳醇な酒となり、兵士全員が飲むことができたという。それ以来、この泉は酒泉と呼ばれ、やがて町の名になったという。いい話である。

ちなみに、この李暠は敦煌における鎮西将軍に満足せず、西涼(せいりょう)国を建国し、みずから西涼王を名乗った。そして405年この酒泉の地に遷都した。西涼国の領土は現在の内モンゴル・トルファン・張掖一帯に及んだというから、日本の面積より広い。

安西(瓜州)で休養を取った法顕一行は、150キロ西の敦煌に向かった。敦煌に着いたのは400年の9月で、1カ月ほど滞在して10月に出発している。敦煌では太守の李暠と直接面談をして、次の目的地までの支援を要請している。李暠は快諾し、必要な物資の補給と護衛の要員について確約した。

法顕が1ヶ月あまり滞在している間に、敦煌では新朝廷樹立の準備が進められていた。李暠は新政権の樹立を西方の国々に知らせたいとの意向を持っており、その使節団に法顕一行は同行することになった。

次の目的地はローラン(楼蘭・鄯善国・ぜんぜん)である。これは理解できる。地図を見ればローランに向かうのは自然である。ところが法顕はこのローランのあと、北西に進路を取りカラシャール(烏夷国・うい)に向かう考えを持っていた。カラシャールは天山山脈の南東の端に位置し、パグラシュ(ボスデン)湖という大きな湖の北にある。トルファン(高昌国)とクチャ(亀茲・庫車)の中間あたりである。あと戻りとまでは言えないものの、相当なデビエーション(離路)となる。結果として、法顕はこのカラシャールに到着している。


不思議である。インドに早く到着するには、ローラン(楼蘭)からタクラマカン砂漠の南を通る西域南道を歩き、ホータン(和田)を経由してパミール高原を超えるのが常識だ。

ここから先は私の想像である。

〇一つは李暠の使節団が、当初からローランのあとカラシャールに行く予定があり、これに同行するのが安全だと考えたのか。

〇二つめは、カラシャールのあと天山南路・西域北道(玄奘三蔵が往路に通った道)を通ってクチャを経由して、パミール高原に向かう考えを元から持っていたのか。

〇三つめは、クチャ(亀茲・庫車)の北方にある千仏洞を含め、天山南路・西域北道に点在する数多くの仏教寺院や遺跡を見学したいとの希望があったのか。

私が考えられるのは以上の三つだが、その時、法顕が何を考えていたのかはわからない。


ラクダの隊商 提供 辻道雄氏





2024年9月17日火曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(8)

 シルクロードのものがたり(37)

中国からの姫、繭(まゆ・シルク)を冠の中に隠しホータン王に嫁ぐ(2)

玄奘三蔵がホータンでこの話を聞いて1200年余り経った20世紀の初頭、英国の考古学者のオーレル・スタインは、この伝説の物語を描いた一枚の板絵をホータン北東の沙漠の中の仏教遺跡から発見した。

大英博物館に保管されているこの板絵は、高さ12センチ、幅46センチで、6世紀のものとの説明がある。日本の神社に奉納される絵馬に似た感じの板絵である。

左から二番目の人物が中国からホータンに嫁いだ王女で、左の人物は侍女で王女の冠を指している。王女の右の像は織物の守護神、その右はホータン王といわれている。科学的な測定により、この絵が描かれたのは6世紀ごろというのは間違いないらしい。それでは、この王女が中国からホータンに嫁いできたのはいつ頃なのか?との疑問が湧く。

川村哲夫氏はその著書「法顕の旅・ブッダへの道」の中で、次のように述べている。

「ホータンに養蚕の技術が持ち込まれた時期は定かではないが、前漢の武帝によって匈奴の勢力が駆逐された以降で、かつ後漢の班超(はんちょう・この人は「漢書」をまとめた班固・はんこ・の弟である)が西暦78年にホータン(和田)に遠征した以前であろう。すると西暦一世紀の前半あたりということになる」

