2024年9月2日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(6)

 シルクロードのものがたり(35)

元二(げんじ)の安西(あんせい)に使いするを送る(2)

元二は安西に使いする。王維は冒頭でそう述べている。陽関(ようかん)は安西(あんせい)の西250キロに位置する関所である。安西に使いする元さんの弟が、なぜ陽関まで行き、さらに西方に向かう必要があるのか?という疑問が当然のこととして湧く。

「変だな、変だな。感情が高ぶった王維の筆が滑ったのかな」とも思った。天才・李白ならありうることかも知れない。しかし、真面目人間の王維には考えられないことだ。このように悩み続け、私はこの二ヶ月間を悶々として過ごしていた。


この私の悩みを解決してくれたのが、森安孝夫先生の「シルクロードと唐帝国」という本の中にある 「七世紀の太宗・高宗時代の唐の最大勢力圏」 の下の地図である。これを見て私の目からウロコが落ちた。安西(あんせい)というのは固有の地名ではないのだ。「西を安んじる」ために置かれた節度使(せつどし)の軍事拠点(駐屯地)のことだったのだ。

安西①③、安西②④の文字が見える。安西①③は敦煌の東方150キロであるから、この地図は正確ではない。この地図よりも何百キロも東方に位置する。(私は鉛筆で→をつけた)つまりこの軍事拠点(駐屯地)は中国の軍事力・政治力の盛衰と共にあちこちに移動していたのである。

すなわち、当初の安西①は敦煌の東150キロの瓜州にあった。太宗・高宗の時代に唐の勢力圏は拡大し、安西②はクチャ(庫車・亀茲)まで進出した。安西①より1000キロ西まで唐の勢力範囲は拡大したのである。王維がこの詩を書いたのは玄宗皇帝の時代だが、唐の勢力はまだ強大であり、この時の安西はクチャにあったのだ。これがわかれば、王維の「西のかた陽関を出つ”れば故人無からん」の文章に合点がいく。

三代皇帝・高宗の頃は(在位649-668)、唐の勢力範囲は(領土ではない)西はタシケント・サマルカンドを含みカスピ海の東のアラル海まで達している。南西はパミール高原を含み、バーミアン・ガンダーラまで、すなわち現在のアフガニスタン、パキスタン北部まで、唐の影響力が広がっていた。これらの事実からして、法顕とは異なり玄奘三蔵は、大唐帝国の威光を背景に、「かなり大きな顔」をして、これらの地域を歩いたような気がする。

玄宗皇帝が楊貴妃の色香にうつつをぬかしたためか、はたまた安禄山の乱が理由か、唐の国力は衰えていき、やがて安西③はもとの瓜州にもどった。余談だが8世紀前半(玄宗皇帝が即位した頃)、クチャ(②の安西)にあった安西節度使の持つ兵力は、将兵24,000人・馬2,700頭と記録に残っている。

この地図を見ると、安西と同時に安東もあった。この地図には入っていないが安東①は朝鮮半島の平壌にあったが、国力の衰退によるものであろう、安東②は遼東半島に後退している。安北①はバイカル湖のすぐ南だが、国力の衰退と共に安北②まで後退している。その位置がまったく変わらないのは安南のみで、一貫して現在のハノイにあった。阿倍仲麻呂は文官なので節度使ではないが、一時期この安南の長官に就任している。


この「安西」「安東」などの文字は、唐の時代よりも以前から使われていたようだ。

「宋書・倭国伝」には、宋(隋の前の中国の国名)の皇帝が、何人もの倭の国王に安東将軍の称号を与えたことが記されている。「倭の珍を安東将軍・倭国王を除(じょ)す」「倭国王の済(せい)を安東将軍に任ず」「倭王の興(こう)を安東将軍に任ず」「倭国王の武を安東大将軍・倭王に除す」などの文字が見える。仁徳天皇、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇たちだと言われているので、紀元300年代の後半から400年代の半ば過ぎのことだ。ちょうどこの主人公の法顕が生きていた時代である。

