2022年12月12日月曜日

李陵と蘇武(1)

 シルクロードのものがたり(4)

李陵と蘇武(そぶ)は若い頃から20年の友人だった。蘇武のほうが少し年長と思える。

蘇武が北へ立ってまもなく、武の老婆が病死した時、陵はその葬儀に参列した。その一年後、陵が北征出発の直前、蘇武の妻が良人が再び帰る見込みがないと知って、家を去って他家に嫁いだという噂を聞き、友のためにその妻の浮薄(ふはく)を憤った。二人はそのような仲であった。

捕虜となった李陵の待遇は悪いものではなかった。いや、匈奴は彼を優遇した。理由はその勇気にあった。単于(ぜんう)は手ずから李陵の縄を解き、李陵ほどの手強い敵に遭ったことがないと陵の善戦を褒めた。単于の長男・左賢王にいたっては、好意というより尊敬の念を持って李陵に接した。いわば、弟子として李陵の指導をあおぐとの姿勢をとった。単于は陵に大きな住居(ドーム型の天幕)と数十人の侍者を与え、陵を賓客として遇した。

善戦したにもかかわらず、母国の漢は陵を裏切者として、その家族全員を殺した。かたや敵である匈奴は、陵の勇気を高く評価して下にもおかぬ厚遇でもてなす。李陵にとって奇妙な生活がはじまったのである。

李陵が捕虜になったのは天漢二年(前99年)の秋である。じつはその一年前から、蘇武は軟禁のかたちで胡地に引き留められていた。

「漢の中郎将蘇武」、「騎都尉(きとい)李陵は歩卒五千を率い」と「漢書」にあることから、両者は後世の日本陸軍でいえば中将か少将クラスの地位にあったと思える。

蘇武は李陵のように匈奴を撃つために胡地に入ったのではない。平和の使節として捕虜交換の団長として、いわば外交官の立場で遣わされた。ところが、その副使・某(なにがし)がたまたま匈奴の内紛に関係したため、使節団全員が囚われの身となった。蘇武は匈奴のこの無礼に対し強く抗議した。それが受け入れられないと知ると、辱めを避けようと自ら剣を取って自分の胸を貫いた。匈奴の伝統の荒療治のおかげで、蘇武は息を吹き返した。

匈奴の単于は、あらためて蘇武の勇気に惚れ込んで、熱心に投降して家来になることを勧めた。しかし蘇武はかたくなにこれを拒んだ。あきれはてた単于は、それでも蘇武を殺さず、部下に命じて、蘇武をバイカル湖のほとりのほったて小屋に追いやって羊を飼わせるように命じた。

「牡羊(おひつじ)が乳を出すまでは帰ることを許さぬ」と単于が言ったと、「漢書」は記している。ところが不思議なことに、19年の後、蘇武は無事に故国の漢に帰国することになる。

李陵はそれなりの待遇を受け、現在のウランバートルの北方、バイカル湖の南方で生活をしていた。かたや蘇武は、そこからさらに北のバイカル湖のほとりの丸太小屋に住み、質素な生活をしながら羊を飼っていた。二人は時おり会っていたという記述があるので、李陵は蘇武に酒や食料の差し入れをしていたかも知れない。

蘇武が囚われの身となったのは前100年、李陵が捕虜になったのは前99年、武帝の崩御は前87年である。そして蘇武が19年間の羊飼い生活ののち、漢に帰国するのは前81年だと「漢書」は記している。

蘇武の漢への帰国の話は、昔から有名だ。


外交官として派遣された蘇武の一行が帰国しないので、当初から漢は外交ルートを通じて、「どうなっているのだ!」と頻繁に匈奴に問い合わせていた。そのたびに、「蘇武はすでに亡くなった」と匈奴側は返答していた。不信に思いながらも、漢側には打つ手がなかった。

19年目になって、蘇武に従って胡地に入った常恵(じょうけい)という者が(この人はもとは胡人であるらしい)漢の使者に、「蘇武は生きている。次のような嘘をもって単于に働きかければ、蘇武を救出できるかもしれない」と教えた。

「漢の天子が皇室の大御苑で得た雁(かり)の足に、蘇武の ”生きている” との帛書(はくしょ・布に書いた手紙)がついていた」こう言って、漢は蘇武の返還を匈奴に迫った。

「ばれてしまったか。申し訳ない」と、匈奴の単于はいとも簡単にこれを認め、蘇武の漢へに帰国を認めた。匈奴にとって、これは都合の良いアプローチであったらしい。武帝の崩御のあと、漢と匈奴の緊張関係は緩やかになっていた。匈奴側には漢との友好関係を築きたいとの思惑があったようである。


北朝鮮に拉致されたまま、解決に何の進展もない横田めぐみさん救出に、この手が使えないだろうか。

「北朝鮮方面から飛んできた渡り鳥の足に、”めぐみは生きています” との手紙が括り付けててあった。早くめぐみさんを返せ!」と日本政府が北朝鮮に突きつけるのだ。

そんな幼稚なやり方で、北朝鮮の将軍さまがめぐみさんを返すわけはない、とは99パーセント私も思う。しかし、北朝鮮は「めぐみさんは亡くなっている」と言った手前、北朝鮮側から今更生きているとは言えない立場にある。日本との友好を望んでいるのなら、わずか1パーセントであっても、”渡りに船” とめぐみさんを返してくれる可能性があるかもしれない。やってみる価値はあると思う。このままではお母様もめぐみさんも老いるばかりだ。


20年ほど前の話である。

転職の相談で、私の目の前に美貌で聡明な30代後半の女性が現れた。胸に青いリボンをつけておられたので聞いてみた。めぐみさんの新潟の中学校時代の親友だとおっしゃる。その方の口から、「めぐみさんは人柄が優しく誰からも好かれていた。勉強も私よりはるかに良く出来ていた」と聞いた。その女性は一橋大学の卒業であったと記憶する。









2022年12月5日月曜日

李陵と司馬遷

 シルクロードのものがたり(3)

李陵は李広将軍の孫にあたる。李広の長男・李当戸の長男が李陵である。ただ、陵が生まれる半年前に父・当戸が亡くなったので、陵は祖父・広に育てられた。

史記の李将軍列伝の終わりに、短い李陵伝があるが、これは後世の人が加筆したもので司馬遷の筆ではない。

「史記」の約二百年後に書かれた、中国の二番目の正史(青史)「漢書・かんじょ」の中に、李陵の伝記が詳しく書かれてある。この「漢書」をもとに、昭和17年10月に33歳の中島敦が喘息の発作にあえぎながら一気に書き上げたのが、名作「李陵」である。同年12月4日に中島敦は没した。

今、机上の「漢書」と「中島・李陵」を読み比べているが、後者の方がより迫力があり理解しやすい。名作だと、改めて感じている。これを参考にして、李陵の小伝と司馬遷との関係を簡潔に紹介したい。

「漢の武帝の天漢2年(前99年)9月、騎都尉(きとい)・李陵は歩卒五千を率い、辺塞(へんさい) 遮虜障(しゃりょしょう)を発して北へ向かった」と名文ははじまる。

大将軍・李広利(李広とはまったく別人)の支隊として歩兵だけ五千を率いて出発したのだが、八万の匈奴の騎兵に取り囲まれ、大半の兵が戦死し李陵は捕虜になった。11月に入って、将を失った四百の敗残兵は漢の領土の最北端にたどりつき、敗報はただちに駅伝をもって都・長安に伝えられた。

武帝は思いのほか腹を立てなかった。本軍である李広利の大軍さえ惨敗しているのだ。一支隊の李陵の寡軍には大した期待はしてなかったようだ。それに、武帝は李陵が戦死していると思っていた。翌、天漢3年の春になって、李陵は戦死したのではない、とらえられて捕虜になったのだという確報が届いた。これで武帝は激怒した。

武帝は重臣たちを集めて、李陵の処置について会議をおこなった。帝の激怒を知って、あえて李陵のために弁解する者はいない。みなが自己保全に走ったのだ。重臣たちは口をきわめて李陵の売国的行為を罵った。李陵のごとき男と一緒に朝に仕えていたと思うと今更ながらはずかしい、と言い出す者もいる。

彼らは数カ月前に李陵が都を出発するときに、杯をあげてその出陣を祝い、名将李広の孫である陵を讃えた者たちである。ーこのような光景はワンマン社長をトップにいただく日本の大企業によく見られるもので、珍しいことではない。人間というものは、悲しいかなこのような行動をとるものなのであるー

この時、一人の男が、はっきりと李陵を褒めあげた。

「陵の平生を見るに親に仕えて孝、士と交わりて信、身を顧みず国家の急に殉ずるは誠に国士の風あり。今不幸にして事敗れたりといえども、五千に満たぬ歩兵を率いて深く敵地に入り、匈奴数万の兵を奔命(ほんめい)させた。軍敗れたりといえど、その善戦は天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずして虜(とりこ)になったのは、ひそかにかの地にあって、何事か漢に報いんと期してのことに違いあるまい」

こう言って、李陵のために弁じたのが、ほかならぬ司馬遷であった。

司馬遷が席を去ったあと、君則の佞人たちは、司馬遷と李陵の親しい関係について武帝の耳に入れ、たかが太史令の身分の者が皇帝に対して余りにも不遜な態度であるといきまいた。武帝は、司馬遷の李陵弁護を自分の寵愛する大将軍・李広利への誣告(ぶこく)と思った。

そして、この会議の結論として、司馬遷は「死刑」と決まった。死をあがなう五十万銭が準備できず、司馬遷は「宮(腐刑・ふけい)」の刑になった。

その後、李陵の母・妻子など一族は処刑され、財産は没収された。この時の各人の年齢は、李陵・四十手前、司馬遷・四十五前後、武帝・六十くらいであったと推測する。


中島敦の小説「李陵」の成立と題名について、「李陵と蘇武」の著者・冨谷至氏は次のように述べている。

中島敦が亡くなったあと、未亡人は部屋に残っていた草稿を深田久彌氏(1903-1971)に渡した。深田は、一高・東大時代の中島の先輩で、「文学界」という雑誌の創刊者であり、中島は生前この「文学界」にいくつかの作品を発表していた。

この原稿を高く評価した深田は、「文学界」に載せた。原稿用紙には題名がついてないので、仮の題名として深田は「李陵」として発表した。

ところが、後日、中島敦の遺品の中から別のメモ書きが発見された。それには、「李陵・司馬遷 莫北悲歌」、「莫北」、「莫北悲歌」などの文字が残されていた。これらの題名が中島の頭にあったようである。

秦・漢代の武人 辻道雄氏提供










2022年11月28日月曜日

安倍晋三さんお別れの会・桃李成蹊

 昨日、令和4年11月27日、母校の成蹊学園で安倍晋三さんお別れの会があり、案内をいただいたので出席した。

ずいぶん多くの参列者だな、との印象を受けた。九十代とおぼしき方から成蹊小学校の児童まで幅広い方々の参加で、安倍さんが多くの人に好かれていたことを改めて知った。

会場は成蹊学園本館大講堂と大学六号館の二か所に分かれておこなわれた。本館大講堂は大正期に造られた天井の高い立派な講堂だが、席数は二百程度であろうか、さほど広くはない。大正末期の成蹊学園は、小学生・中学生・高校生(旧制)合わせてその位の人数だった。小学1年生の少年と旧制高校の18・9歳の青年が、同じ学食で隣の席で昼食を食べ、ほぼ全員が互いの顔と名前を知っている、というほど小さな学校だった。

よって、私を含む大部分の参加者千名程度は、大学六号館でビデオで本館での式の進行を見て、献花のときは本館に移動した。

成蹊学園理事長・小林健氏(元三菱商事社長、現日本商工会議所会頭)、成蹊会会長、友人代表の「お別れのことば」はみな心のこもった素晴らしいスピーチだった。安倍晋三さんは兄の寛信さんと共に、小学校から大学まで成蹊で学んだ。祖父・岸信介のすすめによると聞いたが、どのような理由で岸さんが孫二人を成蹊に学ばせたかは知らなかった。

「岸さんは山口県の出身で、吉田松陰先生をずいぶん尊敬しておられた。多くの志士が巣立った松下村塾を教育の理想形と考えていた。すなわち、知識の詰込み型ではなく、若者各人の個性を伸ばし、創造力豊かな人材を育成するという成蹊の教育方針に共鳴していた」との小林理事長のスピーチで、その理由を知った。

式がはじまるまでの時間と、黙祷のあとの、安倍晋三さん経歴紹介の二つの箇所で、安倍さんの生前の活躍のビデオが放映された。ここで私にとって、新しい発見があった。

いずれも成蹊学園での講演のビデオである。一回目の総理就任のときは、少し肩に力が入っているという印象を受けた。二回目の総理在任中は、いくつもの実績を残し、トランプ大統領を含めて各国の要人たちと対等以上の立場でやりあった自信からか、にこやかで余裕が感じられ、ユーモラスな発言がいくつもあった。

「成蹊学園は私の心のふるさとです。成蹊の名の由来である ”桃李不言下自成蹊” を自分の座右の銘として、若いころから私なりに努力してきました。

ところが政治家になったとたん、気がついたのです。政治家というのは、しゃべるのが仕事なんですね。だんだんとおしゃべり人間になってしまい ”桃李不言” とはいかなくなってしまいました。