常識的に考えてうなずける話で、私もこれに納得する。倭国の北九州の豪族に「漢委奴国王」の金印をくださった後漢の光武帝(在位25-57年)の頃、このお姫様はラクダに乗ってホータン王に嫁いできたと考える。

スタインは、掘り出されたこの板絵が何を意味するのかわからなかった。長い間土中にあったので、ぜんたいに黒ずんでいた。彼は現状のままロンドンの大英博物館にこれを送った。1901年のことである。博物館では科学的な洗浄をおこない、板絵の絵はかなりあざやかに見えるようになった。しかし、この板絵が何を意味するのか、博物館の職員にもわからなかった。

仏寺跡から出土したものなので、仏教に関係があると思い、当初は仏伝やブッダの生前の物語を調べたが該当するシーンはない。いくばくかの時が経ったとき、誰かが玄奘三蔵の「大唐西域記」の中の記録と一致することに気付いた。英国人の中にも、玄奘三蔵を深く研究した偉い人がいたらしい。

絹を伝えたこの王妃は、この地で神として祀られたという。よってこの板絵は、ホータン王妃の子孫か、あるいは絹の製造業者が、その600年ほど後に、絹を伝えたこの王妃を讃えて奉納したものかも知れない。スタインの調査によれば、ホータンの3世紀の地層に、桑が栽培された形跡が認められるという。


このお姫様は、長安を出発してはるばるとホータン王に嫁いだ。ラクダの背に乗って半年以上の旅だったに違いない。月が出ていれば、沙漠は夜のほうが涼しい。満月の月明りを浴びながら、このお姫様は、夫となる国王がどんな人かと、期待と不安の気持ちを抱きながら、西へ西へと旅を続けたのであろう。

神として祀られたことからして、このお姫様はきっと王様にも可愛がられ、ホータンの人々からも慕われ、この地で幸せな人生を送ったに違いない。よかった。よかった。





2024年9月10日火曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(7)

 シルクロードのものがたり(36)

中国からの姫、繭(まゆ・シルク)を冠の中に隠しホータン王に嫁ぐ


法顕はクチャには立ち寄らず、その南東あたりから、南西に向かってタクラマカン砂漠を横断し、ホータンに到着した。401年の3月頃と思われる。35日間をかけての危険な沙漠の横断で、法顕は次のように記している。「この行路中には住む人もなく、沙漠の艱難と苦しみはとうていこの世のものとは思われなかった」

玄奘三蔵がインドからの帰路、このホータン(和田)に立ち寄ったのは646年だから、法顕が訪問した245年のちである。玄奘三蔵は、この時ホータンで聞いたある伝説を「蚕種西漸伝・さんしゅせいぜんでん」として「大唐西域記」に書き残している。

「その昔、この国では桑や蚕(かいこ)のことを知らなかった。東方の国にあるということを聞き、使者に命じてこれを求めさせた。ところが、東国の君主はこれを秘密にして与えず、関所に桑や蚕の種子を出さないように厳命した。ホータン王はそこで辞を低くしてへりくだり、東国に婚姻を申し込んだ。東国の君主は遠国を懐柔する意思を持っていたので、その請いを聞き入れた。

ホータン王は使者に嫁を迎えに行くように言いつけ、”汝は東国の君主の姫に、わが国には絹や桑・蚕の種子がないので持ってきて自ら衣服を作るようにと伝えよ” と言った。

姫はその言葉を聞いてこっそりと桑と蚕の種子を手に入れ、その種子を帽子の中に入れた。関所にやって来ると役人はあまねく検索したが、姫の帽子だけは調べる非礼はしなかった。それで種子を携えたまま、ホータン国の王宮に入った」

井上靖・長澤和俊の両泰斗は、このことを次のように解説している。私にはこの説明が理解しやすい。

「昔、西域南道一帯に勢力を張っていたホータン王は、絹をつくりだす秘法を東方の国(中国)に求めたが、養蚕の技術は国外不出なので中国の君主はこれを許さなかった。しかし中国人が愛玩する玉(ぎょく)を産する西域の強国、ホータン王の願いを無下にしりぞけることは憚られたのであろう。中国の君主は、その王女をホータン王に嫁がせることでこれを懐柔しようとした。

