2026年10月8日木曜日

興福寺

 大和の寺社・参拝紀行(9)

二日目の2月6日は、興福寺・春日大社・東大寺を参拝する。近鉄奈良駅近くのホテルでF君と朝食を一緒して、徒歩で興福寺に向かう。この三つの寺社をむすぶ三角形の内側が奈良公園になる。

「日本文化史で、もし興福寺という存在を除外するとしたら、様相が変わってしまうにちがいない。それほどこの寺の存在はわれわれ日本人にとって重要である」と司馬遼太郎は述べている。平安時代、日本の寺社のなかで最大の荘園を持っていたのがこの興福寺だ。藤原氏の氏寺という権力を背景に、巨額の富を持っていたこの寺は、建造物・仏像などを合わせると現在、数十件の国宝を所蔵している。

この寺で、私がもっとも興味があったのは、五重塔と阿修羅(あしゅら)像の二つだ。

この寺は最初からこの地にあったのではない。天智天皇8年(669)中臣鎌足の妻が、夫・鎌足の病気平癒を願って京都の山階に創建した山階寺(やましなでら)がこの寺の起源だという。その後、天武天皇の御代に飛鳥の地に移り、さらに和銅3年(710)平城遷都とともに現在の地に移った。この寺に「興福寺」と名付けたのは藤原不比等である。

「国宝・興福寺五重塔・令和大修理」との巨大な表示があり、工事完了は令和16年と書いてある。あと8年ほどかかるらしい。高さ50メートルのこの五重塔は、55メートルの京都の東寺(とうじ)の五重塔に次いで日本で二番目に高いそうだ。余談だが、私の広島県の実家の築山にも五重塔が建っている。祖父が戦前に庭師に造らせたもので、藤原氏ほどの財力はなかったので高さは2メートル半ほどである。

興福寺国宝館の拝観券を買う。900円。国宝・金剛力士像、国宝・天燈鬼(てんとうき)・龍燈鬼(りゅうとうき)立像、国宝・千手観音菩薩(せんじゅ・かんのんぼさつ)立像、国宝・十大弟子立像など、それぞれの国宝を見学する。いずれも迫力があり素晴らしい。

「これらは本物なの?それともレプリカなの?」とF君に聞いてみる。つまらんことを聞くなよといったニュアンスで「全部本物だよ」との返事が返ってくる。海外の博物館で一級の美術品を見学したことがあるが、いくつかがレプリカだった。すべてが本物と聞いて感激する。そうだとすれば、この拝観料は安い。

真冬なので拝観者は少ない。

阿修羅像の前で、私は10分間ほど立ちすくみ、そのお姿をじっくりと拝観する。なんとも神秘的で魅力的なお顔の表情だ。純粋さの中に憂いを感じる。少年のようでもあり、少女のようでもある。これを造ったのは天平時代の仏師だが、その仏師はきっすいの倭人だったのか、それとも渡来系の人だったのかと思いをめぐらす。始皇帝・兵馬俑の何千もの将兵の像は、一体一体にモデルの人物がいたという。この阿修羅像にもモデルがいたような気がする。「この像高は153・4センチ」と案内書に書いてある。これはモデルの人物の実際の身長だったのではあるまいか。

寺務所で「千手観音・興福寺」のご朱印をいただく。5メートルの巨大な観音像も拝観している。この観音さまは千の手と千の眼を持っておられる。助けを求めるすべての人のもとに、どこにでも、すぐに駆け付けてくださる。そして一人も漏らさず全員を救ってくださる。このようなありがたい観音菩薩さまだと教えていただいた。


興福寺を出て、春日大社に向かって奈良公園を横切って歩く。数多くの鹿と観光客が一緒になって遊んでいる。日本人も外国人もスマホで鹿の写真を撮っている。鹿センベイを与えている人もいる。鹿センベイを与えると、鹿がペコリとお辞儀をするのが可愛いい。みんなが鹿を可愛がっているのがよくわかる。

奈良を訪問する少し前に、「奈良公園ではアジア系の観光客が鹿を蹴飛ばして虐めている」と言った政治家がいた。日本人ファーストと叫び、外国人の入国を制限することを主張としている人だ。「あの話、本当なの?」とF君に聞く。「ウソに決まっているだろう。鹿をいじめる外国人など一度も見たことがないし、そんな話聞いたこともないよ」と言う。みんなが嬉しそうに鹿を大切にしている姿を見て、私もそうだろうなと思った。

「そうそう、この前こんなことがあったんだ。俺びっくりしたよ」と、F君が笑いながら言う。次のような話だ。

観光客だけでなく、奈良で働いている外国人はけっこう多いらしい。アジア系の青年が自転車の荷台に小さな荷物を積んで走ってきた。F君の目の前で荷物が落ちた。オーイ、オーイと大声で呼んだら青年は引き返してきたので、事なきを得た。青年はF君にお礼を言った。なんと言ったのか聞いてみる。「かたじけない」と言ったそうだ。


興福寺

興福寺

興福寺




阿修羅像

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          


奈良公園の鹿

興福寺 ご朱印


私の実家の五重塔

2026年10月1日木曜日

石上(いそのかみ)神宮

 大和の寺社・参拝紀行(8)

『日本書紀』垂仁記(すいにんき・第十一代天皇)に次のようにある。

(垂仁天皇の)39年冬10月、朝廷において造らせた剣(つるぎ)一千口(ふり)を石上神宮に納め、(天皇の)長子である五十貮敷命(いにしきのみこと・第十二代景行天皇の兄)に管理させた。のち本人が老齢となり、妹の大中姫(おおなかつひめ)にその任を譲ろうとしたが、(姫は)私はか弱い女ですからといって辞退した。大中姫はこの任務を物部十千根大連(もののべの・とちおねのおおむらじ)に委譲された。物部連らが今に至るまで石上の神宝を治めているのは、これがそのもとである。


物部(もののべ)氏は、のちに石上(いそのかみ)氏と名を改めた。その後、子孫の中には再び物部氏を称した者もいた。さらに後世、子孫の中に布留(ふる)氏と称した者もいて、永くこの神宮の神主をつとめている。ちなみに、この神宮の現在の住所表示は、奈良県天理市布留(ふる)町384番地である。

『延喜式・神名帳』はこの神社のことを「石上座布留御魂(いそのかみにます・ふるのみたま)神社」と記している。平安時代以降は「フルの社(やしろ)」「振(ふる)神宮」「石上神社」など、人々は色々な呼び方をしている。現在の「石上神宮」の名称は、明治16年に内務省社寺局が定めたものである。

今まで述べたこの神社の由来からすると、この神社を「物部神宮」と呼んでもよい気がする。じつは、これとは別に「物部神社」という立派な神社が島根県大田市に現存する。明治4年に国幣小社に列した石見国の一之宮という由緒ある古社だ。第十二代・景行天皇の御代に物部氏が石見国造に任ぜられ、その後、第二十六代・継体天皇の頃にこの神社がつくられたと社伝はいう。


さて、物部氏について少しだけお話したい。もののべから、もののふ(武士)という言葉が生まれたという説もあり、物部氏は古代から武門の棟梁であった。いま一つの武門の棟梁が大伴(おおとも)氏である。両氏とも大和朝廷成立の初期からの大王家の側近であり、軍事をつかさどる家柄であった。軍事における両氏の役割の違いはどこか? 私の理解では、物部氏が攻撃集団としての日本陸軍の祖という立場であったのに対して、大伴氏は大王(天皇)をお護りすることを主任務とした近衛軍団の長(おさ)であった。このように認識している。

ご祭神について語りたい。現在この神宮がお祭りしている祭神は七つだが、平安時代の『延喜式・神名帳』には、この神社の祭神は「布都御魂大神・ふつのみたまのおおかみ」一つと書かれている。これは刀剣である。その昔の国譲り神話にさかのぼる。天照大神の命を受けた武甕雷神(たけみかつ”ちのかみ)は出雲国の稲佐浜(いなさのはま)で、大国主命の前にドンと座り国譲りを迫った。このとき武甕雷神が携えていたのが、この剣(つるぎ)だといわれる。

この話からすると、先の大神(おおみわ)神社と大和(おおやまと)神社の二社が「親大国主命」であるのに比べ、この石上神宮は「アンチ大国主命」と考えることができる。古代日本史の不思議さと、面白さを感じる。


この神宮には国宝が三つある。二つは鎌倉時代に造られた拝殿で、いま一つが刀剣だ。ただし、この国宝の刀剣は先に述べた「布都御魂大神」ではない。有名な「七枝刀・しちしとう」である。七枝刀については何冊もの書物があるので、ごく簡単に紹介したい。

七枝刀は、百済王・近肖古王の世子(皇太子)が倭王のために百済で造らせたものだ。ここまでは明治期にすでにわかっていた。ただ、刻んである漢字62文字の中の年号が、長い間わからなかった。それが2025年のX線CT調査によって判明されたのである。東晋の年号「太和・たいわ」の百済読みでの仮借文字「泰和四年」と読めた。すなわち、この七枝刀は西暦369年に造られたものだと判明した。当時、百済は宗主国ともいえる東晋の元号を使用していた。この太和四年は、私が大好きな東晋の田園詩人・陶淵明が、幼少四歳、のときにあたる。そう考えるとずいぶん古いものである。

この時代、すなわち西暦350年頃の極東アジアの政治状態は次のようであった。古くからの朝鮮半島における強国は、北方の高句麗であった。半島南部の東に新羅という国が建国され、西側に百済が建国される。南には倭国の影響力が強い任那(伽耶)があった。なにかにつけて新羅は百済を目の敵にし、そのために時に高句麗の力を借りようともした。百済に残された安全保障の選択肢は、東方において勃興しつつある倭国と手を結ぶ以外になかったのだ。この頃の極東アジアの政治・軍事の動きについては、『紀』の「神功皇后」の項に詳しい。


次の話は、ぐっと時代がくだる。

近代日本画壇の巨匠に富岡鉄斎(とみおか・てっさい)という人がいる。天保7年~大正13年であるから、高杉晋作より3歳年長である。この人は「万巻の書を読み万里の道を往く」をモットーとして、若い頃から東奔西走の生活を送り、87歳の長寿を得ている。大変魅力的な人物だが、同時に相当変わった人でもある。本業は画家だが、若い頃から国学や陽明学を学び勤皇思想を強く持っていた。明治初年には京都の立命館で教師をしたり、いくつかの神社で神官の仕事もしている。この人は明治9年から短期間ではあるが、この石上神宮で小宮司を勤めている。

この神宮は大和盆地の中央東寄りの山沿いに位置し、布留山(266米)の北西の高台に鎮座している。大神神社、大和神社に比べると一番北側にあり、日本最古の道といわれる山の辺の道は、この神宮の目の前を通っている。境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、じつに神さびた風格ある神社である。


帰り道では苦労した。行きの天理駅に着いた時はすでに午後4時をまわっていた。多くの神社は5時で門が閉まる。あわててタクシーを拾い無事に参拝を済ませることができたのだが、帰りはタクシーがまったく見えない。歩こうぜ、という話になり、4キロ弱の道をF君とテクテク天理駅まで歩いた。足がくたびれたので、途中で天理教団の中心部にある喫茶店に立ち寄って熱いコーヒーを飲んだ。この天理市というのは現在は天理教の王国のようだ。数多くの天理教の立派な施設が見える。この日ホテルに帰ってスマホの万歩計を覗いたら、二万歩を軽く超えていた。


石上神宮


石上神宮


石上神宮


石上神宮 ご朱印

2026年9月24日木曜日

大和(おおやまと)神社

 大和の寺社・参拝紀行(7)

「やまと」と読まないで「おおやまと」と読む。長谷寺参拝のあと、この神社に到着したのは午後2時を過ぎていた。ご祭神は日本大國魂(やまと・おおくにたま)の大神といわれるが、これは大物主神(大国主神)と同一神である。すなわち、大神神社・大和神社の二社とも、主神は大国主命なのだ。大国主命という人は、大柄で頭の良い慈悲深い人だった、との伝承がある。

この神社は、良い言葉でいえば風格があり、朴訥な感じがする。「剛毅木訥仁に近し」の雰囲気があり好感が持てる。言葉を変えれば質素。さらに誤解を恐れずハッキリいえば、かつての栄光に比べると、今はいささか落ちぶれている。このような印象を受ける。

これには、わけがあるのだ。その理由は、戦艦大和が沈没し日本が太平洋戦争で敗北したからである。もし、戦艦大和が健在で日本があの戦争に勝利していたら、この神社は、大神・石上の二社よりも華やかなたたずまいだったに違いない。

じつは、この神社だけではない。神社には家門や企業と同じく栄枯盛衰がある。氏子というかその神社を敬い支持する者の興隆と衰退とを、神社は共にするのである。この神社は帝国海軍が有力サポーターであった。帝国海軍は滅びてしまった。それゆえに、現在は一時的に寂れているのだと私は考えている。源頼朝・足利尊氏・武田信玄・上杉謙信・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などの大物武将の栄枯盛衰と彼らが支援した神社のそれとは一致する。