第一次安倍内閣のとき病気をして退陣しました。あの時はみなさんにご心配をおかけしました。なさけない奴だと思われたかもしれません。 ”桃李言わざれども下自から蹊を成す” をモットーに自分なりに努力してきたのですが、政治とは権力なんですね。総理の座を退いたとたん、多くの人たちが私の前からスーッと去っていきました。 ”桃李成蹊” とは逆の現象が私の目の前で起こったのです。

あのとき自分は、もう政治の世界から退こうと思いました。しかし、成蹊学園の学友や同窓の方々から、安倍元気を出せと、元気になってもう一度頑張れよ、と励まされました。あの時ほど嬉しかったことはございません」


安倍さんが総理在任中はあまり意識しなかったのだが、今回当時のビデオを注意深く見ていて、聞いていて、気が付いた。

「勇気をもって前進し、社会を変革していかねばならない」

「新しいことにチャレンジしよう」

「失敗してよい。やり直せばよいのだ。失敗を恐れて改革の手を緩めてはいけない」

「日本を改革して前進させて、希望に満ちた国にしよう」

などなどの、「改革・チャレンジ・前進」という言葉をひんぱんに発しておられたことを知った。


昭恵夫人のお礼の挨拶も心にしみた。

「晋三さんは成蹊が大好きでした。総理在任中はいろいろなことがありました。その時、成蹊のお仲間と食事やゴルフを一緒にしたり、また成蹊学園から呼ばれたりする時が一番嬉しそうでした。国葬をしていただき、また山口県民葬もしていただきました。ありがたいことです。でも、本日の成蹊学園の行ってくださったこのお別れの会で、私は一番多く涙が出ました。

今日このあと、晋三さんの遺骨を抱いて、大好きだった成蹊学園の周りの景色を、晋三さんに見せてあげます。その後、遺骨を自宅に持ち帰り、近いうちにお墓に納骨します。

骨になったとはいえ、納骨する前に、晋三さんを本人が大好きだった成蹊学園のキャンパスに連れてくることができて良かったです。本日は、本当にありがとうございました」

半旗の成蹊学園 令和4年11月27日



2022年11月20日日曜日

李将軍列伝・桃李成蹊(とうりせいけい)

 シルクロードのものがたり(2)

「李将軍列伝」は司馬遷の「史記列伝」の中の白眉だといわれている。友人の李陵の祖父にあたる人だから司馬遷も熱も入ったのだと思うが、なによりも司馬遷自身が、この李広将軍に直接会って感銘を受けたことが、一番の理由であろう。

「李将軍広は、甘粛省成紀(せいき)県の人である。広の家は、代々弓射の法を受け継いでいた。孝文帝の十四年に匈奴が甘粛省に侵入した。広は良家の子弟として従軍して匈奴を撃った。騎射にすぐれていて、敵兵を殺して首を取り又捕虜にしたのが多かったので、漢の郎官にとりたてられ八百石の俸禄を賜った」と李将軍列伝の冒頭にいう。

李広が若い頃つかえた文帝は、初代の高祖(劉邦)からして五代目の皇帝である。李広はその後、景帝・武帝にもつかえることになる。

狩猟でおとし穴に落ちたけものに、若い李広は飛びかかって格闘をしたという。文帝は李広のその勇気を愛し、称賛して言った。「残念だなあ。きみは時勢にめぐりあわなかった。もしきみが高祖さまの時代に生まれていたら、一万戸の大名になっていたのになあ」

その後、李広は合戦でしばしば手柄を立てる。しかし、戦(いくさ)は水ものである。常に百戦百勝とはいかない。時には負けいくさの責任を取らされ、官位を返上して平民に降格され、自宅でしょんぼりと暮らした時代もある。そしてまた匈奴が攻めてくると、再度将軍として出陣して大活躍をする。李広だけでなく、武官も文官も、昔の中国ではこのようなことが繰り返されている。

「広は清廉で、金品を賞賜されるとそのたびに部下に与えた。死ぬまでに四十年間も俸禄二千石の身分にあったが、家には余分の財産はなかった。広が将軍として出征したときには、物資の乏しいところでは、水を見つけても、士卒が飲み終わるまでは水に近つ”かず、士卒が食べ終わらなければ食べなかった。のびやかでこせつかなかったので、士卒は思慕し喜んでその命令に従った」

軍神・橘周太中佐の、「兵休まざれば休むべからず。兵食わざれば食うべからず」の言葉も、この列伝に由来するのではないかと考える。

ほかにも李将軍列伝に由来する格言が日本にある。軍歌「敵は幾万」の中にもある「石に矢の立つためしあり」という言葉である。「一心を込めて立ち向かえば、不可能と思えることも可能となる」との意味で、単なる精神論だと軽んじる人もいるが、私は意味のある言葉だと思っている。

「あるとき広は猟に出かけ、草の中の石を虎だと思って射ると、命中して鏃(やじり)が石の中にめりこんだ。よく見ると石だったので、さらにまた射てみたが、二度と矢を石に立てることはできなかった」と列伝にいう。

晩年、李広は大将軍・衛青(えいせい)に従って匈奴征伐に出陣するのだが、道に迷って大将軍の戦列に後れをとった。大将軍はこれを咎め、後日の日本陸軍でいう憲兵隊の係官を李広のもとに派遣して取り調べをしようとした。李広はこれをいさぎよしとせず、自害した。

列伝はいう。

「部下の将校たちには罪はない。わたしが自分で道に迷ったのだ。わたしは元服してこのかた匈奴とは大小七十余度も戦った。今回、幸いにも大将軍に従って出撃し、単于(ぜんう・匈奴の君主)と戦うところだった。ところが大将軍が私の部署を移したので、迂回路を行くことになり、道に迷って遅れてしまった。まことに天命ではなかろうか。かつまた、わたしはすでに六十余歳だ。いまさら刀筆(とうひつ)の史(憲兵隊の小役人)に対応することなどできるものか」

こう言って刀を引き寄せて、みずから首をはねた。広の軍では、将校も兵も全軍がみなが泣いた。庶民もこれを聞くと、広を知る人も知らない者も、老人も壮者も、みな広のために涙を流した。


列伝のおしまいの箇所に、「太史公曰く」という司馬遷自身のコメントがある。

太史公曰く。

伝に、「その身が正しければ命令しなくても行われ、その身が正しくなければ命令しても人は従わない」(論語・子路篇)とある。これは李将軍のような人を言ったのであろう。わたしは李将軍と会ったことがある。誠実・謹厚で田舎者のようであり、ろくに口もきけない様子であった。彼が死んだ日には、天下の彼を知っている者も知らない者も、みな彼のために哀しみを尽くした。

ことわざに言う。「桃や李(すもも)はもの言わぬが、その木の下に自然と蹊(こみち)ができる」この言葉は小さな事を言っているのであるが、そのまま大きなことにも喩(たと)えることができるのである。

諺に曰く。「桃李言わざれども、下自(おのず)から蹊(こみち)を成す」と。

私の学んだ成蹊学園の校名は、この李将軍列伝に由来する。

成蹊学園






「香月経五郎・三郎伝」出版の遅れ

 五ヶ月ぶりにブログを再開したら、二人の友人から連絡をもらった。

「本は出来たの?アマゾンで買えるの?」との、ありがたい問い合わせである。

じつはまだ、完成していないのだ。

「11月あたりに出版の予定だったのだが、なにせ知っての通り、僕は漱石や司馬遼太郎の流れをくむ作家だろ。手書きの原稿用紙に書いているので、出版社の方が校正に手間取っていて来年の2月か3月頃の出版になりそうなんだ」と弁解している。

長野県諏訪市にある鳥影社という筋の良い出版社が引き受けてくださっているので、出版できるのは間違いない。当初、編集長の方に手書きの原稿ですといったら、「今は95パーセントの作家がワードで原稿を送ってきます。手書き原稿は校正に手間と時間がかかり、校正担当者が嫌がるんですよ」と笑っておられた。

編集長は立派な方で、今なお親切に対応していただいている。ただ、校正担当の方から、「嫌な作家だなあ、たいしたこともないのに、作家気取りで手書きの原稿などを送ってきやがって」と嫌われているような気がしている。

それでも、近々二回目のゲラが私の手元に届く予定だ。三回くらい校正をやり直し来年の早春には出版できると思う。

ささやかな作文なのだが、一冊の本にまとめるのは結構骨の折れる作業だと感じている。

このような次第で、このブログを通じて、読者の方々に出版の遅れを報告して、お詫びを申し上げたい。

令和4年11月 田頭農園の干し柿









2022年11月15日火曜日

西域(さいいき)への憧れ



 シルクロードのものがたり(1)

司馬遼太郎「街道をゆく」中国・閩(びん)のみち、の中に次のような一節がある。

「日本人というのは変だなあ。なぜシルクロードが好きなんですか」と、中国人から聞かれたことがある。「漢書・かんじょ」以来「西域」とよばれた中国新疆ウイグル自治区に、私がはじめて行ったのは1972年だった。

そのときも、同行した若い中国側の人から上記の趣旨の質問を受けた。私は相手を満足させるような返事ができず、逆に質問してみた。「中国人にとって、どういうイメージがありますか」と。「単に田舎です」とそのひとは言った。

この話には、私も合点がいく。

三光汽船に勤務していたころ、シンガポール駐在時代を含め、東南アジアの仕事に長く従事した。この頃、多くの台湾人・香港人・東南アジア各地の華僑の人たちとの交流があった。ヘッドハンターになってからは、中華人民共和国からの留学生を含め、少なくても百人以上の中国人にお会いした。

子供のころからシルクロードへの憧れの強かった私は、何人かの中国人にこの話題を振ってみたのだが、強い関心を示す人はいなかった。ただ一人、シンガポール時代の部下で、私より一歳若いエディ・タン(陳)だけが目を輝かせた。

「将来ふた月ほどかけて、一緒にシルクロードの旅に出ようぜ」と約束したのだが、まだ実現できていない。彼の父親は海南島から新嘉坡にやってきたというが、なぜタン(陳)君が西域に関心を持っているのか聞かずじまいだった。十年ほど会ってないが、彼はオーナー社長としてまだ仕事をしている。今度シンガポールに行ったら聞いてみようと思う。

司馬遼太郎は次のようにも言っている。

奈良朝・平安初期の日本は遣唐使を派遣して、唐の文明を摂取しつつ”けた。遣唐使が廃止されたのは9世紀末であり、以後日本は文化的には鎖国のかたちとなった。同時に、世界でも独自な平安文化が醸成された。その一方で、唐の記憶は文化として日本人の心の中に強烈に残った。

本場の中国では、当然のことながら唐以降も歴史が続き、遠い盛唐の文化の記憶はしだいにうすらいでいった。ところが海東の日本にあっては、唐の記憶は氷詰めにされて残った。平安期いっぱい、日本の教養人たちは飽きることなく唐詩を読みつつ”けた。中国人はその後変化したことを考えると、中国人よりむしろ日本人のほうが、唐の文化的な子孫であるといえる。小項目でいえば、唐詩の西域への異国趣味は、中国ではなく日本に残ったのである。


たしかに、そんな気がする。

子供のころからの私の西域への憧れも、多くの日本人と同じく「唐の文化の精神的子孫」であることに由来するのではないかと思う。私の西域への憧れの源は、童謡「月の沙漠」にあるような気がしている。

月の沙漠をはるばると 旅の駱駝がゆきました

金と銀との鞍置いて 二つならんでゆきました

4番まであり最後の句は、「砂丘を超えてゆきました 黙って越えてゆきました」とある。

大学時代の友人・内島照康君も、三光汽船時代の友人・春名豪君もこの歌が好きだった。「母親がこの歌が好きだった」と両君とも言っていた。他にも同世代の友人の中に、この歌が好きな人は多い。ただ、若い世代の人の中には少ないような気がする。

加藤まさを、という挿絵画家が千葉県の御宿海岸の砂浜を見て、大正時代に作詞したものだといわれる。素晴らしい詩だと思う。

ところが、この詩にいちゃもんをつけて批判した馬鹿者がいる。本多勝一という元朝日新聞の記者だ。曰く。「現実ではありえない点がいくつもある。遊牧民は水を運ぶのに甕(かめ)ではなく革袋を使う。王子と姫が二人だけで旅をしていたら、たちまちベドウィン(アラブの遊牧民)に略奪される。うんぬん」 「もののあわれ」を感じることのできない可哀そうな人だと思う。

奈良・平安時代から千年間、日本人は、王翰(おうかん・687-726)、王維(おうい・701-761)、李白(りはく・701-763)、岑参(しんじん・715-770)たち盛唐の詩人が書いた、「西域・胡姫・葡萄の美酒」などをテーマにした詩を読み続けてきた。その間に、事実以上に美化され憧憬の域まで達した「西域感」が日本人の心の中に醸成されてきたような気がする。いわばこの千年間の日本人の西域への憧憬の結晶が、大正期に書かれたこの「月の沙漠」ではあるまいかと思っている。

私自身、この詩はシルクロードの景色を見て日本人が書いたものだと、長い間信じていた。御宿海岸の砂浜を見て書かれたと知ったのはずっと後である。しかし、それはどうでもよいことだ。この曲を聴き、歌い、幸福感を感じることができるのは、「唐の精神文化のDNA」を受け継いだ日本人のしあわせだと思っている。