ここで一計を案じたのがホータン王である。彼は妃となるべき王女に、ひそかに蚕の繭玉を持ち来るよう、使いを遣って依頼した。王女は未来の夫の言いつけをよく守った。彼女は自らの冠の中に蚕の繭玉を忍ばせ、みごと国禁を犯してそれをホータンの国にもたらしたのである」

ここで「玉(ぎょく)」という言葉が出てきて、私は大きく納得した。ホータンは古来から玉(ぎょく)の名産地である。シルクロードは言葉を換えれば、ホータンの玉が中国へ運ばれる「玉の道」でもあった。もしかしたら、「絹の道」よりも「玉の道」のほうが古い歴史があるような気がする。これについでは、またどこかで語りたい。

中国の君主が玉を産するホータン王に気を使った、というのは理解できる。


左から二人目が王女、その左は侍女で冠を指している。王女の右は織物の神、その右は王様といわれている。






















2024年9月2日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(6)

 シルクロードのものがたり(35)

元二(げんじ)の安西(あんせい)に使いするを送る(2)

元二は安西に使いする。王維は冒頭でそう述べている。陽関(ようかん)は安西(あんせい)の西250キロに位置する関所である。安西に使いする元さんの弟が、なぜ陽関まで行き、さらに西方に向かう必要があるのか?という疑問が当然のこととして湧く。

「変だな、変だな。感情が高ぶった王維の筆が滑ったのかな」とも思った。天才・李白ならありうることかも知れない。しかし、真面目人間の王維には考えられないことだ。このように悩み続け、私はこの二ヶ月間を悶々として過ごしていた。


この私の悩みを解決してくれたのが、森安孝夫先生の「シルクロードと唐帝国」という本の中にある 「七世紀の太宗・高宗時代の唐の最大勢力圏」 の下の地図である。これを見て私の目からウロコが落ちた。安西(あんせい)というのは固有の地名ではないのだ。「西を安んじる」ために置かれた節度使(せつどし)の軍事拠点(駐屯地)のことだったのだ。

安西①③、安西②④の文字が見える。安西①③は敦煌の東方150キロであるから、この地図は正確ではない。この地図よりも何百キロも東方に位置する。(私は鉛筆で→をつけた)つまりこの軍事拠点(駐屯地)は中国の軍事力・政治力の盛衰と共にあちこちに移動していたのである。

すなわち、当初の安西①は敦煌の東150キロの瓜州にあった。太宗・高宗の時代に唐の勢力圏は拡大し、安西②はクチャ(庫車・亀茲)まで進出した。安西①より1000キロ西まで唐の勢力範囲は拡大したのである。王維がこの詩を書いたのは玄宗皇帝の時代だが、唐の勢力はまだ強大であり、この時の安西はクチャにあったのだ。これがわかれば、王維の「西のかた陽関を出つ”れば故人無からん」の文章に合点がいく。

三代皇帝・高宗の頃は(在位649-668)、唐の勢力範囲は(領土ではない)西はタシケント・サマルカンドを含みカスピ海の東のアラル海まで達している。南西はパミール高原を含み、バーミアン・ガンダーラまで、すなわち現在のアフガニスタン、パキスタン北部まで、唐の影響力が広がっていた。

玄宗皇帝が楊貴妃の色香にうつつをぬかしたためか、はたまた安禄山の乱が理由か、唐の国力は衰えていき、やがて安西③はもとの瓜州にもどった。余談だが8世紀前半(玄宗皇帝が即位した頃)、クチャ(②の安西)にあった安西節度使の持つ兵力は、将兵24,000人・馬2,700頭と記録に残っている。

この地図を見ると、安西と同時に安東もあった。この地図には入っていないが安東①は朝鮮半島の平壌にあったが、国力の衰退によるものであろう、安東②は遼東半島に後退している。安北①はバイカル湖のすぐ南だが、国力の衰退と共に安北②まで後退している。その位置がまったく変わらないのは安南のみで、一貫して現在のハノイにあった。阿倍仲麻呂は文官なので節度使ではないが、一時期この安南の長官に就任している。