上野(こうずけ)国の二之宮・赤城神社も、この大和神社と同じ運命にあった。赤城神社は長い歴史を持つ古社だが、明治六年の神祇官の格付けで「村社」となった。私などが考えてもこれはいささか格下すぎる。「国幣小社」もしくは「国幣中社」に列してもおかしくない由緒ある古社だと思う。

昭和16年12月8日、航空母艦・赤城を旗艦とする帝国海軍機動部隊は、加賀・蒼龍・飛竜・翔鶴・瑞鶴の5隻の空母を率いて、ハワイ真珠湾を攻撃して大勝した。翌17年4月のセイロン沖航空戦では、英空母・ハーミスを含む重巡2隻、駆逐艦2隻を沈めた。

これらの赫赫(かくかく)たる武勲により、「空母・赤城の艦内神社である赤城神社が村社であるのは申し訳ない」という話になり、「国幣小社」に格上げされることが決まった。赤城神社側は大喜びした。これを決めたのは内務省の外局である神祇院(じんぎいん・旧内務省社寺局)である。ところが、残念なことに、すぐあとの昭和17年6月のミッドウェー沖海戦において大敗して、赤城以下4隻の航空母艦はすべて沈没した。これによって、赤城神社の国幣小社への格上げの話はなくなってしまった。

旧海軍の軍艦は、戦艦・航空母艦・巡洋艦などの大型艦だけでなく、駆逐艦・潜水艦に至るまで、その艦にゆかりのある神社の分霊を艦内にお祭りしていた。確認していないが、現在の護衛艦も同じだと思う。もし将来、海上自衛隊が「やまと」という名の護衛艦を建造する時がくれば、防衛省の幹部がこの神社に参拝して、この神社の分霊をいただくことになる。戦艦大和では昭和17年にこの分霊の儀式が行われている。これを「特別神符遷座祭」という。

それゆえに、この大和(おおやまと)神社には、大国主命(おおくにぬしのみこと)だけでなく、第二艦隊司令長官・伊藤整一命(いとうせいいちのみこと)以下、2736柱の戦死された戦艦大和乗組員全員と、護衛した軽巡洋艦矢矧・駆逐艦数隻の英霊たちの全員が、境内祖霊社に合祀されている。一人一人のお名前のあとに、大国主命と同じく「命・みこと」の尊称が記されている。我々は、この人たちのことを忘れてはいけない。

由緒書によると、この神社の創建は第十代・崇神天皇六年とあるから、大神神社と同じ頃の創建ということになる。神域は43ヘクタールと広い。ちょうだいしたご朱印の文字は、堂々とした達筆である。先に述べた理由により、かつての栄光に比べると現在はいささか寂れているものの、あと三百年もしたら、大神・石上両社のような輝きを取り戻すと私は考えている。

由緒書きには「神武天皇の功臣・椎根津彦(しねつひこ)の子孫である市磯長尾市をここの神主とした、その後、その子孫の大倭(おおやまと)氏がこの神社に長く奉仕した」とある。学生時代、学習院大学のヨット部に倭と書いて「やまと」と読む名字の女性がおられた。当時、歴史を感じさせる、なんだか由緒ありげな名前だなあと思っていた。

今考えると、あの人は、もしかしたら神武天皇の功臣の子孫だったのかも知れない。


当時の豪族の居住区跡と、大神・大和・石上各神社の位置関係をながめていて、興味深いことに気が付いた。一番南に位置する大神神社の近くが「大伴氏」の居住区である。その北の大和神社の西側が「大王家」であり、一番北の石上神宮の近くに「物部氏」の居住区がある。写りが鮮明ではないが写真を掲載する。この地図は、なにか大きな古代史の秘密を語っているような気がする。


大和(おおやまと)神社


天一号作戦・大和艦隊の兵士を慰霊する


大和(おおやまと)神社 ご朱印

畿内豪族分布図 
大王家の東側に大和神社がある

2026年9月17日木曜日

長谷寺(はせでら)

 大和の寺社・参拝紀行(6)

当初、大神神社参拝のあと、大和神社に向かうつもりでいた。地図を見ていたら、大神神社の反対側に、すなわち三輪山の東側に、長谷寺と書いてある。この寺についての深い知識はないが、昔話の「わらしべ長者」の舞台がこの寺だとは知っている。清少納言がこの寺の石段があまりにも急で険しいので、「私もういやだわ」と駄々をこねたと、どこかで読んだ記憶もある。行ってみたい。

「長谷寺に行く時間があるかなあ?」とF君に聞いてみる。「おお、行ってみようじゃないか。なあに、時間がなくなったら大和神社と石上神宮を明日にすれば良いだけの話だ」との気持ちの良い返事が返ってくる。一緒に旅をするとき、このような心意気は嬉しい。

三輪駅からJRで南にひと駅、桜井駅がある。そこで近鉄大阪線に乗り換え東にふた駅、長谷寺駅がある。運よく待ち時間も少なくこの長谷寺駅に着いた。小さな無人駅でタクシーは見えない。というより、人の姿は一人も見えないのだ。こうなると、地図を頼りに歩く以外にない。

駅は河岸段丘の高台のような場所で、民家や畑を縫うように下に向かって歩いていく。高度にして50~60メートル、距離にして500メートルほど下ると、川が流れていて奈良方面から長谷寺に向かう道に出る。はじめはふつうの田舎道という感じだったが、途中から食堂・土産物屋・宿屋などが見え、門前町の姿になっていく。極寒の2月5日だから人影はほとんど見えない。駅から長谷寺の門前まで、徒歩で20分ほどかかった。


「総本山長谷寺」の立派な石柱が建っている。「開山千三百年記念・大和国総本山長谷寺」と書いた下馬札のかたちの案内板も見える。399段の急な登廊(とうろう)を登っていく。F君も私も年齢の割には健脚だが、それでも二度ほど立ち止まってひと休みした。ズボンを履いてウオーキングシューズ姿の二十一世紀の我々でも、この石段は難儀だ。草履で和服姿の清少納言が「いやになっちゃうわ」と言ったというのは理解できる。

「あれをごらん、この寺の有名な牡丹だよ」とF君が右側の斜面を指さす。真っ赤なボタンの花が藁の菰をかぶって、ポツンポツンとあちこちに咲いている。ただ田舎で農作業をしている私には、2月5日に奈良でボタンが咲いていることに、不自然さを感じる。広島県の海辺にあるわが家の庭のシャクヤクが咲くのは5月上旬だ。あとで寺の女性の方にお聞きしたら、「長谷寺が持っている温室で栽培したものを2月に入ったので移植した」とおっしゃる。七千株のボタンがあり「牡丹の寺」として有名なこの長谷寺は、本格的なボタン栽培の温室を持っている。仏教系の大学の卒業生だけでなく、農学部園芸学科卒業の方もこの寺で働いているそうだ。

本堂は国宝で懸造(かけつ”くり)という建築様式だ。傾斜地に南に向き、前半部分は床下に柱を組み崖面にせり出している。広い舞台があり、下をのぞくと怖い。私は高い場所は苦手だ。この寺の百年ほど後に建立された京都の清水寺も、これと同じ懸造である。

ご本尊の十一面観音立像(重文)の前で手を合わせて拝む。朱鳥(しゅちょう)元年(696年)天武天皇の病気平癒のため道明(どうみょう)上人が建てたという古いお寺だが、室町時代までに7回も焼失している。現在の国宝の本堂は徳川家光の寄進を得て、1650年に建てられた。十一面観音立像は室町時代の1538年の作品で、高さ10メートルを超える木の巨像である。

奈良時代には東大寺の末寺、平安時代中期以降は興福寺の末寺と、この長谷寺は歴史の荒波のなかで幾たびかの変遷があった。戦国時代の1588年に新義真言宗門徒がここに入山して以降、「真言宗豊山派総本山・長谷寺」と名乗っている。真言宗という言葉から、この寺の上にある総本山は高野山・金剛峰寺の気がするのだが、現在はここは独立した総本山だとおっしゃる。このあたりのいきさつや仏教宗派の分類については、不勉強の私にはよくわからない。

その後、寺務所(じむしょ)でご朱印をいただく。堂々たる達筆にも感動したが、それ以上に感激したのは、三人の僧の立派な風貌と立ち居振る舞いである。三人とも三十代に見うけたが、そろってハンサムで大柄なお坊さまだ。優しげな和顔で、私の質問にも親切丁寧に答えてくださる。それでいて威厳がある。「威あって猛からず」という言葉があるが、このような雰囲気の人をいうのだろうと思った。


そのあと、登り下りのある境内を散策すると、ずいぶん多くの桜の巨木が目に入る。2月初旬なので蕾は固いが、春になるとこの寺はどんなにか美しいだろうと思った。機会があれば、もう一度春の花の季節にこの寺を訪問したい。

寺を出るところに、お守りや絵葉書など売っている売店がある。立派な風貌の三人のお坊さまのことが気にかかる。真言宗を名乗るからには、あの方々は高野山大学の卒業生だろうと思って、このことを売店の女性に聞いてみた。

「この寺の僧は全員が大正大学の卒業生です」と答えてくださった。調べてみると、東京都豊島区西巣鴨にある仏教系の大学だが、一つの宗派にこだわらない大学らしい。現在は天台宗・真言宗(豊山派・智山派)・浄土宗・時宗が運営している大学だそうだ。いずれにしても、この大学のトップクラスの卒業生がこの長谷寺に派遣されるのだろう。この寺の三人のお坊さまの顔つきを見るだけで、この大正大学という大学のレベルの高さがわかる。あるいは大学を卒業された後の修行の賜物なのかも知れない。若い頃の最澄様も、道元様も、きっとこの長谷寺のお坊さまのような顔つきであられたに違いない。そう思った。


長谷寺



長谷寺 長い石段の一部



長谷寺 本堂遠望

長谷寺 本堂

長谷寺 ご朱印





2026年9月10日木曜日

大神(おおみわ)神社

 大和の寺社・参拝紀行(5)

F君と一緒の、奈良の寺社・参拝紀行がはじまった。

この神社は「日本最古の神社」と多くの書物で紹介されている。「おおかみ」と読まないで「おおみわ」と読む。漢字の読み方は便利というか、いいかげんだ。ある意味自由自在ともいえる。百済を「ひゃくさい」と読むことはまれにあるが、多くは「くだら」と読むのに似ている。いずれの読み方にも、いにしえ人の深い思い入れがあるようだ。

よってこの神社を最初に参拝して、次に大和(おおやまと)神社と石上(いそのかみ)神宮をお参りするのが日本人としての礼儀であろうと考えた。ただ、あとでお参りした大和・石上の二社の由緒書にも、それぞれ「日本最古の神社」と書かれてあった。

先に述べた「神社の起源は縄文時代」から、話がずれてしまう。しかし、それはそれとして、ここでは、おおらかで素直な気持ちで対応する。屁理屈は言うまい。神道には「言挙(ことあげ)せず」という言葉があるそうだ。「神々のことについてはあれこれ議論すべきではない」というほどの意味らしい。「この三つは大和朝廷が成立して以降の、この地における古い神社の大物三人衆」との認識で筆をすすめていく。


JR奈良駅から桜井線に乗り南に30分、三輪という小さな無人駅で降りる。駅から歩くこと5分、うっそうと茂る樹木をバックに「大神神社」と刻んだ立派な石柱と大きな鳥居が見える。

境内に足を踏み入れると「日本最古の神社」の言葉が頭にあるせいか、いささか緊張して、霊感のようなものを身体に感じる。私は単純なところがあり、話を聞くとすぐにその気になる弱点がある。快晴に恵まれたが、2月5日の午前10時なのでずいぶん寒い。でも、神社をお参りするには寒い時期が気が引き締まって良いなあ、と思った。

「うしろにひかえる三輪山がご神体なのでこの神社には本殿はない」と聞いている。私が参拝した立派な建物は拝殿らしい。

学生時代から師匠の故・鮫島豪太郎さんから教えを受けている。「神社にお参りして家内安全・健康長寿をお願いするのは悪いことではない。しかし、同時に、かならず国家の安寧(あんねい)を祈らなくてはいけない」と。近頃は神社参拝の時は、国家の安寧だけをお祈りしている。心を込めて「日本国の安寧」をお祈りする。お賽銭は500円。これも、5年玉や10円玉では神さまに失礼だ、という鮫島さんの教えである。

参拝を終えて、社務所でご朱印と由緒書をいただく。この神社の由来についてはお参りする前から調べていたが、分からないことだらけだ。東京に戻りこの神社の元宮司・中山和敬氏の書かれた『大神神社』を購入して読み、同時に『記紀』の中にあるこの神社に関係する箇所を丁寧に読んでみた。しかし、読めば読むほど矛盾が出てきて、いよいよわからなくなる。『古事記』と『日本書紀』では言うことが違うので困ってしまう。迷路に迷い込んだ気になる。