先日、故郷の広島県の実家に帰ったとき、母との会話の中で、「月の沙漠の歌」が気に入っているという話をした。すかさず96歳の母は、「そりゃそうよ」と言う。「のぶちゃんが赤ん坊のとき背中に背負って、散歩に出たり買い物に行く時は、歩きながら私はいつも ”月の沙漠” を歌っていた」

調べてみると太平洋戦争が終わったあと、「リンゴの唄」「青い山脈」と共にこの「月の沙漠」が、日本中で爆発的に流行したことを知った。15年にも及ぶ暗い戦争の時代が終わり、人々が明るく希望に満ちた、そしてロマンチックな歌を好んだからに違いない。

内島君も春名君も、きっと私と同じく、赤ちゃんの時から母親の背中でこの歌を聴いていたのに違いない。「三つ子の魂百まで」という言葉を思い出した。

全部で何篇になるかわからない。心惹かれる人物に焦点をあてて、行ったことのない「シルクロードのものがたり」を私なりに書いてみたい。

辻道雄氏 提供








2022年7月28日木曜日

香月経五郎と三郎兄弟

 気はいいのだが、口の悪い友人から電話をもらった。

「元気かよ?体調が悪いのか?」

「元気はつらつだよ。先週4回目のコロナワクチンも打ったよ」

「じゃあ、ネタ切れだな」

毎週書いているブログを、ひと月以上書いてないので心配してくれているらしい。

「ネタはいっぱいあるよ。まだ100回でも200回でも書けるネタはあるよ」

現在執筆中の、この秋出版の伝記の話をすることになった。

「香月経五郎と弟の三郎という人の伝記を書いているんだ。今年の秋に、長野県諏訪市の鳥影社から出版する予定なので、長崎・佐賀に現地取材旅行に行ったり、あちこち資料集めで結構忙しいんだ。8月中にはこれを終えるので、またブログを始めるよ。ただ、出版社の方とも話しているのだが、二人とも立派な人なのだが一般的に名前が知られてない。副題としてー香月経五郎と三郎兄弟ーにして、読者が注目してくれる良い題名を今考えているんだ」


「そうか。出版したら教えてくれ。アマゾンでも買えるんだろ?」

「アマゾンでも買えるようにするから、買ってくれよ」

「うん、わかった」

このようなわけで、また9月あたりからブログを再開しようと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。






2022年6月6日月曜日

昭和20年、大陸からの塩26万トン

 塩のはなし(4)

梅干しのタネ、2グラムの塩と、田頭の話はずいぶんみみっちいなあ、と思われるのも不本意だ。大量の塩の話を二つほど紹介したい。

昭和50年代、大平内閣の外務大臣をつとめた大来佐武郎(おおきた・さぶろう)という人がいた。太平洋戦争中は大東亜省に勤務して、大陸の資源をいかにして大量に日本に運ぶかという研究をしていた。この人の自伝に次のようにある。

私が最後の大陸出張を終えて帰国したのは、昭和19年の12月の末であった。釜山から下関に向かったが、すでに対馬海峡はきわめて危険な状態になっていた。いつ船が魚雷で撃沈されるかわからないので、船室に入らず甲板に出ていた。私は、大陸からの輸送は昭和20年6月ぐらいまでしかもたないだろうと思った。

「輸送路が数カ月しかもたないとしたら、いったい何を運ぶべきか」これが私にとって緊急の課題であった。これまで軍は鉄鉱石だ、石炭だ、アルミ原料だ、、、と言っていた。もはや時間がない。鉄はいざとなれば、国内の鉄道のレールをはがして調達できるではないか。それでは最後の輸送力を何に使うべきか。

私は昭和20年正月早々、当時日本橋三越のビルにあった化学工業統制会の会長室に石川一郎氏(戦後、初代の経団連会長)を訪ね、意見を求めた。石川氏は言下に答えた。「それは塩と大豆だ。塩は人間の生存に欠くことができない。大豆はカロリーの高い貴重なたんぱく源だ」

私は石川氏が与えてくれたヒントをもとに、昭和20年2月、「本邦経済ノ大陸資源依存状況、並二今後ニオケル大陸物資対日供給方針ニツイテ」という報告書をまとめ、「塩と大豆だ」と陸軍省、海軍省を説いて回った。陸軍は、彼らが考えていた本土決戦に備えるという意味をこめて賛成した。こうして各方面の賛成を得て、昭和20年4月から6月にかけて、緊急輸送の大作戦が展開された。

すでに大型輸送船は底をついていたし、日本海側の大きな港は空襲と米軍による機雷設置で機能が麻痺していたため、八八(ハチハチ)と呼ばれていた880トンの機帆船と上陸用舟艇(陸軍の大発・ダイハツ)を動員して、朝鮮から日本海側の漁港に運んだ。

こうして緊急輸送された塩26万トンと大豆などの穀物74万トンは、8月15日以降にたちまち起こった食糧難に役立った。


私は三光汽船に勤務していたころ、13万トンの塩を輸送したことがある。シンガポール駐在を終え、鉄原課長になってまもなくの頃だから、昭和62年ごろの話である。

我々の課では、ケープサイズと呼ばれる15万トンクラスの船舶を約20隻運航していた。半分程度は新日鉄・住友金属などとの長期契約で、ブラジルや西豪州から日本に鉄鉱石を運ぶ。残りの半分はスポット運航で、その場その場で荷物を確保して運ぶのだが、海運マーケットの極度に悪い時期だったので、ずいぶん安い運賃でブラジルや西豪州から韓国に鉄鉱石を運んでいた。

この時、ある海運ブローカーが、「西豪州から塩を運びませんか?」と持ちかけてきた。なにを運んでも大赤字だ。面白そうだからやってみようと、この塩の契約を決めた。ブローカーからは、食用ではなく欧州の化学会社が工業用に使う岩塩、と聞いた。

荷主から「鉄鉱石の粉塵をきれいに洗い流してくれ」との注文があり、釜山から西豪州までの航海中にこの洗浄を徹底するよう船長にお願いした。かなりきつい作業だったが、船長以下の韓国人クルーは良くやってくれた。

豪州の積み地から、韓国人船長が報告の電話をくれた。「先ほど積み込みを開始しました。ピンクです。ピンク色の宝石のように美しい塩です!」との船長の弾んだ声が、今でも耳に残っている。揚げ地のハンブルグから、各種の手じまい書類と一緒に、ピンク色に輝く塩のカラー写真を送ってくれた。塩は白いものと思っていた私は、その美しさに感激した。韓国人の船長も同じ気持ちだったのであろう。






2022年5月30日月曜日

ガダルカナル島・梅干しのタネ

 塩のはなし(3)

人間は塩の摂取量が減ると、性欲のみならず気力と体力がすぐに減少する。ガダルカナル島から九死に一生を得て生還した兵士の証言がある。本の題名を失念したので記憶だけを頼りに紹介する。日本軍がガダルカナル島から撤退する数日前だから、昭和18年1月下旬の話だ。

昭和17年の10月ごろから、多くの日本人将兵は、飢えとアメーバ赤痢で死んでいった。塩の不足により将兵の体力・気力は急激に衰えていった。

そんな中、この兵士と同じ村出身の同年兵が亡くなった。死ぬ間際、その兵隊は次のように言った。「村を一緒に出てから、ずいぶん世話になった。俺の背嚢(はいのう)の中に袋が入っている。お前にやる。俺が死んだらその中のものを食って生きのびてくれ」

死んだ一等兵のなきがらを、ヨロヨロしながら同僚と一緒に土に埋め、その後一人でジャングルに入った。小さな袋を開けると、干からびた梅干しのタネが20個ほど出てきた。「梅干しのタネを割り、中にある仁(じん・俗称てんじんさま)を食えと言ったんだな」と農村出身のその兵は悟った。

小石で梅干しのタネを割り、中にある天神様を次々に口に放り込んだ。「20個ほどを一気に食べたら急に身体がシャキッとして元気が出てきた」とこの人はいう。

「転進」という名目で、生き残りの将兵一万余が駆逐艦でブーゲンビル島に帰還したのは、この数日後である。駆逐艦の泊地まで歩けなかった数百の将兵は手榴弾で自決した。「あの梅干しの天神様を食べたなかったら、カミンボ沖の駆逐艦までたどり着けなかったと思う」とその方は書いておられた。


子供の頃はアイスキャンデー1本が5円だったから、10円といえばそれなりの「こずかい」だった。現在では10円玉一つで買えるものはあまりない。東京駅の大丸デパートの地下で売っている「伯方の焼塩2グラム10円」は、その珍しい例である。

実家の広島県に帰省するとき新幹線を使う。大丸の地下で弁当を買う。その時ビールのつまみに天ぷら屋の売り場で、二つほど野菜の天ぷらを買う。伯方の焼塩2グラムを10円で買ってパラパラとてんぷらにかける。五分の一位を使って、残りは捨てていた。

ガダルカナルの兵隊さんの話を思い出し、もったいないことをしてはいけない、と大いに反省した。それ以来、残りの塩を財布にはさんで次回に使っている。2グラムの塩で5-6回使える。この体験から、ガダルカナルの兵隊さんが食べた20個の梅干しのタネに含まれてていた塩の分量を推測してみた。直感だが、1グラム程度の気がする。1グラムの塩が生死を分けたことなる。

伯方の焼塩10円





2022年5月23日月曜日

精力絶倫・雄略天皇

 塩のはなし(2)

「日本男児は精力絶倫」というのは、古代から近代に至るまで、外国人女性の間で評判であった。40-50年前までは、日本人の塩の摂取量が世界の民族の中でトップクラスだったのがその理由である。

男だけではない。大和なでしこも精力絶倫であった。現在の日本人男女は、ご先祖様たちの名声を落としているような気がする。残念なことだ。


雄略天皇の精力絶倫ぶりは有名だ。

童女君(をみなぎみ)という采女(うねめ)が女の子を産んだ。天皇が一夜を共にされただけで孕まれたので、天皇はこれを疑い認知せず養育費を払わなかった。この時の側近(今でいう侍従長)の物部目大連(もののべのめの・おおむらじ)という人が偉かった。

天皇が血統を保つため、多くの女性にたくさんの子供を産ませることは悪いことではない。しかし、それを認知しないのは男らしくない。女の子の顔は天皇によく似ている。周囲の人々に聞き、前後の事情を調べてみて、この女の子は天皇の子に間違いないと侍従長は判断する。そして天皇に諫言(かんげん)する。

「女の子の歩く姿を見ると天皇によく似ておられます。なぜ認められないのですか」と。

「ほかの者もそう言う。だが私と一夜を共にしただけで身籠ったのだ。一晩で子供を産むとは異常なので疑っているのだ」

「それでは一晩に何回いたされたのですか?」

「7回だ」

「乙女は清らかな身と心で一夜を共にいたしました。7回もいたされたのであれば一夜で懐妊することはあります。軽々しく疑ってこれを認知しないのは天皇として恥ずかしいことです」

天皇は大連に命じ、女の子を皇女とし、母親を妃(きさき)とした。

これは筆者の作り話ではない。「日本書紀第十四巻・雄略天皇」の箇所に書かれている。「日本書紀」は唐に見せることを意識して編纂された。よって完璧な漢文で書かれている。

「大連曰、然則一宵喚幾廻」  大連(おおむらじ)曰(まうさ)く、然らば一宵に幾廻(いくたび)か喚(めし)しや

「天皇曰、七廻喚之」     天皇曰(のたままは)く、七廻之(ななたびこれ)を喚(めしき)と

ちなみにこの女の子は、24代仁賢天皇の皇后となり、その子が25代武烈天皇であり、孫が29代欽明天皇であると、「日本書紀」は記している。この方面の研究家によると、「日本書紀はこの雄略天皇の巻十四から書きはじめられた」という。この天皇の時代から年次を記した記録が大和朝廷内に豊富に残されていた、のがその理由だという。


701年に完成した「大宝律令」を唐に持参したのは、以前このブログで紹介した粟田真人(あわたの・まひと)である。720年に完成した「日本書紀」を唐に運んだのは第九次の遣唐大使・多治比広成(たじひの・ひろなり)と思われる。

長文の「日本書紀」のこの部分だけが、一種の「ポルノ本」として、長安の上流階級の婦人たちのあいだで、手書きで回し読みされたらしい。

若い遣唐留学生が長安の都に到着すると、「来たわよ、来たわよ。倭国から精力絶倫男たちが」と、長安の上流婦人たちの目が淫乱そうに輝いた、との言い伝えがある。

最澄は39歳で真面目人間だったから、長安女性の誘惑を振り切ったに違いない。31歳の熱血漢・空海は、「日本男児ここにあり」と大活躍を演じたのではあるまいか。これは、筆者の想像であるが、別の「女好きで精力絶倫の留学僧」の名前が史書に残っている。

「入唐求法巡礼行記」は、最澄の弟子・円仁(えんにん)の十年におよぶ唐での見聞録である。この円仁も師匠の最澄と同じ超真面目人間だから、唐でしっかりと学問をおさめ、三代目の天台座主になる。すなわち、長安婦人の誘惑をふりきった。

精力絶倫和尚とは、この円仁に同行した青年僧・円載(えんさい)だ。宮崎市定氏は、「中国人の尼僧と深い関係になった。学問をせず女にのめり込んでいると知った大和朝廷は円載への留学費用(砂金)をストップした。兄弟子の円仁が、日本から取り寄せた金をねだって酒と女に注ぎ込んだ。円仁という人は優しい人だった。15年後に留学してくる7歳年下の弟弟子の円珍(えんちん・五代天台座主)にも金の無心をして、中国人女性に注ぎ込んだ」と、この女好き和尚に好意をもった表現で記している。