この「安西」「安東」などの文字は、唐の時代よりも以前から使われていたようだ。

「宋書・倭国伝」には、宋(隋の前の中国の国名)の皇帝が、何人もの倭の国王に安東将軍の称号を与えたことが記されている。「倭の珍を安東将軍・倭国王を除(じょ)す」「倭国王の済(せい)を安東将軍に任ず」「倭王の興(こう)を安東将軍に任ず」「倭国王の武を安東大将軍・倭王に除す」などの文字が見える。仁徳天皇、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇たちだと言われているので、紀元300年代の後半から400年代の半ば過ぎのことだ。ちょうどこの主人公の法顕が生きていた時代である。

日本側にはそのような意識はなかったかも知れないが、宋(中国)側は、「これで中国の東の勢力範囲は日本列島まで拡大したよ!」と喜んでいたように思う。















2024年8月26日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(5)

 シルクロードのものがたり(34)

元二(げんじ)の安西(あんせい)に使いするを送る

法顕は瓜州(安西)を経由して敦煌を目指しているのだが、政治動乱が収まらないのでいまだ張掖(ちょうえき)にいる。長安から張掖までは1000キロ。張掖の次が酒泉で、嘉峪関(かよくかん)・玉門・安西(瓜州)へと続く。張掖から安西までは600キロである。

三つのシルクロードの出発点ともいえる安西の西方150キロに敦煌があり、敦煌の西150キロに玉門関がある。そして、敦煌の南西100キロに陽関(ようかん)がある。陽関とは、「玉門関の南(陽)の関所」という意味らしい。王維(701-761)の生きた時代は、この玉門関・陽関あたりまでが唐の勢力圏だと、当初私は考えていた。

唐の詩人たちの西域詩については、玄奘三蔵のあとに紹介したいと考えているのだが、例外として、ここで王維の詩を取り上げたい。多くの日本人が知っているこの有名な詩を、私がここで紹介する必要はないのかも知れない。この詩への私の思い出、私の誤っていた解釈を聞いていただきたいとの気持ちで、文章を続ける。


元二(げんじ)の安西(あんせい)に使いするを送る

謂城(いじょう)の朝雨 軽塵(けいじん)を浥(うるお)し

客舎青青(かくしゃせいせい) 柳色新(りゅうしょくあらた)なり

君に勧む 更に尽くせ一杯の酒

西のかた陽関(ようかん)を出つ”れば 故人無からん


現代語の訳はまったく必要としない。分かりやすい美しい詩である。元二は元兄弟の二番目の弟。王維はこの人の兄もしくは父親と交友があったと思える。謂城(いじょう)は秦の旧都・咸陽(かんよう)の別名である。長安の西30キロにあり、当時は西域方面へ旅立つ人をここまで見送るならわしがあった。よって謂城には、見送り人を宿泊させる数多くの旅館があった。

この詩に私がはじめて接したのは、高校1年か2年の漢文の時間だった。花房先生がこの詩を解説してくださった。「故人というのは死んだ人ではないよ。古い友人という意味だよ」とおっしゃった。その後で先生はこの詩を朗々と吟じられた。身振り手振りを加え、あたかも舞を舞うようなその姿を今でも鮮明に覚えている。最後の句を、「なからん、なからん、故人無からん」と、二回か三回繰り返された記憶がある。漢詩が好きになったのは、このことが一つの理由かも知れない。

岩波文庫の「王維詩集」を含め、手許にあるこの詩のすべての読み下しは、「客舎青青 柳色新なり」とあるが、この時花房先生は「客舎青青 (として) 柳色新なり」と教えてくださった。だから私は、今でもこの詩を口ずさむ時は「として」を入れて読んでいる。

以来、半世紀以上、時おりこの詩を口ずさみ、幸せな気分を味わっていた。

ところがこの数カ月、この「シルクロードのものがたり」をまとめるため、いくつもの地図をながめながら何冊かの本を読んだ。そして、「変だな、変だな、この詩は少しおかしいのではないか?」との疑問が沸いてきたのだ。