しかし、分かりません、では読者の方々に対して男が立たない。私のわかる範囲で語ってみたい。基本は『日本書紀』をベースに話をすすめたい。


『日本書紀』には次のようにある。

五年、国内に疫病多く、民の死亡するもの半ば以上に及ぶほどであった。 六年、百姓の流離(りゅうり)するもの或いは反逆するものあり。その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。七年、天皇の夢に一人の貴人が現われ、自ら大物主(おおものぬし・大国主)と名乗って、「天皇よ、そんなに憂えなさるな。わが子大田田根子(おおたの・たねこ)に吾を祀らせたら、たちどころに平らぐだろう」と告げた。 あまねく天下に告げて大田田根子を探し求め、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)(現在の大阪府八尾市付近)に見つけてお連れした。この人を大物主を祀る祭主とした。ここで疫病ははじめて収まり、国内はようやく鎮まった。五穀はよく稔って百姓は賑わった。


五年というのは、第十代・崇神(すじん)天皇の即位五年の意味だが、これがいつなのかわからない。令和八年(西暦2026年)は皇紀では2686年にあたる。「神武天皇が日本という国を建国されて今年で2686年になる」というのはロマンがあって良いのだが、常識で考えるとずいぶん無理がある。その頃はまだ縄文時代だ。

水野祐博士が言われるように、崇神天皇と神武天皇は同一人物であり、二代・綏靖(すいぜい)天皇から九代・開化(かいか)天皇までの八代の天皇は、後世に創作された架空の天皇(欠史八代)との説明のほうが納得感がある。私だけでなく、大方の日本人はこれを是としているように思える。

『日本書紀』は唐に見せることを前提に、完璧な漢文で書かれている。聖徳太子以降、我が国の指導者たちは司馬遷の『史記』を丁寧に読んで、中国の長い歴史については充分に認識していた。日本の建国史の「皇紀」は、中国にあなどられないために、無理に無理を重ねて日本史を引き伸ばしたのだと私は考える。

『紀』が言う通りの、初代・神武127歳、二代・綏靖(すいぜい)84歳、三代・安寧(あんねい)57歳、四代・懿徳(いとく)77歳、五代・孝昭(こうしょう)113歳、六代・孝安(こうあん)137歳、七代・孝霊(こうれい)128歳、八代・孝元(こうげん)116歳、九代・開化(かいか)111歳の九代の天皇の享年を合わせると950年になる。全員が100歳以上ではあまりにも不自然だ。よって、84歳・57歳・77歳の天皇をつくった。要するに、『日本書紀』の編纂者は、苦労に苦労を重ねて日本史を950年ほど引き伸ばした、と私は考えている。

今年の皇紀2686年からこの950年を引くと、1736年という数字が出る。これが大和朝廷が成立して以降の日本の歴史だと私は考えている。西暦2026年からこれを引くと、崇神天皇の即位は西暦290年頃ということになる。そうであれば、前後の多くの出来事とのつじつまが合う。


『紀』は、大田田根子(おおたの・たねこ)を大物主の子供のような表現で記しているが、多くの書物には「数代のちの子孫」と書かれている。こちらのほうが自然に感じられる。有名な『延喜式・神名帳』(延長5年・928年)にはこの神社は、「大神大物主(おおみわの・おおものぬし)神社」と書かれている。いくつかの書物には「崇神天皇よりも昔から、この神社には大物主命(大国主命)は祀られていた」とも書かれている。

子供の頃、私は親や学校の先生に「大国主命・おおくにぬしのみこと」と教えてもらった。この表現のほうが自分は親しみを感じる。よって、今後、大国主命という言葉を使うことが多いかも知れない。

出雲族の大国主命は、出雲の地から大和の地に打って出て、一度は中原を支配した。その後、天照大神ら高天原の神々に国を譲り、その代わりに立派な宮殿(出雲大社)で祀られることを条件に身を引いた。これが「国譲り神話」であり、私もそのように理解していた。

司馬遼太郎はこれと異なる考えを持っていたようだ。彼はイズモ(出雲)というのは地名ではなく、種族の名だという。しかも大和土着の種族であり島根県とはまったく関係ないという。イズモ族の中に二つのグループがあり、一つが大和盆地の南東のミワ(三輪)・グループで、いま一つが盆地の南西のカモ(鴨)・グループだという。大国主命はこのイズモ族の中のミワ・グループの大王であり、大和盆地の南東部を仕切っていた。そこに現れたのが渡来系の崇神天皇だと、司馬遼太郎はいう。カモ・グループは後に、鴨、加茂、加毛、蒲生などと書き、日本各地にちらばっていった。「イズモ族の使っていた言語がこんにちの日本語の原型であろう」と彼は言っている。渡来系である崇神天皇を含めたそれ以降の倭王たちは、故郷の大陸の言葉を捨てて、このイズモ族の言語に同化したに違いない、とまで司馬遼太郎は語っている。この考え方も魅力的である。


『紀』に言う「崇神天皇の五年、国内に疫病多く、民の半ばが死亡した」の疫病とは、「天然痘」のことだ。「弥生時代から平安時代に至る千年間の日本史は、天然痘との戦いの歴史」ともいえる。島国に住むゆえに、この病気に対する免疫力のなかった倭人は、大陸からの渡来人、そして隋や唐・三韓各国との交流によって列島に侵入したこの天然痘によって、すさまじい苦しみを味わった。この当時、ずいぶん多くの人々が天然痘で亡くなっている。

じつは、日本列島に、今なおこれほど多くの神社と仏閣が残っているのは、天然痘と深い関係がある。我々の先祖たちが、この天然痘に打ち勝つべく強い力を得たいと、神様と仏様に助力を求めた結果なのだ。現在、我々が参拝している多くの神社や仏閣には、いにしえの日本人の苦難と涙、そして希望のなごりが残っているのである。神社・仏閣にお参りするとき、私はいつもこのことを思う。


大神(おおみわ)神社

由緒書

拝殿


大神神社 ご朱印


2026年9月3日木曜日

神社の起源はいつ頃なのか?(3・完)

 大和の寺社・参拝紀行(4)

古代のひとびとは、山を見て、川を見て、滝を見て、岬を見て、岩や巨木を見て、畏(おそれ)を抱いて祈りを捧げた。と先に述べた。それと同じく、人々の幸せを念じ、人々の幸せのために努力した有徳の人の霊にも、敬慕の気持ちを抱いて祈りを捧げたようである。

縄文人たちは、きっとこのような人を神としてお祀りしたに違いない、と思える話が『街道をゆく・北のまほろば』の中に出てくる。

青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺蹟が発見されたのは1994年だから、司馬遼太郎にとってその晩年にあたる。「4500年前の巨大木柱出土」という朝日新聞の夕刊記事を読んで興奮した彼は、すぐに現地に取材に出かけている。ここから出土した高楼と巨大な翡翠(ひすい)を見ながら、次のような縄文時代の光景を想像したと語っておられる。


さて高楼のことである。現場で、私はただ一つの想像をするだけにした。農耕時代になって政治的権力者があらわれる。だから、採集の世の楼閣は、首長の権力をあらわすものではなかったろう。ひとびとは、丸木舟に乗って、海で漁をする。おえると、この高楼をめざして帰ってきたのに違いない。夜、漁からもどらない者があると、「高く、火を焚け」というのが、首長だったにちがいない。闇の海で方角をうしなった者は、望楼の火を見つつ帰ってくる。首長は情義の機関だったのではないか。むしろ宗教的存在といってもいい。

翡翠(ひすい)も出てきた。越後の糸魚川の産である。岡田主査が、現場で二個の翡翠をみせてくれた。野球のボールほどのもので、二つとも紐(ひも)通しの孔(あな)が、きれいに貫通されている。掌(て)にのせると、ばかに重かった。人が海から帰らぬ日、あかあかと望楼に火を焚かせ、戻るまで首長が =この翡翠をくびからぶらさげて= 待っていたであろうことを想像した。


このような人を、その方が亡くなったあと、縄文時代の人々は神として祀ったのであろうか。


おしまいに、西行法師の和歌一首を紹介したい。

「なにごとのおはしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

西行法師が伊勢神宮を参拝したときに詠んだ歌だといわれる。この歌の解釈にはいろいろの説がある。僧である西行が信じていたものは、古代の自然信仰のようなものであろうという人がいる。山や森・滝や河・岩や岬など、古代人があこがれ、感謝し、また恐れていたものを、西行もまた体で感じたのであろうという人もいる。私もそのように思っている。

西行法師は、この神宮の祭神である天照大神(あまてらす・おおみかみ)に対して、かたじけない気持ちで涙を流したのではないような気がする。

皇大神宮(内宮・ないくう)は天照大神を祀る二千年の古社だといわれる。これを否定する気持ちはまったくない。同時に私は、伊勢神宮を崇拝する気持ちは人一倍強い。そうではあるが、私の心の中には、それよりもはるか以前から、ここに「なにか」が祀られていたような気がしてならない。もしかしたら、西行法師も同じように感じておられたのではあるまいか。





2026年8月27日木曜日

神社の起源はいつ頃なのか?(2)

 大和の寺社・参拝紀行(3)

奈良の神社・仏閣の紹介に入りたいのだが、今しばらく余談話におつきあい頂きたい。日本の神社の起源は縄文時代にあるということを、お伝えしたいからである。ここでは相模国一之宮・寒川神社と、安房国一之宮・安房神社での私の体験をお話ししたい。


寒川神社は八方除(はっぽうよけ)の神さまとして有名だ。私がこの神社が好きなのは、この神社の狛犬(こまいぬ)像が巨大で怖そうな顔をして迫力満点だからだ。時に、笑っているような、にやけた顔の狛犬に出会うことがある。可愛らしい、と女性に評判だと聞くこともあるが、狛犬は怖い顔でなければものの役には立たない。悪い奴の進入を防ぐ門番であるからだ。

この神社近くのJR宮前駅は現在は相模湾の海岸線から8キロほど北に位置するが、7千年前はこのあたりが相模川の河口になる。すなわち寒川神社のある場所の目の前が相模湾だった。私の手元に7千年前の相模湾の海岸線を示した地図があるが、現在のJRの平塚・茅ヶ崎・藤沢駅はすべて海の中である。

地球の寒暖はCO2の増減だけが原因ではなく、何千年周期で繰り返されているらしい。太陽活動の変化で気温が上がったり、火山の大爆発で火山灰が飛び散り太陽光が遮断されて気温が下がる、などの現象が過去何万年ものあいだ繰り返されている。1万2千年続いた縄文時代で一番気温が高かったのは今から4300年前、というのが考古学者の一致した見解である。この時が縄文時代の人口のピークで、日本列島全体で26万人、気温は現在より2度高かったと、その方面の研究者は言う。

現在、CO2の増加による地球の温暖化が大きな問題になっている。このままだと南極・北極の氷がとけて海洋の水位が上がり、太平洋の小島のいくつかが水没する恐れがあるといわれている。じつは、現在以上の地球の温暖化現象が4300年前にすでにあったのだ。それゆえに、南極・北極の氷がとけて、寒川神社のすぐ前までが海だったのである。

この神社をお参りして私が興奮したのは、寒川神社の周辺から縄文時代の住居の遺跡が数多く発掘されていることだ。寒川町にある岡田遺跡は、日本で最大級の縄文住居跡である。確認された住居の数は600軒で、専門家は1000から1500軒の集落があったであろうと推測している。約4300年前のものといわれている。

古代の人々は、山を見て祈り、川を見て、滝を見て、岬を見て、岩や巨木を見て、畏(おそれ)を抱いて祈りを捧げたといわれる。この寒川の縄文人が畏れ敬い、祈りを捧げたのは相模川の水霊(すいれい)であった。豊かな魚介類や生活用水を恵んでくれるこの大河は、時として獰猛(どうもう)になって氾濫を起こし、人も住居もすべてを押し流してしまう。この水霊を鎮(しず)めるために、彼らは常緑樹の枝を縄文式土器に飾り、木の鳥居を建てて、心を込めて祈りを捧げたに違いない。


安房神社での体験は簡単に述べたい。

ご朱印をいただく時、若い神官に聞いてみた。「この神社は由緒ある古い神社と聞きますが、いつ頃できたのでしょうか?」「創建は養老元年(717)だと聞いています」多くの神社はこのように、神社の創建を飛鳥・奈良時代の年号で答えてくださる。これは多くの場合、寺院の真似をして、瓦ぶきの建物を建築したときの年代のようである。

「そうですか。私はもっともっと古い歴史を持つ神社だと睨んでいますがねえ」と無遠慮に言った。私の声は大きいらしい。社務所の奥に座っておられた80歳ぐらいの神官(おそらく宮司さんだと思う)が、にっこり笑って私のほうに近つ”いて来られた。「おぬし、なかなかわかっているな」といいたげな、すこぶる好意的な眼差しで次のように話してくださった。