この円載和尚も、きっと塩辛い料理が好きだったのだろう。

19世紀のヨーロッパでも、日本人留学生は欧州婦人たちにモテた。これは雄略天皇ではなく、北川歌麿のおかげである。「オォ!ウタマロが来た」と歓迎されたようだ。


日本人は数十年前までは、1人あたり、年間9-10キロの塩を摂取し世界でもトップクラスであった、とその方面の研究家は言う。だが、この30年、世界保健機構や日本の厚生省や日本医師会は、「健康のため塩分控えめ」を主張している。高血圧や胃がんなどの成人病予防のためである。電気冷蔵庫の普及で、塩を使わなくても食料の長期保存が可能になったのも理由の一つである。現在の日本人の平均摂取量は年間5-6キロらしい。

ただこれによって、日本の若者の性欲が減少して、出生率が減ってきているように思える。塩分控えめは50歳以上に限定して、「若者は高血圧や胃がんの心配をしないでもっとガンガン塩分をとれ」とのキャンペーンを政府が行なったら良いのではあるまいか。

雄略天皇や円載和尚のような精力絶倫男や精力絶倫の大和なでしこが増えると、日本の人口は増加に転じるに違いない。私はそう考えている。











2022年5月16日月曜日

インポテンツの薬・塩

 塩のはなし(1)

「塩の世界史」マーク・カーランスキー著・山本光伸訳(扶桑社)という450ページの大冊が手元にある。冒頭に「夫を塩漬けにする女たち」との題の版画が見える。1157年にパリで作られたという。源義経が生まれる2年前である。

3人の中年女性と1人の中年男性が、若い男を抑え込み、ズボンを脱がせてお尻に小刀で傷をつけて塩をすりこんでいる。かたわらの詩に「体の前と後ろに塩をすりこむことで、やっと男の精力は強くなる」とある。若い男の顔は、「かんべん、かんべん!」といった表情だ。

村に新妻がやってくると、中年女性たちが井戸端会議で、「おたく、週に何回くらいなの?」と卑猥な言葉をかけていたのであろうか。新妻がもじもじしながら答えると、「あら、そんなに少ないの?それは大変!きっと塩が足りないのよ」と、中年女たちが若いご主人をつかまえて塩をすりこむ。

塩分補給なら、スープに塩を多めに入れるとか、いくつもの料理方法があるはずだ。夫の精力を強くするための儀式として、このようなことが行われていたのであろう。中年男性は花嫁さんの父親かもしれない。


心理学者・フロイトの友人にアーネスト・ジョーンズという心理学者がいた、とこの本は紹介する。ジョーンズは1912年に「人間の塩に対する強迫観念」という論文を書き、塩と人間の性欲について自説を述べている。

彼によると、塩は生殖にすこぶる関連性があると、人類は長いあいだ信じてきたという。これは塩辛い海に生息する魚が、陸上の動物よりはるかに多くの子を持つことから、そのように考えられたと主張する。塩を運ぶ船にはネズミがはびこりやすく、ネズミは交尾することなく塩につかるだけで出産できると、何世紀にもわたって人類は信じていたという。

彼は、ローマ人は恋する人間を「サラックス」、すなわち「塩漬けの状態」と呼んだと指摘する。これが「好色な(salacious)」という英語の語源だという。

ジョーンズは、自説を次々と展開していく。

〇ピレネー山脈の人々は、インポテンツを避けるために、新郎新婦が左のポケットに塩を入れて教会に行く習慣があった。

〇フランスでは地方により、新郎だけが塩を持って教会に行くところと、新婦だけが持って行くところがあった。ドイツでは新婦の靴に塩をふりかける習慣があった。

〇友人が新郎・新婦の新居にパンと塩を持って行くのが中世以降のユダヤ教の伝統であった。イギリスではパンを持って行くこよはなかったが、何世紀ものあいだ塩を新居に持参する習慣があった。

〇ボルネオのダヤク族が敵の首を取ってきたときには、性交と塩を控えるという。

〇北米大陸ではその昔、ピマ族がアパッチ族を殺した場合、その男と妻は、3週間性交と塩の摂取とをつつしまなければならなかった。








2022年5月9日月曜日

白襷決死隊(4)

 ついに我々は砲台下に肉薄した。昂奮(こうふん)し切った私は勇躍先頭に出て、敵の散兵壕の近くに進み、爆裂弾(ダイナマイト)を思い切ってその中に投げ込んだ。

と、臥せている私の左の足元に、導火線が燃えて今にも爆発せんばかりの爆裂弾がころがっている。敵が投げ返したのだ。いけないッ! と夢中で私はそれを拾い、力いっぱい敵の壕の中へ抛(ほう)りこんだ。その時、左側面から機関銃がうなって、左手を貫通されてしまった。

どくどくと鮮血がしたたり落ちる。慌てて繃帯(ほうたい)をすませ、なにこれしきの事、とさらに前進した。銃剣を以て躍り込もうと立ち上がった時、耳をつんざくような轟然(ごうぜん)たるひびきで、大地が揺さぶられた。地雷の爆発だった。ものすごい土埃(つちぼこり)とともに、多数の戦友たちが空高く跳ね上げられた。手、足、胴体、首がバラバラに落ちてくる惨状だった。

それでも前進した。いたるところで壮絶な白兵戦を演じ、ただ突き、ただ射(い)った。

露兵の中にも勇士はいる。わが身にいくつかの爆弾を結びつけて、密集した我が決死隊の中へまっしぐらに猛進してきた兵もあった。又、石油を全身に浴びこれに火をつけて、さながら火達磨となって猪突してきた兵もある。その気迫は、敵ながらあっぱれであった。

こんぱいした疲れも忘れて戦っていた私が、左手の傷の痛みを強く感じだした頃、谷のほうから一人の露兵が襲ってきた。すばやく身構え、右手に力をこめて、銃剣を突き出すと、敵は、「キャッ」と悲鳴をあげ、両人もろとも、丈余の谷底へ折り重なって墜ちた。

ハッと立ち上げあると、私の銃剣は露兵の右脇腹から尻のところまで貫いていた。私は露兵の身体に足をかけ、力を振りしぼって、ウンウンうなりながら、銃を彼の体から抜き取ろうと焦ったが、いっこうに抜けない。血が凝結してしまっているのだ。どうしようかと途方にくれているうちに、目の前がぼやけてきて、地底に引きずりこまれるような心地がした。そのまま人事不省(じんじふせい)に陥ってしまった。

気がついた時には、水師営の野戦病院のベッドの上にいた。「運の強い男だ」と軍医に言われて帽子を見ると、小銃弾が4発も穴を穿(うが)っていた。全軍、一千名の中、生還せる者は49名。他の951名は壮烈なる戦死を遂げた。



2022年4月28日木曜日

白襷決死隊(3)

 こうして、出発の命令を今や遅しと待ちあぐんでいる我々の前へ、乃木希典閣下が幕僚とともに訪れられた。乃木将軍は集合した我々の前で、一場の決別の辞を述べられた。

「決死隊諸君、奉天の敵は益々増加し来れり。さらにバルチック艦隊の来航は近きに迫っている。従って国家の安危、戦闘と勝敗はかかって我が近囲軍に在り。このときに当り、忠勇無双なる独立隊突撃の壮挙を敢行する諸君の決心を見て、歓喜に堪えない次第である。従って諸君に対する嘱望は切実である。男子一死君国に報ゆるは今日にあるのである。願わくは、奮戦努力して、我が帝国軍隊の光威を顕揚(けんよう)せらるることを切望する次第である」

ここまで草稿を見ながら述べられた将軍は、その草稿を幕僚に渡し、ジッと将卒の顔を厳粛な表情で見渡してから、口を開かれた。

「此の一戦は国を挙げての戦(いくさ)じゃ、、、、、、」

真情の迸(ほとばし)った、切々たるひと言であった。満場粛(しゅく)として、水を打ったようである。将軍の顔も心持青ばんで、異常に引きつっていた。やがて、

「乃木希典(のぎ まれすけ)謹んで諸君にお願いする、、、、、」

と悲痛な声で言われて、又一渡り皆の顔を見渡された。三千の目はいずれも将軍の温顔に注がれている。名状(めいじょう)し難い感動に満ちた眼差しで。と、次の瞬間、ふるえる声が我々の耳を打った。

「総員必ず死んでくれッ」

将軍は言われたのだ。将軍が我々に、必ず死んでくれ、と頭を下げられたのだ。肺腑(はいふ)を貫くような悲痛な言葉だった。瞬間、将軍の心と我々三千の心とは一つのものだった。この短い言葉で、我々には将軍の苦しい胸中が手に取るように感じられた。

「よし。必ず死んでみせる。此の将軍の為に必ず任務を全うしてみせる」と泪(なみだ)を流して、我々は天に誓った。出発命令は下った。運動開始、午後六時半。




2022年4月25日月曜日

白襷決死隊(2)

 白襷決死隊(2)

第四回旅順総攻撃の第一日目、すなわち11月26日の夜である。命によって、第一師団歩兵第二旅団長・中村覚少将が指揮する一万数千の精鋭中より志願選抜された3030名がその総員である。中隊では、「この決死隊は到底生還は期し難いから、国許へ送還したい物はことごとく中隊へ預けて行け。時計その他の貴重品も携帯するには及ばぬ」との告示があった。

我々三千名は、明治37年11月26日午後5時、水師営東方凹地にその集合を完了した。直ちに門出の御祝いが始まったが、敵前に近いゆえ至って簡単、5人に1合の酒と、5人に1枚の鯣(するめ)が、この祝宴の御馳走の全部であった。これが済むと、京都東本願寺のお坊さんが来て、懇々(こんこん)と一場の訓戒を垂れた。いわば生きながら引導を渡されたのである。一言一句をも聞き漏らすまいと、全身を耳にして傾聴した。

それから三千名中、我々先頭部隊の一千名が残らず、右肩から左腹に、左肩から右腹に白木綿の襷(たすき)をかけた。死出の白装束という意味もあったが、もっと重要な理由は、暗夜を利して敵の陣中に突撃して八つ当たりの白兵戦を演ずるのだから、敵味方の見分けがつかず同士討ちの憂いがある。その識別を便ならしめるためであった。

一同極端な軽装だった。戦時には普通一人当たり120発の弾薬を持つのだが、この時は各自30発だった。二日分の糧食を背負袋に入れて、一同草鞋(わらじ)履きであった。

中村覚少将の告示があった。

「枝隊の目的は旅順要塞を中断するにあり。一人たりとも生還を期すべからず。予倒れなば渡辺大佐代わるべし。大佐倒るれば大久保中佐代わるべし。各級幹部は皆順次代わるべき者を選定し置くべし。襲撃は銃剣突撃を以てすべし。松樹山砲台に突入するまでは、敵よりいかなる猛射を受くるも応射することを厳禁す。集団する敵に遭遇せば、兵力の如何を顧慮せず突撃すべし。ゆえなく、後方に止まりまたは隊伍を離れ、もしくは退却する者あらば、幹部はこれを斬るべし。死傷者は衛生隊に一任す。ゆえに毫(ごう)もこれが保護に意を用いることなく、一意勇往邁進すべし」

恐らく、これほど悲壮を極めた命令はあるまい。




2022年4月18日月曜日

白襷(しろだすき)決死隊

 白襷決死隊(1)

香月三郎中佐と村上正路大佐が、203高地の頂上に日章旗をひるがえしたのは、明治37年11月30日午後10時である。

じつはこの4日前、別の決死隊が203高地攻略を目指して奮戦し、ほぼ全員が戦死した。中村覚少将率いる「白襷隊」である。千名が出撃して、生還したのは49名であった。

昭和11年6月、文藝春秋社は日露戦争35周年の特集を企画した。その時生存していた人は2名だった。「白襷決死隊に参加して」との題で、文藝春秋は橋爪米太郎(はしずめ・よねたろう)氏の手記を掲載している。

目を覆いたくなるような戦いである。ロシアの日本侵入を防ぐため、多くの兵隊さんが必死で戦った。今眼前にひろげられているロシアのウクライナ侵入を見るにつけ、この時の日本の将兵がどのような気持ちで戦ったかを想う。橋爪上等兵の手記はこれを伝えている。


「白襷決死隊に参加して」 橋爪米太郎

明治37年3月13日、麻布歩兵第一聯隊の一員として出征渡満した当時上等兵の私が、以来、金州城・南山・営城子・双台溝(そうだいこう)・播磐溝(ばんばんこう)などに転戦し、旅順攻囲中の乃木軍に加わったのは、6月のことである。

右縦隊に属する我々は、まず9月に鉢巻(はちまき)山を落とした。この山は右翼に有名な203高地を控え、露軍にとっては誠に重要な地点である。従って敵はすこぶる頑強なる抵抗をしたため、我が聯隊も約800名の戦死者を出した。

次いで、203高地の第何回目かの大攻撃が開始されたのは、11月中旬であった。夜昼続く激戦で、彼我の屍(しかばね)が山に累積した。こうした戦死者の屍は、30分なり1時間なりの、一時的局部的の休戦によって、双方の収容隊の手で収容される。ある時、敵の衛生隊が、山麓から太く長い綱を曳いて露軍将兵の屍を引下した。あとからあとから死体がまるで芋蔓(いもつ¨る)みたいにゾロゾロと落ちてくるさまには、悲惨とも滑稽ともつかない、奇妙な気がした。