というのは下の地図にある通り、「安西」は「瓜州」のことであり、その西方150キロに敦煌があり、敦煌の南西100キロに陽関がある。これでは、この詩はつじつまが合わない。








2024年8月19日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(4)

 シルクロードのものがたり(33)

敦煌太守・李暠(りこう)のこと

前回述べた、敦煌太守を称し同時に西涼王を名乗った李暠という人物について語りたい。この李暠という男は、文人肌の凡人・段業の太刀打ちできる相手ではなかった。

李暠は軍事・政治の実力と同時に、部下からの人望が厚かった。字は玄盛(げんせい)、隴西郡狄道県(ろうせいぐん・てきどうけん)の人である。隴西郡とは秦代から唐代にかけて、現在の甘粛省の東南部にあった。現在の甘粛省の大きな地図を見ると隴西という地名がある。郡はなくなったものの隴西という地名は現在も中国に残っている。その隴西の東南150キロに天水という町が見える。

この李暠は漢の将軍・李広の16世の孫だといわれる。「桃李言わざれども下おのずから蹊(こみち)を成す」のあの李広である。李広の孫が李陵であることは言うまでもない。李広については2022年11月20日のブログで「李将軍列伝・桃李成蹊」で紹介した。李陵については、このシルクロードのものがたりの(3)(4)で紹介した。じつは、上記の「天水」こそ、漢の将軍・李広の生まれた場所なのだ。


孤軍奮闘した李陵は匈奴に投降した。捕虜になったあとも李陵は漢に対する忠誠心を失わず、張騫と同じく脱出再起を図っていた。ただ、同じ李という名前の将校が匈奴の兵士に軍事教練をしているとの情報が武帝の耳に入った。武帝は、誤ってこれを李陵だと判断し、すぐさま李陵の母親・妻子を処刑したと「漢書」は記している。これは武帝の大きな過ちであった。

史書には書かれてないが、この時、長安にいる李陵の友人、もしくは親戚の者が李陵の幼い息子を匿ったのではあるまいか。かくまう場所としては、李家の墳墓の地である「天水」が自然である。もしかしたら、もしかしたら、これを背後で画策したのは司馬遷であったかもしれない。

漢の時代はすでに遠くなり、投降したとはいえ、奮戦した李陵の物語は、「漢書」はかなり同情的に描いている。李暠は武人として、先祖の名を背景に、人びとの尊敬を受けていたのではあるまいか。彼の曾祖父の李柔(りじゅう)という人は晋の北地太守になっている。

成蹊学園の卒業生である田頭は、李広と李陵には親近感と同時に強い尊敬の気持ちを抱いている。はからずもここで、李陵の14世のちの子孫が、成功した武人として歴史に登場したことがとても嬉しい。


じつは、この李暠(りこう)の物語には、まだ続きがある。

618年に唐王朝を創設したのは李淵(りえん・566-635)であるが、なんと李淵は「自分はこの李暠の8世の孫だ」と名乗っているのだ。そうだとすれば、唐王朝を創設した高祖・李淵は、あの李広将軍の24世の子孫ということになる。

「唐書」には、「唐王朝を創始した李淵すなわち高祖は隴西(ろうせい)の成紀(せいき)の人である」と書かれている。「成紀は現在の甘粛省天水あたり」と作家の陳舜臣は指摘している。すなわち、ここで、李広・李陵・・・李暠・・・李淵の全員の出身地が、現在の甘粛省の天水だとピタリと判明一致した。

李広・李陵ファンの私は、このことを知って感激している。


高祖李淵の次男で父親と共に唐の創建者とされる二代皇帝・太宗世民(たいそうせみん・598-649)が即位した時の話が「貞観政要(じょうかんせいよう)」という書物の中に書き残されている。この太宗は、中国史上有数の名君といわれる。