日本側にはそのような意識はなかったかも知れないが、宋(中国)側は、「これで中国の東の勢力範囲は日本列島まで拡大したよ!」と喜んでいたように思う。















2024年8月26日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(5)

 シルクロードのものがたり(34)

元二(げんじ)の安西(あんせい)に使いするを送る

法顕は瓜州(安西)を経由して敦煌を目指しているのだが、政治動乱が収まらないのでいまだ張掖(ちょうえき)にいる。長安から張掖までは1000キロ。張掖の次が酒泉で、嘉峪関(かよくかん)・玉門・安西(瓜州)へと続く。張掖から安西までは600キロである。

三つのシルクロードの出発点ともいえる安西の西方150キロに敦煌があり、敦煌の西150キロに玉門関がある。そして、敦煌の南西100キロに陽関(ようかん)がある。陽関とは、「玉門関の南(陽)の関所」という意味らしい。王維(701-761)の生きた時代は、この玉門関・陽関あたりまでが唐の勢力圏だと、当初私は考えていた。

唐の詩人たちの西域詩については、玄奘三蔵のあとに紹介したいと考えているのだが、例外として、ここで王維の詩を取り上げたい。多くの日本人が知っているこの有名な詩を、私がここで紹介する必要はないのかも知れない。この詩への私の思い出、私の誤っていた解釈を聞いていただきたいとの気持ちで、文章を続ける。


元二(げんじ)の安西(あんせい)に使いするを送る

謂城(いじょう)の朝雨 軽塵(けいじん)を浥(うるお)し

客舎青青(かくしゃせいせい) 柳色新(りゅうしょくあらた)なり

君に勧む 更に尽くせ一杯の酒

西のかた陽関(ようかん)を出つ”れば 故人無からん


現代語の訳はまったく必要としない。分かりやすい美しい詩である。元二は元兄弟の二番目の弟。王維はこの人の兄もしくは父親と交友があったと思える。謂城(いじょう)は秦の旧都・咸陽(かんよう)の別名である。長安の西30キロにあり、当時は西域方面へ旅立つ人をここまで見送るならわしがあった。よって謂城には、見送り人を宿泊させる数多くの旅館があった。

この詩に私がはじめて接したのは、高校1年か2年の漢文の時間だった。花房先生がこの詩を解説してくださった。「故人というのは死んだ人ではないよ。古い友人という意味だよ」とおっしゃった。その後で先生はこの詩を朗々と吟じられた。身振り手振りを加え、あたかも舞を舞うようなその姿を今でも鮮明に覚えている。最後の句を、「なからん、なからん、故人無からん」と、二回か三回繰り返された記憶がある。漢詩が好きになったのは、このことが一つの理由かも知れない。

岩波文庫の「王維詩集」を含め、手許にあるこの詩のすべての読み下しは、「客舎青青 柳色新なり」とあるが、この時花房先生は「客舎青青 (として) 柳色新なり」と教えてくださった。だから私は、今でもこの詩を口ずさむ時は「として」を入れて読んでいる。

以来、半世紀以上、時おりこの詩を口ずさみ、幸せな気分を味わっていた。

ところがこの数カ月、この「シルクロードのものがたり」をまとめるため、いくつもの地図をながめながら何冊かの本を読んだ。そして、「変だな、変だな、この詩は少しおかしいのではないか?」との疑問が沸いてきたのだ。

というのは下の地図にある通り、「安西」は「瓜州」のことであり、その西方150キロに敦煌があり、敦煌の南西100キロに陽関がある。これでは、この詩はつじつまが合わない。








2024年8月19日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(4)

 シルクロードのものがたり(33)