さて、203高地を死守する敵の気力は侮り難く、気負い立った我々の猛襲もおいそれと効を奏さない。といって、持久戦に頼るわけにはいかないのだ。早晩勃発するであろう奉天の大会戦までに旅順をおとさないと、我が乃木軍がそれに参加できない。奉天戦の苦戦は火を見るより明らかである。

一方、バルチック艦隊は刻刻我が国に接近しつつある。うかうかしていられないのだ。今や、焦眉(しょうび)の急は旅順を落とすことだ。かくて、乗るか反るか、白襷決死隊の強引無比の計画が実現されたのである。

白襷決死隊









2022年4月11日月曜日

香月三郎の奮戦(4・完)

 三郎の孫・香月孝氏の著書の中に、「三郎は国賊の弟ということで、陸軍では苦労したと思う。203高地攻撃の最先端を担わされたのは故なしとしない」とある。親族の方の心情としたは充分に理解できる。しかし、筆者は次のように考える。

たしかに陸大受験に関してはこのことはいえる。しかしそれ以外では、陸軍で三郎は多くの同情・理解・尊敬を受けたのではあるまいか。国賊の弟という目で見た学友・教官はいたかもしれない。同時に、憂国の士の弟との尊敬の目で見た人もいたように思う。任官後も同じと思う。むしろ後者の方が多かったのではあるまいか。西南の役ののち、西郷隆盛の人気が軍人のあいだでいっこうに衰えてないという事実から、このように推測する。

三郎は陸軍に在籍のあいだ、否その一生を通じ、兄・経五郎を誇りに思い続けていたと思う。江藤新平は、明治22年の憲法発布に伴う大赦により賊名を解かれた。かつ、大正5年4月11日に、生前と同じ正四位(しょうしい)の位階を追贈された。すなわち、兄・経五郎の賊名も完全に拭われたのである。これを見届けて、そのひと月後に三郎は亡くなった。

経五郎の弟ゆえ三郎は激戦の最先端を担わされた、という見方には賛成できない。2・26事件の決起部隊や、東條英機と対立した軍人が激戦地に飛ばされたという例は、昭和史の中には見える。しかし、日露戦争においてはこの種の話は聞かない。まして乃木希典という人がそのような判断をする人とは思えない。

北海道・旭川の兵を率いる村上聯隊と、群馬県・高崎の兵を率いる香月聯隊が共に勇敢な強兵であったからこそ、乃木軍司令官は、この二つの聯隊に困難極まりない「203高地攻略の決死隊」を命じた。こう考えるのが自然ではあるまいか。

戦術的に見れば、4日前の白襷隊(しろだすきたい)の全滅により、歩兵第一聯隊(東京)・歩兵第二十五聯隊(札幌)・歩兵第十二聯隊(丸亀)・歩兵第三十五聯隊(金沢)は壊滅していた。乃木将軍にとって頼るべき強兵の部隊は、村上大佐の歩兵第二十八聯隊と、香月中佐の後備歩兵第十五聯隊しかなかったのではあるまいか。


死を前にして経五郎が三郎に与えるため書いた漢詩の中に、気になる点がある。

「浪花(なには)に在(あ)りし弟香月三郎に懐(おも)ひを寄す」の箇所である。    佐賀に生まれ育ち、東京の陸軍幼年学校・陸軍士官学校に学んだはずの三郎が、どのような理由でこのとき大阪にいたのか不思議に思い、調べてみたがその形跡は見えない。今、筆者は次のように考えている。

慶應4年(明治元年)12月に、大村益次郎の献策により、新政府は陸海軍の将校を養成する「兵学校」を京都に設立した。明治2年1月に「兵学所」と改名され、9月に大阪に移転し「大阪兵学寮」となった。そして12月に最初の33名が入寮し、すぐに授業が開始された。明治4年、大阪兵学寮は陸軍兵学寮と海軍兵学寮に分離され、同年いずれも東京に移転した。明治5年、陸軍兵学寮幼年学舎が独立して、「陸軍幼年学校」が設立された。

ながながと書いているが、要するに筆者は、「香月経五郎は、弟の三郎は大阪にある陸軍将校養成学校にいると思い込んで、この漢詩を書いた」のだと思う。詩の中身は、将校の卵に与えるにふさわしい内容である。

香月経五郎が弟・三郎の陸軍幼年学校合格の吉報に接したのは、英国滞在中である。明治5、6年ごろ、横浜ーサザンプトン間の船便はかなり多く、人と郵便物の往来は意外に多かった。経五郎の明晰な頭脳は、明治3年に横浜を発ったときの、「陸軍将校を養成する学校は大阪にある」とのままで記憶していたように思える。


香月三郎の陸軍幼年学校合格は栄光につつまれていた。経五郎がこの吉報を、すぐにオックスフォード大学で一緒に勉強していた佐賀の若殿様・鍋島直大に報告したのは間違いない。「なに、三郎が最年少で兵学寮に合格したのか。よくやった!じつにめでたい。佐賀藩の誉(ほまれ)である。経五郎、どうだ。祝杯をあげようではないか」

この時オックスフォードの高級レストランで、若殿様のおごりで祝いの宴会が開かれたのは間違いあるまい。筆者はそう考えている。

中列中央が香月聯隊長






2022年4月4日月曜日

香月三郎の奮戦(3)

 香月三郎は陸軍士官学校旧3期の卒業である。この期の入校は明治10年5月、卒業は12年12月、卒業生96名とある。同期に陸軍元帥・上原勇作、陸軍大将・秋山好古、陸軍大将・柴五郎の名前が見える。

各人の生年月日は、上原1856年12月6日、秋山59年2月9日、柴60年6月21日、香月62年8月8日である。香月三郎は上原勇作より6歳若く、群を抜いた若さで陸軍士官学校に入校したのがわかる。当時、幼年学校も士官学校も入校時の年齢の範囲は一応定められていたが、かなり柔軟に対応されていたらしい。年齢を1つ超えていたが入れてもらった、年齢に達してないが優秀なので入校を許された、などの事例は他にもいくつか見られる。

香月三郎の陸軍幼年学校入校は、明治6年3月と思われる。陸士同期の柴五郎の幼年学校入校がこの年と記録にあるからだ。そうであれば、三郎の入校時の年齢は11歳7ヵ月となる。この年の入校の年齢制限規定は見えないが、大正12年の陸軍規定には、「満13歳以上、満15歳未満」とある。三郎は規定より2-4歳若くして入校したように思える。

本人の学力が高かったのが一の理由であろうが、明治初期に佐賀藩出身者が政府や陸軍の要所に多数いたことも、有利にはたらいたかと思う。「佐賀のあのオックスフォード大学に留学している切れ者・香月経五郎の弟だ。年齢に達してないがともかく受けさせてみろよ」との声が、入学願書を受け付けた陸軍幼年学校の事務局内部であったのかもしれない。良い成績だったので合格させた。

このような例は、明治初年においてあちこちで見える。

ちなみに、三郎と同い年の森鴎外(鴎外のほうは6ヶ月早く生まれている)は、この年(明治6年)に年齢を2歳いつわり、満12歳で東京医学校(以前の大学東校・のちの東大医学部)予科に入校している。後日、鴎外は本科を首席で卒業している。いずれにせよ、陸軍幼年学校入校までは、兄・経五郎の存在は三郎にとってプラスに作用したと思われる。

ただし、三郎は陸軍大学校に入学していない。陸士同期の上原勇作と秋山好古が少将で、柴五郎が大佐で日露戦争に従軍したのにくらべ、香月三郎が中佐であったのは、陸大を卒業してないことに理由があると思える。陸士旧3期の卒業名簿を見ると、あいうえお順ではないので、おそらく卒業時の成績順だと思われる。前から2割ぐらいの箇所に香月三郎の名前が見える。3人の大将の名前は香月のうしろに記載されている。これから察して、陸士卒業時の成績は香月のほうが良かったと考える。

陸軍大学校の入学試験は中尉の頃受けるが、成績優秀・身体壮健・人格高潔に加え、所属の聯隊長の推薦が必要となる。国事犯の弟ということで、この推薦状がもらえなかったのではあるまいか。聯隊長個人の判断というより、陸軍中央よりその種の通達が出ていたような気がする。

日露戦争・司教によるロシア兵へのミサ





2022年3月28日月曜日

香月三郎の奮戦(2)

 香月三郎中佐は、おそらくこの時、兄経五郎が佐賀の役で斬に処される直前、自分宛に書いた漢詩を肌身につけていたと思う。

香月経五郎とは、日本人で最初にオックスフォード大学に学んだ人である。明治6年12月末に帰国し、すぐさま師匠の江藤新平と共に、佐賀藩士族たちの暴走を鎮撫する目的で佐賀に帰郷し、佐賀の役に巻きこまれて25歳と1ヶ月で刑死した。

次のような漢詩である。

寄懐弟香月三郎在浪花  浪花(なには)に在りし弟香月三郎に懐(おも)ひを寄す

汝是男児異女児  汝是(なんじこ)れ男児にして女児と異なる

聞吾就死又何悲  吾れ死に就(つ)くを聞くも又何ぞ悲しまんや

王師西入鶏林日  王師(おうし・皇軍)西のかた鶏林(けいりん・朝鮮)に(攻め)入るの日(こそ)

應識阿兄瞑目時  応じて阿兄(あけい)瞑目(めいもく)せる時と識(し)るべし


203高地陥落のあとの陸軍の大決戦は奉天会戦であった。日本陸軍24万、ロシア陸軍36万が戦った。明治38年2月21日ー3月10日

3月7日の戦闘で、歩兵第三十三聯隊長(名古屋)の吉岡友愛中佐が戦死し、香月三郎中佐が後任に補される。すなわち乃木希典大将の第三軍・第一師団から、奥大将の第二軍への人事異動である。名古屋の第三師団の配下である。

太平洋戦争の戦史を何冊か読んでいる私は、聯隊長は大佐だと思っていた。中佐で聯隊長というのは、兄経五郎の刑死が影響して陸軍での昇進が遅れていたのでは、と一時は考えていた。調べてみて、この考えはまったく誤りだと知った。この時の第三師団配下の各聯隊長の名簿が手元にあり、次のように記されている。

歩兵第六聯隊長    中佐 高島友武

歩兵第三十三聯隊長  中佐 香月三郎

歩兵第十八聯隊長   中佐 渡 敬行

歩兵第三十四聯隊長  中佐 川上才次郎

騎兵第三聯隊長    少佐 中山民三郎

野戦砲兵第三聯隊長  中佐 有田 恕

ほかの師団の中には大佐の聯隊長の名前も若干見えるが、日露戦争時の聯隊長の大部分は中佐であったようだ。ちなみに、香月中佐と共に203高地を攻略した村上正路大佐は、香月より年齢が10歳上である。香月三郎が第三十三聯隊長に補されたのは3月16日付で、奉天での大きな戦闘は終わっていた。ただ、これで戦争の決着がついたわけではない。ロシア側は、戦力を残したままの一時的な撤退、との姿勢を崩していなかった。日露戦争全体の決着がつくのは、5月末の日本海海戦の大勝利のあとである。


日露戦争から凱旋した三郎は、そのまま名古屋の歩兵第三十三聯隊長として勤務し、まもなく大佐に昇進する。曾孫にあたる香月康伸氏からいただいた三郎の写真の軍服の襟章に「33」と見え、肩章に星3つが見えるから、これは名古屋で大佐に昇進した時の記念写真と思える。目がらんらんと輝き精悍な顔つきである。

本人の意思と思われるが、定年の何年か前に陸軍を退いている。「晩年は戦死した部下たちの遺族を慰問して回っていたと祖母から聞いた」と康伸氏からお聞きした。大正5年5月6日、当時流行していたペストで名古屋で亡くなった。54歳。この年の12月に夏目漱石が49歳で東京で没している。

日露戦争時の陸軍兵士


                        


2022年3月21日月曜日

香月三郎の奮戦(1)

 香月三郎のことを知ったのは大学三年の頃だから、兄の経五郎を知る一年ほど前と記憶する。「坂の上の雲」は203高地での戦いを次のように描写している。


この日=白襷隊(しろだすきたい)が全滅した4日後、明治37年11月30日=ロシア軍の堡塁(ほるい・小型の要塞)に、香月三郎中佐の率いる後備歩兵第十五聯隊(群馬県・高崎)が反復突撃し、ついに白兵戦をもってロシア兵をたたき出した。ところが、占領したこの堡塁にロシア軍の銃砲火が集中して顔も出せない。

右翼から攻めるのが村上正路(まさみち)大佐率いる歩兵第二十八聯隊(北海道・旭川)で、左翼から攻める香月聯隊と対(つい)になって進んだ。両隊とも銃砲火を浴びつつ”け1時間ばかりすくんでいた。香月隊では、堡塁を出ようとして顔を出した一人の士官がその瞬間、顔をもぎとられた。

旅団長・友安治延(ともやす はるのぶ)少将は、村上隊に対して命令を発しようとした。「陣地を出て前進せよ」と。ところが旅団司令部そのものが、このとき飛来した巨弾のため爆破された。司令部員のほとんどが即死もしくは負傷した。伝令兵も死んだ。無傷だったのは友安少将と副官の乃木保典(やすすけ)少尉だけだった。電話線は切れている。友安は乃木に伝令を命じた。