太宗が即位した年(626)、臣下が盗賊防止のために、厳罰主義を採ることを進言したのに対して、太宗は次のように答えた。

「民が盗みをはたらくのは、税金が重く、夫役が重く、官吏がむさぼり求めるので、飢えと寒さにせまられ、恥をかえりみなくなるからだ。私はぜいたくをやめ、冗費を省き、夫役を軽くし、税金を安くし、清廉な役人を選ぼうと思う。そうすれば盗みをするものはいなくなる。厳罰を以て臨む必要はない」


ご先祖の李広・李陵が聞いたら、泣いて喜びそうな返答である。















2024年8月6日火曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(3)

 シルクロードのものがたり(32)

長安から半年かけて張掖(ちょうえき)へ、張掖で1年を過ごす

法顕がどのルートでインドに渡ったのか調べてみたい。帰りはセイロンから商船に便乗して中国の山東省に帰っている。膨大な量の経典を持ち帰るのだから、ラクダや馬・ロバに頼るよりは危険ではあるが船の方が便利である。よって、法顕のインド行きの陸路は往路のみとなる。かたや200年後の玄奘三蔵は、往路・復路とも陸路を歩いている。


シルクロードの陸路を、おおざっぱにいえば、次の3つとなる。

①天山北路(天山山脈の北側ルート)

②天山南路・西域北道(天山山脈の南側ルートで、タクラマカン砂漠の北側を通る)

③天山南路・西域南道(タクラマカン砂漠の南側ルートで、崑崙(こんろん)山脈の北側を通る)   

これらのルートは単純に3つの道が西に向かっているというわけではない。いくつもの「バイパス」があり、その時の軍事・政治状況や天候に合わせて、旅人は柔軟にコースを変更していたようである。私は③のルートを「崑崙(こんろん)北路」と呼ぶのが地理的に適切でクリアな表現だと思うのだが、だれもそのようには言っていない。

中央アジアの地図をじっと眺めていると、①の天山北路を旅するのが気候的に一番楽な気がする。ただ、インドに行くためパミール高原にたどり着くまでの距離は、②③に比べると1・5倍以上になる。やはり長い道のりが問題だったのであろうか。法顕も玄奘もこの①のルートは通っていない。

法顕はホータン(和田)を通っているので、大きな分類では③の天山南路・西域南道を通ってインドに向かっている。ただ単純な③コースではなく、あちこちを迂回しながら進んでいる。玄奘は、往路は②天山南路・西域北道を歩き、復路は③天山南路・西域南道を歩いて中国に帰っている。玄奘の歩いたコースは比較的すっきりしている。

法顕の歩いた足跡を見ると、じつは当初は玄奘と同じく②の天山南路・西域北道を進もうと考えていたことが感じられる。何かやむを得ない事情でそのルートをあきらめ、途中のクチャには立ち寄らず、クチャ(庫車)の東南あたりから南西に進路を取り、無謀にもタクラマカン砂漠のまっただなかを横断してホータン(和田)に到着している。なぜこのような危険なルートを進んだのか、現時点では私にもわからない。そのうちにわかるかも知れない。法顕と玄奘の足跡をたどると、法顕のほうがより危険な旅であったように私には思える。


もとにもどる。

法顕は長安を出発した。ここから瓜州(安西)までは河西回廊という北西に続く一本道である。黄河上流の西側を通る道だ。瓜州(安西)が3つのシルクロードの出発点である。長安から瓜州(安西)までは距離にしてざっと1500キロ程度で、1日に20キロ進めば70-80日あれば到着する。

ところが法顕が長安を出発したのが399年の3月で、瓜州(安西)に着いたのが400年の8月頃である。長安を出発して1年半を要している。途中の蘭州(らんしゅう)で3ヶ月、張掖(ちょうえき)で1年近く滞在している。張掖での1年滞在の理由は、ある事件が勃発したための政治的な理由による。

敦煌の太守の孟敏(もうびん)が死去した。敦煌に対して行政と軍事の指揮権を持っていた張掖に住む北涼王・段業(だんぎょう)は、新たに索嗣(さくし)という男を後任に任命した。索嗣は500人の将兵を引き連れて敦煌に向かった。