敦煌太守・李暠(りこう)のこと

前回述べた、敦煌太守を称し同時に西涼王を名乗った李暠という人物について語りたい。この李暠という男は、文人肌の凡人・段業の太刀打ちできる相手ではなかった。

李暠は軍事・政治の実力と同時に、部下からの人望が厚かった。字は玄盛(げんせい)、隴西郡狄道県(ろうせいぐん・てきどうけん)の人である。隴西郡とは秦代から唐代にかけて、現在の甘粛省の東南部にあった。現在の甘粛省の大きな地図を見ると隴西という地名がある。郡はなくなったものの隴西という地名は現在も中国に残っている。その隴西の東南150キロに天水という町が見える。

この李暠は漢の将軍・李広の16世の孫だといわれる。「桃李言わざれども下おのずから蹊(こみち)を成す」のあの李広である。李広の孫が李陵であることは言うまでもない。李広については2022年11月20日のブログで「李将軍列伝・桃李成蹊」で紹介した。李陵については、このシルクロードのものがたりの(3)(4)で紹介した。じつは、上記の「天水」こそ、漢の将軍・李広の生まれた場所なのだ。


孤軍奮闘した李陵は匈奴に投降した。捕虜になったあとも李陵は漢に対する忠誠心を失わず、張騫と同じく脱出再起を図っていた。ただ、同じ李という名前の将校が匈奴の兵士に軍事教練をしているとの情報が武帝の耳に入った。武帝は、誤ってこれを李陵だと判断し、すぐさま李陵の母親・妻子を処刑したと「漢書」は記している。これは武帝の大きな過ちであった。

史書には書かれてないが、この時、長安にいる李陵の友人、もしくは親戚の者が李陵の幼い息子を匿ったのではあるまいか。かくまう場所としては、李家の墳墓の地である「天水」が自然である。もしかしたら、もしかしたら、これを背後で画策したのは司馬遷であったかもしれない。

漢の時代はすでに遠くなり、投降したとはいえ、奮戦した李陵の物語は、「漢書」はかなり同情的に描いている。李暠は武人として、先祖の名を背景に、人びとの尊敬を受けていたのではあるまいか。彼の曾祖父の李柔(りじゅう)という人は晋の北地太守になっている。

成蹊学園の卒業生である田頭は、李広と李陵には親近感と同時に強い尊敬の気持ちを抱いている。はからずもここで、李陵の14世のちの子孫が、成功した武人として歴史に登場したことがとても嬉しい。


じつは、この李暠(りこう)の物語には、まだ続きがある。

618年に唐王朝を創設したのは李淵(りえん・566-635)であるが、なんと李淵は「自分はこの李暠の8世の孫だ」と名乗っているのだ。そうだとすれば、唐王朝を創設した高祖・李淵は、あの李広将軍の24世の子孫ということになる。

「唐書」には、「唐王朝を創始した李淵すなわち高祖は隴西(ろうせい)の成紀(せいき)の人である」と書かれている。「成紀は現在の甘粛省天水あたり」と作家の陳舜臣は指摘している。すなわち、ここで、李広・李陵・・・李暠・・・李淵の全員の出身地が、現在の甘粛省の天水だとピタリと判明一致した。

李広・李陵ファンの私は、このことを知って感激している。


高祖李淵の次男で父親と共に唐の創建者とされる二代皇帝・太宗世民(たいそうせみん・598-649)が即位した時の話が「貞観政要(じょうかんせいよう)」という書物の中に書き残されている。この太宗は、中国史上有数の名君といわれる。

太宗が即位した年(626)、臣下が盗賊防止のために、厳罰主義を採ることを進言したのに対して、太宗は次のように答えた。

「民が盗みをはたらくのは、税金が重く、夫役が重く、官吏がむさぼり求めるので、飢えと寒さにせまられ、恥をかえりみなくなるからだ。私はぜいたくをやめ、冗費を省き、夫役を軽くし、税金を安くし、清廉な役人を選ぼうと思う。そうすれば盗みをするものはいなくなる。厳罰を以て臨む必要はない」