「じつは、一昨年、この神社の裏山の洞窟で人骨が発見されました。古い人骨のようで事件性はないと思ったのですが、一応警察に届けました。警察は念のためにと千葉大学に鑑定を依頼しました。約4500年前の縄文人の人骨ということでした」

ひと言つけ加えておきたい。

日本の神社の起源が縄文時代というのは、私の奇説・珍説ではない。神道考古学者のほぼ一致した見解である。学者の中には、それ以前の石器時代から人々は神への祭祀(さいし)を行っていたと主張する人もいるが、それを裏付ける祭祀跡は今のところ発見されていない。縄文遺跡からは、あきらかに古代人が祭祀したと確認できる遺物がいくつも出土している。

ただ、カナダの鳥居については、私の新発見ではないかとひそかに思っている。私が知る限り、今までこれに言及した神道考古学者の論文や記事を見たことがないからだ。





寒川神社の狛犬








2026年8月20日木曜日

神社の起源はいつ頃なのか?(1)

 大和の寺社・参拝紀行(2)

私は30代の半ばから3年間ほどシンガポールに駐在していた。勤務していた海運会社が会社更生法を申請したので、いわば人質の形で帰国できなかった。その後、東京地裁が更生手続き開始を決めてくれたので1年後に帰国することができた。このようなわけで、後半の1年間はわりあい暇だった。

この頃、日本とはいったいなんだろうかと、ぼんやりと考えていた時期がある。シンガポールは暑い。雨季と乾季はあるが四季はないので、次のようなことをよく夢想していた。今思うと、日本恋しさのホームシック気味だったのかも知れない。

日本に帰ったら、ひんやりとした晩秋の頃、信州か東北地方のひなびた温泉宿に数日間、続けて泊まりたい。芭蕉の『奥の細道』を読み、利休の真似をして抹茶をたてて飲みたい。私は高校時代は剣道部にいたが、部の友人の一人が茶道に凝っていて彼の手ほどきを受けた。門前の小僧程度の茶の湯の知識はある。道元禅師が懐かしい。西行法師の和歌にも心が癒される。そして、新古今・古今・万葉集へと思いはさかのぼる。そこから先の「懐かしいもの」はなんだろうかと考えたあげく、私がたどり着いたのが「神社」だった。「つまるところ、日本人の心のふるさとは神社ではあるまいか」と思った。この気持は現在も続いている。

ただ、長いあいだ、日本の神社は大和朝廷の成立と深い関係があると、漠然と思っていた。天照大神・須佐之男命・神武天皇・応神天皇(誉田別尊・ほんだわけのみこと)・日本武尊・神功皇后・仲哀天皇、などなど、皇室のご先祖様を祭神とした神社が多いからだ。


この考えは間違いかも知れない、と思ったのは45歳の頃である。人材紹介の仕事に入って5年ほど経った頃だ。「不思議なもの」を私は見たのだ。

仕事でカナダの銀行の部長さんを訪問した。約束の時間に伺ったら、恐縮しながら会議が長引いているので30分ほど待ってくださいとおっしゃる。旧知の人で、急ぐ用もないので応接間でお待ちした。その部屋には、カナダ観光庁が発行した美しい写真付きの観光案内のパンフレットが高く積まれていた。この銀行の協力を得て、日本からカナダへの観光客を増やしたい意向のように思えた。

これを何気なく見ていた私は、一枚の写真にクギ付けになった。石でできた古代の大きな鳥居がそのパンフレットに写っているのだ。私の記憶では、形は日本の鳥居とほぼ同じだが、もう少し太かった気がする。グラマーな鳥居だった。

場所は、米国アラスカ州に接するカナダの西の地である。今、これを書きながら、カナダ西部の大きな地図を見ている。北極海の近くにイヌビク、フォート・マクファーソンという町が見える。そこから南西に位置する山奥の川沿いにドーソンという町が見える。これらの近くだった気がするのだが、どの町かはわからない。美しい夏の緑の森林の中に、どっしりとした立派な鳥居が建っていた。

この銀行の部長さんの快諾を得て、私はこのパンフレットを二部いただき、宝物のようにしてオフィスに持ち帰った。大事に仕舞い込んだようだ。今回、心当たりの場所を探したが見つからない。出てきたら、すぐにこの「カナダの鳥居の写真」をこのブログに掲載したい。


北米・南米の両大陸には人類は独自には誕生しなかった。新人類のモンゴロイドが、当時氷結していたベーリング海峡をシベリアから徒歩でアラスカに渡った。1万5千年前だといわれる。そして2千年という短時間で、彼らの一部は南米最南端のケープホーンまで到達している。食糧探しや仲間割れもあったかも知れない。しかし、前進に前進を重ねたそのエネルギーの大半は、「好奇心」であったと私は考えている。この先に何があるのか?という好奇心である。人間というものの偉大さを思う。好奇心の強い人が本物の人間だと思う。好奇心のない人は、人間の顔をしているが実は人間ではない、私は思っている。

この時、私は一つの想像をした。

この鳥居を造った人々は、1万5千年前の第一陣ではなかったと思う。着の身着のまま、食うや食わずで、地球の最北端の海峡を歩いて渡ってきた人々に、これほど巨大な石造物を造るエネルギーはあるまい。彼ら第一陣はこの地に住みついて集団で生活を営み、人口も増加していった。何百年かのち、ここをシベリア方面からの新たな集団が通過した。彼らは先住の人々の好意でしばらくこの地にとどまった。

先住の人々の行う神事や祭りを見ていた彼らが言った。「我々のシベリアの村では、鳥居を設けてお祈りしていました。こんな格好のものですよ」と、地面に鳥居の絵を描いてくれた。「そういえば昔、死んだ爺さまからそんな話を聞いたことがある。爺さまも、そのまた爺さまから聞いたと言われていた」土着の長老は、遠くを見つめるような眼差しで、そうつぶやいた。

新たな集団の指導のもとで、みんなが力を合わせて10年の歳月をかけ、この立派な石の鳥居は完成した。このような物語があったのかもしれない。

幸運なことは、この地には鳥居の材料となる軟らかい石材と、これを加工するに充分な硬い石材の両方があったことだ。カナダに比べると日本列島の鳥居向けの石材は硬かった。1万年前・5千年前の縄文人が使う石器では歯が立たなかった。やむをえず、縄文人は木で鳥居をつくった。木材は時が経てば朽ち果ててしまう。それゆえに、縄文遺跡から鳥居が発見されていないのだと私は考えている。


このカナダの鳥居の写真を見て以来、鳥居の原型は1万数千年前に、シベリアもしくは中国東北部に住んでいたモンゴロイドが造ったものであり、そのころ日本列島にこれを持ち込んだのも彼らであったろうと私は考えている。

日本の神社の起源は、大和朝廷が成立した千五百年前・二千年前といった、そんな真新しいものではなく、一万年以上昔だと私は考えている。

日本列島に渡来して支配者階級となった大和朝廷の倭王(天皇)たちは、これに「上乗り」したように思える。「上乗り」の意味は、古い祭神と同時に天皇家の先祖を相殿神としてお祭りしたということだ。中国東北部(満州)方面から渡来したといわれるこの騎馬民族の故郷には、もしかしたら同じような鳥居の文化が残っていたのかも知れない。彼らは日本列島に先住する人々の木の鳥居に、なつかしいもの感じたのかも知れない。








2026年8月13日木曜日

大和の寺社・参拝紀行

 20年ほど前から約10年間、日本各地の神社を参拝していた時期がある。東京に一人、郷里の広島県に一人神社好きの友人がいて、一緒に地方の神社を中心に参拝してご朱印をもらうのを楽しみに、小旅行を続けていた。

10年ほどで百数十社の神社をお参りすることができた。そういえば、数年前このブログで熱田神宮・宗像大社・二荒山神社・高麗神社などをご紹介した。

自慢の朱印帳を知人に見てもらうたびに、「地方の神社が多いね。本家筋の奈良や京都には行かないの?」とよく言われていた。「うん。奈良や京都には由緒ある神社が多いけど、年を取ってからでも行けるよ。足腰の丈夫なうちは僻地の神社をお参りするんだ」と答えていた。

あれから相当の月日が経った。自分もいい歳になってきた。そして、その間にあることに気がついた。神社参拝には一つの掟(おきて)があるのだ。どの神社にも「下馬札・げばふだ」というものが立っている。

「下馬」「下乗」と書いた札が立ち、たとえ大納言や参議などの高級貴族でも、そこから先は馬・牛車・籠から降りて自分の足で歩かねばならなかった。現在の人々も同じである。車椅子はどうなんだろうと思ったが、神さまから見たら牛車と同じく車の一種らしい。車椅子で本殿を参拝する人の姿は、私は今まで一度も見たことがない。(もっとも、友人の一人は車椅子で参拝する人を一度見た、と言う。神社によっては許しているのかも知れない)


行動を開始する時がきたのだ。

奈良と京都どちらが先かといえば、当然、奈良だ。歴史の古い順からお参りしなくてはいけない。大神(おおみわ)神社・大和(おおやまと)神社・石上(いそのかみ)神宮。この三つの旧官幣大社からお参りを始めるのが、日本人としての礼節であろうと考えた。

20年前の私は、「神社だ、神社だ」といって、近くに由緒ある仏閣があっても興味を持たなかった。学識ある学友のU君から、「お前、それじゃダメだよ。お寺さんにもお参りしなくちゃいかんよ」とよく小言をいわれていた。この20年で私も少し進歩したのかも知れない。U君が言っていたことが分かりはじめた。近頃はお寺にも強い興味を持っている。神社を参拝するとき、私が真ん中を歩くのをU君はしばしば注意してくれた。「ダメだよ。まんなかは神さまが歩く道だよ。もっと右側に寄れよ」と。U君の教えを、神社・仏閣をお参りするたびに思い出す。

奈良の由緒あるお寺といえば、飛鳥寺・法隆寺・興福寺・東大寺・薬師寺・唐招提寺・長谷寺・久米寺などが頭に浮かぶ。御朱印帳は神社と仏閣とに分けて、常に二冊を携帯している。ただ、「神仏混淆・しんぶつこんこう」という言葉もある。紀行文としては寺社を分けないで、参拝した順番に紹介するほうが自然な気がしている。


奈良市にF君という古い友人が住んでいる。三光汽船という海運会社に入社したときの同期で、このF君が47人の同期のトップ入社だと、当時仲間内で言われていた。私は、たまたま彼と同じ木材輸送の課に配属され、F君が北米材、私が南洋材とNZ材を担当した旧知の仲良しである。

私が三光汽船を辞めたのと同じ頃F君も辞め、奈良の企業に転職して成功された。今は悠々自適で日本各地の旧跡を訪ね、日本史の研究をされている。司馬遼太郎の文庫本250冊を持っていて、すべて読んだという智の巨人である。現在二回目を読んでいるそうだ。奈良の神社・仏閣のほぼすべてを参拝したという。昨年は先達(せんだつ)さんを雇って、山伏修行の聖地で有名な大峯(おおみね)山の山頂登山を終えたという強者(つわもの)だ。

私の計画を伝えると喜んでくれ、「俺が案内してやるよ」と言ってくれる。博覧強記のF君が一緒だとじつに心強い。なんでも教えてもらえる。司馬遼太郎と一緒に『街道をゆく』を旅した須田剋太・安野光雅の両画伯と同じ立場になれると思い、心が躍った。

「ふた月に一度、2・3泊のペースで奈良に来たらいいよ。それでも二年ほどかかるかな」とF君は言う。奈良盆地内だけでは駄目だ、吉野山と十津川には絶対に行く必要がある。日本史を深く理解するには、大阪府と和歌山県(熊野古道)にも足をのばす必要がある。と教えてくれる。

このように、話がトントンと進み、令和八年の二月から、F君と一緒の「大和の寺社・参拝紀行」がはじまった。





2026年8月6日木曜日

大学卒の初任給50万円(2)

 いま一つ、喫茶店のコーヒーの値段の話をしたい。

私は大学時代は体育会のヨット部に所属していたので合宿が多く、アルバイトはほとんどしなかった。ただ、冬場にひと月ほど好きなアルバイトをしてお金を稼ぎ、部費としてヨット部に納めるという制度があった。大学一年生の冬、ひと月ほど武蔵小金井の喫茶店でウェイターのアルバイトをした。

この店の雇われ店長は日大の学生で、私はこの人にずいぶん可愛がってもらった。日大に8年間も籍があり、あと一年で単位が取れないと退学になると言っておられた。「卒業しないと田舎の親が悲しむので、なんとしてでも卒業するんだ」と、仕事の合間に本を読んでおられた。