ところが敦煌ではすでに李暠(りこう)という男が、部下たちに推されて敦煌太守に就任していた。李暠はいわば敦煌を乗っ取ったといえる。当時はこのようなことは頻繁におきていて珍しいことではない。実力と人望がある者がその地位についた。

策嗣以下の将兵は李暠に一喝されて追い返されてしまった。それどころか、李暠は「北涼国・ほくりょう」から離れることを宣言して「西涼国・さいりょう」を建国し、自らを西涼王を名乗った。

不測の事態が発生したため、北涼王・段業は張掖ー瓜州(安西)-敦煌間の往来を一時的に閉鎖した。この段業という人は、為政者としては凡庸で優柔不断な人であったらしい。ただし、旅客のあるじ(パトロン)としては良い人であった。法顕一行に対して極めて親切に丁重に対応している。

もともと長安出身の貴族である段業は、武人というより文人肌の人で、法顕に対しての好意と入れ込みようは尋常ではなかった。「問題解決のため多少の時間を要します。安全が確保できるようになれば部下に送らせます。それまではごゆるりとこの町で暮らしてください」と法顕に丁寧に伝え、衣食住の十分な手配をした。このような背景の中で、法顕一行は1年間この地に留まり、近郊の寺の仏事に参加したり、周辺を見学している。



















2024年8月2日金曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(2)

シルクロードのものがたり(31)

 「高僧伝」に次のようにある。

「釈法顕、は平陽県武陽の人である。三人の兄がいたが、いずれも幼童の時に亡くなった。父親は禍いが法顕にまで及ぶことを恐れ、三歳で出家させて沙弥(しゃみ)とした」

「かつて若いころ、同学の者数十人と田圃の中で稲刈りをしていると、その時、腹をすかせた盗賊がその穀物を奪い取ろうとした。ほかの沙弥たちは一斉に逃げ出したが、法顕だけは一人留まって盗賊に言った。 ”もし穀物がほしいのなら、好きなように持ってゆくがよい。ただお前たちは昔、布施をしなかったために、ひもじくて貧しい結果を招いたのだ。今また人から奪い取るならば、恐らく来世でもっとひどい目に会うことになるだろう。拙僧はあらかじめ君たちのために心配するのだ” そう言って引き上げると、盗賊は穀物を投げ棄てて逃げ去った。数百人の僧侶たちは誰しも感服した」

「東晋の隆安三年(399)、同学の者四名たちとともに長安を出発し、西のかた流沙を渡った。空には飛ぶ鳥もなく、地には走る獣もなく、四方を見渡しても茫洋として行く先のあてもつかなかった。ただ太陽を見て東西を計り、人骨を望んで道しるべとするだけである。しばしば熱風が起こり悪鬼が現れ、それに出くわすと間違いなく死ぬのだが、法顕は縁に任せ運命のままに難所を突っ切った。しばらくして葱嶺(そうれい・タジキスタン東部のパミール高原)に到着した」


「高僧伝」では、長安を出発した法顕一行はいきなりパミール高原に到着している。どのようなルートでタクラマカン砂漠を超えたのか記載がない。文庫本13ページの記述なのでこれはやむを得ない。法顕の天竺行きのルートについては次回で紹介したい。

上記の、「法顕は縁にまかせて、運命のままに難所を突っ切った」の箇所に心を惹かれる。人生の大事は縁と運である。これに身をゆだねる、という気持ちがとても大切な気がする。


「高僧伝」の編者の慧皎(えこう・497-554)という人は、中国南朝梁(りょう)の時代の僧である。中国で仏教が最も栄えた「梁の武帝」の時代の僧であるから、本人も名僧であったに違いない。余談だが、この梁の武帝という人は陶淵明にぞっこん惚れ込んでいた皇帝である。自身で陶淵明の伝記まで書いている。