ご先祖の李広・李陵が聞いたら、泣いて喜びそうな返答である。















2024年8月6日火曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(3)

 シルクロードのものがたり(32)

長安から半年かけて張掖(ちょうえき)へ、張掖で1年を過ごす

法顕がどのルートでインドに渡ったのか調べてみたい。帰りはセイロンから商船に便乗して中国の山東省に帰っている。膨大な量の経典を持ち帰るのだから、ラクダや馬・ロバに頼るよりは危険ではあるが船の方が便利である。よって、法顕のインド行きの陸路は往路のみとなる。かたや200年後の玄奘三蔵は、往路・復路とも陸路を歩いている。


シルクロードの陸路を、おおざっぱにいえば、次の3つとなる。

①天山北路(天山山脈の北側ルート)

②天山南路・西域北道(天山山脈の南側ルートで、タクラマカン砂漠の北側を通る)

③天山南路・西域南道(タクラマカン砂漠の南側ルートで、崑崙(こんろん)山脈の北側を通る)   

これらのルートは単純に3つの道が西に向かっているというわけではない。いくつもの「バイパス」があり、その時の軍事・政治状況や天候に合わせて、旅人は柔軟にコースを変更していたようである。私は③のルートを「崑崙(こんろん)北路」と呼ぶのが地理的に適切でクリアな表現だと思うのだが、だれもそのようには言っていない。

中央アジアの地図をじっと眺めていると、①の天山北路を旅するのが気候的に一番楽な気がする。ただ、インドに行くためパミール高原にたどり着くまでの距離は、②③に比べると1・5倍以上になる。やはり長い道のりが問題だったのであろうか。法顕も玄奘もこの①のルートは通っていない。

法顕はホータン(和田)を通っているので、大きな分類では③の天山南路・西域南道を通ってインドに向かっている。ただ単純な③コースではなく、あちこちを迂回しながら進んでいる。玄奘は、往路は②天山南路・西域北道を歩き、復路は③天山南路・西域南道を歩いて中国に帰っている。玄奘の歩いたコースは比較的すっきりしている。

法顕の歩いた足跡を見ると、じつは当初は玄奘と同じく②の天山南路・西域北道を進もうと考えていたことが感じられる。何かやむを得ない事情でそのルートをあきらめ、途中のクチャには立ち寄らず、クチャ(庫車)の東南あたりから南西に進路を取り、無謀にもタクラマカン砂漠のまっただなかを横断してホータン(和田)に到着している。なぜこのような危険なルートを進んだのか、現時点では私にもわからない。そのうちにわかるかも知れない。法顕と玄奘の足跡をたどると、法顕のほうがより危険な旅であったように私には思える。


もとにもどる。

法顕は長安を出発した。ここから瓜州(安西)までは河西回廊という北西に続く一本道である。黄河上流の西側を通る道だ。瓜州(安西)が3つのシルクロードの出発点である。長安から瓜州(安西)までは距離にしてざっと1500キロ程度で、1日に20キロ進めば70-80日あれば到着する。

ところが法顕が長安を出発したのが399年の3月で、瓜州(安西)に着いたのが400年の8月頃である。長安を出発して1年半を要している。途中の蘭州(らんしゅう)で3ヶ月、張掖(ちょうえき)で1年近く滞在している。張掖での1年滞在の理由は、ある事件が勃発したための政治的な理由による。

敦煌の太守の孟敏(もうびん)が死去した。敦煌に対して行政と軍事の指揮権を持っていた張掖に住む北涼王・段業(だんぎょう)は、新たに索嗣(さくし)という男を後任に任命した。索嗣は500人の将兵を引き連れて敦煌に向かった。

ところが敦煌ではすでに李暠(りこう)という男が、部下たちに推されて敦煌太守に就任していた。李暠はいわば敦煌を乗っ取ったといえる。当時はこのようなことは頻繁におきていて珍しいことではない。実力と人望がある者がその地位についた。