乃木少尉は弾雨のなかを駆けに駆け、ほとんど奇跡的に村上隊の陣地にとびこんだ。「前進せよ」との命令を伝えた。前進するということは全滅するということである。ーこの状態で前進できるかーとは村上は言わなかった。「ただちに前進します、と復命せよ」と乃木に伝えた。しかし、乃木希典(のぎ・まれすけ)大将の次男であるこの少尉は復命できなかった。帰路、前頭部を射抜かれて戦死したからである。

それまでの村上聯隊の突撃は血しぶきとともにおこなわれた。配下の一部隊は敵の鉄条網の前後で一人のこらず戦死した。村上は午後6時、生き残っている残兵百人を率いて前進を開始した。「村上隊がうごいた」、これを知った香月隊はすぐに前進を開始した。

香月隊には残兵四百人がいた。日本軍五百人は、千人のロシア軍を相手に30分の白兵戦をもって、ついに午後9時、山頂に達した。山頂に残るロシア残存兵との白兵戦がさらに続いた。古来、東西を問わず、これほどすさまじい戦いはなかったであろう。そしてついに203高地を占領した。ときに明治37年11月30日午後10時

村上聯隊の残存兵は50人ぐらいであった。香月聯隊のほうは記録に見えない。100人ぐらいかと想像する。両聯隊長とも2600人の将兵を率いて出撃していた。

司馬遼太郎の筆を借り、筆者が多少の事実を書き加えると、香月三郎中佐の奮戦は以上のとおりである。


この時203高地の攻略に失敗していたら、日本人のその後の生活ぶりは、現在とは大きく異なっていたように思う。

203高地占領が出来なかったら、ロシアの旅順艦隊は港内で生き残った。それがバルチック艦隊と合流していたら、東郷元帥の日本海海戦はあれほどの勝利は難しかった。

かなりの数のロシア艦隊がウラジオストクに入港していたら、日本海軍は対馬海峡の制海権を取れなかった。そうであれば満州の日本陸軍は孤立する。日露戦争は日本の敗北で終わったかもしれない。

もしそうであったなら、我々は大学での第一外国語はロシア語を強制され、ウクライナをはじめとする東欧諸国のように、ロシアの支配下で生活していたかも知れない。


香月三郎聯隊長



2022年3月14日月曜日

神奈川県「夏島」での合宿生活

 伊東巳代治・こぼれ話(8)

明治憲法の草案を練るときの愉快なエピソードを紹介したい。伊東巳代治は井上毅(こわし)・金子堅太郎とともに「明治憲法制定時の伊藤博文の三羽ガラス」といわれている。

この時、半年以上も外部との接触を断って、横須賀の北北西に位置する「夏島」という小島で合宿生活をしている。大正時代に埋め立てされ現在は陸続きになり、日産自動車や住友重機の工場がある。江戸時代は少数の漁民が住んでいたが、明治初年に陸軍が買収して軍の管理下に置いた。東京湾防備が目的だったようだ。

ここに伊藤博文の別荘が建てられた。伊藤が私利私欲で贅沢をしようと考えたのではない。軍の管理下で機密保持のできる、東京からほど近いこの地に宿泊所を造ったのは、明治憲法制定に備えてのことであった。

ここで、四人はじつに伸び伸びと、互いの意見をぶつけ合っている。おどろくほどの自由闊達さである。明治初期という「日本の勃興期でみなが希望に燃えていた」のが理由なのか、「伊藤博文という人が若者の意見広く聞く度量があった」ためか、はたまた、「伊東・井上・金子の三人の明るく前向きの気質」ゆえなのか、困難な作業の最中に、思わずくすっと笑ってしまうユーモラスなエピソードがいくつも見える。

伊東は手記に、次のように述べている。

「我々は夏島に滞在してめったに帰京することはなかったが、伊藤公だけは時に1週間くらい居られたこともあるが、たいがい2・3日で東京に帰られた。政務の関係もあったが、憲法起草の進行に伴って時々、陛下の思召しを伺はれる必要があった為である。

当時夏島では、伊藤公を始め我々一同の勉強はじつに非常なものであった。毎朝9時には井上君が旅館からやってくる。4人の顔が揃うと議論をはじめる。その間食事もせず晩まで続けたことも少なくない。なにぶん論客揃いであった上に、伊藤公から思う存分意見を言えとの命令があったから、3人は遠慮なく議論を上下した。時には伊藤公の意見を正面から排撃したことも一度や二度ではない。伊藤公も負けては居られぬ。激論の末 ’’井上は腐儒(ふじゅ)だ’’ とか ’’伊東、汝は三百的(さんびゃくてき)だ‘’ とか罵言(ばげん)されることもあった。それでも時を経てから、’’君らが余り熱心に主張するから君らの説に従っておこう’’ と言われたものである」

腐儒(ふじゅ):まったく役に立たない儒者をののしっていう言葉  三百的:明治初期、代言人(弁護士)の資格を持たないでこれを行うもぐりの弁護士をののしっていうとき、三百代言(さんびやくだいげん)と言った


水泳の話も面白い。

「それから夏の暑い日中には、浜辺に出て水泳をやったものである。井上・金子の両君は水泳が達者でほとんど毎日のように海に行く。自分はいつも留守番をして午睡をしていた。そのため両君は自分を水泳の心得が無い者と思ったらしく、我々二人が付き添っていれば危険はないから水泳に行こうと自分に勧めた。ある日3人で舟遊びをした。舟が沖にでた頃に、自分が誤って落ちたように見せかけて、ざぶんと飛び込んだ。両君の驚くまいことか。救助せんと急いで着着を脱ぎ、海中飛び込んだ。あちこちと捜索に努めている。この間に自分は深く潜って向こうに浮かび出て、それから抜手を切って泳ぎだした。その水練の達者なところをはじめて見た両君は、あまりのことに啞然とし、’’まんまとかつがれた’’ と地団太踏んで悔しがったものである」


「兎の話」も愉快である。

当時の日本人は「兎」を食用にし、その毛皮を襟巻にするなど、ペットではなく、この動物を実用的に活用していた。明治天皇が伊藤博文に「若い連中と一緒に肉を食って精力をつけよ」と食用に兎30匹を下賜(かし)された。

「あるとき、陛下から思召しをもって兎三十匹を賜った。小さい離島で逃げ去る恐れもないから、これを野飼にしておいて、時々殺して頂戴したものである。しかるに、たちまち繁殖して二倍にも三倍にもなった。いよいよ夏島を引き上げる時にはそのままにしておいた。帰京後あるとき、海軍大臣の西郷従道侯が自分に向かい、’’この前夏島に遊びに行ったら、兎が驚くほど繁殖して全島兎でいっぱいだ‘’ と言われた。猟好きの自分は、早速5,6の人を誘い鉄砲をもって夏島に出かけた。しかるに島には兎の姿は見えない。くまなく捜索してようやく一匹を発見してこれを猟して帰京した。西郷候にこれを話すと、候は自分の行く前にすでに多数の海軍の水兵を連れて島に渡り、兎狩りをして残らず捕獲したという。’’一匹も残すまいと非常に骨を折ったが、一匹残っていたとは作戦は失敗だった’’ と呵々と大笑いされた。これは自分が、’’まんまとかつがれた’’ 話である」

雉狩猟姿の伊東巳代治








2022年3月7日月曜日

伊藤博文のヘッドハンティング手法

伊東巳代治・こぼれ話(7)

 伊藤博文と伊東巳代治の面接の時間はどのくらいだったのだろうか。工部卿の伊藤は超多忙だ。1時間か長くて1時間半位だったかと思う。この短い時間で、人物チェック・英語の試験・口頭でのオファー提示・候補者の受諾・入省後の仕事の説明のすべてが完了している。

ヘッドハンターの私から見ても、理想的な面接である。伊東が優秀だったからが一番の理由だが、伊東以上に伊藤博文の対応に目を見張る。「人たらし」として多くの若い俊英を惹きつけ、彼らの実力をいかんなく発揮させ、日本の国難を乗り切った、「英傑・伊藤博文」の面目躍如たる姿をここに見る。

① 伊東が伊藤を訪問したのは、午後3時か4時頃かと思える。伊藤にすれば夕食前にこの面接を片付けるつもりだった。そこに陸奥宗光たちが飛び込んできて、会議は予想以上に延びた。若者とはいえ2時間以上も待たせるのは失礼だ、と伊藤は思った。このあたりのセンスが良い。腹が減ったら人間は短気になる。まずは飯を食わせておけ、と書生に命じた。

幕末の頃、伊藤俊輔は桂小五郎の秘書役として、長州藩の京都藩邸で働いていた。腹を空かせて飛び込んでくる各藩の脱藩浪人たちの対応には慣れていた。江藤新平が血相を変えて長州藩邸に飛び込んだ時も、まずは飯を食わせた。

2時間以上も待たされたのに、ご馳走を出された伊東巳代治は悪い気はしない。伊東の自己重要感が満たされる。

② 伊藤博文はいきなり英語の試験をする。駐日米国公使から工部卿宛の手紙だから、重要書類である。それを伊東に見せる。「君を信用している」との意味になる。これに対して伊東は、すぐさま伊藤が満足する内容の英文をしたためる。この時の両者の英語の実力は、今ふうにTOEICでいえば、伊東950点、伊藤850点ぐらいではないか、と想像する。

伊藤は一読して、これにサインして自分の唾で封をして、「これを発送してくれ」と書生に命じる。面接OKの表示である。給料の金額こそ言わないものの、「当分は兵庫県の時と同じく課長補佐程度でやってくれ」と条件提示をする。伊東はすぐさま謝意を表して受諾する。

③ この時の伊東の対応も面白い。ここで伊東は、言わなくても良いことを口走る。「嬉しいです。無給でもやらせてください」と。「それでは君の口が乾あがるぞ」と伊藤は大笑いするが、これを聞いた伊藤博文は悪い気はしなかったはずだ。

この時の伊東巳代治の気持ちは良くわかる。伊東はこの仕事を、「海外に留学する以上に価値がある」と直感したのであろう。高給を得ていた過去4年間の貯蓄で、伊東には2,3年は充分食えるだけのお金があった。伊藤はこれを知らなかったであろう。「無給でも良い。授業料タダの海外留学だ」と伊東が考えたのは正しい判断である。


じつは伊東巳代治にとって、少年時代からの最大の夢は、「海外への留学」であった。明治4年、本人が14歳のとき、工部省・電信頭の石丸安世は、英語のできる若者が多い長崎まで出張してきて、英語のできる少年数名を採用した。明治5年には上海・長崎間に電信海底ケーブルが設置される。この時の電信はすべて英文であった。石丸は、「東京での1年間の研修ののち、成績優秀者は官費にて欧米留学させる」と少年たちに語った。

こころがこれは「カラ手形」だった。首席で卒業した伊東巳代治に与えられた辞令は、郷里の「長崎勤務」であった。「話が違うではないか」と憤慨した伊東は、半年で辞表を出し、神戸に向かう。そして、「兵庫アンド大阪ヘラルド」に入社したという、過去のいきさつがあった。

よって、歳は若いものの、伊東にとって工部省への入省は2度目である。伊東のことだから、オープンマインドに、「じつは、工部省へは出戻りとなります」ぐらい言ったかと思う。これに対して伊藤は、「おお、そうか、それはちょうど具合がいいな!」と笑って答えた。大らかな時代であった。




伊藤博文との邂逅

 伊東巳代治・こぼれ話(6)

伊東巳代治が伊藤博文にはじめて会ったのは、明治9年12月27日の夕方である。根回しは神田孝平がおこなった。実際に伊東と伊藤の面談を手配したのは静間健介という長州人である。この人は、かつて神田県令の部下で参事として兵庫県庁に勤務していた。木戸孝允の兄弟分といわれた人だ。

神田孝平が兵庫県令を辞め、栄転のかたちで元老院議官として東京に向かったのは、明治9年9月3日だ。自分を引っぱってくれた神田が去るので、伊東も、そろそろ転職をと考えていたのかも知れない。今まで資格を必要としなかった代言人(だいげんにん・のちの弁護士)に、資格試験が導入されたのは明治9年である。

巳代治の実力なら軽く合格できる。この頃、伊東はこの資格を取って「国際弁護士」として身を立てようと考えていたふしがある。そうすれば収入も大幅に増える。これに待ったをかけたのが神田孝平である。「そんなチマチマした資格試験なぞ止めてしまえ。これからの日本を引っ張っていく男は、いま工部卿をやっている長州の伊藤博文だ。自分が手配するから一度伊藤にあってみろ。君を生かす仕事があるかもしれない」と伊東に話した。

この時の伊藤・伊東の面談のやりとりは、なんとなく可笑しい。ヘッドハンターの仕事をしている者として、とても興味深い。少し長くなるが、伊東の手記を紹介する。


「静間健介(長州人にて桂の兄弟分なり)の紹介にて伊藤博文公を霊南坂の工部卿官邸(いまの米国大使館)に訪問したのは、明治9年12月27日の午後であった。来客ありし待つこと2時間余。この時の来客は元老院議官の陸奥宗光・元の大蔵省紙幣頭の吉川顕正(あきまさ)他2・3人なり。夕方となりすこぶる空腹を感じぜし頃、給仕が自分の膳を持ち来れり。馳走を食しそれが終わりし頃、奥の間に案内され、はじめて伊藤公に面会したり。