この店長が言うのだ。「アイスコーヒーを飲む奴は馬鹿だ。お前なぁ、喫茶店では絶対にアイスコーヒーを注文するんじゃないぞ」 どうしてですかと聞くと、日大8年生の店長は、秘密を打ち明けるように、次のように教えてくれた。

「うちの店ではホットもアイスも60円で売っている。ホットコーヒーの原価はコーヒー豆4円、ミルクと砂糖で2円、計6円だ。これに比べるとアイスコーヒーの豆は品質が悪いのを使うので安い。原価は2円なんだ。ミルクと砂糖を加えて原価4円のものをホットと同じく60円で売っている。他の店ではホットより高い70円で売っているところもあるんだぜ。だからなぁ、お前、喫茶店ではアイスコーヒーだけは絶対に飲むんじゃないぞ」

このようなことがあったので、私はよほど暑い時に、ごくまれにアイスコーヒーを飲むことはあるが、普通は夏でもホットコーヒーを飲む。アイスコーヒーを注文する時はいつもこの店長のことを思い出す。そして、なんだか申し訳ないことをしているような、軽い罪悪感を持つのである。同時に、あの店長はあっぱれ日大を卒業されのだろうかと、今でも思うことがある。

さて、現在のホットコーヒーの値段である。ベローチェ・ドトールなどは300円前後で、ホテルオークラ・東京會舘あたりだと1000円前後だ。コーヒーの値段は場所代が大きく関係するようだ。昔風の喫茶店では、2・3年前までは400円から450円位だった。ところが、現在私が通う中野の二つの喫茶店では、一つの店が600円、もう一つの店が650円だ。ちょうど10倍になっている。これが、「大卒の初任給を50万円にすべきだ」と私が考える第二の理由である。


ハガキとコーヒーの値段だけで決めつけるなよ、との声があるかもしれない。でもこの二つは、庶民の生活感を感じる場合、大きな指標になると考える。

じつは、新築マンションの値段も10倍になっている。親の援助を受けて私が西船橋に3LDKの新築マンションを購入したのは、入社4年目の28歳の時だ。昭和53年のことで、1380万円だった。入社以降の4年間に二度のオイルショックがあった。それに伴うインフレで、28歳の私の基本給は9万円前後だったと記憶する。4年前の入社時点であれば、同じマンションが1000万円弱で買えていたと思う。

「初任給40万円・50万円の会社がいくつか出てきた」と近頃の新聞で読む。嬉しいことだ。

すべての会社は無理だとしても、業績の良い会社の初任給の多くは、今後3~5年で50万円程度になるような気がする。それが出来ない企業の経営者には退陣していただく。あるいは、優れた経営者のいる優良企業に買収していただく。そうすれば、自然に初任給50万円の新入社員は増加することになる。このような動きは、日本にとって良いことだと思っている。


吉野山 「杉林」








2026年7月30日木曜日

大学卒の初任給50万円(1)

 3年ほど前から、お客様の人事の方にお会いするたびに、次のように言ってひんしゅくを買っていた。私が出入りしている企業の人事の方々はおおらかで懐が深い。この無遠慮な発言を理由に、出入りを禁止された会社はない。

「初任給が27~8万円では若者の生活が大変です。50万円が適当だと思います。もっと新卒の初任給を上げるべきです」

怖い顔で、「馬鹿なことを言わないでください。我が社にはとてもそんな体力はありません」とおっしゃる方が多かった。中には笑いながら、「新卒採用は少ないから50万円程度なら払うことは出来ますよ。でも、そのそうなると、入社2~10年の社員の給与が新卒より低くなってしまいますよ」と言われる方もあった。


この「初任給」については歴史のうんちくではなく、私自身の体験をベースに語りたい。次のような体験である。最初に葉書の値段についてお話したい。

昭和39年4月、私は岡山県の金光学園高等学校に入学して、山の中にある大正時代に建てられた古い寄宿舎に入った。15歳の春のことだ。一緒に入寮した同期生は約50人だった。入寮したその晩の、69歳の老舎監長・佐藤岩男先生がおっしゃった言葉を今でもハッキリと覚えている。

「週一回かならず親にハガキを書いて近況報告をしなさい。週一回も書くことはないと言う者がいるかも知れないが、それは間違いだ。書くことはいっぱいある。もし本当に書くことがないなら、今夜は何を食べた、昨晩は何を食べたと、1週間分の寄宿舎の夕食の料理を書き並べなさい。それだけで両親は安心される」

各人が一冊のノートを持たされ、文具でも牛乳でも、そして郵便局のハガキでも、すべてツケで買っていた。郵便局でツケでハガキを買うなんて、今思うと不思議な気がする。舎監長先生はこのノートをチェックされる。月4枚のハガキを買っていない生徒は、舎監長室に呼ばれて頭をゴツンと殴られて説教される。このような環境だったので、私はかならず週一回親にハガキを書いていた。大学生になってからもこの習慣は続いた。高校時代・大学時代のハガキの値段は1枚7円だったと記憶する。

大学を卒業して三光汽船に入社したのは、昭和47年4月だ。自宅が東京にある人が数人いたが、関西出身者が多く大部分の新入社員は横浜の寮に入った。このとき、人事総務担当専務の平山隆三さんは、新入社員47人を前に次のような訓示ををされた。私はこれを聞いて、とても驚いた。

「辞令にある通り、君たちはこれから月給5万1千円をもらう。千分の一の50円でハガキが5枚買える。週一回親にハガキを書いて近況報告をしなさい」驚いたのはこれに続く次の言葉である。

「週一回も書くことはないと言う者がいるかも知れないが、それは間違いだ。もし本当に書くことがないなら、会社の寮で今夜は何を食べた、昨晩は何を食べたと1週間分の寮の食事を書き並べなさい。それだけでご両親は安心される」

異なる場所と人の瓜二つの言葉に、私は長い間、不思議な気持ちを抱いていた。平山専務は太平洋戦争末期、大本営の少佐参謀で瀬島龍三中佐の部下だった、と後で他の人から聞いた。それ以前、陸大を卒業してからの1年間は大阪陸軍幼年学校の教官をされていたという。

高校寄宿舎の老舎監長の佐藤岩男先生は、戦争中は寮生の食糧確保のため、地元の教え子の自宅を一軒つ”つ回って米・麦・芋を手に入れるため努力・苦労をされていた。同時に生徒たちと共に山野を開墾して、さつま芋やじゃがいもを植えておられた、そして豚や鶏を飼っておられた、と後になって寄宿舎の大先輩からお聞きした。

食糧難の頃、15・6歳の少年多数を預かっていた先生方は、このような思いで生徒や親たちに接しておられたのかと思い、深く感じ入るものがあった。真面目人間の私は、この尊敬するお二人のいいつけをその後も守り続けた。そしてハガキを書くことが一つの楽しみになった。母親が99歳までボケないで元気でいてくれたおかげで、私は週一回のハガキ書きを60年続けるという幸運に恵まれた。


念のため、当時のハガキの値段を改めて調べてみたが、私の記憶に間違いなかった。昭和36年から46年までは7円。私が社会人になる前年の昭和46年からは10円に改正され、その4年後には20円になっている。2年前の令和6年9月から、ハガキは85円に値上がりした。現在進行中のインフレを考えると、今後2~3年の間には100円を軽く超えると思われる。

ハガキが10円の時、私の初任給は5万1千円だった。ハガキが100円になろうとする現在、大卒初任給50万円は当然の話だと思う。これが、「大卒の初任給は50万円であるべきだ」と私が考える理由の一つである。


吉野山の「白桜」




2026年7月23日木曜日

定年90歳の会社

 さて、このシリーズの冒頭でお話した「定年90歳の会社」のことである。

知人の紹介で、この会社の社長に会うことができた。西新橋にある古いビルで人材紹介の仕事をされている。70代半ば過ぎだが元気そうな人だ。やる気満々の脂ぎった感じの人かと思っていたが、そうではない。ごく普通の人だ。

「90歳まで人材紹介の仕事をされるのですか。頼もしいなあ。私がクビになったら、ひとつよろしく頼みますよ」とお世辞のつもりで言ってみた。

「元気だったら当分の間、この仕事を続けますよ。くたばったら出来ませんなあ。でも90歳でヘッドハンターなんて、みっともなくてやれませんよ」と言われる。なぜみっともないのか分からないが、この人なりの男の美学のようだ。

聞いてみると、この会社には社長以外に従業員が3人いる。一人が77歳の男性、一人が80歳の女性、いま一人が84歳の男性だそうだ。三人とも有能で元気だが、そろそろ年ですから、と引退をほのめかした社員がいたらしい。辞められると困るので「会社の定年を90歳にしましょう」と衝動的に決めたのだという。自分から張り切って定年90歳にしたのではないようだ。自分ももし元気だったら、90歳位までは仕事をするつもりだ、とおっしゃる。

「ヘッドハンターを辞めたら何の仕事をされるのですか?」と水を向けるが、ニヤニヤするだけではっきりとは答えない。話をしていると、「まくわ瓜」「ハミ瓜」「東陵瓜」など、瓜(ウリ)という言葉が頻繁に出てくる。この人は、瓜にずいぶん関心を持っているようだ。

この人の話はとりとめがない。あちこちに話が跳ぶ。瓜の話をしているかと思うと、突然、「召平・しょうへい」という聞いたこともない大昔の人の名前が出てくる。我慢しながら、フムフムと興味深そうに聞いていると、私のことを気に入ってくれたようだ。

「よかったら日を改めて、夕食時においでになりませんか。近くの寿司屋で一献しましょうよ」と誘ってくれる。家族や友人に歴史のうんちくを語りすぎていつも嫌われているんだ、と自分でおっしゃる。私が興味深そうに聞いてくれるのが嬉しいみたいだ。


3日後の夕方、再びこの人のオフィスを訪問した。徒歩2~3分の場所にある寿司屋に連れていかれた。昭和の香りがする普通の寿司屋だ。まずはビールでそのあと、この人は純米酒を冷で一合注文する。私はウイスキーの水割りを頼む。お通し・刺身・焼き魚・お寿司と続くが、味はなかなか良い。この人は機嫌よく農作業のことを得意そうに話す。なんでも、会社の定款には有料職業紹介業ともう一つ、農作物の生産・加工・販売が入っていて、農業も会社の事業の一つだと説明してくれる。どこかの時点で、農業に軸足を移したいと考えているようだ。

広島県の海辺にある実家の農地を会社が借りる形にして、20年ほど前から農業をしている。少額だが農業部門の売り上げもあるそうだ。「里芋とほうれん草は村のプロの農家も一目置くほどの腕前ですよ」と自慢する。近頃は瓜に力を入れているんだが、どうもうまくいかない、とまた瓜の話にもどる。

「秦の始皇帝の頃の人ですが、君は召平(しょうへい)という人を知っていますか」と聞く。まったく知りませんと答えると、この召平という人の一代記を30分ほど聞かされる。初めは我慢して聞いていたのだが、だんだん話に引き込まれていった。面白い。

始皇帝が中国を統一する直前の話だ。召平は当時まだ草深い長安の農家の長男に生れた。15歳のとき一兵卒として秦の軍隊に志願した。武運に恵まれて30代前半の若さで将軍になった。そしてまもなく、東陵候という爵位をもらい、揚子江下流の江南の地を治めることになる。いわば大名になったのだ。

ここまでは良かったのだが、まもなく、秦が滅びて失業してしまった。50歳のとき故郷の長安にもどり、その後50年近く瓜を作って生活した。その瓜の味が良く「東陵瓜」ともてはやされた。死の5日前まで瓜畑の手入れをしていた。そして99歳で亡くなったという。

この人は、召平という瓜作りの名人をずいぶん尊敬しているようだ。自分も召平にあやかりたいと考えているみたいだ。「いつもは日本酒は一合にしていますが、今夜は気分が良いからもう一合頼みますよ!」と女将に追加で注文している。


二合目の冷酒がくると、私の顔を覗きこむように「あまり人には話したことがないんですがねえ」と言う。秘密の話を打ち明けるかのように小声でしゃべりはじめた。初めは照れくさそうにモゾモゾと話すので、言うことがよく分からなかった。整理すると次のような話だ。

10年ほどの前のことだ。この召平という瓜作り名人のことを小説にして「直木賞」が取れないものかと考えた。直木賞を取ったらヘッドハンターを辞めて、文壇にデビューしようと考えた。どうすれば良いかと友人に相談した。ある友人が、文藝春秋社の雑誌に『オール読物』というものがあると教えてくれた。この文芸雑誌で「歴史時代小説新人賞」というのを年一回募集していて、これは新人作家の登竜門だという。南條範夫・藤沢周平・宮部みゆきなどの作家もここで一等賞を取り文壇にデビューしたらしい。これに応募したらどうかとその友人は勧める。合点だとばかりに、すぐに「東陵の瓜」という題で短編小説を書いてこれに応募した。