策嗣以下の将兵は李暠に一喝されて追い返されてしまった。それどころか、李暠は「北涼国・ほくりょう」から離れることを宣言して「西涼国・さいりょう」を建国し、自らを西涼王を名乗った。

不測の事態が発生したため、北涼王・段業は張掖ー瓜州(安西)-敦煌間の往来を一時的に閉鎖した。この段業という人は、為政者としては凡庸で優柔不断な人であったらしい。ただし、旅客のあるじ(パトロン)としては良い人であった。法顕一行に対して極めて親切に丁重に対応している。

もともと長安出身の貴族である段業は、武人というより文人肌の人で、法顕に対しての好意と入れ込みようは尋常ではなかった。「問題解決のため多少の時間を要します。安全が確保できるようになれば部下に送らせます。それまではごゆるりとこの町で暮らしてください」と法顕に丁寧に伝え、衣食住の十分な手配をした。このような背景の中で、法顕一行は1年間この地に留まり、近郊の寺の仏事に参加したり、周辺を見学している。



















2024年8月2日金曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(2)

シルクロードのものがたり(31)

 「高僧伝」に次のようにある。

「釈法顕、は平陽県武陽の人である。三人の兄がいたが、いずれも幼童の時に亡くなった。父親は禍いが法顕にまで及ぶことを恐れ、三歳で出家させて沙弥(しゃみ)とした」

「かつて若いころ、同学の者数十人と田圃の中で稲刈りをしていると、その時、腹をすかせた盗賊がその穀物を奪い取ろうとした。ほかの沙弥たちは一斉に逃げ出したが、法顕だけは一人留まって盗賊に言った。 ”もし穀物がほしいのなら、好きなように持ってゆくがよい。ただお前たちは昔、布施をしなかったために、ひもじくて貧しい結果を招いたのだ。今また人から奪い取るならば、恐らく来世でもっとひどい目に会うことになるだろう。拙僧はあらかじめ君たちのために心配するのだ” そう言って引き上げると、盗賊は穀物を投げ棄てて逃げ去った。数百人の僧侶たちは誰しも感服した」

「東晋の隆安三年(399)、同学の者四名たちとともに長安を出発し、西のかた流沙を渡った。空には飛ぶ鳥もなく、地には走る獣もなく、四方を見渡しても茫洋として行く先のあてもつかなかった。ただ太陽を見て東西を計り、人骨を望んで道しるべとするだけである。しばしば熱風が起こり悪鬼が現れ、それに出くわすと間違いなく死ぬのだが、法顕は縁に任せ運命のままに難所を突っ切った。しばらくして葱嶺(そうれい・タジキスタン東部のパミール高原)に到着した」


「高僧伝」では、長安を出発した法顕一行はいきなりパミール高原に到着している。どのようなルートでタクラマカン砂漠を超えたのか記載がない。文庫本13ページの記述なのでこれはやむを得ない。法顕の天竺行きのルートについては次回で紹介したい。

上記の、「法顕は縁にまかせて、運命のままに難所を突っ切った」の箇所に心を惹かれる。人生の大事は縁と運である。これに身をゆだねる、という気持ちがとても大切な気がする。


「高僧伝」の編者の慧皎(えこう・497-554)という人は、中国南朝梁(りょう)の時代の僧である。中国で仏教が最も栄えた「梁の武帝」の時代の僧であるから、本人も名僧であったに違いない。余談だが、この梁の武帝という人は陶淵明にぞっこん惚れ込んでいた皇帝である。自身で陶淵明の伝記まで書いている。


「高僧伝」は1世紀の中国への仏教伝来から、梁の武帝の時代に至るまで、およそ450年間に歴史に名を留めた名僧の伝記を集成したものである。法顕が亡くなったのは422年であるから、慧皎が生まれる75年前である。慧皎は、いわば法顕の孫か曾孫の世代の人である。よって、これに書かれた法顕の逸話は信憑性の高い話だと考えている。

