その時伊藤公は自分を一見して、君は思いたるより若いな、と言いながら先ず歳を聞かれたり。君は英語が堪能なりと聞いたが、書く方はいかがかと聞かれたるに付き、一人前には出来るつもりなりと答う。公が、一人前とは日本人の一人前か英人の一人前かと笑いながら聞かれたるにより、それは閣下の御鑑定を願うと、自分も笑いながら答えり。

時に伊藤公は、傍らの書棚より英文の手紙を取り出して自分に渡し、これは米国公使からの来翰なり、これに対し返書を書いてくれと申されたり。この手紙を拝見したる上、伊藤公口授の趣旨に従い返事を認めて、悪(あ)しき所はご指示により改むべしと申し述べ、これを供したり。伊藤公はこの文書を一見したる後、直ちに署名し、自ら封筒に唾(つば)して書生を呼び発送を命じられたり。

君は文章もなかなか良く出来るな、ただし出来るからといって高ぶってはいかぬ。兵庫県にては権大属を務めたりと聞く、まず当分その位にて我慢すべし。勉強次第にて出世すべし、と笑いながら申し渡されたり。自分は頭を低うして謝意を表せり。

その後、公は口を開きて、実は来春英国より雇い入れたる法律家「ビートン」なる者が到着す。先年雇いたる「デニアン」という法律家も帰朝するに付、貴殿はこの両人に附随して工部省にて取り扱うすべての法律事務に従事し、同時に両人より法律の教授を受くるべし、との内意を申し渡され、実に天に昇るような思いをなせり。

自分は明治4年、洋行の念、勃々(ぼつぼつ)たりしに、この望みなしと落胆したことありき。今かようなる良師に就くことは留学すると同じく、なによりの仕合わせなり。俸給等はもとより望所にあらず。無給にてもご奉公すべしと申したるに、伊藤公は言下に、俸給なしでは君の口が乾上(ひあが)るぞと哄笑(こうしょう・大声で笑う)されたり。

急ぎ神田邸に帰り、委細を神田氏に話したるところ、氏は大いに喜ばれたり。1月10日に至りて、工部権大録(ごんたいろく・課長補佐クラスか)に任ぜらるる辞令を受けたり」


ヘッドハンターが面接をセットしてそれを終えたのちに、なにも連絡しない候補者が近頃はいる。それに比べ伊東巳代治は、すぐに神田孝平の自宅を訪問して報告している。成功する人物はこのあたりが違うなあと、老ヘッドハンターは感心している。







2022年2月28日月曜日

兵庫県令・神田孝平のヘッドハンティング(2)

 伊東巳代治・こぼれ話(5)

神田県令の、伊東巳代治獲得の話はヘッドハンターの私にも興味深い。良い人材を得たいと考えている企業経営者にも参考になると思う。ヘッドハント成功のカギを整理してみる。

① 有望と思う人材を見つけた時には、採用したい旨を敏速に本人に伝える。神田県令は伊東に会った2、3日後に、部下で伊東と同郷の彭城(ほうじょう)という課長を経由して、「伊東を兵庫県官吏に採用したい」と口頭で伝えている。

② これを拒絶されると、すぐに、伊東巳代治に一番影響力を持つのは長崎にいる両親と判断し、彭城課長を使い両親経由で伊東を口説いている。

③ 兵庫県官吏の給与水準が、現在伊東が得ている報酬より低いことから、これに対して柔軟に対応している。この時神田県令は、「本業に差支えない範囲で、今までの新聞社と通訳の仕事を続けて良い」と伊東に言い渡している。すなわち官吏でありながら、副業を認めている。事実、このあと伊東はこれらの副業で官吏の給料以上の収入を得ている。

④ じつはこの四番目に、私は一番感動している。自分が見込んで採用した伊東の地位を、ものすごいスピードで昇格させているのだ。明治6年8月に6等訳官で兵庫県庁に就職した伊東は、24日後の9月1日に5等訳官、翌明治7年1月7日に4等訳官、同年8月13日には3等訳官に昇り、明治8年6月2日には二等訳官に進み、同年10月15日には権大属・外務副課長に就任している。この時、伊東巳代治、満18歳である。

伊東巳代治に能力があったからであろうが、県令・神田孝平にそれだけの権限が与えられていたのだろうか。あるいは、権限を超えて神田が押し切ったのかも知れない。現在の硬直した役所や大企業の人事制度では、とうてい考えられないことである。


公的だけでなく、私的にも神田は伊東を可愛がった。当初は自分の県令官舎に伊東を寄寓させている。英語はできるが漢学の素養不充分と見た神田は、夜は自分の部屋に伊東を招き、漢学・作文を徹底的に教えた。「今日いささか漢文学を解するは、これ神田氏の指導の賜物にて、氏は自分の第三の師父とする所なり」と伊東は後日、手記にしるしている。

この伊東巳代治の日本語の文章力が発揮されるのは、日清戦争の時である。

日清戦争の宣戦布告の詔勅(しょうちょく)が渙発(かんぱつ)されたのは明治27年8月1日である。この原案を起草したのが、当時第二次伊藤博文内閣の書記官長(官房長官)であった伊東巳代治である。

「天祐ヲ保全シ萬世一系の皇祚(こうそ)ヲ践(ふ)メル大日本帝國皇帝ハ忠實勇武ナル汝有衆(ゆうしゅう)二示ス」にはじまるこの詔勅は格調が高い。

並みの書記官長ならおしまいの部分を「汝臣民」と起草したかもしれない。

奈良・平安時代であれば、汝臣民(なんじしんみん)という表示で良い。立憲君主国としての国体である大日本帝国の明治憲法では、天皇が国民に対しての呼びかけとしては、「汝有衆」が正しい。法律に精通した伊東巳代治ならではの表記である。

今一つ、「天皇」と表記せず「皇帝」と記している箇所が興味深い。





兵庫県令・神田孝平のヘッドハンティング(1)

伊東巳代治・こぼれ話(4) 

神田孝平(かんだ たかひら・通称こうへい)について少し紹介したい。

天保元年(1830)生まれというから、西郷隆盛より2歳若く、木戸孝允より3歳年長である。伊東巳代治に会ったときは44歳。美濃の旗本(代官)の側室の子であるから幕臣である。蘭学を学んだ洋学者で、オランダ語はわかるが英語はできない。幕末のころは、江戸幕府の「蕃書調所・ばんしょしらべしょ」の教授だった。「開成学校(大学南校)」の前身だから、東京大学の源流ともいえる。

伊藤博文は明治元年に27歳で、初代の兵庫県令になった。その次の次、3代目の兵庫県令に就任するのが、42歳の神田孝平である。幕臣だが、長州の木戸・伊藤と親しかった。その後、文部少輔(局長)・元老院議官・貴族院議員となり、正三位・男爵となっているから、旧幕臣としてはずいぶん出世した人である。もっとも、神田孝平が正三位・男爵に叙された頃は、伊東巳代治が権力の真っ只中にいた時期と一致するから、伊東が師匠に対する恩返しのつもりで汗をかいたのではあるまいか、と想像する。

この神田は伊東をすこぶる気に入り、兵庫県の役人に採用したいと思い、長崎の巳代治の両親を説得して、伊東巳代治獲得に全力投入する。伊東の手記に戻る。

「自分は別に求むるところなき為、行くつもりなかりき。しかるに県令は、自分が若年ながら英語に堪能なる上に、法律上の知識も有りたるに驚きたるものと見え、自分と別れたる夜、長崎出身にて彭城(ほうじょう)という人が、兵庫県の外務課長なるを知り、自分のことを彭城に問いたりという。彭城は、一面識なきも郷里の評判にてよく知れりとて、’’彼は長崎にて有名な書生にて、家柄もまずまず’’ と答えしかば、神田県令より彭城を経由して、自分を採用したしとの申し込みあり。自分は官吏になる考え無きにより、ていよく謝絶したるところ、この話がその後、両親の耳に入りたり。

父母双方より、手紙にて自分の不心得を叱責し来れり。ことに母の手紙は、ほとんど泣いて訴うるごとき有様にて、実に自分もこれには大いに困却(こんきゃく・困り果てる)したり。両親とも自分が外国人の使用人になりたるを快く思わざるところに、はからずも県令より所望され官途に出る運に向かいながら、これを謝絶するとは不心得なりと言うにあり。かかる両親の心配には自分も抗し難く、遂に意を決し、これを承諾したるなり」

神田孝平




2022年2月21日月曜日

神戸の英字新聞社に入社・伊東16歳(2)

 伊東巳代治・こぼれ話(3)

ここから先が本題になる。

半年ほどして、キュッリー社長のもとに、神戸の大物アメリカ人から、伊東巳代治を急いで派遣して欲しいとの緊急依頼が入る。

「明治6年の7月頃と覚ゆ。米国領事館(領事ダニエル・ターネル)へ、当時の兵庫県令・神田孝平氏が、県属の通詞堀某を連れて、海岸通りの地先権の事につき、面倒なる法律問題についての談判に来(きた)るあり。しかるに、県属の通詞にては通訳意の如くならず。アメリカ領事も耐えかねて、新聞社社長に対して、急いで伊東を派遣してくれとの急報あり。社長も米国領事館にはしばしば出入りがあり、領事の歓心を得ておく必要あり。ぜひ行きて、なるべく丁寧にやってくれとの懇諭(こんゆ)あり。

ただちに領事館に至りたるに、2階の客間にて神田県令と米国領事との対談の席に引見せらる。概要を領事より聞き取り、これを通訳して神田県令に話し、追々(おいおい)議論が進行したり。しかるに、県令の所説に面白からざる所ありたるをもって、少年の生意気ながら、自分も日本人なれば、日本の不利益にならぬようしたりき一念より、談判中にしばしば神田県令に注意を試みたり。県令も大いにうなずきたるをもって、自分の思い通りを先方に英訳し、アメリカ領事も次第に受太刀(うけだち)となりて、当日の談判は結局県令側が有利となりたり。神田県令はこれを非常に喜び、別れる際、自分の姓名と国所(くにどころ)を聞き、県令の官舎に話しに来てくれと所望せられたりしも、自分は別に求めるところなき為、行くつもりなかりき」


この時の通訳費用は、だれが負担したのであろうか?アメリカ領事館からの依頼なので米国側が支払ったと考えるのが妥当だが、もしかしたら兵庫県と折半したのかも知れない。ところが伊東巳代治は、日本人として日本の不利益を避けたいとの一念で、神田県令が有利になるように誘導し、英訳している。

「単なる英語屋ではない。少年ながら大和魂を持った男だ。この少年は大成する」神田県令はこのように、伊東巳代治を高く評価したのであろう。この席のアメリカ側に、日本語を理解する人がいなかったのも幸いであった。

「県令の官舎に遊びに来い」という神田の好意に対して、「別に行きたくもないので放っておくつもりだった」と伊東は記している。

この神田孝平という男はただ者ではなかった。

このあと、神田県令の敏速かつ熱意ある、「伊東巳代治ヘッドハンティング作戦」がはじまる。これは次回で紹介する。一流の人材を確保しようと思う、企業の経営者に役に立つ話だと思う。






2022年2月14日月曜日

神戸の英字新聞社に入社・伊東16歳(1)

 伊東巳代治・こぼれ話(2)

伊東巳代治が神戸にある英国人キュッリーが経営する、英字新聞社「兵庫アンド大阪ヘラルド」に入社するのは、明治6年2月、本人が満16歳の時である。

英字新聞編纂の仕事で月給30円であった。当時の感覚では、1円は旧幕府時代の1両に相当する。明治5-6年の巡査や小学校教師の月給が4円で、明治13年の第一回の東京大学卒業の官吏の初任給が18円だったから、この30円は破格である。これに加え「キュッリー社長は自分に兵庫ホテルの一室を借り与え、英国の法律書を何冊も買い与え、衣服は英国人の仕立て屋で作ってくれ、自分を子供同様に厚遇してくれた」と巳代治はその感激を手記に書き残している。

この兵庫ホテル(英語名・オリエンタルホテル)は明治3年に開業した日本最古の西洋ホテルで、明治23年開業の帝国ホテルよりはるかに古い。

弁護士の仕事もしていた英国人社長が、巳代治をこれほど優遇したのは、彼の能力と人柄を愛したことが一番の理由であろうが、経済的な面での裏話がある。巳代治の手記を続ける。

「ほどなく、’’通詞(通訳)の伊東さん’’ と呼ばれて、居留地の外国人や貿易商人の間に名前を知られ信用を博した。各国の領事館にも出入り交際したる結果、通詞を置かざる領事館より、社長を介して自分を借りに来るようになった。1時間約30円、安きは20円位の金額で、これがみな社長の収入となる次第にて、社長は大いに自分を厚遇したり」とある。

なんのことはない。たとえば月に10時間ほど巳代治を通訳の派遣に出せば、社長のふところには200-300円のお金が入ったわけで、現在の人材派遣会社よりも、はるかに良い実入りがあったことになる。

明治15年頃の兵庫ホテル
前に見えるのは人力車







2022年2月7日月曜日

伊東巳代治・こぼれ話

 伊東巳代治・こぼれ話(1)