この年の応募数は980編だった。一等から三等までがこの雑誌に掲載される。一次選抜で30編が選ばれて二次選抜に進み、三等までが入賞となる。いきなり一等賞は無理かもしれないが、自信過剰気味のこの人は、自分の作品が三等までに入る可能性があると踏んでいた。ましてや、一次選抜の30編には軽く選ばれると思っていた。「オール読物」の発売当日、本屋がオープンする前から店の前で待っていた。なんと、一次選抜の30編の中に自分の作品名は載っていなかった。以来ひと月ほどは、ションボリして仕事も手につかなかった。

ひと月ほど経って「そうだ」と思い付いた。自分の会社のホームページのブログにこれを載せた。すると、思いのほか読者の反応が良い。機嫌を直して、またやる気を取り戻したのだという。

「もう一度直木賞にトライしてみてはどうですか」とお世辞のつもりで言ってみた。「いや。もうやりませんよ。今の直木賞の審査員のレベルが低い。今東光・海音寺潮五郎・司馬遼太郎、このあたりが審査員だったら可能性があるんですがねえ」とその人は言う。

「君、時間があるときに私の小説を読んでみてくださいよ」と頼まれた。寿司をご馳走になった手前、週末にブログに載っているこの『東陵の瓜』という小説を読んでみた。構想としてはなかなか良い。気宇壮大で、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』や『世に棲む日々』を彷彿させるような箇所もあり、面白い。ただ、文章表現が幼稚だ。素人の域を出ていない。これでは直木賞は無理だと思った。


明日香 石舞台の桜












2026年7月16日木曜日

江戸時代の定年(2)

ここでは、おもに幕末の佐賀藩を例に、当時のサムライの副業について見ていきたい。

GDPが伸びなかったから、二百数十年間ほとんどのサムライの家禄は変わらなかった。武士階級はインフレに悩まされていた。尊王攘夷という思想だけでなく、このあたりにも、もしかしたら明治維新の本質的な原因があったのかも知れない。

佐賀藩には枝吉神陽という立派なサムライがいた。この人は江戸の昌平黌に留学して舎長になり、佐賀にもどり藩校・弘道館の教授になった。「佐賀の吉田松陰」と呼ばれたこの人は、藩校の教授と同時に自分の私塾を経営している。枝吉神陽がコレラで急逝した後、実弟の副島種臣がこの私塾を引き継いだ。大木高任・江藤新平・大隈重信・山口尚芳・久米邦武・香月経五郎などの佐賀藩の英傑たちは、この私塾の門下生である。

枝吉神陽・副島種臣の兄弟が、佐賀藩の若者を教育して立派な人材を育てるという崇高な志を持っていたことは間違いない。しかしそれと同時に、経済的な理由でこの私塾を経営したのではあるまいかと私は考えている。

大隈重信の家禄120石を別格にすると、大木高任45石、枝吉神陽30石、副島種臣15石などの家禄を見ると、経済的には楽ではなかった。江藤新平の場合、なんと家禄7石と記録に見える。これは極貧といってよい。

佐賀藩ではないが、勝鱗太郎だったか福沢諭吉だったか、もしかしたら両者だったかも知れない。知人から英語の辞書を借りてそれを写して二冊の英和辞典を作った。一冊を手元に置き、あとの一冊を3両で売ってお金を得たと聞いたことがある。英語の勉強と同時に収入を得ていた。さすが後世に名を残すだけの人だ。あっぱれだと思う。

佐賀藩士、香月経五郎・三郎兄弟の父親は香月三之允という人だ。幕末にこの人が描いた「拝殿 天井絵馬」が佐賀県有田町の山田神社に奉納され、町の重要文化財として保存されている。この神社は平安時代からこの地を領有していた松浦党有田氏の神社で千年近い歴史を持つ古社である。この人は香月洞谷(淡水)という雅号を持っていた。大正9年に時の宮司であった椎谷孟保氏が著した『山田宮沿革誌』には「狩野派の画伯にて鍋島藩の武士であった香月洞谷がこれを描いて奉納した」とある。この人は当時、代官のような立場で佐賀からこの地に派遣されていたようだ。代官様みずから「俺が描いてやる」とおとこ気を出されたのであろう。本人は経済的には豊かで、「奉納」であるから当然無報酬だったと思う。副業の話からは少しずれるが、江戸時代には、渡辺崋山だけでなくプロ並みの画伯サムライが多くいたことを伝えたく、この話を披露する。

サムライ身分ではないが、伊能忠敬の生き方も興味深い。婿入りした下総の造り酒屋の再興を終えた後、50歳で隠居した。江戸に出て高橋至時という若い先生に入門して、5年間、天文学・測量・地理の勉強をした。55歳のとき蝦夷地の正確な地図をつくるため、江戸を出発して北へ向かった。その後日本列島の海岸線全域を測量して歩き、きわめて正確な「大日本沿岸海與地全図」を幕府に納めている。74歳で没したこの人は、いわば一人で二人分の人生を体験したといって良い。素晴らしい生き方だと思う。

人は、役所や会社が決める定年という概念の中で生きるのではなく、自分に合った生活スタイルの中で、70でも80でも、あるいは90歳でも、元気なうちは働き続けるのが良いと、私は思っている。


1・2年前まで「失われた30年」という、日本の経済成長のなさを揶揄するような言葉がよく使われていた。私はこの言葉に反発する気持ちを持っていた。GDPの拡大・所得の増加・株価の上昇だけをもって善とする、品のないアメリカ式の考え方に日本人が染まってきたことへの反発と嘆きの気持ちである。

この論法でいえば、江戸時代は「失われた270年」ということになる。事実は決してそうではない。戦乱のない平和・文化芸術の興隆・世界に類を見ない国民の高い識字率・高い道徳観、これらがあったからこそ、明治維新後、短期間をもって西欧文明を導入することができたのだと考えている。

GDPの拡大はなかったが、この30年間、日本では国家分断のきざしは見えていない。言論の自由が保障された国であるから、人それぞれの考えや主張は異なる。それはそれで良い。しかし、アメリカをはじめとする西欧の国々に比べて、国民の意思はけっこう統一されている気がしている。これは素晴らしいことであり、同時に日本の強みであると考える。日本人が謙虚な気持ちを失わないで前向きに努力を続ければ、今後30年の日本の将来は明るいのではないか。私は日本の将来を楽観している。

ただ、一つ解決しなければならないことがある。現在のアメリカの属国という立場から、平和的な方法によって、普通の独立国家にもどる必要がある。真の独立国になりたい。あの戦争に敗北してあと20年で100年になる。そろそろ、この問題をかたずけなくてはいけない。私はこれは可能だと考えている。

吉野山 下千本の桜









2026年7月9日木曜日

江戸時代の定年(1)

 江戸時代の定年についてながめてみたい。この時代の定年は、幕府や藩が定めたのではなく自分自身が決めていたようだ。表向きは江戸時代の定年はずいぶん早い。各人それぞれなので、正確には言えないが、おおざっぱな数字でいえば45歳とか50歳ではあるまいか。

それは、武士階級では50歳ぐらい、早い人では45歳ぐらいで「隠居」していたからである。江戸時代のサムライの家禄は、よほど大手柄を立てないかぎり、何百年間も変わらなかった。理由はGDPが増えなかったからだ。しかし貨幣経済なのでインフレはあった。よって、幕末のサムライの多くは副業(アルバイト)に精を出していた。

江戸時代中期の少し前、全国の多くの大名が、堤防を築いて干拓をし、また荒野を開墾して田畑を増やすべく努力している。これにより、ある程度の国土の農耕面積は拡大している。しかし世界各地に植民地を獲得し、また産業革命に成功したオランダ・イギリスをはじめとする欧州列強のような、急激なGDP増加と人口増加は江戸時代の日本では起きていない。

当時は結婚が早かった。父親が50歳になると長男が30歳を超えることも珍しくなかった。30を過ぎた息子を無職でブラブラさせるわけにはいかない。父親が隠居して長男に家督をゆずるケースが多くなる。武士階級のこのようなやりかたを、豪商たちも真似るようになる。


鬼頭宏という歴史人口学者が書いた『人口から読む日本の歴史』という良書がある。これによると、慶長5年(1600)の日本の人口は3128万人、246年後の弘化3年(1846)は3230万人とある。ちなみに、この本には明治6年3330万人、大正9年5596万人とある。GDPが増えないから二百数十年間、人口が増えなかったわけだ。

興味をそそられるのは、若くして隠居した(定年になった)サムライたちが何をしたかということだ。もちろん、本当に隠居して盆栽の手入れをしたり、歌舞伎などの芸能を楽しみながらブラブラ遊んだ人もいたであろう。

しかし、隠居したあとも、多くのサムライたちは何かしら仕事をしていたようだ。剣術指南や四書五経を教える儒学の師匠、このあたりは常識的である。絵師・書家・和歌俳諧の師匠になったサムライも多い。なかにはヘンテコな仕事を始めた人もいる。古典落語に「あくび指南」という演目がある。あくびの仕方を教えてお金を取っていたサムライがいたとういうから驚く。

ユーチューブで、「小三治 あくび指南」と検索するとこれを聞くことができる。何人もの噺家の「あくび指南」があるが、小三治が群をぬいて面白い。


談山神社の桜







2026年7月2日木曜日

奈良時代・平安時代の定年

 奈良時代・平安時代、日本人は定年というものについてどのように考えていたのか。これを振り返ってみたい。その頃は株式会社というものはないので、該当する人々は役人ということになる。農民や漁民・商工業に従事する人々は、元気であれば、いわば死ぬまで働いていたという認識で正しいと思う。

月一回、数日間、郷里広島県の農園で畑仕事を続けている私には、現在でも農村では昔と変わらないように思える。元気な者は80歳でも85歳でも働いている。90を超えて畑仕事をしている人は私の村には何人もいる。ポツンと一軒家だけでない。日本全国の農村・山村・漁村では、同じように80歳を過ぎた人が数多く働いている。


「奈良時代の役人の定年70歳」という題で7年ほど前このブログに掲載したので、重複は避けたい。ポイントを整理すると次のようになる。

①奈良時代の中央官庁の役人(国司・現在の県知事・を含む)の定年は70歳だった。これは唐の律令制度をそのまま導入したからである。

②かたや、地方の役人(郡司およびその部下たち)の定年はなかった。飛鳥時代・奈良時代には70代・80代の老齢の、中には認知症でよぼよぼした、地方役人が何人もいたのだ。

大化の改新のあと、天智天皇と中臣鎌足は中央集権国家をつくったのではあるが、それは地方豪族たちの協力(サポート)を前提としていた。西欧と異なり大和朝廷の基本方針は、敵対する者を皆殺しにして絶対的強権を持つのではなく、地方豪族たちの協力と支持のもとに、共に存在しようとしたゆるやかな政権であった。「和をもって尊し」を基本としたようだ。

よって、大化の改新の後、大和朝廷は地方の有力豪族たちの反乱を恐れていた。彼らの職を奪うことへの反発を極度に恐れていたのだ。それゆえに、定年無しの障害を承知の上で、郡司以下の地方役人たちの人事をすべて地方豪族に一任している。郡司以下の地方役人に70歳の定年制が導入されたのは、じつに、大化改新から89年後の聖武天皇の御代・天平6年(734)4月26日のことだと、『続日本紀』は記している。この頃になってやっと、大和朝廷の権力基盤は盤石となったのだ。


平安時代末期のサムライの話をしたい。これを「定年」という言葉でいうのはどうか、とも思うが、89歳で死んだこのサムライはその死の瞬間までバリバリの現役であったことを考えれば、「89歳で現役を退いた」というのは間違いではない。

私はこの話が気に入っている。物語的なタッチになるが、このサムライ・三浦大介義明(みうらのおおすけ・よしあき)のことを紹介したい。

源頼朝が伊豆で挙兵したのは、治承4年(1180)8月である。平家側の反撃により敗北した頼朝は、相模湾をわたり安房に脱出すべく、落ち武者たちと共に小舟で真鶴港を出帆した。

平家側から頼朝寄りと見られていた三浦大介は、このとき三浦半島の衣笠山の城にいた。頼朝は「支援を頼む」、と使者をこの城に派遣していた。平家側は多数の軍勢をもってこの衣笠城を攻撃した。ここから先は、迫力ある司馬遼太郎の筆にゆだねたい。


三浦大介義明はこの城のそばで生まれ、ここで死んだ。生涯は89年で当時としては奇跡のような長寿である。大介は病床にいた。床(とこ)を払わせ、一族をあつめ、戦え、と命じた。「われらは累代の源氏の家人(けにん)である」ともいったらしい。一日、平家側との攻防戦があった。

夜に入って大介義明は子供らを招き、「わしは十分に生きた」と言い、このわし一人をこの城にのこせ、といった。一同は海へ落去せよ、しかるのちに佐殿(すけどの・頼朝)をさがし、御行末(おんすえ)を共にすべし、と命じた。これは、わしの命令(げち)である、抗(あがら)うな、とも言った。一同は、結局そのようにせざるをえなかった。翌朝、義明はわずかな郎党とともによく戦い、やがて自刃した。城は落ちた。