2024年7月24日水曜日

65歳の法顕(ほっけん)、天竺に向かう

 シルクロードのものがたり(30)

張騫の500年後の僧・法顕

張騫(ちょうけん・BC200-BC114)について9回に分けて紹介した。司馬遷の「史記」にも記述がある「漢の武帝の御代にシルクロードのルートを切り開いた豪傑」である。

その張騫が、その後続者たちが、シルクロードを通って東方に運んだくだもの・野菜についても何回か紹介した。その後、筆が止まり、十ヶ月も経過してしまった。


「ネタが尽きたんだな」と口の悪い学友はひやかすが、じつは、そうではない。ネタが多すぎて自分の頭の中の整理整頓が出来ず、困っていたというのが実情である。

玄奘三蔵の伝記を含めシルクロード関係の書物を50冊以上も買い込み、狭い書斎の壁に中国西部の大きな地図を貼った。天山(てんざん)山脈・タクラマカン砂漠・崑崙(こんろん)山脈にかこまれた西域の古代・現代の地名はほぼすべて頭に入った。少し気取って言えば、書物を読みながら古地図をながめながら、一年近く西域を一人で旅していたような気がする。

当初の構想は、玄奘三蔵の苦難の西域紀行について書き、その後、唐の詩人・王維・李白・王翰(おうかん)などの西域にまつわる詩を紹介しようと考えていた。そうしているうちに、私の眼前に大きな姿を現したのが「年寄りのくせにやたら元気で前向きな」法顕というお坊さまである。

張騫のあと玄奘三蔵(602-664)の登場となると800年の時間を飛ぶことになる。法顕が偉いお坊さまであると同時に、年代的にも張騫と玄奘三蔵との間に、法顕三蔵(337-422)に登場していただくのが良いと考えた。

法顕のライバルともいえる同時代の名僧で、今に名を残す鳩摩羅什(くまらじゅう・334-413)という人がいる。この人の父親はインド人で、元々の名は現在でもインド人に多い「クマール」という名前らしい。岩波文庫の「高僧伝」には、この鳩摩羅什は37ページにわたり紹介されている。同じ本に紹介されている法顕は13ページにすぎない。

「高僧伝」は梁(りょう)の慧皎(えこう・497-554)の著作だが、当時の中国の仏教界では37対13ぐらいで、鳩摩羅什のほうが高い評価を受けていたようである。私は仏教に関しては素人なのであまり自信はないのだが、もしかしたら、現在の中国・日本の仏教界における二人の評価も同じくらいかも知れない。これにはわけがある。これについても、どこかで触れたいと考えている。私は法顕のほうが好きなので、7-8回に分けて法顕を紹介したい。この中で鳩摩羅什について少しだけ触れたいと思う。

インド人で中国に仏教を伝えた偉いお坊さまに達磨(だるま)という人がいる。達磨のほうが鳩摩羅什より古い人だと私は思っていたのだが、これは私の誤りであった。今回調べてみると達磨が船で広州に上陸したのが520年とあり、鳩摩羅什のほうが達磨より100歳以上年長であることを知った。


この法顕は中国人だと陶淵明(366-427)より30歳ほど年長で、書の達人の王義之(おうぎし・303-361)より30歳ほど若い。日本人だと仁徳天皇と同じ頃に生きた人である。


東晋の隆安3年、西暦でいえば399年、65歳の法顕は長安を出発して徒歩で天竺に向かった。十人ほどの僧が従った。往路に6年を要し、インドに滞在して経典を集めるのに5年、その後、師子国(ししこく・セイロン)から商船に便乗して中国に戻った。法顕が77歳の時である。他の僧侶の多くは往路で死亡したり中国に引き返した。法顕を含めて二人が天竺に到着した。一人はインドが気に入ってそのまま残ったので、船で中国に戻ったのは張騫一人であったという。