「高僧伝」は1世紀の中国への仏教伝来から、梁の武帝の時代に至るまで、およそ450年間に歴史に名を留めた名僧の伝記を集成したものである。法顕が亡くなったのは422年であるから、慧皎が生まれる75年前である。慧皎は、いわば法顕の孫か曾孫の世代の人である。よって、これに書かれた法顕の逸話は信憑性の高い話だと考えている。

















2024年7月24日水曜日

65歳の法顕(ほっけん)、天竺に向かう

 シルクロードのものがたり(30)

張騫の500年後の僧・法顕

張騫(ちょうけん・BC200-BC114)について9回に分けて紹介した。司馬遷の「史記」にも記述がある「漢の武帝の御代にシルクロードのルートを切り開いた豪傑」である。

その張騫が、その後続者たちが、シルクロードを通って東方に運んだくだもの・野菜についても何回か紹介した。その後、筆が止まり、十ヶ月も経過してしまった。


「ネタが尽きたんだな」と口の悪い学友はひやかすが、じつは、そうではない。ネタが多すぎて自分の頭の中の整理整頓が出来ず、困っていたというのが実情である。

玄奘三蔵の伝記を含めシルクロード関係の書物を50冊以上も買い込み、狭い書斎の壁に中国西部の大きな地図を貼った。天山(てんざん)山脈・タクラマカン砂漠・崑崙(こんろん)山脈にかこまれた西域の古代・現代の地名はほぼすべて頭に入った。少し気取って言えば、書物を読みながら古地図をながめながら、一年近く西域を一人で旅していたような気がする。

当初の構想は、玄奘三蔵の苦難の西域紀行について書き、その後、唐の詩人・王維・李白・王翰(おうかん)などの西域にまつわる詩を紹介しようと考えていた。そうしているうちに、私の眼前に大きな姿を現したのが「年寄りのくせにやたら元気で前向きな」法顕というお坊さまである。

張騫のあと玄奘三蔵(602-664)の登場となると800年の時間を飛ぶことになる。法顕が偉いお坊さまであると同時に、年代的にも張騫と玄奘三蔵との間に、法顕三蔵(337-422)に登場していただくのが良いと考えた。

法顕のライバルともいえる同時代の名僧で、今に名を残す鳩摩羅什(くまらじゅう・334-413)という人がいる。この人の父親はインド人で、元々の名は現在でもインド人に多い「クマール」という名前らしい。岩波文庫の「高僧伝」には、この鳩摩羅什は37ページにわたり紹介されている。同じ本に紹介されている法顕は13ページにすぎない。

「高僧伝」は梁(りょう)の慧皎(えこう・497-554)の著作だが、当時の中国の仏教界では37対13ぐらいで、鳩摩羅什のほうが高い評価を受けていたようである。私は仏教に関しては素人なのであまり自信はないのだが、もしかしたら、現在の中国・日本の仏教界における二人の評価も同じくらいかも知れない。これにはわけがある。これについても、どこかで触れたいと考えている。私は法顕のほうが好きなので、7-8回に分けて法顕を紹介したい。この中で鳩摩羅什について少しだけ触れたいと思う。

インド人で中国に仏教を伝えた偉いお坊さまに達磨(だるま)という人がいる。達磨のほうが鳩摩羅什より古い人だと私は思っていたのだが、これは私の誤りであった。今回調べてみると達磨が船で広州に上陸したのが520年とあり、鳩摩羅什のほうが達磨より100歳以上年長であることを知った。


この法顕は中国人だと陶淵明(366-427)より30歳ほど年長で、書の達人の王義之(おうぎし・303-361)より30歳ほど若い。日本人だと仁徳天皇と同じ頃に生きた人である。


東晋の隆安3年、西暦でいえば399年、65歳の法顕は長安を出発して徒歩で天竺に向かった。十人ほどの僧が従った。往路に6年を要し、インドに滞在して経典を集めるのに5年、その後、師子国(ししこく・セイロン)から商船に便乗して中国に戻った。法顕が77歳の時である。他の僧侶の多くは往路で死亡したり中国に引き返した。法顕を含めて二人が天竺に到着した。一人はインドが気に入ってそのまま残ったので、船で中国に戻ったのは張騫一人であったという。