落人の頼朝は、いまの東京湾口を小舟で漂っていた。そこへ衣笠城からきた三浦勢と海上で出会う。たがいに、奇跡だった。その上、三浦勢は無傷の新鮮な兵力であり、そのおかげで、房総半島に上陸しても、土地の者たちからあなどられずに済んだ。頼朝は、この海上での邂逅を、終生わすれなかった。

はるかのち、頼朝は、三浦大介義明の十七忌がこの衣笠山で営まれたとき、鎌倉から来、墳墓に拝礼した。そのとき、頼朝は、生ける大介に語りかけるように、「私はあなたとともに生きている」と、ふしぎなことをいった。どうやら論理的にいえば、あなたはあのとき死んだのではない、私とともにこの十七年生きてきた、私はそのようにみなす、という意味だったらしい。

この時代、恩賞は、生者に厚く死者に薄かった。頼朝は義明を生者とみて、その菩提寺に多くの禄を寄進したのである。義明の死は数え年89だった。それに17年足せば百六つになる。江戸時代のめでためでたやの門付け歌の、「鶴は千年、亀万年、三浦大介百六つ」の「三浦大介百六つ」が鶴や亀よりもめでたいとされるのは、死んでもなお生けるがごとく禄をもらったからというのである。


吉野山 奥千本の桜 西行庵前











2026年6月25日木曜日

明治以降の定年(2)

 それでは、陸軍の大佐(聯隊長)の定年を55歳に定めた理由はどこにあるのか。「体力」というのが第一の理由の気がする。


私は以前、『香月経五郎と三郎の美学』という小冊を書いた。その中での話である。

明治37年11月30日、乃木第三軍の配下にあった後備歩兵第十五聯隊長の香月三郎は、聯隊の三分の一の900人の決死隊を率いて203高地を攻略した。頂上の占領に成功した後、生き残った15人の部下と共に山を下りたのは12月6日である。この聯隊の203高地での戦闘は8日間におよんでいる。出撃するとき各人は2日分の食糧と水を背負っていた。旅順の山頂の寒風の中で岩肌にしがみつきながらの戦闘で、この間、香月聯隊長はほとんど睡眠をとっていない。戦死した戦友やロシア兵の持つ水・食糧で命をつないだのであろうが、この成功の裏には聯隊長の強い精神力と同時に強靭な体力があった。

戦場においては、ときに、このような過酷な環境に身を置くことがある。聯隊長に強靭な体力が求められたことは理解できる。

先表の大佐の定年「陸軍55歳・海軍54歳」に、私は首をかしげている。海軍大佐の場合、大型艦の艦長・航空隊の司令だから、陸軍の聯隊長にくらべると戦闘時においてもそれほど体力を要しない気がする。これが逆であれば納得できるのだが、海軍大佐の定年が陸軍大佐より1歳若いことの理由は、私にはわからない。

数年前、私は役職定年という制度に興味を持った時期がある。お客様の人事の方々にお会いするたびに「おたくの役職定年は何歳ですか?」としきりに聞いていた。「うちは54歳です、うちは55歳です」と決まってこの二つの年齢を答えられた。他の年齢は聞いたことがない。ははあ、ここは海軍式だな、ここは陸軍式だな、と思った。

軍が定年を定めた二つ目の理由は、「新陳代謝」という考え方であろう。陸士・海兵を卒業した若い将校に対して、適度なインターバルで、昇進の機会を与えてやらなばならない。

この二つの考えを基に陸海軍の定年制が決まり、それを真似して明治以降の大企業は定年・役職定年を定めたのだろうと私は考えている。

第二の理由については今なお考慮する必要があるが、第一については現在は大きな意味を持たない。企業はすでにこのことに気付いて、役職定年および定年そのものを伸ばしているのだと思う。


私は、定年を65歳にあるいは70歳に延長すべきだという、積極的な自分の考えは持っていない。ものごとには一長あれば一短がある。各企業が考えれば良いことで、正直どっちでも良いと思っている。定年問題について国が指針を出すのもどうかな、と否定的に考えている。

ただ、私がどう思おうが、多くの日本企業の定年は今後3年以内に65歳になり、5年以内に70歳になるに違いない、と考えている。

国家が行うべきことは、定年延長の指針を示して企業に圧力をかけることではなく、健康で働く意欲がある60代・70代・80代の人たちが、やる気が出る政策を実行することではあるまいか。改革すべきと考えるのは、たとえば年金支給の問題である。65歳以上の人で一定金額以上の収入のある人には、基礎年金は支給されるが厚生年金は支給されないと聞く。

この考え方の背景には、奈良時代から現在まで続く、貧富の差を少なくしようとする日本特有の平等思想がある気がする。ある意味、社会主義的なものの考え方であり、これは仏教の影響から来たものだと思う。私自身はこの考え方は立派で尊重すべき考えだと思っている。西欧文明にはあまり見ない優れた点だと思う。ただ、年金支給の問題に関しては、元気な高齢の日本国民のやる気を削いでいるのではないかと心配している。

「年金は貴殿が支払ったものが原資なので、その年齢が来たら希望者には全額支給します。その後、働ける人は年収一千万円でも二千万円でも稼いでください。そして、それにふさわしい所得税を国に収めてください」このような考えを国民に示し、元気な60代・70代・80代の国民にやる気を起こさせることが大切ではあるまいか。そうすれば、国全体が明るくなり活力がみなぎり、日本全体の国力が強化されるのではないか。私はこのように考えている。


吉野山 中千本の桜








2026年6月18日木曜日

明治以降の定年(1)

 長いあいだ「シルクロードのものがたり」という題で、転職に関係ないことを掲載してきた。「人材紹介会社だろ、もっと仕事に関係あることを書いたら」と、お叱りに近いアドバイスをいただいたこともある。もっともだと思う。

ごく最近のことだが、「小さい会社だが定年90歳の会社が東京の港区にあるらしい」という噂を聞いた。この会社のことは、後半でお話ししたい。

ここでは、「明治以降の定年」・「奈良時代・平安時代の定年」・「江戸時代の定年」・「定年90歳の会社」・「大学卒の初任給50万円」という題で、日本企業の「定年」と「初任給」の問題について、数回にわたり考えてみたい。


まずは「定年」についてである。いま流行のAIに「日本の定年制は?」と聞いてみると、「日本の定年は法律上は60歳未満の定年は禁止されていて、65歳までの雇用確保が企業の義務、70歳までの就業機会確保を企業の努力目標としている」と答えてくれる。

数年前、このブログで「奈良時代の役人の定年70歳」と題して二回ほど掲載した。AIさんの言うのが正しければ、現在の日本は定年に関しては、奈良時代に戻ろうとしているかのようだ。大化の改新時や奈良時代の定年については、後半でもう一度簡単に振り返ってみたい。

まず最初に、明治維新以降、明治・大正・昭和から現在まで続いている「大企業の定年制度」について、どのような理由でこのように定められたのか考えてみたい。

数年前には「54・5歳で役職定年になります。その後は給与が大幅に下がるので、今の給与がキープできる会社があれば転職したい」とおっしゃる方が少なからずおられた。この種の転職希望者はこの1、2年減っているような気がする。企業が役職定年を伸ばしているのか、もしくはその年齢に達し役職定年になった場合でも給与の減額を少なくしているのか、いずれかであろう。若者の人口が減っているので、高齢者に働いてもらわないと困るのかも知れない。

それでも、今なお、この役職定年という制度は、いくつもの大企業では残っている。日本の大企業はなぜ、こういう制度を定めたのであろうか。


私は学生時代から戦記物の本を読むのが好きで、かなり多く読んできた。それらの知識から、「明治以降の大企業の定めた定年・役職定年は、旧陸軍・海軍の定年制を真似したのではあるまいか」と以前から考えている。明治・大正期だけでなく昭和になってからも、大企業の場合「役員を除く職員の定年そのものが54歳・55歳」というケースが多かった。

「陸海軍現役将校定限年齢表」というものが手元にある。明治・大正・昭和とも大きくは違わない。昭和期の表には次のようにある。

大佐  陸軍55歳 海軍54歳

少将  陸軍58歳 海軍58歳

中将  陸軍62歳 海軍62歳

大将  陸軍65歳 海軍65歳

ここでは「大佐」という地位に焦点を当てて定年について考えてみたい。というのは、陸軍士官学校や海軍兵学校を卒業した若手将校たちが、立身出世の一つの頂点と考えていたのがこの大佐のポジションであったからだ。もちろん上位5パーセントほどの優秀な将校は陸軍大学校・海軍大学校に進み、将官を目指した。しかしこの将官というものは能力以上に運の部分が大きく、「大佐まで昇進できれば、まずは成功」というのが陸士・海兵を卒業した若手将校のほぼ共通した認識であった。

大佐の位階(いかい)は「従五位・じゅごい」だから、国家の定める社会的地位は県知事と同格だ。この位階というものは、天皇と本人との距離を示す。陸軍なら三千人の将兵を指揮する聯隊長であり、海軍なら巡洋艦・戦艦などの大型軍艦の艦長、もしくは航空隊の司令で千五百人から三千人の将兵を指揮した。中央官庁に勤務する大佐は、陸海軍共に「課長」で、極めて大きな権限を持っていた。

給与は昭和期であれば、月額370円・年額4400円で別に賞与が出た。戦地勤務の時は別に戦地手当てが出た。べらぼうに高いとはいえないが、定年まで勤務すれば子供に大学教育を受けさせ、貸家の2、3軒を持つことができた。それに加えて軍人恩給が相当高額であったから、家族を含めた自身の生活には困らなかった。もっとも、太平洋戦争の敗北により軍人恩給の支給停止とインフレによって、かつての職業軍人の生活が困窮したのは事実である。


筆者近影






2026年5月1日金曜日

魏晋南北朝・「木蘭(もくらん)の詩」(2・完)

 シルクロードのものがたり(106・完)


木蘭(もくらん)の詩    無名氏

喞喞(そく・そく) 復(ま)た喞喞(そく・そく)

木蘭 戸(こ)に当たりて織(お)る

機杼(きちょ)の声を聞かず

唯(た)だ女(むすめ)の嘆息(たんそく)を聞くのみ

女(むすめ)に問う 「何の思(おも)う所ぞ」

女(むすめ)に問う 「何の憶(おも)う所ぞ」

「女(むすめ) 亦(ま)た思う所無く

女(むすめ)亦(ま)た憶う所無し

昨夜 軍帖(ぐんちょう)を見るに

可汗(かかん)大いに兵を点(てん)じ

軍書十二巻

巻巻(かんかん)に爺(ちち)の名有り

阿爺(ちち)に大児(だいじ)無く

木蘭に長兄無し

願わくは為に(ため)に鞍馬(あんば)を市(か)い

此(こ)れより爺(ちち)に替(かわ)って征(ゆ)かん」

松枝茂夫氏は次のように訳している。

ハーッ、ハーッ、しきりにため息をつきながら、木蘭が戸口に向かって機(はた)を織っている。機の音はとだえがちで、木蘭のため息ばかりが聞こえてくる。「木蘭よ、おまえはだれのことを思っているのか、何を思い出しているのか」

「いいえ、わたしはだれを思うのでも、何を思い出したわけでもありません。わたしは昨夜、徴兵名簿を見たのです。このたび国王は大規模な徴兵を命ぜられ、名簿は十二巻にものぼりましたが、どの巻にもお父さんの名前が記載されていました。(私のお父さんは年老いていて病弱です・田頭挿入)お父さんに代わって兵隊になるような男の子がありません。わたしの上には兄もいないのです。私は馬と馬具を買って装備を整え、これからお父さんの代わりに出征する決心をいたしました」


東市に駿馬(しゅんめ)を買い

西市に鞍韉(あんせん)を買い

南市に轡頭(ひとう)を買い

北市に長鞭(ちょうべん)を買う

旦(あした)に爺嬢(ちちはは)を辞し去って

暮(くれ)には黄河の辺(ほとり)に宿(やど)る

聞かず 爺嬢(ちちはは)の女(むすめ)を喚(よ)ぶ声を

但(た)だ聞く 黄河の流水の鳴くこと濺濺(せんせん)たるを

旦(あした)に黄河を辞し去り

暮(くれ)に黒山の頭(ほとり)に至る

聞かず 爺嬢(ちちはは)の女(むすめ)を喚(よ)ぶ声を

但(た)だ聞く 燕山(えんざん)の胡騎(こき)の鳴くこと啾啾(しゅうしゅう)たるを

木蘭はあちこちの市場をめぐり歩き、駿馬と馬具類ー鞍・鞍敷・くつわ・鞭ーを買いととのえた。ある日の朝、父と母に別れを告げた木蘭は、日暮れに黄河のほとりに達して一夜の宿をとった。もはや父母の娘を呼ぶ声は聞こえず、黄河の流れのザーッ、ザーッという響きが聞こえるだけである。翌朝、黄河を離れ、夕方には黒山のふもとに達した。もはや父母の娘を呼ぶ声は聞こえず、燕山の胡人の乗馬のもの悲しいいななきが聞こえるだけである。