2年ほど前にこのブログで紹介した「伊東巳代治」を、いまでも内外の多くの方々が読んでくださっているのは嬉しい。

これといった門閥・藩閥のない少年が、満7歳で長崎の英語塾・済美館に入門してグイド・フルベッキの弟子になる。死に物狂いの努力の結果、15-6歳で抜群の英語使いになる。幸運に恵まれ、20歳のとき、工部卿・伊藤博文の面接を受け工部省に入省する。その後も、英語を武器にすさまじいスピードで立身出世していく。

このスピード出世が太閤秀吉を彷彿させるのか。それとも、最晩年になって、軍部に睨まれるのをものともせず、吉田茂などの配下を使い、「国際連盟からの脱退には絶対反対」の論陣を張ったその勇気に、人々は感動するのであろうか。このように思っていた。

この伊東巳代治の曾孫にあたる方・伊東武様・との知己を得て、昭和13年に発刊された大冊「伯爵伊東巳代治」をお借りして熟読する機会を得た。

この本を読んで感じたことは、「英語上級はたしかに伊東の強みではあるが、それ以外の能力があったからこそ、この人物は大きな成功をおさめた」ことを知った。

「大久保利通伝」や「木戸孝允伝」のように明治前期に発刊された偉人の伝記は、はっきり言って面白くない。編纂者が本人を褒め称えすぎる「ヨイショ」の部分が多すぎて鼻につく。これらに比べ、「伯爵伊東巳代治」は、昭和10年代という日本全体の教育水準が高まってきた時ゆえ読者に配慮したためか、あるいは編纂者がフェアな人柄であったゆえか、この種の嫌味が少ない。

この本の何よりの魅力は、伊東巳代治自身が生前に書き留めた「自伝」があちこちに引用されていることだ。正直で率直、簡潔でユーモラスな筆運びで、実にわかりやす文章である。今回紹介するのは、この巳代治自身が書いたものの中から得たエピソードが多い。


ここで少し余談話をしたい。

私は若いころ、三光汽船という船会社で18年間勤務した。同期入社は47人だったが、その中に同志社出身のA君というとても英語の良くできる、同時に個性の強い男がいた。入社して2年が経ったころ、社長の河本敏夫さんは三木内閣の通産大臣に就任し、三光汽船を去られた。主力銀行の大和銀行から、重役の亀山さんという方を社長にお迎えした。東大卒の温厚な人格者で、社員の評判も良い。当時の三光汽船は、業績も良く世界最大の運行船腹量を誇り、さらに積極的に船腹拡大を図っていた。シティバンクやチェースマンハッタン銀行をはじめ、米欧の有力銀行から多額の融資を受けていた。同時に、香港や欧州の船主から多くの船舶を傭船していた。よって、亀山社長はひんぱんに海外出張をされる。

入社3年目のA君は、その英語力を見込まれれて、社長秘書兼通訳に抜擢された。亀山社長と一緒にファーストクラスに乗ってアメリカに出張するA君を、私を含めた同期の連中は、「すごいなあ」と羨望のまなざしで眺めていた。ところがこのA君、2-3度社長に同行して海外出張しただけで、まもなくクビになった。クビといっても、社長秘書をクビになっただけで、古巣の部署にもどり仕事を続けている。

「A、どうしたんだよ?」と私が聞いても、「まあ、出張中にちょっとしたことがあってなあ」と苦笑するだけだ。しばらくしたら、同期の一人から、「ちょっとしたこと」の中身が私の耳に入ってきた。

「Aのやつなあ。チェースマンハッタン銀行の頭取と亀山社長との会食に同席したのだが、亀山さんの言ったことを伝えないで、自分の考えを滔滔(とうとう)と演説したらしいよ。’’A君、僕は英語は得意ではないが、いま君がしゃべったことは僕の言ったことと違うぐらいはわかるよ‘’ と亀山社長が注意したら、’’社長、でも僕はこのほうが正しい考えだと思います’’と言ったものだから、温厚な亀山社長もブチ切れて、帰国したらすぐにクビになったわけさ」同期の一人は、A君の無茶ぶりを面白がって、愉快そうに話してくれた。


じつは、伊東巳代治もこのA君と似た通訳ぶりを発揮している。そしてこのことが、伊東巳代治の出世のきっかけとなる。似ているものの、A君と伊東では、そのやり方と中身がかなり違う。このあたりのことをご紹介したい。

33歳頃の伊東巳代治


2022年1月31日月曜日

和同開珎(3)

 大和朝廷が和同開珎の銀銭を発行したのが和銅元年の5月11日で、3ヶ月後の8月10日に銅銭を発行している。この大和朝廷というのは、ずいぶんスピード感のある政治を行ったようだ。銅銭4枚と銀銭1枚を同じ価値とし、銅銭1枚で籾(モミ)6升が買える、同時に1日分の労役の値と決めた。

ところが、翌年の和銅2年8月2日の記録に、「銀銭の通用を停止して専ら銅銭を使用させた」とある。一つの理由は、秩父の銅の生産量が想定より多かったこと、いま一つは、唐などへの献上品として銀銭の利用価値があると判断したこと、いま一つは、地方の実力派の郡司を懐柔するのに銀銭が利用できると思ったのではあるまいか。

しかし、すぐに大きな問題が発生する。偽がね造りが出てきたのである。銅銭発行の半年後、和銅2年正月25日の詔(みことのり)に次のようにある。

「さきに銅銭を通用させた。ところがこの頃、姦(よこしま)な悪党が利を貪り、偽の銭をこっそり鋳造している。今後、隠れて偽銭を鋳造する者は、身柄を官の賤民におとし、その財産は告発した人に与える。またみだりに利を求め、変造の行為などした者は、鞭(むち)で打つこと二百回の刑に処した上、強制労働を課して徒刑(ずけい・現在の懲役刑)に処す」

ところがこれでも偽銭造りは止まなかった。奈良時代は政治犯以外は、死刑というのはめったになかったが、いよいよ「死刑」という言葉が出てくる。和銅4年10月23日。

「私鋳の罪は(従・ず・三年)軽いように思われる。そこで重刑を定めて私鋳を未然に禁断しよう。すべての私鋳者は斬刑、従った者は没官(官の奴婢にする)、家族は皆流罪にする」

このように、にせ金造りには厳しい罰を与えるとともに、貨幣を普及させるため、臣民に対して「飴玉」を与えている。


同じく和銅4年10月23日の詔の中に、次のようにある。

「そもそも銭の用途は、財を通じて、余ったものや足りないものを交換するためである。まれに売買するといっても、銭を蓄えるほどの者がない。そこで銭を蓄えた者には、その多少に応じて、等級を設けて位を授けよう。従六位以下で、蓄銭が十貫以上ある者には、位一階を上げて叙し、二十貫以上ある者には、位二階を上げて叙せ(蓄銭叙位令)」

人から銭を借りて位階を上げてもらおうと考える輩(やから)もいたからであろう。

「もし他人の銭を借りて官を欺き、位を得る者は、その銭を官が没収し、身は従刑一年に処し、銭を貸し与えた者も同罪とする」とくぎをさしている。

それでも大和朝廷が期待するほどには、人々は銭を使わなかったようだ。和銅6年3月19日の詔には笑ってしまった。

「郡司の少領以上に任命する者は、性格や意識が清廉で、その時々の政務に堪能であっても、蓄銭が充分でなく、六貫文に満たないような人物は、今後選任してはならぬ」

郡司の少領(郡司の次官)というから、現在の感覚だと、県の副知事・市役所の助役以上であろうか。「どんなに人格が立派で実務能力があっても、銭を持ってない奴は任命してはならない」というのだから、大和朝廷がなんとかして、和同開珎をスムーズに流通させようと、やっきになっていたのがよくわかる。

現在もそうであるが、日本ではじめてお金が発行されたときから、人々は悲喜こもごも、お金というものに振り回されてきたようである。








2022年1月24日月曜日

和同開珎(2)

 武蔵国が「秩父郡で銅が発見されました」と朝廷に献上したのは708年1月11日である。2月11日に造幣局長官を任命し、5月11日には銀銭、8月10日には銅銭の和同開珎を流通させたというのである。「待ってました」というような、あまりにも早い動きである。

現在と比べて交通の不便だった時代である。恐ろしいほどの熱気・行動力である。国家建設に燃えていた時代である。官民ともにありったけの力を振り絞ったのであろうが、それにしても早すぎる。「製錬を必要としない自然銅が大量に発見されました」との情報は、この記録にある半年か1年ほど前に、すでに大和朝廷に報告されていたような気がしてならない。

銅は重い。どのような手段で鋳造所のあった河内国(現在の堺市)まで運んだのであろうか。当時の船は沈没の危険が高かった。貴重品の銅である。馬か荷車に乗せて運んだのでは、と当初は思っていた。調べてみて、当時は現在の東海道はきちんと整備されてなかった。鋳造所が海辺の河内国に置かれていたという事実から、ある程度の危険を覚悟の上で、大和朝廷は船で大量の銅を運んだ、と考えるのが妥当かと今は考えている。


1970年、この「和同開珎」の銀銭が中国で発見された。中国西安市の郊外の唐代の遺跡から、二つの大がめが発見された。この中に、ササン朝ペルシャの銀貨や東ローマ帝国の金貨に混じって、わが和同開珎の銀銭5枚が含まれていた。

宝物が埋められていたのは、唐の玄宗(げんそう)皇帝のいとこにあたる人の屋敷跡であった。756年の安禄山(あんろくざん)の乱のとき、玄宗皇帝やその一族、高級官僚はみな四川に逃れた。この時逃げ遅れたのが、王維と杜甫である。逃げ遅れたためこの二人は苦労している、この安禄山の乱の時、玄宗の従弟は、あわてて土中に隠したのであろう。

この銀銭は、日本からの遣唐使が献上したものに違いない。玄宗皇帝の従弟の一人が5枚持っていたのだから、皇帝自身を含めてその兄弟や高級官僚を含めると、数百枚もしくは数千枚の大量の銀銭を、贈答品として遣唐使船は日本から運んだと思われる。

これを運んだと思われる遣唐使船に便乗していた人の中に、阿倍仲麻呂・吉備真備・大伴古麻呂などがいる。「ついに日本も自前の通貨を発行したのだ」と彼らも鼻高々であったに違いない。

このように苦労して造った和同開珎だが、日本臣民の多くはこれを使おうとしない。同時に贋金造りをやる輩が排出する。これらに対応する大和朝廷の苦労ぶりを「続日本紀」は克明に記録している。これは次回にご紹介したい。



2022年1月17日月曜日

和同開珎(1)

 日本という国の将来像はかくあるべし、と最初に考えた人は聖徳太子ではあるまいか。設計図・青写真を描いたのは、太子の没4年後に生まれた天智天皇の気がする。中臣鎌足が補佐した。壬申の乱という日本史の不幸を乗り越えて、天武天皇がこれを実行に移した。天武天皇亡き後これを完成させたのは、天智の娘であり天武の皇后であった持統女帝である。藤原不比等がこれを補佐した。

飛鳥から奈良時代の日本史の大きな流れをひと言でいうと、このようになるかと思う。

大宝律令の完成(701年・文武天皇)、日本書紀の完成(720年・元正天皇)は日本史の重要事項だが、いずれも天武天皇が在位中に命じたものである。和同開珎鋳造(708年・元明天皇)、平城京遷都(710年・元明天皇)も日本史の重要事項である。

具体的に奈良に「みやこ」を移すという考えまではなかったかも知れないが、将来唐の長安を模した「永遠のみやこ」を建設したいとの考えを、天武天皇は持っておられたのではないかと私は考えている。こう考えると、56歳で崩御された天武天皇の日本史における役割は極めて大きい。

この平城京遷都と和同開珎の鋳造とはセットになっていたらしい。天武天皇の崩御は686年だが、12年後の「続日本紀」には、鉱物資源に関しての記述がとても多い。大和朝廷は貨幣を鋳造するために、やっきになって金・銀・銅を探していた様子がわかる。


「続日本紀」は次のように記す。

文武天皇2年(698)

3月5日 因幡国が銅の鉱石を献じた。

7月27日 伊予国が鉛(なまり)の鉱石を献じた。

9月10日 周防国が銅の鉱石を献じた。

文武天皇大宝元年(701)3月21日 対馬嶋が金を献じた。そこで新しく元号をたてて、大宝元年とした。

元明天皇和銅元年(708)春正月11日 武蔵国の秩父郡が和銅(製錬を要しない自然銅)を献じた。これに関し天皇は次のように詔(みことのり)した。

「そのため慶雲5年を改めて、和銅元年と元号を定める。全国に大赦を行う。和銅元年1月11日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重に関わりなく、すでに発覚した罪も、まだ発覚しない罪も、獄につながれている囚人もすべて許す。武蔵国の今年の庸(よう)と、秩父郡の調(ちょう)・庸(よう)を免除する」大和朝廷が大喜びしている様子がよくわかる。

「続日本紀」を続ける。

和銅元年 2月11日 初めて催鋳銭司(さいじゅせんし・銭貨の鋳造を監督する役人)をおいた。従五位上の多治比真人三宅麻呂がこれに任じた。

5月11日 はじめて和同開珎の銀銭を使用させた。

8月10日 はじめて和同開珎の銅銭を使用させた。

12月5日 平城京の地鎮祭を行った。

これらの記述から、大和朝廷の動きがおそろしくスピーディであったことがわかる。