万里 戎機(じゅうき)に赴(おもむ)き

関山(かんざん) 度(わた)ること飛ぶが若(ごと)し

朔気(さくき) 金柝(きんたく)を伝え

寒光(かんこう) 鉄衣(てつい)を照らす

将軍は 百戦して死し

壮士(そうし)は 十年にして帰る

木蘭の従軍した部隊は、遠く万里の彼方、決戦場へと向かった。まるで飛ぶかのように、関所の山をつぎつぎに越えていった。北の冷たい空気がドラの響きを伝え、冷たい光がよろいを照らす。このような戦場で、百たびもの戦いのすえ将軍は戦死したが、若き兵士木蘭は従軍十年ののち、ようやく帰還することができた。


帰り来たりて 天子(てんし)に見(まみ)ゆるに

天子 明堂(めいどう)に座(ざ)す

策勲(さくくん)は 十二転し

賞賜(しょうし)は 百千強なり

可汗(かがん) 欲する所を問う

「木蘭は尚書郎(しょうしょろう)を用(もち)いず

願わくは 千里の足を馳(は)せ

児(じ)を送って 故郷に還(かえ)さんことを」

帰還した木蘭は国王に召し出された。国王は明堂(重要な政務をとるときの御殿)に座して引見した。その功をねぎらって一足飛びに十二階級も昇進させ、千を越える賞与の品々を賜った。そして、さらに言葉をかける。「ほかに欲しいものがあれば申してみよ」木蘭は答えた。「わたくしは尚書郎(注・中央官庁の課長・部長級の地位)というような高い位は望みません。それよりも一日千里を走る馬を駆って、少しでも早く、わたくしを故郷に帰していただきたいのでございます」


爺嬢(ちちはは)は 女(むすめ)の来(きた)るを聞き

郭(かく)を出でて 相扶将(あいふしょう)す

阿姉(あね)は 妹の来るを聞き

戸(こ)に当たって 紅妝(こうしょう)を理(おさ)む

小弟(おとうと)は 姉の来るを聞き

刀(とう)を磨き 霍霍(かくかく)として豬羊(ちょよう)に向かう

我が東閣(とうかく)の 門を開き

我が西閣(せいかく)の 牀(しょう)に座し

我が戦時の 袍(ほう)を脱ぎ

我が旧時(きゅうじ)の 裳(しょう)を着け

窓に当たって 雲鬢(うんびん)を理(おさ)め

鏡(かがみ)に対して 花黄(かこう)を付(つ)け

門を出でて 火伴(かはん)を看(み)るに

火伴(かはん) 皆(み)な驚惶(きょうこう)す

「同行すること十二年 知らず 木蘭の是(こ)れ女郎(じょろう)なるを」

父と母は娘の帰還の知らせると聞くや、城門を出て、手を引きあいながら迎えた。姉は妹が帰ると聞くや、戸口に向かってお化粧を始めた。弟は姉が帰ると聞くや、シュッシュッと刀を研いで、さっそく豚や羊を屠(ころ)しにかかった。やがて木蘭は家に着くと、わが家の東の二階家の戸を開けて入り、西の居間の寝台に腰をかけた。これまで着ていた軍服を脱いで、むかしの衣裳を身につける。窓に向かって髪をととのえ、鏡を見ながら白粉(おしろい)をつけた。その姿で表に出ると、同行の戦友たちは、ひとり残らずびっくり仰天。十二年間も行を共にしていながら、木蘭が女であることにだれも気がつかなかったのだ。


西域や蒙古の人たちは、あまり風呂に入らないらしい。しかし水浴くらいはするだろう。十二年間だれも気付かなかったとは考えられない。不思議、不思議である。

いやいや。そんな細かいことは言うまい。木蘭の生還を心から喜ぶ。めでたし、めでたしであった。













2026年4月24日金曜日

魏晋南北朝・「木蘭(もくらん)の詩」(1)

 シルクロードのものがたり(105)

魏晋南北朝時代とは、後漢が滅び隋が中国を統一するまでの動乱の期間をいう。西紀220年から589年までの約370年間で、この時代には数多くの王朝が中国大陸に割拠した。この時代にも数多くの西域詩がつくられているが、その多くは悲しい詩である。その中にあって、珍しく前向きで清々しい詩を見つけた。これを紹介したい。


「木蘭の詩」という。私はこれを読んで感激した。久しぶりに瞼が潤んだ。木蘭という美少女の心意気に勇気をもらった。この詩には王維の「少年行」の最後の句、「縦(たと)い死すとも猶(な)お侠骨(きょうこつ)の香(かんば)しきを聞かしめん」の気迫が感じられる。

かなり長い詩で、短編小説のようでもある。この詩をもって「西域詩の紹介」を終えたいと思う。同時に、今まで100回以上にわたって掲載してきた「シルクロードのものがたり」を終了したいと考えている。少し長くなるが、最後までおつきあいいただけるとありがたい。

これは北魏(AD386-535)のころの詩だ。中国には孔子様の生きた戦国時代と、諸葛亮孔明が五丈原で魏と戦った三国時代、過去に二度「魏」という国があった。邪馬台国の女王・卑弥呼が「親魏倭王」の金印をもらったのはAD238年のことで、これは二番目の魏から受けている。

これらと区別するために、三番目の魏のことを「北魏」と呼んでいる。この北魏が滅んだあと50年ほどいくつかの王朝が興るが、それらを滅ぼして589年に統一王朝を建てるのが「隋」である。


この「木蘭の詩」は、この北魏のころに流行した民歌だといわれる。木蘭という名の美少女が老父の代わりに男装して従軍し、大功を立てて凱旋したという実話にもとつ”いて作られた詩で、木蘭本人の作ではない。木蘭という美少女の姓は「花・か」といい、それ以外のことは残っていない。

この項の原稿を書いているとき、古い友人のKさんにランチをご馳走になった。「こんな詩を読んで感激しました」と言うと、「そんな内容の映画、たしか数年前に放映されましたよね」とおっしゃる。しばらくして「ムーラン・戦場の花」という題名だとの連絡をもらった。ビデオをAmazonで購入しようとネットで調べていたら、無料で今すぐパソコンで観れるとの表示があった。仕事を放り出して、すぐにその90分の映画を観た。

たしかにその通りで、従軍する若い兵士の胸に「花木蘭」と木の名札がつけてある。木蘭の勇敢な戦闘シーンを手に汗を握りながら観る。そして匈奴の大軍に追い詰められ、敗北のシーンに移る。将軍も戦死して、しまいには木蘭を含め数名の兵士しか残っていない。

「これはジョン・ウェインの西部劇『駅馬車』の映画と同じだ。観客をハラハラさせておいて、絶体絶命のところで騎兵隊の大軍が現れてアパッチの集団から駅馬車を助けたように、きっと魏の援軍が助けに来るに違いない」

私はこう思って、イライラしながら今か今かと待っていた。ところが援軍は来ない。木蘭たち全員は戦死してしまう。私はがっかりした。「魏のために死す!」と木蘭に言わせて、木蘭を戦死させるほうが観客の胸を打つと、映画の監督は考えたのかも知れない。

このことをKさんに伝えた。「あれっ、私が観た映画では、絶対絶命の局面で魏の皇太子が大軍を率いて助けに来ましたよ。木蘭は無事生還しますよ」とおっしゃる。この映画には二つのバージョンがあることを我々は知った。私が観たのが最初のバージョンの気がする。これに対して観客からのブーイングが強く、Kさんが観た第二バージョンを制作したのだろうか。

映画の製作にはこのようなことが時にあるらしい。西部劇の「荒野の決闘(原題・いとしのクレメンタイン)」や寅さんの「男はつらいよ」にもこの種の話を聞いたことがある。

これは現在の中国の映画製作者の感性の問題なので、この「木蘭の詩」の本質とはまったく関係がない。前置きが長くなってしまった。本題に入る。

(次号に続く)






2026年4月17日金曜日

漢代の詩・二首

 シルクロードのものがたり(104)


非愁(ひしゅう)の歌    伝 烏孫公主(うそん・こうしゅ)

吾(わ)が家 我を嫁す 天の一方(いっぽう)に

遠く異国の 烏孫王(うそん・おう)に託す

穹廬(きゅうろ)を室(しつ)と為し 氈(せん)を壁と為し

肉を以て食と為し 酪(らく)を漿(しょう)と為す

居常(きょじょう)に土(くに)を思うて 心内(うち)に傷む

願わくは黄鵠(こうこく)と為りて 故郷に還(かえ)らん

この女性は漢の武帝の甥にあたる江都王・劉建(りゅうけん)の娘で、名を細君(さいくん)という。烏孫(うそん)国の王、昆漠(こんはく)に嫁した。昆漠の老後はその孫の岑陬(しんすう)の夫人となった。 烏孫国とは新疆とカザフスタンとの国境近く、イリ河流域・天山山脈の北西あたりにあったトルコ系遊牧民族の国である。

当時、漢帝国は西方に勢力を拡大しており、このとき、たまたま烏孫国とのあいだに平和条約が結ばれ、その証明として王族の女性を嫁がせたのである。いわば政略結婚であり、人質ともいえる。このような嫁入りのときは、たった一人で行くのではない。お付きの者が数百人も同行し、その中の数十人は現地で一生、主人である女性公主と生活を共にしたようである。

この詩は本人の自作ではなく、彼女に同行した漢人が公主に代わって、遠く異国に嫁した悲しみを歌った詩といわれている。松枝茂夫氏は次のように訳している。

わたしは天の果てに嫁がされ、遠い異国の烏孫王に身を託すことになりました。丸い天幕(パオ)がわたしの住み家、毛氈(もうせん・毛織の布)が部屋の仕切りです。主食は獣の肉、飲みものは獣の乳。明けても暮れても本土のことを思って胸が痛みます。できることなら大型の雁(かり・ガン)になって、故郷に帰りたいものを。

私の部屋の本箱の片隅に高校時代の漢文の教科書が置いてある。覗いてみたら、この詩が冒頭に出ている。読み下し文もない、和訳もない、漢文だけである。他の箇所の陶淵明の詩も、司馬遷の『史記列伝』も、すべて漢文だけで書かれている。16、7歳の頃、ずいぶん難しいことを教えられていたものだ。


この詩も悲しいが、次の詩はもっと悲しい。これは後漢(AD25-AD220)の時代のものと思われる。

十五にして軍に従いて征く   無名氏

十五にして軍に従いて征(ゆ)き

八十にして始(はじ)めて帰るを得たり

道に郷里に人に逢(あ)う

「家中(かちゅう) 誰か有(あ)る」

「遥(はる)かに看(み)ゆるは 是(これ)君が家」

松柏(しょうはく) 塚(つか) 累累(るいるい)たり

兎(うさぎ)は狗竇(くとう)より入(い)り

雉(きじ)は梁上(りょうじょう)より飛ぶ

中庭(ちゅうてい)には旅穀(りょこく)を生じ

井上(せいじょう)には旅葵(りょき)を生ず

穀(こく)を舂(つ)きて 持って飰(めし)を作り

葵(あおい)を採(と)りて 持って羹(あつもの)を作る

飰(めし)と羹(あつもの)は一時に熟するも

知らず 阿誰(たれ)にか貽(おく)らん

門を出でて 東に向かいて看(み)れば

涙落ちて 我が衣(ころも)を潤(うるお)す

十五で徴兵されて従軍し、八十になってやっと帰郷することができた。道で郷里の人に会い、「わが家には誰かいるかね」とたずねると、「ずっと向こうに見えるのがあなたの家です」と答える。見ればマツやカシワの木がはえ、土饅頭がいくつも重なっている。ウサギがイヌの通り抜けの穴から出入りし、キジが梁(はり)から飛び立つ。庭には野生の穀物が一面にはえ、井戸のまわりには野生のアオイがはえている。さっそく穀物を舂(つ)いて飯を作り、アオイをつんでスープを作った。飯とスープはすぐにできたが、さて一緒に食べてくれる人は誰もいない。門から出て、はるか東方をながめれば、涙はとめどなく流れて着物を濡らす。

なんとも悲しい詩である。

15歳で従軍したというのは理解できるが、80歳の老兵というのは世にいない。おそらくこの人は、蘇武や李陵と同じように、働き盛りのころ、匈奴か胡人の捕虜になったのであろう。北方もしくは西域の地で何十年もの捕虜生活を送り、捕虜交換条約が成立して帰国を果たしたのであろう。それにしても、悲しい詩である。